(しら)

1番目から4番目には黄色い容器の餌,あとは青い容器の餌、か。水温も控えておいてくれと言っていたな。

承太郎は黙々と作業をこなしていた。水槽には山椒魚のような生物が2,3匹ずつ入れられている。作業は承太郎自身の研究とは関係が無かった。急用で実家に帰った顔見知りの助手に頼まれたのだ。

その助手は学生に頼むのを忘れていた上に、あいにく大学は休み、同じ研究室の人間に連絡も取れなかった。窮地極まったその助手は隣の部屋の内線を警備員に訊き、駄目もとで電話を掛けた。隣の部屋がたいてい空いているのをその助手は良く知っていたし、日曜日なのでほとんど諦めていたのだが、珍しく相手がいたのは幸運だったというべきだろう。電話に承太郎が出たとき、相手が第一声で「天は我を見捨てなかった!」と叫んだものだから、承太郎は黙って電話を切りかけたものだ。

頼まれたのは今日のこの時間にやらなければいけないこと、ただそれ1つ。それを逃すと実験は最初からやり直しになるというのだから相手が慌てたのも喜んだのも無理はない。

そんなわけだから、その作業が終わった頃に胸ポケットの携帯が鳴ったとき、承太郎がその助手からの確認の電話だと思ったのは自然なことだった。

廊下には誰もいなかったが、学内では電波が弱いので承太郎は手近の窓辺に移動しながら電話に出た。

「空条です」

が、電話から流れ出てきた声は予想とは違っていた。

「承太郎…ジョセフおじいちゃんが…おじいちゃんが……」

名乗りもせずに涙声でそれだけ訴えるのはホリィ、彼の母親だった。

「どうしたんだ?」

「おじいちゃんが…危篤なの……」

それだけをどうにか訴えるとあとは鳴咽ばかり。

危篤。

その単語を聞いたとたん、ドクン、と心臓が鳴ったように思われた。

泣くばかりの母親にともかくすぐに帰ると言いおいて電話を切ると、承太郎は手早く残りの水槽の世話をし、書きかけの論文を机の上に開きっぱなしにしたまま研究室を後にした。

いつかそんな日が来る、それは分かっていたし、その時に取り乱すような自分ではないことも良く分かっていた。が、それがもっと遠い日のことだと思っていたのを承太郎は認めた。また、心中がなみだっているのも否定する気はなかった。とはいえ、それは承太郎の外見からは分からないことであったので、何か起きたのかと訊くような人間もいなかったろうが。

こころなし早めの歩調で家路を急ぐ。

玄関を開けたところにホリィがいた。

ひとりで心細く、ずっと落ち着かなくそこをうろついていたのだろう、ホリィは承太郎を見たとたん、ひとこと、

「ああ、承太郎…」

とか細く声を漏らし、自分よりずっと大きな息子に飛びついてきた。承太郎は軽くホリィの背中に腕を回し、黙って母親が落ち着くのを待った。頃合を見て口を開く。

「じじぃが危篤だって?」

「ええ」

ホリィはゆっくり承太郎から腕を離した。息子の落ち着いた瞳を見ているうちに自分も落ち着いてきたらしい。涙がちではあったがちゃんとした文章を紡ぎ出した。

「さっき、ローゼスから大変なことがあったと電話があって……おじいちゃん、あなたに会いたいって……でも、私には来るなって言うの……どうしてだと思う、承太郎?」

ジョセフがホリィを目に入れても痛くないほど可愛がっているのは承太郎にも分かっている。最期の時に会いたくは無いのだろうか。

「娘に自分の弱った姿を見せたくないのかもしれないな…」

「でも…」

ホリィは反駁しかけたが、思い直して質問した。

「承太郎だったらそう思うの?」

「俺は娘を持ったことが無いから分からないな」

こんなときだが、承太郎には苦笑が浮かんだ。自分だったら何も望むことなく黙っているだろうと思い当たったからである。

息子のそんな様子など目にも入っていない様子でホリィは床に目を落とし、じっと考え込んでいた。

「分かったわ…お父さんがそう望むのなら…」

そこでホリィは切なそうな瞳で息子を見上げた。

「承太郎、行ってきて。行って……」

「分かっている」

ちゃんとこの目に焼き付けてくる。ちゃんと会いたがっていたことは伝えてくる。言葉にしなかった息子の考えを汲み取ったのだろうか、ホリィは開こうとすると震える唇をぎゅっとつぐんだ。それから、そっと

