怒りの日(五) - 斯く、鷲は墜つ

空には鬱々とした灰色の雲が垂れ込めていた。大気は冷え冷えとしており、曖昧に明けた夜がまだ残っているかのように辺りは薄暗い。

――雪が降りそうだ。

生粋のハルモニアの武人であるアドルファスにはこの高山地の気候には馴染みがなかったが、漠然とそう思った。

集めた部下たちの青い軍服は明るい陽の光の下では鮮やかに映えるのだが、今はくすんで見える。

「〈戦場の鷲〉、か」

できるものなら、同じ条件で戦いたかった。

おそらくそれは、生まれたときから軍人たるべく育てられ、軍人として生きてきた自分の、あまりにも贅沢な感慨なのだろう。本来、喜ぶべきなのだ、これだけ有利にお膳立てされているのだから。

――いや、まだだったな……

間者からは未だ奪取に成功したという合図が無い。だからこそ苛立ちながら小さな突撃のみを繰り返しているのだ。

できれば乱戦に持ち込みたい。敵味方入り乱れてしまえば、話は簡単だ。だが、拠点を取り囲んだ大軍を相手に籠城場所からのこのこ出てくる馬鹿はいない。

だが、もう待てぬ。

ハルモニアは大軍で、軍隊の規律は厳しく整然としている。だからといって、兵の力は無限ではない。人が構成しているからにはやはり血も涙も流れるのだ。そろそろ決着をつけてしまわなければ雪が降る。そうなれば、自軍にも甚大な被害が出よう。

今日こそを決着の日と定め、アドルファスは新たな陣形を取らせた。

この動きをエゥナーナ・イ・フォェルト側でも確認している。

トアはハルモニア兵の青い軍服が紡錘の隊形を取るのを遠眼鏡で見届けた。手に持った遠眼鏡を横に立ったガルアに渡す。

「今日はまた一段と積極的ではないか。舐められたものだ」

「仕方がない。我らの疲弊は目に見えているのだから」

ガルアは遠眼鏡から目を離した。そのガルアに、トアがやや緊張した低い声で問いかけた。

「昨晩言っていた――」

「〈長〉の件だな。我が隊の者を神殿に走らせておいた。間もなくおいでになるだろう」

「……何故、それほどに秘するのだ?」

「大きすぎる力は敵も呼ぶからだ」

十分とは言えぬ答えに攻め手の二の長は不満げに首を振った。

「守り手には秘密が多すぎる。我らを信じられぬと言うことか」

「そうではないのだ。――そうではないのだ……」

何やら考え込むように呟いた守り手の考えを測りかねて、トアはしばしガルアの秀麗な横顔を凝っと見つめた。だが、やがて視線を外し、ハルモニアの青い青い軍隊を睨みつけた。

両陣営が決戦を控えて緩慢に蠢いていた頃。

コームは扉の開く音で目を覚ました。

反射的に外への扉に目をやると、背の高い人の影が外へと出て行くところだった。

眠気も吹き飛び、コームは慌てて追いすがった。

「おじさん!」

ゲドは動きを止めて少しだけ顔をこちらに向けた。すでに剣を帯び、長套(マント)をつけている。

「おじさん」

もう一度呼びかけて腕を掴むと、戦士はコームを見下ろした。醸し出す気配は不自然な静けさを保っており、黒い瞳には固いものが浮かんでいた。その意思の矛先がどこに向いているかが恐ろしくなって、コームの口からは言葉が飛び出していた。

「父さんを……父さんを殺さないで」

そんなことが言いたかったのではなかった。しかし、言いえたのはそれだけだった。

ゲドは再び外へと視線を向け、ゆっくりコームから己の手を引き離した。ゲドを掴んでいたコームの手は力なく下りた。

とうとうゲドは出て行った。

コームは引き止められなかった自分の手のひらを見つめ、それをぐっと握って拳を作った。

己の腕に抱えきれぬほどのものを欲するなと戒められたことがある。だとしたら、己の腕に抱えられるもののなんと少ないことか。

拳の上にポタポタと熱い雫が落ちるのを少年にはどうにもできなかった。

ハルモニアの動きは奇妙だった。

エゥナーナ・イ・フォェルトを取り巻いてのいわば攻城戦だというのに、平地でのぶつかり合いのような突撃の姿勢を崩さない。

「まるで将が代わったようではないか」

エゥナーナ・イ・フォェルト側から放たれる魔力の雷に何度も足を止められながらも、じりじりと策もなく前進してくる敵方を眺めながらトアは感想を述べた。

「愚行だな」

「とは限らん。あれを」

ガルアの指差す先に、またひとたび、鷲たち(エゥナーナ)が揃えて放つ魔力の雷が落ちた。

「ふぅむ……」

トアにも今度は分かった。

「なるほど」

「おそらく、攻撃を読んで激しそうなところに土の守りを張っているのだ。いや、むしろ、ある一点を攻めざるをえないような動きをしていると言ったほうがいいか」

「となると、見事だな。あのあたりは足場も悪いというのに」

もっとも、相手方の守りを破れぬ味方の疲弊をこそ二人は憂いている。

しかし、とトアは唸った。

「なぜ、少数を突出させる危険を冒してまで急ぐのだ。たとえ、足場は悪くとも、時間をかければ全軍が移動できるはず」

(とき)をかけたくないのだろう」

守り手の長ゆえか、という問いをトアは口にしなかった。代わりに別なことを呟いた。

「……術師の隊が邪魔だな」

トアは早口で命令を伝えた。すぐに伝令が走り、矢が戦場をバラバラとまばらに飛んだ。

「数が……足らぬか」

「ああ」

「守り手の長はまだなのか」

トアは苛立っていた。心なし色を失っているガルアも気にはしていたのだろう。視線を村の最奥にやって、神殿を見た。そこではたと何事かに気づき、ガルアは改めて遠眼鏡を目にあてがった。

