眠りは死の似姿なのだそうだ。

眠りの間、魂はどこを揺蕩(たゆた)っているのだろう。

昔からの素朴な疑問であった。

意識が、眠りから浮上する。

今日も、また、生きている。

今日も、まだ、生きている。


この頃、朝になってこの扉を開けるのが何よりも恐ろしいと思う瞬間がある。

情けない。

脳裏を()ぎる最悪の可能性を振り払って、クイーンは扉を開けた。そこに男の姿を見つけると、思わず知らず詰めていた息を吐き出していた。

情けない。

もう一度、自分に悪態をつく。自分はそんなに臆病だったのか。

声をかけようとして、躊躇(ためら)った。

隻眼の男は、すでに身支度を済ませ、椅子に座っていた。船室を改造した部屋の窓からは静かな湖面が見えている。男の前には水差しと杯があって、クイーンの見ている前で男はゆっくりと水を飲んだ。

――ゲド?

声に出さずにクイーンは呼ばわった。

自分が入ってきたことは分かっているはずだ。しかし、ゲドはこちらに注意を払わず、()っと己の手を見つめていた。己の素手を。己の右手を。

その甲に、紋章は、ない。

男が素手を晒していることは滅多になかった。

クイーンは、不意に(わず)かに泣きそうになった。

情けない。怯えているのだ、自分は。

三度(みたび)、クイーンは心の中で悪態をついた。

わざと、呆れたように首を振ってみせる。声に不安を滲ませることなど、クイーンには断じてできなかった。故の、演技である。

「ゲド?」

今度こそ声を出して呼ばわると、男はこちらに目を向けた。

「……」

「何やってるんだい?」

「……」

男はゆるゆると己の右手に視線を戻し、答えるつもりがないのかと思ったぐらいの沈黙の後に、杯の水を一口飲むと、やおら口を開いた。

「この水がどこに還元されるのか考えていた」

(ああ)

言葉が思いつかなかった。

「で、だ。ササライ殿とナッシュの情報を元に真の紋章を奪還すべく軍を進めるわけだが」

ここでひとつ言葉を切ると、赤毛の年若い軍師はゲドのほうを真っすぐに見た。

「正直に言ってくれ。ゲド、あんた、一隊まかせられるのか?」

「シーザー?何言ってるんだ、ゲドさん、今までも軍を率いてきたじゃないか」

「違う、ヒューゴ。統率力とか戦士としての技量とかは、まあ、今までの戦いで分かる。信頼の点についちゃ、グラスランドの動乱をいくらでも無視できる立場にありながらノコノコ表舞台に出てきたんだ、今更裏切るだのなんだのは俺も考えちゃいない」

「じゃあ――」

ゲドはおもむろに口を開き、横から言葉を滑り込ませた。

「俺は、お前やクリスと違って、既に寿命が尽きている、ということだ」

「え?」

シーザーは真一文字に口を閉じ、ただ回答を待っている。クリスも思い当たったとみえ、はっと息を飲んだ。ヒューゴは、周りの反応を確かめてから、問うようにゲドを見た。

「ワイアットの――お前にはジンバの方がいいか――最期は看取ったろう。今の俺をこの世に繋ぎ止めているのは、もはや長年宿してきた真の紋章との繋がりだけだ」

「あ……」

ゲドはヒューゴに向かって頷いた。

「ジンバに起こったことが俺にも起こり得る。俺は()き消え、欠片(かけら)すら残らない」

「そんな……そんなこと、」

どう続けていいか分からず、ヒューゴは黙ってしまった。やりとりが途切れたのを機に、シーザーは質問に戻った。

「俺が訊きたいのはそこだ。その繋がりとやらが消えるのはいつなのか。その間、あんたはまともに動けるのか。それによっちゃ、策も別な物になってくる」

ゲドは静かに答えた。

「今、この瞬間にも繋がりは確実に薄れているだろう。だが、最期の時がいつなのか、そこに行き着くまでに俺の身体に何が起きるのか、そもそも自分でそれを気づくことができるのか、俺には分からない。今まで経験がないことだからな」

