ブローノ・ブチャラティ
VS
エンヤ婆

Epilogue

First-plot Version

昨日と同じぐらい空気は冷えていたが、霧がなく町並みの温かい色味(しきみ)が見通せる分、心なしか寒さは肌に厳しくない気がする。

駅のホームに列車が入り、大儀そうに軋んで停まった。

ブチャラティに荷物らしい荷物はない。

見送りの者もない。

「あ、いたいた、あれじゃないですかね、教授」

いや、見送りはいたらしい。

聞き覚えのある声を耳にして、ブチャラティは眉をひそめた。正直、あまりここの人間には係わりあいたくはない。

「警察の事情聴取とやらはどうしたんだ」

「面倒だからすっぽかした」

「いいのか」

「大丈夫、大丈夫、事務の人がうまくやってくれるよ」

「うん、そうだね。事務の人っていうのは人付き合いがうまいよね」

ブチャラティは何も言わなかった。大学の事務員が今頃どんな苦労を強いられていようと、彼の知ったことではない。

「なんだかよく分からなかったけど、ひどい目にあったね。君も。フェリーニ君は死んでたし。まあ、僕は五体満足なんだから、マシなほうか」

「そうだね。私もだね」

二人の足も腕もブチャラティがいちおうくっつけておいた。穴の後は変な痣になっていたし、背が低くなったり手の長さが変わっていたりするかもしれないが。

「最悪だったのは、目を離したすきにユベントスが負けてたことだ。くそ、俺がしっかり目を離さずに応援していればなあ」

あのビデオはそもそも録画だったはずだが、とブチャラティは言わなかった。賢明にも。

「……何しに来たんだ、あんたたちは」

「見送り」

「うん、暇だったからね」

「いやあ、警察があちこち立ち入り禁止にしてるし、外はうるさいしでまともに研究できないんだよ。幸い、学生はほとんどいなくなっちまったから、講義はしなくていいんだ」

それは『幸い』なのか?

ブチャラティは溜め息をついた。はっきり言えば、迷惑だった。警察がくる前に速やかに大学を離れたのは取り調べとなれば面倒になると分かりきっていたからだ。なのに――

「そうそう、お土産をあげようと思ってね。せっかくトリノに来たんだからね」

「お、出た、教授のワイン。君、ついてるね」

渡されたバスケットには白い布を恭しくかけられて、ワインの瓶の首が二本顔を覗かせている。

「うちのね、実家が葡萄畑をやっていてね、ワインもね、造ってるんだ。君、帰ったら友達とでも飲みなさい」

頬っぺたの落ち切った老教授はのんびりとした口調でもごもごと言った。

「分かった。もらっておこう」

いやだのなんだのガタガタ言っているよりも、とおとなしく受け取っておいて、ブチャラティはさっさと列車に乗り込んだ。

車内はさほど混んでいない。

窓側の席を陣取ると、外では二人の大学人がにこやかに手を振っている。ブチャラティは振っているのかあっちにいけと合図しているのか分からないような曖昧なしぐさをしてみせた。

ガタン、と列車が動き出す。

やれやれ、と座席に身を沈める。

ふと、隣においた籠に目をやった。

白い布を取って見ると、自家製だというその瓶には見慣れぬ絵柄が書いてあった。

ブチャラティは瓶を持ち上げて、読みにくい髭文字を一文字一文字拾ってみた。

PA……SSI……O……NE……

がばっとブチャラティは立ち上がり、窓に張り付くようにして外を見た。

二人の男たちは景色の後ろの方に流れ去り、もう見えなくなるところだった。

「まさか……な」

呟いたブチャラティはガタンゴトンという心地よい響きを聞くともなく聞きながら、それでもしばらくワインの瓶を眺めていた。

2005/1/11 初稿

補足説明

この2人が妙に落ち着いているのは,そういうわけだったんです.