「馬鹿な……岩戸が開いたままだ」

言われて、トアも山のほうに目をやった。ガルアが言っている岩戸というのがどのあたりにあるのかトアにはよく分からなかったし、何をそんなに切迫しているのかも分からなかった。

(エゥナーネン)でなければ開かぬのに……」

「どうしたというのだ」

疑問を投げかけるトアのことなど放ったまま、ガルアは叫んだ。

「キリク!キリク!」

守り手の一隊を預かる筆頭隊長は呼ばわれて即座に姿を現した。

「村の者を残らず広場に集めよ。宿せる者はみな紋章を宿し、使える者は皆武器を携えるよう指示を出せ」

「はっ」

生真面目なキリクは疑問すら口にせず走り去った。

「どうしたというのだ」

トアはガルアの腕を引っ掴んで自分のほうを向かせると、荒々しい調子で詰問した。

「何かあったのだ。間者が入り込んでいるやもしれぬ」

「何だと」

「トア殿、ここを任せる。キリクを好きに使ってくれ。長に何かあったとなれば、私は行かねばならぬ」

「おい!」

「戻らぬときは亡き者と考えてくれ!」

叫ぶなりガルアは既に走り去っている。

「おい!」

トアは引き止めるように手を伸ばしたものの、自分まで陣からいなくなるわけにはいかず、苛立たしげに柱に拳を打ちつけた。

「守り手としての責務さえ放棄して行くというのか!それほどに大きなものなのか!」

わあっと鬨の声が背後で上がり、トアは慌てて戦場に意識を戻した。

最初から、戦況を覆せるほどの力など無かったのだ。

おそらく、守り手の長など夢幻だったのだ。

浮かんでは消える恨みごとのような(おも)いは、裏返せば心中に抱いていた「もしや」の期待だった。

「残酷な幻ぞ、ガルア殿……」

心に巣食う希望の残骸を短い言葉で払いのけると、攻め手の二の長はぐっと顔を上げた。長年の役務(えきむ)で日焼けした顔が決意で引き締まる。

――ならば、己の手でできることを為すのみ。

覚悟は元より変わらない。

厳しい横顔は確かに荒鷲の双名(ふたつな)にふさわしかった。

守り手に属する鷲たち(エゥナーナ)二羽(ふたり)、曇天の心晴れぬ空気の中を足早に神殿へと向かっていた。神殿と言っても、崖に埋まるようにして設けられたそれは、晴れやかさも荘厳さもなく、ただただひっそりとしていた。神事にまつわる全てのことは村の中央広場で執り行われ、普段は訪れる者も無い。

戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)に所謂〈神殿〉を建てる風習はそもそもなかったのだ。この場所を神殿と呼んでいるのは、おそらくハルモニアに組み入れられてからの慣わしで、便宜的にそう呼んでいるに過ぎない。

その、頻繁には開かれることのない岩戸の前で二人は足を止めた。確かに岩戸はあるのに、手をかける場所は無い。ひとりが岩戸の横をまさぐって何かの場所を確認して頷くと、もうひとりがつけていた手袋を外して素手をべったり壁につけた。一瞬遅れて、岩戸が横にずれてそこにぽっかりと穴が開いた。

二人は滑るように中に入ると、いったん外の方を向いた。どうやら中にも同じ仕掛けがあるらしく、守り手は注意深く岩戸を閉じた。

二人が中に入った後、間を置かず、岩戸の前に立った男がある。

ゲドである。

ゲドは、二人がやったように壁の辺りを手で探った。そして、手のひらが置けるほどの四角い切れ目を見つけると、そこに自分の素手を押し付けた。

苦もなく、岩戸が開いた。

ゲドは驚くでもなく喜ぶでもなく、無感動に岩戸が開ききるのを待った。

それから、スラリと腰の剣を抜くと、その抜き身の刃を携えて石の通路の中へと入って行った。

ぽっかりと穴を開けたまま岩戸は放置された。

高く低く不揃いな足音が薄闇の空間に響き渡る。

石造りの回廊には確かな灯火(ともしび)とてなかったが、緑の燐光があちらこちらにあって歩くに必要なだけの光を提供していた。

回廊は狭く、人一人通るのが精一杯だった。その狭い空間をじっとりとした空気が満たしている。

装飾の無い通路はその簡素さに比してかなり長い。止め処なく続く道をしばらく行くと、外の音は幽かになった。

この動きの少ない薄闇(うすやみ)の空間は外界(がいかい)とは無縁のもののようだった。

通路は幾重にも折れ曲がり、幾度も分岐していた。知らない者など(たちま)ち迷ってしまうだろう。

二人の守り手は複雑な通路を前後に並んで早足で駆けて行った。いささかも迷わぬ足取りで駆けていた二人が短めの階段を降りてしばらくしたところで歩調を緩めた。

前方にはっきりと(あかり)が揺らめいている。

二人は共にやや乱れていた呼吸を整え目配せを交わすと、いままでの急ぎぶりを改めてゆっくり静かに歩を進めた。

そこは、いままでの押しつぶされそうな狭い空間とはうってかわった、広い石室だった。側面には奥に向かって太い柱がまっすぐに並んでおり、柱の導く最奥に簡素な祭壇めいたものが据えられている。