「そりゃそうでしょうね」

わざとおどけた調子で言ったナッシュだったが、すぐに後悔した。誰一人として「はは」とも声を立てず、ゲド本人が生真面目にこっくり頷いただけだったからだ。

シーザーは目を閉じた。しばらく考えた末に、目を開くと言った。

「やはり、あんたには一軍率いてもらう」

「ゲド殿に何かあったら?」

ルシアが冷静に声を挟むと、シーザーはひとつ頷いた。

「ゲド殿、副将に誰かつけますので、傭兵その他もろもろのの混成部隊を率いて先陣を務めてください。ある意味さばけた集団だから、指揮官が一人いなくなったからと言って、総崩れにはならないと(おも)います。次はクリス殿。いつも通り、騎士団を率いてください」

銀の乙女はぐっと頷いた。

「事情が事情ですから、もしもの時は、先陣からの集団も加えて、あなたに支えてもらわなくてはなりません」

「了解した」

「そして、最後に、ヒューゴ殿の本隊です」

「分かった」

ヒューゴも緊張した面持ちで頷いた。

シーザーは改めてゲドを見た。

「ゲド、あんたはある意味、この〈炎の運び手〉のこれ以上ないぐらいの宣伝塔だ。あんたがいてこそ、この軍は五〇年前の〈運び手〉の正統を主張できる。まあ、いなけりゃいないで手はあるが、利用してことが容易(たやす)くなるなら、それに越したことはない。働ける限りは働いてもらう。それともう一つ――」

今度は皆を見回す。

「ゲド殿が欠けた場合、真の雷の紋章の奪還はあきらめるしかない」

「替わりに真の紋章の器となる者がいないからだね」

さすがにササライは明敏だった。

そうです、とシーザーは言葉を継ぐ。

「その場合、真の土の紋章の意味は大きな物になります」

「土の護りを利用するというわけか」

「ええ。土を起点に水と火を奪取、雷は奴らにも使えぬように解放、というのが理想ですね」

「理想はゲドさんがいなくならないことだ」

急に口を挟んだヒューゴは、それだけ言うと黙り込んだ。少し怒ったような、硬い表情をしている。

「それはその通りです」

シーザーは逆らわなかった。

それから、さらに具体的な作戦を詰め、軍議が終わった。

ヒューゴは広間から出て行こうとして、急に振り返った。

「ゲドさん」

隻眼が少年に注がれる。

「ひとつ約束してくれ。あきらめないって約束してくれ。確実なことは言えないとか、そういうことじゃないんだ。俺、真の紋章宿したばかりで、こんなこと言うの、生意気かもしれないけど。真の紋章を通してちょっとだけ寂しさみたいな物も感じたけど。でも――でも、あきらめないでくれ」

「無論だ」

ゲドは即答した。

その小さなやりとりを後に、それぞれが持ち場へと散って行く。

美しい騎士団長は出て行く前にゲドの前で立ち止まって、口を開きかけたが、思い直したように口をつぐんで、御武運を、とだけ言った。

口下手と言うより、性格がそうさせるのだろう。

損な性格だ、とシーザーはクリスの背中を眺めながら思った。

そして、この隻眼の傭兵隊長。

さっきのヒューゴの質問に男が即答したことを、シーザーはありがたいと思っていた。

士気を考えれば、それは、即答せねばならない問いだったからだ。また、本心がどうあれ、他の答えをしてもらうわけにはいかなかった。

あまり付き合いは長くないが、寡黙な傭兵隊長は、自分の好きに動くようでいて、そうでもない。遠慮はしないが、自分の及ぼす影響を図り、必要とあれば必要とあるように動く、とシーザーはみている。

シーザーはゆっくりと足を運んで、佇んでいるゲドの前で立ち止まり、一度床に目を落としてから背の高い男を見上げた。どうしても、言っておきたかった。

「すまない」

それだけ言って、また目を落とした年若い軍師の頭上から静かに言葉が降りてきた。

「軍師は考えられうる可能性をすべて把握し、手を打たねばならない。必要なことだ」

「そうなんだが、それで何もかも切り捨てていいとは俺は思っちゃいない」

「自分で軍師たることを選んだのだろう?」

言われてシーザーは、ゲドをまた見上げた。その目が強い意志をもつ。

「シルバーバーグの名のみで崇め奉る奴らはバカだと思うが、俺はこの名を誇りに思う。思えるようになりたい。軍師なんて、やくざな商売だ。だが、それが人の役に立つのだと俺の尊敬する叔父は身をもって示した。だから――」

