己の傷の(もと)に恢復せよ

Ersteh unter deinen Wunden

プロローグ

Es gibt ein Kommen und ein Gehen
Ein Scheiden und oft kein - Wiedersehen

Prag, den 20. November. - Franz Kafka.

来る者があり 去る者がある
別離があり そして しばしば --- 再会はない

一一月二〇日プラハにて フランツ・カフカ

「ちょっと、シンゴ、どうにかなんないの、この揺れ!」

トニヤは台詞に不満を籠めたつもりだった。だが、滲んだのはどちらかといえば不安だった。

「やってるよ!でも、操舵なんて利きゃしないんだ!右も左もないんだから!」

右も左もない。文字通りの意味で、だ。

この空間がなんなのか分かっている者はいない。視界いっぱいが暗いような燐光で覆われている。そのモノトーンの世界の前方にポツリと見える黒い点、それに向かって、フリーデン含む三隻が押し流されるように進んでいる。

「でもよ、過去に行くときはこんなに掛かんなかったよな」

「あのメイガスってのにやっぱり瞞されたのかもね」

ブリッジに入ってきたウィッツとロアビーが言った。その疑問ももっともだ。自分たちの時代から〈新西暦〉に抜けた時は、こんな会話をする時間さえなかったのだから。

ジャミルは艦長席の肘掛けを人差し指で何とはなしにトントンと叩いた。

艦長(キャプテン)……」

「大丈夫だ、サラ。ディアナ様が信じたように私も信じられると思っている」

安心したわけではなかっただろうが、サラは黙って頷き前方を見据えた。

むしろ、ジャミルの不安はマシンセルがあってさえ再生できぬほどに破壊されたアウルゲルミルに、果たして未来への道を維持するだけのエネルギーが残っていたのかということにある。