「お願いね」

とつぶやくような小声で言った。

ジョースター家に足を踏み入れるのは何年振りだろうか。空港からタクシーを拾って急ぎに急がせ、たどり着いた屋敷は前に訪れたときとあまり変わっていなかった。

大きな鉄格子の門の前でタクシーを降り、インターホンと呼ぶにはいかめしい機器の前で来意を告げる。出たのはローゼスだった。古くからジョースター家に仕える忠義者。

「承太郎様でしたか! すぐに門を開けさせます」

言葉の通り、門が音を立ててあく。玄関までは少し歩かなければならない。承太郎は荷物をかついで黙って歩を進めた。

玄関のところにはローゼスが外に出て待ち構えていた。

「承太郎様、お待ちしておりました」

承太郎がひとつ頷く。招き入れ、扉を閉めて先に立って歩き出すローゼスに声をかける。

「じじぃはどんな様子だ?」

「もう、大変な騒ぎでして。奥様はカンカンです」

歩き出していた承太郎だったが、その台詞を聞いてはたと立ち止まり、まじまじとローゼスを見た。

どうやら何かがどっかでおかしくなってるらしい、と承太郎は気付き始めた。

「もう、絶対許しません! 離縁します!」

漏れ出でるヒステリックな叫び声がしたのと承太郎が扉を開けたのとはほぼ同時。部屋に入ったとたん、クッションの直撃を受けかけ、とっさに腕でガードする。

「ちょっと、なんで避けるのよ! お客さんに当たったじゃない!」

「無茶言うな、物が飛んできたら避けるのが道理じゃろう」

「あなたに私が投げたものを避ける権利はありません! ――大丈夫ですか? ごめんなさい――おや、承太郎じゃないの。ここに来るなんて珍しいわね。何年ぶりかしら。でも、会えて嬉しいわ。会いに来てくれたのね」

「わしが呼んだんじゃよ、わしが」

「あなたは黙ってらっしゃい!」

承太郎はなんとなく、ふぅ、とため息をついて口の中で呟いた。

「この母にしてあの娘あり、か…」

いったい、俺に分かるように話してくれる奴はいないのか? さっきローゼスに訊いておくべきだった。承太郎は自分の判断ミスを認めた。

「気の済むまでやってください。じじぃ、話は後で聞く。隣の部屋は空いてるな? 待たせてもらうぜ」

言うだけ言うと承太郎は扉を閉じた。孫が姿を消した扉をあっけに取られて見ていた老夫婦はおもわず顔を見合わせた。

勝手に部屋に入り、ソファにドカッと腰を下ろした頃にはすでに隣からの物音がやんでいたので、どうやら喧嘩はひとまず休戦になったらしい。

たぶん、すぐにジョセフがやってくるだろうと思ったとたんに扉が開いてヨボヨボとジョセフが入ってきた。手を貸そうかどうしようか迷ったが、やめておいた。

思えば……ずいぶん年をとったものだ。あの頃の面影が見る陰も無い。自分が無意識のうちに「あの頃」と称しているのがあのエジプトへの旅のことだと気づいて、ふと承太郎は苦笑した。もうずいぶんと前の事なのに、な。

承太郎の表情の変化に気づく事もなく、ジョセフは孫の正面のソファによいこらしょ、と腰を落ち着け、もはや手放せなくなった杖を自分の目の前に立て、その上に大きな両手を重ねた。

