怒りの日(一) - 帰郷

エゥナーナ・イ・フォェルトはハルモニア北方に位置する高山地の村である。村の名は「戦場(いくさば)の鷲」を意味する辺りの古語で、エゥナーナ・イ・フォェルト出身の者を「戦場(いくさば)の鷲」とか単に「鷲」と言うのはそのせいである。

ハルモニア中央部から見ると、エゥナーナ・イ・フォェルトは山の裏側にあたる。実際、隣国に行く方が、一番近いハルモニアの都市クセスに出るより便がいい。言葉や暮らしぶりもハルモニアとは異質で、むしろ、周辺一帯の文化圏の中心にエゥナーナ・イ・フォェルトがあるのである。

にもかかわらず、エゥナーナ・イ・フォェルトがハルモニアである理由には諸説ある。

村人やその近隣の者が好んで信じているのは、かつて英雄ヒクサクが敵に囲まれた折、剣を取り決死の山越えを敢行してその危機を救ったのがエゥナーナ・イ・フォェルトの戦士たちであったという説である。

真実は歴史に埋もれている。

しかし、エゥナーナ・イ・フォェルトの輩出する戦士たちがその伝説を真実と思わせる強さを誇っているのは事実である。古今の名のある勇士たちにも枚挙にいとまがない。

村人はがっちりとした長躯の持ち主が多く、この恵まれた身体(からだ)が高山の厳しい環境に自然と鍛え抜かれる。

また、幅広の剣を使う独自に体系化された剣技、紋章への感応力の高さ、それを操る精神力の強靭さ。こういったものもエゥナーナ・イ・フォェルトの強さを裏打ちしている。

人々が「戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)」と彼らを呼ぶとき、そこにはしばしば尊敬と畏怖の念が籠められている。

ハルモニア軍はその特性を生かすためにエゥナーナ・イ・フォェルト出身の者たちで一隊を作った。鷲の軍旗(スタンダール)を掲げる彼らに精鋭の呼び声が高いのは故のないことではなかった。

一団の男たちが黙々と板敷きの道を歩いている。

周りは高地湿地帯で、狭い板の道を踏み外せば泥に足を取られることになる。

男たちは、色は様々ながらみな一様に長套(マント)を身にまとい、それを立派な細工の施された留め具で留めていた。歩くのにあわせて揺れる長套(マント)の裾から、幅広の鞘の先が見え隠れする。

戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)である。

長い行程を歩き続けたのだろうか、男たちには疲労の色が濃い。だが、その表情に暗いものはない。

隊列の殿(しんがり)を務むるは二人。そのやや背の高い方、名を、ゲド、と云った。

時は夏。

高山の夏は短い。草花はその短い夏の陽の光を奪い合うように茎を伸ばし、花を咲かせる。

ゲドはこの湿地帯の風景を愛していたが、あいにく、今日は薄く霧がかかっていて、見晴らしのいい平らな土地に小さな花々がいっぱいに咲き乱れる(さま)は見通せなかった。

見えるのは人が通るたびに頼りなげに揺れる沿道の草ばかり。膝ほどもない低い茎の先には小さな白い五弁の花がちょこんとついている。

「ゲド、知ってるか?」

同じく殿(しんがり)を務めているレーフが声をかけてきた。レーフはこの三十人余の小隊の副隊長である。

「ん?」

「そのな、道のそばのな、白い花」

「ああ」

「草に見えるがな、木なんだそうだ」

ゲドは歩きつつ、その草をもう一度見直してみた。やはり、草に見える。

「ハルモニアから来た偉い坊さんが言ってたんだ、間違いない」

「そうか」

「お前んとこの坊主に教えてやるといい。好きだろう、こういう話は」

「そうだな」

そのまま二、三歩進んでからゲドは微笑を浮かべながら言った。

「もう知っているやもしれん」

「違いない」

二人が笑みを交わしたとき、前方から声があがった。

「見えたぞ!」

薄い霧で風景は切れ切れだったが、見えては隠れる視界の向こうに目印の二本柱が見えてきた。

この柱が見えてくる辺りから湿地がようやく固い地面に変わってくる。

誰かが戦歌(いくさうた)を歌い始めた。すると、たちまち男たちの声がそれに唱和した。

 銀の峰(お)の上(え)に(ポ・シルヴェル・バルユストペト)