壇の両端には燭台が立っていた。広い空間に灯る明りは燭台の小さな火のみで、風もないのに儚げにゆらゆら揺れ、それが部屋に陰翳を躍らせていた。

その前に人がひとり立っている。

華奢な肩の線と身体の丸みはその人物が若い女性であることを表していた。光量の乏しい石室の中にあってさえ、色の薄い透けるような白い肌は浮き立って見えた。

足音で人が訪れたことは分かっているはずだったが、女は入り口に背を向け、祭壇の上の何もない空間を見つめていた。背を向けていると、腰まである長い髪しか見えない。

戦士たちは背を向ける女性から五、六歩ひいた所で並んで(ひざまず)いた。

「二の長の命で参りました。どうぞ、お出ましください」

「そう、ガルアが。ガルアの判断なら、使わざるを得ないのでしょうね」

確かに若い女の声だった。

やや低めの声は不思議に落ち着いていたが、言葉の端々に若い女に似合わぬ古風な響きがあって、それが聞く者の心のうちに奇妙なさざなみを呼び起こした。

髪さえ揺れぬほどゆっくりと長は振り向いた。

やや顔を上げていた戦士の一人が長の顔を見上げて痛ましげに視線を床に落とした。

若い女の顔のほとんどを火傷の(あと)が覆っていた。

彼女は戦士の小さな頭の動きに気づいたようだったが、それに反応することはなく、君臨する者の声で答えた。

「先に行って二の長に直ぐに()くと伝えよ。私は仕度が出来次第その方等の後から()く」

「ですが、我らは長の護衛も仰せつかっております」

「要らぬ。戦士は私よりも本陣に必要であろう」

「しかし……」

「――ならば、外で待て。……頼みます」

最後に漏れ()でたさゆれる言葉にはっとなると、守り手は目配せを交わし、深々と腰を折ってから出て行った。

二人が出て行くと、女は再び祭壇の方に向き直りそっと左手で右手の甲を撫でた。白く滑らかな肌にぼんやりと緑の光が浮かんだ。

それは、美しい光だった。

若い女はその美しい光をどこか哀しげにどこか恨めしげに眺めた。

感傷を振り払うと、女は長い髪を紐で結わえあげた。

戦の仕度だ。

髪がまとめられてしまうと、隠されていた首筋の傷が露になった。この無残な刀傷は、深く長く背中を斜めにはしっている。

顔の火傷も背中の傷も古い物だった。

とても。

「出てきなさい」

やおら、長は言った。

長が振り返るのにあわせて石室に長身の男が入ってきた。

男は右目辺りを包帯で覆っており、手には抜き身の剣を持っている。

「その装束(いでたち)(エゥナーネン)――攻め手か」

男に答えはない。

「何用だ」

答えはない。

「己の為すべきこと、為したいことも分からずに私の前に立つか」

剣は下がったままだ。

「そのような意思無き剣で私を止められると思うたか」

凛然として女は言い放った。

「下がれ。私には為すべきことがある」

一歩、また一歩と女は男に近づいた。

手を伸ばせば届く、という所で守り手の長は立ち止まり鋭く男を見つめた。

対して、男の隻眼は動かなかった。

剣は相変わらず男の手の中にあり、構えとはいえぬ位置で漂っている。

ハルモニアの進軍は亀の歩みと言ってよかったが、逆にたゆまぬ歩みでもあった。両軍の間は着実に短くなってきている。

「左翼第二隊、矢が尽きました!」

「中央隊の矢を回せ!――キリク!」

「何か」

「守り手の右翼も廻してくれ。右は比較的層が薄い。足場が悪すぎてあれ以上は向こうも兵を増やせぬはず」

「心得ました。おい!」

矢継ぎ早に命令を下しながら、トアの頭の中には「降伏」の二文字がちらついている。

いや、最近のハルモニアのやり口から見て、降伏は最悪でしかないか。ならば村を放棄するか……

いずれにせよ、トアには口にできない命だった。ただでさえ、キリクらは攻め手に不審を抱いている。攻め手である自分がそのようなことを口にすれば、意地になって反対するだろう。