「さて…用はなんだ? さっきの喧嘩と関係あるのか?」

ジョセフは承太郎の物言いを聞いて、目を細めた。

「相変わらず単刀直入な奴じゃな、承太郎」

「……」

黙って、承太郎は次の言葉を待った。そういう孫の態度が普通なのはジョセフには分かっている。

「喧嘩の種は分かっていると思うが――」

「いや、知らない」

「知らない?!」

ジョセフは小さな眼鏡を通してマジマジと承太郎を見つめた。

「お前、じゃあ、なんでここに来たんじゃ? 聞いてないのか?」

「俺が聞いたのは、てめぇが危篤だ、ということだ」

「危篤? わしが?」

冗談じゃない、とジョセフはいちいち自分を指差して言った。

「あいにくじゃがな、わしはまだ死なんよ。好物も食えなくなったが、な」

「そのようだな」

「しかし、どうして……ローゼスの奴め……」

「いや、ローゼスは悪くないと思うぜ。電話を受けたのはおふくろだ」

「……なんとなく、どういうことかは分かってきたわい。ホリィの奴……スージーに似てちょっと――いや、かなり――おっちょこちょいなところがあるからな」

だが、どうやったら話が「危篤」になるんじゃ? とジョセフは不満そうに首をひねった。

「それで? 俺はまだ本題を聞いてないぜ」

「ああ、それが…その…なんじゃ…ありていに言えば…………息子がいるんじゃ」

「誰の」

「わしの」

「……おばあちゃんとの間にできたってわけじゃなさそうだな」

承太郎は部屋の中でも取っていなかった帽子のつばをちょっと触って、ゆっくり言った。ジョセフは落ち着かなそうにもぞもぞと身体を動かし、

「まあ、そうじゃ」

と答えた。それを聞いてほぅとため息をつき、承太郎はふかぶかとソファの背もたれに身を預けた。

「お前は次に『やれやれだぜ』と言う」

目の前でそう言われて、承太郎は口を中途半端に開いたまましばし止まった。次に、ピタッと口を閉じる。が、次にまた思い直して言った。

「余裕あるじゃねぇか、くそじじぃ」

自分の十八番があっさり不発に終わってジョセフはしょんぼり目を伏せる。

「それで? それが俺を呼んだのとどう関係するんだ? まさか夫婦喧嘩の仲裁じゃあるまい?」

「ああ、その頼みにくい事なんじゃが……」

歯切れの悪いしゃべり方はジョセフには珍しい。言葉を切ったまま躊躇するように視線をウロウロとさまよわせていたが、何事か思いついて、ごそごそとポケットをまさぐり写真を数枚とりだし、ひさびさの念写なんじゃがうまく写っている、と承太郎にさしだした。受け取った承太郎は視線を走らせると、中学か高校かぐらいの学生が写っている。

「これが、俺の『叔父』なわけだな」

この顔立ち、まちがいなくジョースターの血筋だ。日本人か。いったいいつの間に。

対してジョセフはうん、と小さく頷いた。

「名前は東方仗助という。本当に頼みにくいんじゃが……」

「結局、頼むんだ、さっさと言え」

手厳しいな、相変わらず、と口の中でつぶやいてからジョセフは言った。

「仗助に会って来てはくれんか。仗助に……わしの息子に遺産を残したい。せめてもの償いに」

チラッとジョセフの表情をうかがう。ジョセフは遠い目をしている。たぶん、視線の先は自分ではなくこの会った事もない息子に向けられているのだろう。

「自分で行けばいいじゃねぇか」

会いたいのなら、とはあえて口に出さなかった。しかし、ジョセフは承太郎を見つめて力なく首を振った。

なぜ、と承太郎は言葉に出さなかったが、雰囲気を察したのだろう、ジョセフが2枚目を見ろという身振りをした。

「!……これは?」

まがまがしい雰囲気をまとう男。そしてうっすら見えるのは……スタンド?

「そいつがなぜか念写に写る。まるで邪魔するようにな。そいつばかり写るんで仗助を写し出すのも苦労した。息子のいる街に、息子の母親も住む街にそいつがいる」

何度も見たその男の写真をもう一度マジマジと眺めつつジョセフは考える。こいつが写るのはただの偶然か?

「――わしは心配なんじゃ。そいつはきっと『何か』をやらかす。決していいことではあるまい。それに巻き込まれはせんかと心配なんじゃ。――もし。わしがもう少し若ければ――戦えるだけ若ければ、自分で行った。自分の手で護った」

自分の年老いた皺だらけの手のひらをじっと見詰めながら続ける。

「じゃが、今のワシはただの老いぼれ、ただの役立たずじゃ……」

ジョセフはそこまで言ってしまうと黙り込んだ。

それまで言葉も挟まずに聞いていた承太郎が口を開く。

「役に立ってるじゃねぇか」

「何?」

「そいつがその街に潜んでる事を見つけ出したのはおめェだけだ。そいつをどうにかしようと行動を起こしたのもおめェが最初だ。重要な事はそれだ」

ジョセフはなにか突拍子もない事を聞かされているような表情をしていたのだが、承太郎の言葉が終わるとゆっくりうなずいてわずかに笑みを浮かべた。それを見届けてから承太郎がおもむろに宣言する。

「後は俺が引き受けた」

1999/11/7 初稿

補足

虹村みかんさんに以下のご指摘を受けました.

ジョジョは奇妙に冒険のコーナーをひととおり見させていただきましたが、「おはなし」にある「報せ(しらせ)」の話に重大な矛盾を発見しました。

承太郎が「俺は娘を持ったことが無いから」と言っていますが、その後の展開から考えるに時代設定は第4部開始直前、この頃にはとっくに徐倫が生まれているはずです(2011年秋の時点で19歳なので1999年春には6歳か7歳)。

この話が書かれた日付を見ると第6部開始以前のようなので無理もないこととは思いますが、さすがに修正したほうがよろしいのではないでしょうか?

ははあ.まったく気づいていませんでした.

が,まあ,「おはなし」ページは書いた当時の私の感想文みたいな物なので,このままにしておこうと思います.5部以降はまったく追随していっていないという理由もありますが.(5部は一応読んだのですが,6部はちゃんと読んでないんですよ.どういう結末になったかも知りません./苦笑)

ちなみに,誤字も指摘してもらいましたが,それはこっそり直しました.(^_^ゞ

2006/6/23 記す.