  掲げよ 戦旗(ヒサ・スタンダーレト)

  故国に残しし係累も(ファミルユ・イ・フェデルソルトゥ)

  凱歌に応えて欣喜する(ハール・グレードャ・アヴ・セーガルヒュムン)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  渡る 清風(ブローサンデ・ヴィンデン)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  不朽の翼(エュ・ヴィスナンデ・ヴィングゥエ)

レーフも高らかに歌っている。ゲド自身はその唱和に加わっていなかったが、穏やかな表情で男たちの歌声に耳を傾けていた。

――この歌を聴くといかにも帰ってきた気がする。

やがて、村のほうから高らかに迎えの角笛が鳴り響き、鷲の軍旗(スタンダール)が掲げられた。

男たちが歓声を上げる。

鷲たちの帰巣である。

村の入り口になっている二本柱の素朴な門をくぐりぬけると、

「のちほど」

「では、晩に」

短い挨拶を交わして戦士たちは散っていった。ある者は出迎えた家族たちとともに自分の家へと去っていく。またある者は足早に我が家を目指す。

ゲドはいそいそと村の東のほうの区画を目指した。

「ゲドじゃないか」

途中、声をかけられ、立ち止まった。近所に住む老婆である。

「よう無事に戻った」

老婆はゲドを、生まれたときから知っているのだ。幼い頃を知る人に会うと人々がよく感じるように、この老婆に会うとゲドは少々落ち着かない気分になる。

そんなゲドの心のうちなど知らず、老婆はゲドを頭の先から足の先までしげしげと眺め、

「あんたは、本当に父親によく似てきたねえ」

と言った。

それを聞いて、ゲドは微笑を浮かべた。

ゲドが幼い頃、この台詞は「大きくなった」だった。

それが、やがて「父親に似てきた」に替わったのは成人を迎えて数年経った頃だ。以来、会うたびにこの台詞が必ず口に上る。

だが、ゲドが若くして戦死した父親よりも年上になってなお、老婆が「父親に似てきた」というのをやめないのは、

――おかしいのではないか。

とはいえ、ほのかな可笑しさと共にゲドはその評を容れている。

老婆から解放されると、もう、ゲドは立ち止まらなかった。

自分の家を覗いてみると、庭に人影が立ち働いているのが見えた。

ゲドの口元が自然とほころんだ。

家に行かずに直接庭に入ると、足音に気づいて庭にいた女性が振り返った。ゲドを見止めると、その顔に血が上り、はにかんだような笑みが浮かんだ。

「お帰りなさいませ」

ゲドはうなずきながら妻に近寄った。

「変わりはなかったか、エム」

「はい。オスカもリィテンも。リィテンはずいぶん重くなりましたよ」

「そうか」

「お疲れではありませんか」

「そうだな」

「晩の宴までごゆっくりなさっては。オスカを呼んできましょう」

「いや、俺が行こう。また川か?」

「はい」

軍装もとかずに息子を探していそいそと歩き出すゲドの後姿をエムシントは嬉しげに見送った。

ゲドが村の外周に沿うように細々と流れている小川に向かうと、少年がひとり腹ばいになってじっと川面を見詰めていた。

その視線の先に一羽の地味な色をした小さな川鳥が機敏に動いているのを見つけて、ゲドは足を止めた。

茶と白のまだら模様をした小鳥はチ、チと鳴きながら、時折、水浴びをしたり、急に嘴を川底に突っ込んだりしている。しばらく、そういった動作を繰り返していた小鳥が突然、チーヨ、チーヨと鳴きながら飛び立っていった。