ガルア殿、この断は貴公にしか下せぬ。

「戻って来い、早く」

左から青い兵が雪崩れ込むのを見ながら、トアは歯噛みした。

と、突如、戦場に喇叭が響き渡った。

それは、まさしく、戦場(いくさば)の鷲の突撃喇叭。

「あれは……!」

忽然と森から現れた一隊が、燦然と――見る者によっては傲岸不遜に――鷲の戦旗(スタンダール)を翻した。

その戦旗が側面よりハルモニアの青い陣営に楔の如く突っ込んで行く。

先陣を切るのは攻め手一の剣士、返し刃の(アシェ)ナシェレ。その名に違わぬ剣技を以って、果敢に敵陣を切り拓く。そして、旗の下にあるは――

「セグノ様だ!本物の攻め手が、本物のセグノ様が戻ってきたぞ!」

〈本物の〉に力を込めてトアは叫んだ。呼応してエゥナーナ・イ・フォェルトを守る部隊からうおぅという地響きに似た鬨の声が上がった

トアは並んで指揮を取るキリクにちらりと視線をやった。

キリクは傍目にはっきりと分かるほど蒼褪めていた。

――意地の悪い気分が沸き起こるのは、恥ずべきことなのだろう、おそらく。

トアはそれでも心の片隅でキリクの様子に愉悦を覚えるのを如何ともしがたかった。

「トア様!」

トアは副官に呼ばれ、顔を上げた。

「信号です」

キラ、キラと定められた規則に従って攻め手の本隊から小さな光が放たれていた。

「ホ……ウ……キ……・・セ・ヨ……放棄せよ、です」

放棄?何を。

突如、(おの)が背後に控える村が()し掛かってくるように思われた。

――エゥナーナ・イ・フォェルトを、だ。

ついさっきまで自分でも考えていたことなのに、他人にはっきりと告げられると、思った以上に堪えた。

トアは目を一度閉じ、そして開いた。

「広場に皆を集めよ。各隊からもひとり。我らはここを放棄する」

もし、女が飛び掛ってきたのだったら、ゲドは触らせもしなかっただろう。

実際には、突然、黒い瞳を大きく見開いた女は、自分でも意識せずに、あ、と小さく声をこぼして、必死な様子でゲドを両手で横に押しやったのだった、

不覚にも女に飛び込まれた形になったゲドが反射的に女を睨んだ、その目の前で、女の身体が屑折れた。

「……?」

続けて、奇妙な音がして、ゲドの頬を何かが掠め飛んだ。

咄嗟に、ゲドは石室に立ち並ぶ柱の背後に走った。

そのまま窺っていると、足音が訝しげにゆっくり近づいてきた。

足音は一人だ。

相手にもゲドの存在は分かっているだろう。柄を握る右手に力がこもる。

ゲドはなぜか女から流れる血を(じっ)と見つめていた。見つめながら、片膝をついた状態で待った。

薄暗い空間に、血は黒く見えた。

ザ、ザ、ザ、と軽い足音が迫ってきたのはそのときだ。続けて、異様な物音。

――人が……斬られた。

続けて走りこんできた細い人影は物も言わずに女の傍に膝をついた。

ガルアだった。

「長……」

「ごめんなさい。私はあくまでも〈長〉であるべきだったのに」

か細い声が紡がれた。

「でも、目の前で人が殺されるのをどうしても……」

ガルアは、首を振りながらそっと女の身を両の腕で起こした。

「外は……朝ですか?」

「はい……」

「光が……」

声はいったん途切れ、改めて続いた。

「この容貌ゆえに頬に当たる陽の光を私は嫌った」

呟きはもはやうわごとだった。

「でも、私は頬に当たる陽の光を愛してもいた」

そっと空気を求めて女が息を吸った。

「二の長よ、右手を」

「はい」

ガルアは女の白い右手に己の右手を重ね、絡めた。二人の重なった右手から柔らかい緑の光がぼうっと溢れた。

溢れ出た光はやがて現れたときと同じように残滓を残して緩やかに消えた。

女が吐息をついた。

「ごめんなさい、ガルア。これを譲る私を許して。でも、どうしてもヒクサクには渡したくないの」

「いえ、貴女と違って、覚悟の上のことです。二の長になるときに私には選ぶことができたのです。貴女が謝ることはありません」

「ありがとう、ガルア……」

守り手の長はそっと目を閉じた。

「長?」

「違う」

声は小さかったが、思いがけず鋭かった。

「私の名は――」

だんだん小さくなって行った声はとうとう音にならなかった。

動かなくなった女の細く白い腕をそっと取って、ガルアはこの上なく優しく、女が続けられなかった言葉を続けてやった。

「サリュィオ……」

戦の最中(さなか)にあって、今このとき、この仄暗い闇の石室の中だけ一瞬の静謐が訪れた。

やがてガルアは恭しく女の腕をその胸の上に置いた。

ぽん、とか、ぱん、とかいう奇妙な破裂音がして静謐を無粋に破ったのはその時だった。

ガルアは己の胸に手をやった。

その指の間から赤い物が溢れ出た。

戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)の一隊が森から姿を現し、横から突撃を仕掛けてきたとき、ハルモニアの将アドルファスは断じた。

――何故にかは知らぬが、敵に真の紋章を使う気はない。

断じると同時に方針を変えた。

「新手を潰す。待機の部隊、前に出よ!」

もはや、迷いはない。

敵味方入り混じってしまえば、たとえ後から紋章を持ち出してきても使うわけにはいくまい。

奇を(てら)う必要もない。アドルファスには十分な兵力が持たされていた。

――本当に彼らは真の紋章を持っているのか?

紋章がなかった場合、責任はどこにいくのだろう。

いずれにせよ、アドルファスには関係のないことであった。クリスタルバレーで起きるはずの政争を予想して、アドルファスは、ふ、と苦い笑いを漏らした。

予想してはいたことだったが、村を放棄することに異を唱えるものは多かった。

「ここを捨てて、行くあてはあるのか。我らは戦場(いくさば)の鷲、こここそ我らの場なのだ」

「ならば訊こう。あれだけのハルモニア兵を討つ力が我らにあるか」

「勝つこと(かな)わずとも、一兵でも多く――」

頑迷に言い募る古参の守り手にトアはうんざりしていた。

「だから守り手は外を知らぬというのだ。ここにいる兵士の一兵や二兵討ったところで、クリスタルバレーのお歴々はいささかの痛痒も感じるまい。これだけ言って分からぬのなら、己の満足のみを抱いて逝け!」

