イサヨヒ

枯れた山道の折れ曲がったところから、男がひとり谷間を(のぞ)んでいる。日はとっぷりと暮れ、空はすでに闇色になっていた。

「追っ手なし。今夜はここで一晩過ごせそうですよ」

立っている男にエースは背後から声をかけた。声を出しての返事はなかったが、男の頭がわずかに頷いたので、ちゃんと伝わったことは分かった。

「大将、最初に見張りやってください。次は俺ですんで。クイーンとジョーカーはもう寝てます」

もう一度、頭が頷いた。

「何かあるんですか?」

こちらを見もせずに黙って渓谷を見下ろしているゲドに、何の気もなくエースは声をかけた。

「いや」

返事が予想どおりだったので、軽く嘆息する。この男の反応は、表層は読みやすいのに深層は読めたためしがない。

「明日にはカレリアに帰れますね」

「……」

「いや、ひどい目にあった。小隊、いくつかつぶれたかもしれませんぜ、こりゃ」

ゲドはうつむき、一拍おいてから

「ああ」

と答えた。

「代理戦争だか小競り合いだか知りませんけど、もうちっとマシな作戦にしてほしいですね、俺としちゃ」

「雨になるな」

唐突に話の流れを止められて、一瞬、ついて行けなかった。しかも――

「雨、ですか?」

見上げる空には雲一つなく、星が(またた)いている。

「……」

他人との意志疎通ってヤツをどこかに置き忘れてきちまったんじゃないか、この人は。

エースは再び嘆息した。

「見張り、頼みますよ」

こちらを見てもいない男に向かって、軽く手を上げてみせる。(きびす)を返す前に男が頷くのが見えた。

報告を終えて、いつもの酒場にとって返すと、ジョーカーとクイーンの前には既に酒瓶が並んでいて、それを見たとたん、エースの口はへの字を描いた。

「あのな、少しは控えろよ」

机の前に小袋を投げ出す。袋はわずかにザザと音を立てた。

「これは?」

「お給料」

「少ないじゃないか」

「恐れていた通り、ってことだよ」

「負け戦だったからのう」

「カーッ、負け戦は俺達のせいじゃないっての」

「言ってやればよかったじゃないか」

「言ったよ。言わずにおけるか。無傷なのはうちと十四だけだぜ、ワリにあわねぇ。絶対、あわねえ。退却できた奴らだって、もし、大将が道を()けなかったら、もっと少なかったはずだぜ?も少し色つけてもバチはあたんねえっての」

「まあ、下っ端役人に噛み付いてもしょうがないしね」

「やけに聞き分けがいいじゃねぇか。聞き分けいいついでに酒も控えてほしいもんだね」

はいはい、と言ったそばからクイーンはグラスを空にする。

「それで――」

急に、静かな声が滑り込んだ。

「はい?」

「隊費はもつのか?」

「ああ、そりゃ、しばらくは。――言っとくが、お前らの飲み代は出さねぇからな。自分で払えよ」

「しばらく()ける」

やおら、立ち上がったゲドに少々エースは慌てた。

「ちょ、ちょっと――」

「なんだ」

呼び止めておいて、さしあたってゲドがいなくて困ることも、ゲドの行動に干渉する理由もエースにはなかった。

「――取り分ですよ、大将」

しょうがなく、エースは受け取ってきたばかりの報酬からおおざっぱに取り分けて、ゲドに渡した。金貨を左手に受けると、ゲドは振り向かずに出て行った。

「……あの人はどうも分からねぇ」

「ま、大将の気まぐれはいつものことじゃ」

それにしたって分からねぇ、と言いながら、ふと、エースは今朝のことを思い出した。

エースが起きてみると、ゲドは木に背を預けて空を見上げていた。ちょうど、見張りを変わった時と姿勢が変わっていなかったので、思わず声をかけたのだ。

――眠らなかったんですか、大将。

――いや。

その「いや」の意味が、「いや、眠らなかった」なのか、「いや、眠った」だったのか、判然としなかった。

ゲドの出て行った酒場の扉がまた開いて、商人が一人、頭から滴を垂らしながら入ってきた。

「ひどいもんだ、急に降ってきやがった」

本当に降ってきた、とぼんやりエースは昨夜の会話を思い出した。

「この雨に、物好きなもんだ……」

クイーンの呟きが耳に入ったのでそちらを見ると、クイーンもまたゲドの出て行った扉を眺めていた。その目がこちらを向き、視線が合った。エースはストンと腰を下ろした。

「俺にも寄越せ」

ジョーカーが()ぎ、クイーンが静かにグラスを滑らせてきた。

カレリアの市門を出るとまもなく、大粒の雨が頬を打った。ひどくなる、と思う間もあらばこそ、音を立てる大雨となった。

沛然(はいぜん)と降る雨が視界を奪う。

顔といわず腕といわず伝っては落ちる水滴をゲドは気にしていなかった。気にする余裕がなかった。

人のいる場所から離れること、それしか考えられなかった。本当は馬でもほしいところだったが、手に入れる余裕さえなかった。

息が荒くなるのは、山道を急いでいるせいか身体の変調のせいか。

右手が疼いているのだ。

解放しろ、と。

戦いの終わり、道を()けるために咄嗟に紋章を使ってしまった。それが悪かった。

見知った顔が何人も死んだ。それも悪かった。

(ほとばし)り出た(いかずち)は限定されたものだったが、一直線に敵を薙ぎ倒し、文字どおり、道を作った。まさに、生存への道を。味方は機を逃さず「道」に殺到し、自然発生の紡錘形の陣は敵陣を強引に切り崩した。