名残惜しそうに視線で追っていた少年が、ふう、と息をついた。

そこで初めてゲドは声をかけた。

「オスカ」

振り向いたオスカの顔がぱっと紅潮し、バネが弾けるように立ち上がったかと思うと、もうゲドの元に走り寄っている。

「お帰りなさい」

オスカはどちらかというと小さな声で一生懸命しゃべる。口に出すのが苦手な代わりに瞳や表情に伝えたいことがあふれでるのだった。

二人は我が家へ向かって歩き出した。

「今の鳥は?」

「エルテンクローカ。クルクルよく動く」

「そうか」

ふと思い出して、ゲドは言った。

「湿地帯にある白い小さな花――」

「クーヤント。草に見えるけど、ほんとは木だって。なんでだろう」

――やはり知っていた。

ゲドは自分を見上げる黒い瞳に笑みを返してやりながら、ポンポン、と少年の頭を軽く叩いてやった。

我が家が近づくとオスカは駆け出した。

ゲドの方は歩調を崩さずに後ろから遅れてついていった。

家に入ってみるとオスカが台所に立って湯を沸かしている。

先に家に入っていたエムシントに問いかけるような視線を送ると、エムシントは静かに扉を示した。

ゲドはそっと扉を開けた。

赤ん坊がいる。

横にはなっているが起きていて、機嫌よさそうにしている。

ゲドはおっかなびっくり両手を差し伸べて娘を持ち上げてみた。

――確かに重くなった。

ゆっくりリィテンをベッドに下ろして座らせた。手を離すとしばらく座った格好だったが、まだうまくバランスが取れないと見え、コロン、と横に転がった。何が面白かったのか、赤ん坊が嬉しそうにきゃっきゃと声を上げたので、ゲドはもう一度座らせてみた。今度は反対方向に転がって、また笑う。

何度か同じことをしていてふと視線を感じたので扉のほうを振り向くと、エムシントが面白そうに父娘(おやこ)を眺めていた。

ゲドは何かまずいところでも見られたように顔を赤くした。

「お父さん」

オスカが妹を気遣って小さく呼んだ。

ゲドは娘を横にした。ゲドの腕が離れるのをリィテンの小さな手が名残惜しそうに触っている。手と手が離れた瞬間、リィテンが泣き出したので、困りきってゲドは妻を見た。エムシントはうなずいてゲドに代わってリィテンをあやしだした。

ちょっとした罪悪感のようなものを感じながらゲドは息子の作ってくれた薬湯を飲んだ。かすかな苦味ととろりとした甘味が口に広がる。

ふぅ、と満足のため息を漏らすと、オスカが嬉しそうに笑みを浮かべた。

夜。

リィリィとひそやかな虫の声が庭から聞こえてくる。

日中の山道は霧に埋もれていたので帰郷の宴はどうなることかと思ったが、いい塩梅に雲が切れてきた。

ゲドは剣と防具をはずした軽装に戦装束の長套(マント)をまといそれをいつもの留め具でとめた。

この留め具を徽章鉤(きしょうこう)と言う。

徽章鉤は一族の定紋をかたどって作られる。ゲドの家の定紋は「剣に絡む雷光」で、エゥナーナ・イ・フォェルトでもっとも亜流の多い紋だ。

戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)たちは成人の折にこの徽章鉤を与えられる。

ゲドの徽章鉤は亡父の遺品であった。

当時、すでに母は病死していたため、この徽章鉤をゲドに与えたのは亡父の友人だったセグノだった。

セグノは今では〈攻め手〉の長であり、ゲドの属する隊の隊長でもあった。

ゲドが外出の準備をしているとオスカがそばによってきて、期待を込めてゲドを見上げた。ゲドがうなずくとオスカがにっと笑って先にたって玄関を開けた。

ゲドはぐるりと首をめぐらし、エムシントを見た。

「私はリィテンを」

その言葉をきいてゲドは少し考える風な風情だったが、すぐにうん、とうなずいて息子を連れて出て行った。

村の広場には既に大きな火が焚かれていて、それを囲んで戦士たちやその家族が輪になっていた。

その中の一人が歩み寄るゲドとオスカに気づいて二人を差し招いた。

「ゲド、遅いぞ。おやっさんの大演説が終わっちまった」

炎に照らされた顔は予想通りレーフだった。

ゲドは不思議そうに離れた場所で談笑しているセグノを見た。

「〈攻め手〉と〈守り手〉の口上は決まっているではないか」

レーフは真面目に受け取るなよ、と笑って手を振った。

「守り手の()(おさ)な、代替わりしていた」

「そうか」

誰かが回した杯を受け取りながらゲドは生返事をした。

「それがガルアなんだよ。相変わらず優男だな、あいつ」

その言い草にゲドは微笑した。

ガルアはゲドやレーフとは幼馴染になる。

成人の折、ガルアは守り手の道を選んだ。優しげな感じの美丈夫で、魔法を得意とする守り手の中にあって剣の腕も相当に高い。

「ガルアなら適任だろう」

「そうかな。あいつ、優しすぎるだろう。いざというときに――」

「務まらぬなら選ばれまい」

そうかな、とレーフは鼻を掻いた。

守り手の長は人前に出ぬのが伝統であり、その存在は謎めいている。()(おさ)は人前に出ぬ長の代わりに実質〈守り手〉たちの頂点に立つ。生半(なまなか)な人物では務まるはずもないのだった。