「なれど、我らの名誉はどうなるのだ!」

「名誉?我らは名誉も高潔も自らの手で地に落としたではないか!」

「どういう意味だ!」

「分からぬほど愚昧とはおもわなんだ。それとも、セグノ様になんと申し上げてお詫びをしてよいやら分からぬ私が愚かなのか?」

声高に主張していた守り手がぐっと詰まった。

議論は途切れ、双方ともに口を開かない。

やがて、先ほどよりは冷静な調子で老兵が口を開いた。

「今度はこちらか訊こう、攻め手よ。エゥナーナ・イ・フォェルトを出て、その後はどうするのだ?」

「クリスタルバレーに潜入する」

頭を叩き潰すのだ、とトアは言ったが、咄嗟の答えは方便だった。いや、方便と言うより願望だった。そうことはうまくいくまい。トアの真向かいに座る守り手がじろりと目をむいた。

「……分かった、貴公に従おう」

答えは諾だったが、虐殺の件を持ち出されてはそう言うしかなかったのかもしれない。

「感謝する」

トアは地図を広げた。

「知ってのとおり、間道は五つ。うち、この間道は〈翔〉と落ち合う方向だが、また、一番の激戦も考えられる。腕に覚えがある者のみで行き、残りは他の四つの道を行くこととする」

「だいたい分かった」

「近隣の村をまずは目指す。ハルモニアに通じているかも知れぬ。必ず探りを入れてから入ってくれ」

「無論」

「私の部隊が囮として残ろう」

それまで固い顔で下を向いていたキリクが口を開いた。

「トア様、その役目、我等にお譲りください」

「何?」

「それで償えるとは思っておりません。しかし、それは我らの役目と心得ます」

突然、トアは理解した。キリクはただ高潔すぎただけなのだ。純粋さは時に他者に対する苛烈さとして現れる。

「よかろう」

「ありがとう存じます」

「キリク」

(そびら)を返した守り手をトアは呼び止めた。

「まだ何か」

不朽の翼を(エュ・ヴィスナンデ・ヴィングゥエ)

ひとつ頷いて、キリクは返した。

勝利の翼を(ヴィングゥエ・オム・セーガ)

ガルアは手のひらを顔の前にあげ、信じられぬ物を見るように血に濡れた己の手を見た。それから、物凄まじい形相で背後を振り返った。

「おのれ……!まだ仲間が……」

半身を支えていた左腕がブルブルと震えたかと思うと、がっくりと折れた。身も起こせぬのに、胸を押さえていた右手は剣の柄に伸びようとしている。

チュン、と鋭く音がして、その右手が撥ねた。

苦痛のあまり声も出ぬ。それでもガルアは抗おうとしていた。

ゆっくりと、人が、現れる。

光の乏しい石室の中に、中肉中背の男は用心深く入ってきた。

「危うく使命を果たせぬところだった」

ガルアを見下ろして、男は言った。手には奇妙な鉄の筒のようなものを握っている。

「それを譲ってもらわねばならん」

地に倒れた男はどうにかして自分のすぐ傍まで来た男の顔を見上げようとしていた。しかし、それもままならない。

「哀れみを感じないでもないが……」

男は手に持った筒――恐らくは武器――をガルアの頭にまっすぐ向けた。

その時。

獣じみた声を発して、人影が男に凄まじい勢いでぶつかった。不意を撃たれた男は、ありえないものを見るようにぶつかってきた黒い大きな塊を見た。

ゲドの刀が男の身体に文字通り柄まで突き通っていた。

黒い瞳を怒りでたぎらせながら、ゲドは柄を握る両手をひねった。

「かっ……!」

男の手から鉄筒が落ちた。その口から血反吐の混じった泡が出てくるのを見ると、ゲドは足をかけ、一気に男から剣を抜き去った。反動で吹き飛んだ男に容赦なく追いすがり、止めを刺す。