「機体の回収は」

「ほぼ終わっています。後はスレードゲルミルだけです」

「フリーデンに回収しよう。トニヤ、通信を――」

艦長(キャプテン)――」

サラの緊迫した声がジャミルを遮った。

「――後方より何か迫ってきています!」

「何か?」

「エネルギーの固まり……なのかしら……このままじゃ、アイアン・ギアーに当たる!」

「トニヤ!」

ジャミルが命じた時には既にトニヤが回線を開いていた。

「アイアン・ギアー!」

〈何、ジャミルさん?〉

「速度を上げろ!後ろから何かが来る!ぶつかるぞ!」

〈ええ?!速度ったって!〉

〈エルチー、本当に何か来るよ!〉

〈どうでもいいから上げんのよ!〉

〈無茶言わんでください!〉

アイアン・ギアーの騒ぎが回線越しに聞こえてくる。

「フリーデンから狙えないか?!」

「無理です、アイアン・ギアーが射線上です!」

「ソレイユは!」

「砲撃していますが、光束が散っていきます!何なの、この空間!」

サラの声がいよいよ切迫してきた。

と、そのとき、並んで飛行していた機体が後方へと向きを変えた。

「スレードゲルミル!!」

機動兵器はアイアン・ギアーとフリーデンの間を摺りぬけ、驀地(まっしぐら)に飛んだ。同時に、真っ直ぐに伸びたのは巨大な――

「斬艦刀か!」

騎兵槍(ランス)を構えた騎兵の如くに突進したスレードゲルミルは、まともにその〈何か〉に激突した。

「!」

痛いほどの光が後方より目を刺す。サングラス越しにあってさえ。

一拍おいて、ガタガタと揺れが来た。

コンソールを掴んで必死に耐えた後、サラが告げた。

「未確認エネルギー、消失!」

「スレードゲルミルは?!」

「健在です!」

ザザッと軽く雑音が入ってから通信が開き、男の声が流れた。

〈大丈夫か〉

〈こっちは大丈夫だよ。あんたこそ……〉

〈問題ない〉

〈良かった。ありがとう〉

ジャミルはやりとりを聞いて、浮かせかけていた腰を降ろした。

艦長(キャプテン)、たぶん、もうすぐ出ます」

なぜ分かるのかと言おうとして、やめた。視界の真ん中、点にしか見えなかった黒い穴がグングン大きくなる。

――あれが元の時空への出口だと良いのだが。

「総員、衝撃に備えろ!」

命令に対する返事が聞こえる前に、揺れと轟音とが全身を襲った。視界を白と黒とが歪曲しながら流れては過ぎ、吐き気さえもよおしてきた。口を開けば舌を噛みそうだ。

近くにいるはずのクルーが認識できない。

ギリギリと奥歯を噛み、ジャミルはひじ掛けを掴んで必死に耐えた。

状況はアイアン・ギアーも変わらない。いくらジロンたちが無鉄砲でも、何もできないときは何もできない。

一際(ひときわ)大きな衝撃があって、皆が床に叩きつけられた。

「つ……もう!なんなのよ!」

「でも、まあ、なんとかたどり着いたみたいですよ」

おでこを摩りながら起き上がったコトセットは心配げにアイアン・ギアーの計器を覗き込んでいる。

「フリーデンとソレイユは?」

「いるよ、どっちも。スレードゲルミルも。あ……」

「どうしたの、ジロン」

「人が降りたんだ。スレードゲルミルから」

「ええ?!あのゼンガーって人?」

エルチはジロンの横に立って地面を見下ろした。声なら何度か聞いたが、姿は見たことがない。降り立ったパイロットらしき男はずいぶん背が高く見えた。

「どこに走ってくのかしら」

「なんかの残骸みたいな物に走ってく」

いつの間にか背後に来たコトセットが手を額にあてながら言った。

「アウルゲルミルですな、ありゃ、多分」

「アウルゲルミルって敵の親玉が乗ってた?」

「さてね。メイガスって人は居なくなったみたいだから……」

「俺、見に行ってみる」

「私も行く」

「あたいも」

アイアン・ギアーから降りてみると、フリーデンやソレイユからも人が降りて来ていた。人々は目配せしあうと、おっかなびっくりアウルゲルミルに近づいた。

アウルゲルミルは、フレームさえ(ひしゃ)げてしまった残骸に過ぎなかったのだが、今にも再生して動き出しそうな不安が拭えなかった。一定の距離をおいたところで示し合わせたように立ち止まったのは、多分、皆が同じ不安を感じていたからだろう。