急に、気恥ずかしくなって、シーザーはごまかすようにポリポリと鼻の頭を掻いた。

「ま、この戦いが終わるまでよろしく頼む」

「ああ」

立ち去るシーザーの背中を見送っていると、後ろから声をかけられた。

「どうしたんだい?」

「いや――」

チラ、とやってきたクイーンに一瞥をくれ、

「あてられたかな、と思ってな」

「ふーん……」

ゲドと同じ方向を見ながら、クイーンはそっと言った。

「ねえ、ゲド。ひとつ質問があるんだけど」

ゲドはクイーンに向き直った。その男の(ひとみ)を、クイーンは睨むように真っ向から見つめた。

「あんた、本当のところ、あの紋章をどうしたいんだい?」

ゲドは黙って目を落とし、右手の手袋を外した。

素手が大気に晒される。

「紋章がこの手にないのを見るのは、久しぶりだ」

久しぶりで済ます以上の年月だ、とクイーンは心の中で付け加えた。

「今朝、眺めながら感じた物は、喜びではなく違和感だった」

ゲドは自分の右手を見つめている。クイーンもその手を見つめて、次を待った。

「あれは、託されたものだ。前の炎の運び手よりもなお(ふる)い、故国の友から託されたものだ。奪われていいものではない」

そこでゲドは右手を握り、その拳をクイーンに見せながら言った。

「取り戻す。あれはまだ俺のものだ」

クイーンの指先がすっと伸びて、ゲドの拳にわずかに触れた。

「分かったよ」

クイーンの口元に優雅な微笑()みが浮かんだ。

そうさ、なら、この手の向かう先にどこまでもついて行く。

クイーンの手が離れると、ゲドは右手を常のように手袋に納めた。

「いくぞ。また、戦いだ」

「ああ」


魂の揺蕩(たゆた)う先を未だ知らない。だが、

今日も、まだ、生きている。

今日も、また、生きている。

平成十七年九月三日 初稿

補足説明

ゲーム中,ゲドが炎の英雄になることを選ぶと,真の雷の紋章が離れていっちゃうのが,どうにも納得いきません.真の紋章2つ宿したスーパーゲド(超ゲドと命名)を見たかったのは私だけではないはず!

ということは置くとして,ゲドにとっては,たとえそれが呪いであろうと,真の雷の紋章の方がずっと重いと思うんですよ.継承したからには,ゲドにそれ譲った人がいたわけだし,譲らざるえなかった状況があったわけだし.それに,ヒューゴだって縁もゆかりもない雷の紋章が宿っても,困るでしょう.

というようなことを考えていて思いついたんだけど,あんまり紋章について語ってませんか.語ってませんね.

いや,私,どうも直接的に語る人って好みじゃなくて.ゲームでは,突然,スイッチ入ったように語る人ですけど,ゲド.

クイーンもね,カラヤの焼き討ちイベントの後に「心配しないで」と言うのは,どうも好きじゃないんですよ.そこは口に出さないのが美学だろう!と思うんで.(でも,それじゃ表現力の乏しいゲーム画面では分からなすぎか)

最初,書き出したときはゲド視点だったんですよ.以下,そのバージョン.

寝起きは悪くない。寝台から抜け出すと、すぐに着替え、帯剣する。今日は朝から軍議だ。おそらく、そのまま作戦行動に入る。

渇きを覚えて、水差しから杯に水を注いだ。椅子に座って、窓の外に見える湖面を眺めながら、ゆっくりと飲んだ。喉を通る水が染み渡り、やがて、己に還元される。

ゲドは自分の右手を見下ろした。その甲には長年共にあった紋章がない。

自分は今どういった存在なのだろう。

魔法的な?

染み渡った水はただ虚空に消え去ったのだろうか。

ゲドは肘を机について、己の目の前に右手を持ち上げ、まじまじと見た。

違和感がある。

喜びではなく違和感を感じていることに、ゲドは笑みを浮かべた。

ここまで書いて,「前から思ってたけど,私,ゲド笑わせすぎだよな〜.ゲームのゲドってそんなに余裕なさそうだよな〜」と思ってそこを直そうとして,なんか,思考を語っちゃうとつまんないな,と思って,全部書き直しました.

というわけで,実は,私の書くゲドはあんまり深刻じゃないんです.

題名なんですが,「きゅうじゅう」と読んでください.――ウソです.どう読ませていいか分かりません.一応,あの字は(って,「卒」の異体字ですが)以下の意味があります.

えーと,「卒中」の意味に千ポッチ――じゃなくて,全部含んでいると思ってください.(だから,どう読ませていいか分からない)