何度も、何度も、執拗に、何度も……

やがて、ゲドは自分の荒い呼吸にまぎれて人の声がするのにやっと気づいた。

「誰か……いないのか……」

もう何回か呼びかけたのかもしれない。ゲドはうつぶせに倒れたまま動くこともできないガルアの傍らに膝を付き、友人の身を抱え起こした。

億劫そうに、目が、開かれた。

「ゲド?」

自信なさそうにガルアは言った。それから、苦労してはっきりと目を開くと言った。

「ああ、ゲド、だ」

ふう、と大きく息をつくとガルアはしばらく何も言わなかった。が、唐突に口が開かれた。

「右手を……」

言うと、ガルアはゲドの手を捕まえた。ゲドは思わず手を引っ込めかけた。しかし、ガルアは死にかけている者とは思えぬ力でその手を、ぐい、と引っつかんだ。

溢れ出る、淡い、緑の、美しい、光。

同時に、ゲドは頭の奥底が痺れるような感覚を覚えた。

何かが無理やりに記憶の中に入ってくる。

強引な滲入に抵抗し、ゲドは手を引き剥がそうとした。だが、ガルアの手は掴んだゲドを逃さなかった。

ゲドは必死で息をついた。己の荒い呼吸音で耳が一杯になった。

突然、放り出されるように意識が石室の中に戻ってきた。

緑の光はもう消えていた。

「やはり、な」

満足そうにガルアは言った。

「守り手でなくともお前になら宿る、と……」

ガルアは目を開ける力もなく、だらりと肢体を垂らしている。

「それは呪いだ、ゲド」

声はもはや囁きになっていて、口元に耳を近づけなければ聞き取れない。

「それは希望だ、ゲド」

熱に浮かされたような言葉が聞き手を無視して連なった。

「頼む、それさえあれば。その力さえあれば。その紋章の元に鷲は再び集うだろう。我らの村は再び……」

守り手たる(エゥナーネン)はとうとう動かなくなった。

「我らの村、か」

動かないガルアの傍らに座り込み、ゲドは(こうべ)を垂れていた。

「守れ、と言うか」

とつぜん(あふ)れ出た怒りに任せて剣を石床に打ちつけた。

がぁん、という不協和音が死人ばかりの冷たい石の廊下に喧しいばかりに響き渡る。

がぁん、がぁん。

やがて、打ち振るう動作は止められて、音が()む。

ゲドの瞳が光を帯びた。しかし、その光は()んでいなかった。

新手の部隊を森に押し戻した頃には、村からの攻撃の手も緩まっていた。

――勝敗は決した。

問題は、与えられた命令が「勝利を得ること」ではないことである。

アドルファスは本隊の前進を命じた。

と、同時に、数隊に命じた。

「落ち延びようとする者を見つけ出せ。見つけ次第、全て捕らえよ」

誰がこちらの求める回答を持っているのか、まだ、分からない。そもそも回答はないのかもしれない。

そもそも、この間道の地形が一番気に食わなかったのだ。

最も警戒していた谷間の狭道に差し掛かったとき、左の斜面に敵が現れた。

雨霰と降ってくる弓矢に手を焼きながら、雷の紋章で応戦する。

その合間を縫って敵の長斧(ハルバード)部隊が下りてくると、あとは乱戦だった。

「先に進め!抜けるのが先だ!」

声を()らして命じるものの、完全に足止めされてしまった。

――ここまでか。

その時だ。

反対側の斜面に見慣れた鷲たち(エゥナーナ)の一隊が現れたのは。

「蹴散らせ!」

声が飛ぶが早いか、鷲たちが素晴らしい速力で斜面を駆け下りてきた。

「レーフか!」

「トア様、ご無事で!」

「助かったぞ。また、はかったような登場だな」

レーフはその台詞を聞いて、にんまり笑った。

どこまでが冗談か分からぬ態度がトアには懐かしく喜ばしかった。レーフはまさに希望を引き連れてやってきたのだ。

レーフは口を開くなり、まっすぐに問いかけてきた。

「トア様、私の妻(うちのやつ)がどの間道を行ったか、御存知ありませんか?」

トアの中にやり切れぬものが込み上げてきた。

「それは……」

突然、レーフのマントを矢が射抜いた。

「ちっ……おい、何をしている!早いとこ弓兵をつぶせ!」

「レーフ」

「トア様、近隣の村がいくつか協力を約束してくれています。あいつらが案内します」

レーフは射掛けられた矢を叩き落しながら口早に言った。

トアは頷いて、率いてきた人々の先頭に立とうと剣を引っさげ、前方を向いた。

ぐっ……!

異様な声に驚いて、トアは振り返った。

ハルモニア兵特有の長斧(ハルバード)を脾腹に受けて、レーフが体勢を崩していた。

「レーフ!」

物も言わずにレーフは相手の長柄を叩き折り、瞬時に発動させた雷光で敵を屠った。

「なに、大丈夫です。ここは引き受けます。早く!」

――何が大丈夫なものか……

じわりじわりと横腹の血滲みは拡がっていく。しかし、トアは思ったことを口にしなかった。

「頼んだぞ」

「お任せを」

「必ず来い」

「当然です」

統率者として、トアはここに踏みとどまるわけには行かなかったのだ。

我知らず、トアは咆哮をあげていた。叫びをあげながら、進んだ。

前へ。ただ前へ。

義務と憤怒にまみれながら荒鷲は道を切り開いた。

その背を見送った手負いの鷲も、しばらくは敵を切り伏せていたようである。

やがて。

戦場は移っていき、狭い谷間の道には静寂が戻っていた。

そこここに物言わぬ死体が転がっている。

明るい瞳の一羽(ひとり)(エゥナーネン)が、細めの木の根元に座り込み、両足を投げ出して幹に背を預けていた。両手も垂らし、剣には軽く手がかけられているだけだ。

レーフは凭れかかっている木の枝にカラカラと枯葉が一枚揺れているのを見上げていた。

屠った敵は数知れず。

満足そうに笑みを浮かべると、レーフはそっと言葉を漏らした。

「今、帰る」

おそらくは家族に向けられた最期の言葉は、誰に聞かれることもなく風の中に消えて行った。

カサ、と音を立てて、辛うじて残っていた枯葉が落ちた。

奮戦していたセグノの隊も、数の違いは如何ともしがたく、すっかり森の中に追い立てられてしまった。

すると、いままでどっしりと動かなかった敵方の本陣が静々(しずしず)と動き出した。

輝かしい鎧に身を固めるのはハルモニアの将だろう。

「もはや、我らには目をくれぬ、か」

セグノの傍にナシェレが呻いた。攻め手一の剣の使い手も無傷とはいかなかった。だが、代わりに彼はセグノを守りきったのだった。

「村の連中はうまく出たでしょうか」

「間道を全て使うという合図があった。少なくとも四本は隣国へ抜ける方向だ。レーフが掛け合って、関の守備隊は見逃すことを承諾している。おそらく、そちらは大丈夫だろう」