だが、右手は――右手に宿った紋章は――満足しなかった。もっと、解放しろと。もっと、薙ぎ倒し撃ち伏せよと。我は力、荒れ狂う雷光……

意識が流れかけていたのに気づいて、ゲドは一度立ち止まって大きく肩で息をした。

それからは、何も考えずに歩いた。ただひたすらに歩いた。

目的地などない。ただ、人里から離れなければならなかった。

彼は紋章の所有者なのだろうが、同時に紋章に所有されていた。制御できる自信がない。掻き毟っても悶えても離れることのない熱をもった力の疼きは、制御しきれるものではなかった。

()き出しの地面は、雨のせいで泥流と化している。

息苦しいほどの雨の中、歩き続けるゲドの足元が急に滑った。足場を失うままに、ザザザザと身体が斜面を滑り落ちていった。

気が付くと、泥だらけになって仰向けになっていた。ゲドは、立ち上がろうとして、それに失敗した。

まだ、近すぎる。

焦りとともに、疑問が浮かんだ。

どこまで行けば十分なのか。

ひとたび、真の紋章が力を発揮すれば、地形すら変わるだろう。それが、生きとし生けるものに力及ぼさずに済むとはどこの話だ。ましてや、己の呪いは雷という力そのものだ。こんなものは、人の身に余る。

はあ、はあ、はあ。

呼吸は上がるばかりだった。ゲドは無理に深呼吸をしようとし、口の中に飛び込んだ雨水に()せた。

ズルズルと身を引きずり、這いずり、一番近い立ち木に(もた)れかかった。

人前で外すことのない手袋を外す。鮮やかに紋章が光っていた。

美しかった。

呼応するように、天空で稲光がした。数瞬経ってから、地に響く音が鳴った。ゲドは意識を集中させた。いや、集中させるまでもなく、滑らかに雷は生じた。

天から伸びる雷光と、地からそれを向かえる雷光と。

何度も行き交う光条(こうじょう)を、しばらく何も考えずに眺めていた。

ひどい有り様だろう、と泥にまみれた己を思った。

いつの間にか意識を失っていたらしい。

気が付いてみると、身体は冷えきって強ばっていた。ひととおりの雨は収まっていたが、それでも薄暗い雲が空に垂れ篭めていた。

力の疼きは完全には納まっていなかったが、耐えられるほどにはなっていた。ゲドは、脱ぎ捨てた手袋を探し、右手にはめた。水を含んだ手袋は、気持ちのいいものとはとても言えなかった。

身体はぐったりと力を失っていて、立ち上がる気力はどこにもなかった。無理に立つつもりもなかった。

目を閉じた時、人の気配がした。

「おおい、そこのあんた、生きてるか」

滑り落ちた先がどこであるかを確かめてはいなかったが、山道が曲がりくねっていたために、ちょうど真下を通る道にずり落ちていたらしい。目を開けると、存外近くに壮年の男が立っていた。土地の者のようで、目を開けたゲドを見て、ずいぶんと驚いた顔をした。死んでいると思われていたのかもしれない。

「あんた……大丈夫かい?」

ゲドは黙って頷いた。

「手、貸そうか?」

「いや」

「でもあんた、そんなところでずぶ濡れで寝てるなんて、自殺行為だぜ?それとも、本当に自殺を――」

ピン、と眉が上がったのが、自分でも分かった。

「――ってわけじゃないようだな」

それは、ひどく突拍子もないことのように思えた。

紋章がもたらすものは不老だけであって、不死ではない。断ち切ろうと思えば容易(たやす)く断ち切れる命だ。しかし、自ら命を断つことはゲドの頭の中に浮かんだことはなかったし、これからも選択肢にすらならないだろう。

今回の(いくさ)の最中も、戦況をひっくりかえせる力が有りながらそれを使おうともせず、それでいて、最後の最後、己の命を繋ぐためには利用した。

――なんと、利己的な。紋章よ、おまえの主――いや、下僕か――はどうしようもない男だぞ。

「本当に、大丈夫なんだな?」

考えにふけっていて、他人の存在を忘れていた。ゲドは視線を上げ、頷いた。

「何があったかは知らないが、世の中、そう悪いことばかりじゃないんだぞ」

ゲドの顔面に笑みが閃くように浮かんで消えた。

「ああ、知っている」

絶望を、知っている。

と思う。

しかし、耐えられない痛みは結局無かったのだ。

だから、今、ここにいる。

「本当だな、大丈夫なんだな。本当に本当だな」

「ああ。ありがとう」

そう言うと、何度も何度も振り返りながら、ようやく、男はゲドから離れて行った。

泥だらけで地面に座り込んでいる自分は、ずいぶんおかしく見えるだろう。

また、右手が疼き、ゲドは歯を食いしばった。

経験から言って、この発作のような蠢動はしばらく続く。

この状態で人と接触することは好ましくない。

あまり気づかれることはないが、根本的なところでゲドは人間が好きだった。いつもゲドの心を揺さぶるのは人だった。だが、今は心揺らすわけにはいかなかった。

大きく息を吐き出して、ゲドはなんとか立ち上がり、踉踉(ろうろう)と、また、歩きだした。

平成十七年八月二〇日 初稿

補足説明

ゲドは反応が動物じみてると思う.猫気質というか.

動物って,口がきけないでしょう.どこが痛くても黙って耐えてるしかないでしょう.大将もそんな感じなんだと思う.語るべき言葉を持たない(思いつかない)から,黙ってやり過ごすしか手段(すべ)がないんだ,きっと.真の紋章のことを明かせないということ以前に,そういう気質なんだと思う.

これを書いているとき,突然,「いただきます」(いや,「ごちそうさま」かもしれない.皿が空だったから)と言って手を合わせている大将が脳裏に浮かんで,笑いをかみ殺すのが大変でした.(話と関係ない)