「お、オスカ、でかくなったな。お前、顔は母親似だが、体格は絶対父親の血筋だぜ」

言いながら、レーフが焙った熊肉をオスカに渡した。

ありがとう、と小さく言ってオスカがそれにかぶりついた。

「オスカ、向こうにコームが居たぜ」

かぶりついていた肉からオスカが顔を上げた。そして、問うようにゲドを見た。ゲドがうん、とうなずくとオスカは立ち上がった。

「オスカ、コームは守り手の()(おさ)の御曹司だ、粗相のないようにな」

レーフが言うとオスカが戸惑ったような表情を浮かべた。ゲドはちょっとレーフを睨み、

「気にするな」

と言った。

なおも戸惑ったような表情を崩さなかったオスカだったが、レーフがゲドの横で肩を震わせて笑いをこらえているのを見とがめて、さっと赤くなってふいに駆け出した。

「あの性格、お前に似たな」

レーフが笑いを収めようとしながら言うと、ゲドがふと黙り込んだ。

「どうしたんだ」

「レーフ、お前の娘だが」

「なんだ。嫁にはやらんぞ」

「いや。お前に似ていたら手がつけられんと思ったまでだ」

言うな、こいつ、とレーフは心地よさげに笑った。

宴は終盤に差し掛かっている。

最初は広場中心に大きな火を焚いて人々が一つの輪を作っていたのだが、元の火は小さな火に分けられて、気のおけない人々の集まる語らいの場を提供している。

ゲドとレーフとの火にはいつの間にかやってきたガルアも加わっていた。

ガルアは案の定レーフのからかいの的にされた。もっとも、隙あらばやり返していて、勝負は五分といったところだった。

ゲドはその二人の喧嘩のような掛け合いを笑みを浮かべて眺めていた。

そろそろ帰ろうかと思った頃、ゲドとガルアを呼ばわる声がした。

「ゲド、ガルア。ここか」

「これはおやっさん」

おやっさんと呼ばれてセグノは渋い顔をして見せた。だが、実のところセグノはレーフを気に入っている。そうでなくては副隊長などにしてはいまい。

「セグノ様、いかがしましたか」

セグノが元の焚き火の反対側を指した。

「向こうでお前たちの息子がとっくみあいをしておるぞ」

ゲドとガルアは顔を見合わせた。

「珍しい。うちのが喧嘩っ早いのはいつもだが、オスカは大人しいのに」

「いや、ああ見えて、あいつ、かなり強情だ」

父親に似て、というのをレーフは忘れなかった。

「いずれにせよ、頃合いを見て分けてやったほうがいい。周りは酔っ払いばかりだ。けしかけるばかりでどうにもならん」

「よし、行こう」

何やら嬉しそうに立ち上がったレーフを見て、セグノがこいつも酔っ払いかと呟いた。

それが聞こえてゲドもガルアも思わず苦笑を浮かべた。

セグノに導かれて行ってみると、人だかりができていた。

背の高いゲドが人だかりの後ろからうかがい見ると、なるほど、見事なまでの取っ組み合いである。

オスカは普段は大人しいが体格はゲドに似て同年代の少年より大柄だし、一度こうだと思ったら引かないところがある。

コームは父に似ず、喧嘩っ早い。体格は小柄なのだが、これがまた敏捷に動いて組み付いたら最後、離れない。

普段は人を引っ張っていくコームと温厚なオスカの性格がうまくかみ合っているのに、どういったわけで取っ組み合っているのだろう、とゲドは首をひねった。

退()いた、退()いた」

レーフが率先して人だかりを割っていき、ゲドとガルアがそれに続く。

取っ組み合いは膠着状態に陥っており、両者ともに涙やら鼻血やらでひどい顔になっている。それでもなお、二人は腕を動かし足を動かし、相手をどうにか組み伏せようと躍起になっていた。