「残りの一本は」

「……敵の数によるな。――差し当たりは我ら自身のことをそろそろ考えねばならぬ」

そうは言ったものの、セグノは動かずに、じっとハルモニアの動きを見守っていた。

今まで侵されたことのない故地に青い集団が既に達していた。

葉のすっかり落ちた木々の間の獣道を人々の集団がひとかたまり、先を急いでいた。

先へ、先へ……

道は傾斜を描いていて、歩きやすいとはいえない。しかし、人々は先を急いでいる。女性も男性も剣を()びている。子供や老人でさえ、何がしかの武器を携帯している。

と、前方の傾斜の頂上に、長套(マント)姿の人物がひとり現れた、

一団の先頭にいた人物がさっと手をあげ合図すると、人々の道行きがずるずると止まった。

皆の(おもて)に緊張がよぎる。

フホゥク、フホゥク、フク、フク、フク……

前方の男が口に手を当て、何やら鳥の鳴きまねのような声を出した。声は風に乗ってよく通った。

途端に、人々は安堵の声を上げた。

ホック、ホック、ホック。

代表して先頭の戦士が返事を返すと、前方の長套(マント)の戦士が背後に向かって合図した。すると、同じような装束の男たちが十人ばかり姿を現した。

人々はそちらへ向かってまた歩き出した。

「良かった。無事脱したのだな」

「ああ、なんとか」

「ひとまず近隣の村へ。それから隣国へ逃れよう」

「隣国?奴らは関を閉ざしておったぞ」

「ああ。ただ、レーフ様に守備隊長はこう言ったそうだ。『この関は人手が足りぬゆえ、時には人通りを見過ごすことがあるかも知れぬ』と」

「……レーフ様とその守備隊長に感謝を」

「そうだな。まずはこっちへ」

出迎えの〈攻め手〉たちと合流し、ひとときの喜びに少々隊伍を乱しながら集団が再びゆるゆると動き出した。と、速さの違いから、後ろの集団がやや離れた。前を行く人々は疲れた身体に鞭打って黙々と歩いて行く。が、後ろの集団はそれを追わなかった。追わぬどころか、いまや完全に立ち止まって、斜面を登りきり向こう側へと消えて行く人々をじっと見送った。

「行ってしまったな」

「ええ」

「出迎えと合流できたのだ、おそらく大丈夫だろう」

「そうですね」

「では、行くか」

「はい」

「愚かと言われようと、我らには頑なな道しか選べぬ――許せ」

守り手たちは一人また一人と道を引き返して行った。

しばらく行ったとき、ガサガサと自分たち以外の足音がするのを聞きつけて、先頭の(エゥナーネン)がスラリと剣を抜いた。

「鈍ってはおらぬな。綺麗に一動作だ」

声と共に現るるは、これまた数人の(エゥナーナ)

「お主もか」

「そのようだ」

二つの集団は互いに笑みを浮かべた。

「我らは攻め手の期待を裏切った。もはや、肩を並べては戦えぬ」

「失った名誉は自らの手で取り戻さねばならぬ」

「名誉を口にするからには、ここは守ってみせようぞ」

いつのまにか、道には青い制服の兵がちらちらと見え隠れしていた。

「来い、〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉の名の由来(わけ)を教えてやる」

声は生き生きと躍った。

ゲドは外界に戻ってきた。

石廊を抜け出てみると、ちょうど村の入り口に青い集団が達したところだった。

広場にあった鷲たちの本陣には、もはや誰もいない。

入り口の辺りに、まだ、数人の戦士がいるようで、虚しい抵抗をしている。ゲドは無感動にそれを眺めた。

ときおり、紋章の閃きがハルモニア兵を討つのが見えた。だが、抵抗は弱々しく、ハルモニアの長斧(ハルバード)隊が入り口の土塁を壊すと、決壊した堤のように、その場所から青い兵が雪崩れ込んできた。

そのときだ。

ゲドは、はっと何事かに気づいたような表情になって、ふいに駆け出した。

一方で、エゥナーナ・イ・フォェルトの陥落はハルモニア兵を指揮するアドルファスには予定調和だった。むしろ、思ったほどの抵抗はなかったと感じている。

――妙だな。

アドルファスは、村にほとんど人気(じんき)がなくなっていることを訝しんだ。とりあえず村の入り口の外に陣取り、それぞれの隊に探索を命じた。

やがて、抜け道と思われる物が幾つか見つかった。そのそれぞれに中隊を派遣した。どの間道を使い、どの程度の〈鷲〉が脱したか分からぬ以上、全ての道をたどらざるを得ない。

見つけた〈鷲〉は全て捕らえよと厳命は出していたが、なかなかに難しいだろうと思われる。〈鷲〉がそうそう素直につかまるとも思えず、また、自軍の兵も散々焦らされてきたおかげで、少々、堪え性がなくなっている。

「使ってこぬと分かっておれば、これほど時間(とき)は掛けなかったものを」

――待ちすぎた。

アドルファスは舌打ちした。

しばらくして村の方が騒がしくなったとき、アドルファスは反射的に気に染まない間者たちを思い浮かべた。

「〈組合〉の者か?」

独りごちてみたが、あの集団が表立った騒ぎを起こすわけもない。

それをみつけたのは、ハルモニアの左翼を担う小隊の隊長だった。

人々が折り重なるように死んでいたのだ。

自害したのか、と最初は思ったが、そういったふうでもない。

敵方ながら、それはあまりに惨い光景だった。

思わず口に手をやったとき、鋭く低い声が横から飛んだ。

「近づくな」

「なっ……」

現れたのは血に(まみ)れた男だった。戦いで傷ついたのだろう、右目を包帯で覆っていた。元は白かったであろうその包帯は血だか泥だかよく分からない色ですでに薄汚れている。