周りからはそれにあわせて「やれ」だの「頑張れ」だのの声がかかっている。誰が持ってきたものか、皮袋に入った酒を回し飲みしながら見ているのだから、完全に酒の肴である。

ガルアはゲドを見た。

「そろそろ分けたほうがいい」

「ああ」

ゲドはちょうど上になっていたオスカの体を抱え上げて無理やり立ち上がらせた。それから、地面に転がっているコームに手を貸してやり立たせた。

「ガルア」

「分かった」

ガルアが息子について来いという仕草をすると、コームはばつの悪そうな顔をして父親についていった。なんとなく引かれていく牛を思わせた。

周りで不満を漏らしている酔っ払いをレーフとセグノが適当にあしらって追い散らす。

「派手にやったな」

とレーフ。

「派手にも限度があるぞ」

とセグノ。

オスカは何も言わずに黙って下を向いていた。ゲドは息子をチラリと見てから、レーフとセグノに言った。

「後は頼みます」

「頼まれても、もうやることもないがな」

別れの挨拶を交わしてから、ゲドはオスカと共に我が家へと歩き出した。

ゲドの横を歩くオスカはだんまりを決め込んでいる。

広場の喧騒が遠くなってからゲドは問いかけた。

「どうしたんだ」

二、三歩進んだあたりでオスカがゲドの徽章鉤(きしょうこう)を指差した。

「それ」

「これが?」

「大人になったら」

「ああ、お前にも徽章鉤が与えられる。俺のはお前の祖父の遺品だが、お前には新しいのを作ってやりたいものだな」

それを聞いてオスカの顔がくしゃっとゆがんだ。

「コームが、僕はキショウコウをもらえないって」

「なぜもらえないと?」

またオスカは黙り込んでしまった。

うつむいている息子を見つめながら待っていると、唐突に言葉がつがれた。

「クリスタルバレーに行きたいんだ」

「クリスタルバレー……」

「学者に、なろうと」

声は小さくつぼまっていった。

「攻め手にも守り手にもならないならキショウコウはもらえないって」

オスカはそこまで言うと、心配そうにゲドを見上げた。

息子の言葉に軽い驚きを覚えていたのは事実だが。

「学者か」

特に決まりはないのだが、普通、剣技に長けた者は攻め手になり、紋章に長けた者は守り手になる。

ゲドはなんとなくオスカが守り手になるものと思っていた。

ゲドの家系は攻め手も守り手も半々にだしていて、攻め手にはなりはしたものの、ゲド自身、素質的には守り手になってもよいと人に言われたことがある。確か、そう請合ったのはガルアだった。

「学者か」

もう一度言ってみた。

「それも悪くないな」

ゲドがそう言うと、オスカが目を見開いた。

「では、お前が立派な学者になった暁には徽章鉤を贈ってやろう」

「本当?」

父親がうなずくのをしかと確認するとオスカの足取りは明らかに軽くなった。

――学者か……

ゲドは遠くクリスタルバレーで学問に身を投じる息子の姿を思い描いてみた。

道は険しいだろう。

学問以外の障害が行く手を阻んでいることをまだオスカは知らない。

ゲドがエムシントを(めと)ってから、もう十年余りになる。

エムシントは、エゥナーナ・イ・フォェルトに程近い小さな名さえない村の出である。

エゥナーナ・イ・フォェルトは村とはいえ規模は大きいため、周辺に点在する村から人が出てくることが多く、そういった人々と(エゥナーネン)が婚姻を結ぶのは珍しいことではない。

「エムシントと結婚することにした」

ゲドが友人二人にエムシントとの結婚を告げたのは、その昔、ガルアやレーフと共に酒を飲んでいたときのことだ。

ゲドがそう言ったとたん、レーフが叫んだ。

「とうとうか!」

「とうとう?」

訊き返すと、苦笑を浮かべたガルアがとりなすように言った。

「エムなら似合いではないか。よかったな、ゲド」

「で、いつだ、結婚の儀は」

「明日」

「ば、馬鹿。なんで、もっと早く知らせない。いや、それよりも、こんなところで悠長に飲んでいる奴があるか」

口から泡を飛ばしているレーフを見つめながら、ゲドは不思議そうに、

「飲んでいてはいけないのか」

ガルアがそれを聞いてふきだして、飲もうとしていた酒にむせ返った。

「準備や何や、いろいろあるだろう」

「準備も何も。俺も身一つ、向こうも身一つだ」

「いや、いかん、絶対にいかん。こういったことはもっと晴れがましく厳粛にそれでいて豪奢にするべきだ」

「俺には似合わん」

「似合う似合わんの問題ではない。俺に任せておけ」

「媒酌はセグノ様に頼んである」

「そういうことではない」

「レーフ、お前に任せたら単なるお祭り騒ぎになる。ゲドだってそれが心配なんだろう?」

「それは思いつかなかったが」

いかん、いかん、エムがかわいそうだと繰り返すレーフの盃にガルアがまあまあと酒を注いだ。それを一気に空けながらレーフは言った。

「無口な夫に無口な妻か。お前ら、どうやって意思疎通するつもりだ?」

そうだ、そうだ、とガルアまでうなずいていた。

そんな二人の揶揄を頭の中で咀嚼しながら、黙ってゲドは盃をかたむけたものだ。

そうして結婚したゲドの家にこの二人の友がやってきた晩。

ガルアは納得したようにうなずきながら帰っていった。

レーフは、お前らしいと笑い転げながら帰っていった。

ゲドとエムシントは、気の置けない友人たちを見送った後で、二人そろって小首をかしげたのだった。

爾来、ゲドの家はいつも穏やかな静寂に満ちている。それは息子をもうけてからも変わらなかった。

たまさかに友人が訪れて、(かまびす)しさを振りまいて行くが、それもむしろ心地よいものだった。

夏は日に日に勢力を増していた。

夏、と言っても高山のそれは麓の人間には想像も及ぶまい。暑いというほど気温は上がらない。むしろ、肌寒い。だが、照りつける陽の光は強く、晴れた日に目を眩しさに細めながら外で動いていると、じっとりと背中に汗をかく。