その口調、その装束(そうぞく)。正しく〈戦場(いくさば)の鷲〉だった。

村で見つけたただ一羽(ひとり)の鷲である。

ハルモニアの兵として、何より先に捕まえねばならぬ相手だった。

が、剣も抜かず、ほとんど無造作といえる足取りで現れたその〈鷲〉にハルモニアの小隊長は気を呑まれていた。

「ここは貴様らが居て良い場所ではない」

男は無表情で、その視線は頑なだった。

「ここで、何が……」

とたんに、男の全身から剣呑なものが溢れ出た。

「貴様らの将に訊け」

部下が回りこむのを視線の端で確認してから、小隊長は得物を構えた。

「捕らえろ!」

抵抗するだろうという予想に反して、男は動きもしなかった。ただ、腕を掴まれたときだけ激しくふりほどく素振りをみせた。

男を捕まえてしまってから、改めて小隊長は死人の山に近づいた。一番端にあった女の死体の前に屈んで、その傷をよく見ようと手を伸ばしたとき、突然、怒声が飛んだ。

「触るな!」

振り返って、ハルモニアの小隊長は異様な物を見た。

大の男四、五人を跳ね飛ばすと、剣をまっすぐに構えた鷲が一足飛びに迫るところだった。

とっさに横様にその突きを避け、手にしていた長斧(ハルバード)を捨てると、乱闘用の剣を抜く。

二合ほど重い手ごたえの斬撃をその剣でしのぐと、部下の居並ぶ辺りに戻り、さっと合図を出した。

合図にあわせて長柄の(ハルバード)が揃って構えられる。

突然、男が手を上げた。

今まで見たこともないような紋章が宙に浮かび、異様な力がその手に集まっていく。

まずい。

与えられた(めい)など忘れ去り、とっさに叫んでいた。

「止めろ!殺せ!」

長斧(ハルバード)が一斉に前進した。

(こう)

(ひかり)()けた。

()けた(ひかり)は空間を(あまねく)く薙いで行った。

暴虐に。

善も悪もなく。

敵も味方もなく。

自分に殺到する長斧(ハルバード)兵が全て、強まる光に呑み込まれていく。兵士たちを苦痛が覆い、死人の山に換えていく。

その中心にあって、ゲドは嗤詆(ししょう)していた。

ハルモニアの蛮行と。

〈鷲〉の醜行と。

己の愚行とを。

まとめて無表情に嗤っていた。

未知の紋章が目の前にある。

使い方など知らぬ。

ただ、この紋章が己の命を吸い、それを莫大な力に換えているのは分かる。

紋章は、敢えて言えば、徽章鉤(きしょうこう)に刻まれた紋様に似ている。

ゲドは、己の徽章鉤を強く握り締めた。

息子の清めた徽章鉤は確かに自分を守ったが。

「俺だけ残って――」

――何の意味があろう。

ゲドは喜んで紋章に命を差し出した。

目の前の敵を打ち倒せるのなら。

血族を奪った者を打ち倒せるのなら。

この地に未だ立っている者を打ち倒せるのなら。

惜しくなどなかった。

何が起きているかなど、分かりはしなかった。

天空(そら)が不自然なほど急速に暗くなっていき、それに比して、村の方からの光はみるみる強くなっていく。

「下がれ!後退しろ!」

アドルファスは思わず叫んでいた。

命じなくとも、この異様な光景に、自軍は列を乱して来た方向へと戻って行く。

轟。

音と共に光が弾けたのはただ一度。

雷だった。

落ちたなどという生易しいものではない。

村だけでなく、戦場となっていた広い空間を雷が埋め尽くしたのだ。

圧倒。

まさに圧倒的な力は、暴力でしかなかった。

強い閃光と轟音に、視界も聴力も奪われた。

それでも必死にアドルファスは後退した。

どろどろと長い余韻を残して音が静まり、目を焼いた閃光が収まっても、なかなか視界は戻ってこなかった。

何度も目を(しばた)いて、やっと周りが見えるようになってみて、アドルファスは言葉を失った。

岩場を埋めていた自軍の兵がごっそり居なくなっていた。

子飼いの兵が、みな。

人の肉の焼ける異様な臭いで辺りが満たされ、死体の海と化した戦場からは、苦痛の呻きのみが返る。

「馬鹿な……」

今になって、何故(なぜ)

わずかに残った兵からも言葉は出ない。

暗闇(やみわだ)の帳が下り、それを閃光が掃った。

そう、見えた。

セグノたちはその光景を森の中から見ていた。

轟音が辺りを揺るがせて後、風景は一変していた。

地形すら変わった風景の中でハルモニアの軍隊は壊滅し、わずかしか残っていない。

「何が……?」

答えを知る者はない。

「セグノ様、あれを」

遠眼鏡を覗いていたナシェレが一点を指差した。セグノは渡された遠眼鏡を覗いて

「ゲド、か?」

「ええ、私もそう見ました」

セグノはぽんと遠眼鏡を放って返すと、やおら剣を頭上に掲げた。

「動ける者は続け!ゲドを救うのだ!」

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