このあたりの夏はしばしば獰猛である。

山にかかる雲は絶えず形を変える。

そして、よく、雷が鳴った。

日々の仕事の合間にゲドはそういった天候の変化を眺めて過ごしていた。

――俺のこういったところにオスカは似たのかも知れぬ。

庭に出てノゥトという名の木についた青い実を見上げながら、ゲドはそんなことを思った。傍にはエムシントが寄り添うように立っていて、一緒にノゥトを見上げている。

人の近づく気配に気づいてゲドは振り向いた。

痩せ気味の見るからに俊敏そうな若鷲(エゥナーネン)が駆けてくる。

エムシントがそれを見てうつむいた。

「ゲド様」

「出陣か?」

「はい。四日後より一隊ずつすべての隊が出ます」

「〈(しょう)〉が皆か。大掛かりだな」

「ええ。なんでも、神官将どのの道行きに同行して北の辺境ストウに行くとか。我らはそこで神官将どのと別れ、さらに東の地に向かい、そこで作戦に従事するそうです」

「そうか」

「我が隊はいつもどおり殿(しんがり)ですので出発は一週間後になります」

「分かった」

「では。まだ知らせなければならない方が残っておりますれば」

「ああ。伝令御苦労」

隊の伝令役が遠ざかっていくのを見ながらエムがぽつりと言った。

「今度は遠ございますね」

「そうだな」

エムシントはそっといとおしげにノゥトの実を触った。

「お戻りになる頃にはこの実も色づいておりましょう」

「ああ」

「お帰りになられたらノゥト尽くしの料理にいたしましょう」

ゲドを見上げたエムシントの両の目が少し潤み、それを見せまいとでもしたものか、エムシントは目を伏せた。そんな妻の肩に手を置いてゲドは言った。

「ああ。楽しみにしている」

あけているとどうしても震えてしまう唇をぎゅっと結ぶと、エムは微笑らしき物を無理やりに作って見せた。

オスカが徽章鉤(きしょうこう)を香油で清めてゲドに手渡した。

祈りを込めて清めた徽章鉤は持ち主を守るという。徽章鉤に守られた〈鷲〉は生きて帰るという。

迷信である。

だが、オスカはその迷信を真面目に受け止めている。

ゲドは徽章鉤を受け取ると、長套(マント)を留めた。

それから、愛剣のうち一本を慎重に選び出し、エムシントに渡した。

エムシントは渡された剣を鞘から抜いて、その刀身に指につけた水で紋様文字を描いた。それから、柄を額に祈りの言葉をあげ、黙祷した。

ゆっくり目を開いたエムシントが剣をゲドに返した。

ゲドはうなずいて剣を()びた。

出陣が近い。

外に出てみると、あたりに出陣の際のざわついた雰囲気が漂っていた。

ゲドはリィテンを抱いたエムシントと緊張した表情のオスカを伴って中心広場へと歩き出した。

「オスカ」

呼びかけると、少年は黙ってゲドを見上げた。

「まだコームと仲直りしていないのか」

うなだれた息子を見て苦笑が浮かぶ。

「お前もたいがい頑固なものだな」

ゲドはうなだれたままのオスカに言った。

「戻るまでには仲直りしておけ」

オスカは困ったような表情になったが、とうとう、うん、とうなずいた。

中心広場ではすでにほとんどの〈攻め手〉と〈守り手〉が隊列を作っている。

ゲドはエムシントにひとつうなずいて、〈攻め手〉の殿(しんがり)についた。

向き合っている〈攻め手〉と〈守り手〉を人々が取り囲んでいる。ほとんどは村の者だったが、四分の一ぐらいは旅人だろう。

物が物なので滞在がたまたま出陣に重ならないと見られないが、エゥナーナ・イ・フォェルトの出陣の儀と言えばちょっとした物だ。

いま、物珍しげに儀式を見守る旅人は別な土地で自慢げに語るだろう、()戦場(いくさば)の鷲の出陣を見たと。

中心に設けられた壇上に守り手の()(おさ)が上った。

ガルアは完全な礼装である。

続いて、攻め手の長セグノが壇上に上がり、ガルアの前に立つ。

ざわついていた戦士たちを静寂が覆った。隊列がピシリと揃う。

「我、戦場の鷲、攻め手の長セグノ、出立に際し守り手に請う。

我らが不在の故地を守るべし」

朗々とセグノの声が響いた。セグノの声は豊かな髭のうちからこもれ出る。

次いで、ガルアの澄んだ声が応える。

「我、戦場の鷲、守り手の()(おさ)ガルア、攻め手の要請を約す。

必ずこの地は守られん」

ガルアが右手を天にかざし、セグノがそれに応えて膝を折る。やがて、ガルアが上げていた右手を下ろし、セグノが元の立ち位置に戻る。

改めてガルアが声を上げる。

「守り手より攻め手に請う。

我らなき戦場より勝利を故地にもたらすべし」

「守り手の要請を約す。

必ずこの地に凱旋せん」

今度はセグノが剣を横向きに構え、ガルアが膝を折った。

二人が元の立ち姿に戻るのを合図に楽師が戦歌(いくさうた)の旋律を奏でた。

攻め手の隊列が歌いながら動き出す。

 戦場前に(フラムゥメ・フェルト)

  抜けよ剣(ドゥラグ・ウトゥ・スヴェルデン)

  行く手を阻む強敵も(スタルカ・フィエンデル,ソム・ヒンドゥラル・オスゥ)

  駆ける我らに平伏しぬ(カピツェラ・フェゥル・オスゥ)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  天裂く閃光(リュンゲルドゥ・ソム・スプロトゥーアンデ・ヒムゥエル)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  勝利の翼(ヴィングゥエ・オム・セーガ)

広場を出た頃、残った守り手たちの応歌が背中から追ってきた。

 迫る強敵(スタルカ・フィエンデル・ネルマ・シグ)

  取れよ楯(ホルゥア・スクェゥルダル)

  荒ぶり押し寄す仇たちも(フィエンデル,ソム・アンファルゥラル・オスゥ)

  鉄の守りに敗走す(スプリンガル・シン・ヴエグ・ポ・スキュドゥ)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  耳聾す轟音(デ・エゥロンベデゥヴァンダ・クナゥラル)

 我ら、戦場の鷲(ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト)

  休まぬ翼(エュ・ヴィランデ・ヴィングゥエ)

夏も盛りの山間(やまあい)に村人しか意味を知らぬ(いにしえ)の歌が木魂する。

空は晴れていたが、流れる雲は速かった。

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