と、コクピットブロックとおぼしきところに人が現れた。

男だった。髪の短い。

女を抱えていた。長い髪の。

人々が固唾を呑んで見守る中、紫がかった髪のその男は、ある程度の高さまで瓦礫を滑り降り、残りの高さを飛び降りた。

――やっぱり背、高いわ……

エルチが思ったのは、取るに足らないそんなことだった。

硬い表情を浮かべたその男は一歩一歩を踏み締めながら、人々に近づいて来た。

あと数歩というところで立ち止まった男にジロンが話しかけた。

「あんたがゼンガーさん?」

「……ああ……俺がゼンガーだ」

「その人は……メイガス?」

「いや……」

男は腕の中の女を見下ろした。女は静かに目を閉じ、動かない。もう決して。

「……ネート博士……」

ふとそこで男は躊躇(ためら)い、わずかに沈黙した後で、

「……ソフィアだ……」

静かにそう告げた。

アイアン・ギアーは止まった。

乾いた大地だ。

半年前は、イノセントのドーム近くのようにここにも緑があったのだが、今は植物らしい植物がない。

機動兵器が一機、アイアン・ギアーの前方に降り立った。乗組員が皆その機体を見に集まってきていた。

ジロンが名残惜しげに呼びかけた。

「……ここでいいのかい?ゼンガーさん……」

「ああ……すまなかったな。スレードゲルミルが正常に稼動していれば、君達にここまで運んでもらうことはなかったのだが……」

「いいって、いいって」

「そうよ。あなたがいたから、あたし達はこの世界に戻って来れたんだし。これぐらいじゃお礼になんないわよ」

エルチが言うと、回線越しに静かな声が流れてきた。

「……そんなことはない。あれは……この時代へ帰還するという君達の意思の強さが生み出した奇跡だ……」

ジロンは訥々(とつとつ)と語る男に向かって、もう一度呼びかけた。

「なあ、ゼンガーさん。俺達と一緒に来ないか?」

「…………」

「あんたなら、きっといいブレーカーになれるよ」

「そうよ。ちゃんと金も出すわよ」

男はしばし黙り込み、

「いや……。俺は君達と一緒に行くことは出来ない。……アンセスターとして、君達を抹殺しようとしたこの俺にそんなことは許されない……」

ジロンは拳を握りしめた。

ここに来るまでの間にジロンたちはゼンガーに慣れてきて、興味本位もあったが、主に「悪い人ではない」という直感から、いろいろと話しかけてみたり仕事を押しつけてみたりした。

だが、結局、最後までゼンガーは自分たちとの間に一線を引いていたのだった。

「……昔のことは忘れようよ」

「そうだよ。あたし達、もうそんなこと気にしてないしさ」

ラグもそう言ったが、ゼンガーはあくまで首を縦には振らなかった。

「……俺はこの地で……かつてアースクレイドルがあったこの地でソフィアの冥福を祈るつもりだ……」

ジロンは黙り込んだ。

アイアン・ギアーでも、ゼンガーは一人でいることが多かった。ジロンやチルが騒ぎ、エルチが怒鳴り、コトセットがぼやく様を眺めているだけだった。

それが何か悔しいような気もするのだ。

「さあ、行くんだ……。この時代の未来は……君達が作り出さなければならない」

ジロンはそれでも迷った。無理矢理にでも引っ張っていくべきではないのかと。

もう一度口を開こうとした時、エルチがジロンの腕を掴み、首を振った。ジロンはエルチを見ると、諦めたように肩を落とした。

「わかったよ。ゼンガーさん……。これからも元気でね」

「ああ……君達もな」

「よし……コトセット、出発だ!」

「了解!」

アイアン・ギアーはエンジン音を響かせて徐々に遠ざかっていく。艦橋に並ぶ人々がスレードゲルミルの方を見ている。

ゼンガーはアイアン・ギアーが完全に見えなくなるまでその場に留まった。

やがて、地平線の彼方へとアイアン・ギアーは消えていき、砂塵だけが残った視界の中でゼンガーは静かに呟いた。

「…………君達の未来に栄光あらんことを……」

見晴らしの良い高台でゼンガーは穴を掘っている。

ざく。

ざく。

スレードゲルミルを使えばものの数分で終わる作業だったろうが、どうしても自らの手でやりたかった。やらねばならなかった。

掘る。

また、掘る。

シャベルが土を切り崩す単調な調子だけを聞き続けて小一時間にもなっただろうか。ようやくゼンガーは手を止めた。

額の汗をぬぐうとそばに佇むスレードゲルミルに乗り込む。そして、人の大きさほどの箱をスレードゲルミルの両手で持ち上げ、そっと穴の中に降ろした。

もう一度、外に出る。

「…………」

彼方までが俯瞰できる、そんな場所だった。眼下にはアースクレイドルがある。

――ソフィア……俺はここに戻って来た……俺達が未来に望みを託し、果てなき眠りについたこの地に……

アースクレイドルがその機能を止めて半年、緑と呼べるような物は無くなっていた。この地を支えていたアースクレイドルからの水の供給は止まり、疲弊した大地に雨は降らない。だが、戦いの終わったこの星は徐々に徐々にその力を取り戻すだろう。

――………俺達は道を誤ってしまったが……人類は幾度の危機を乗り越え……未来を手にすることが出来た……

ゼンガーは彼方へ向けていた視線を今降ろしたばかりの箱――質素な柩――に降ろした。

「………だから………………」

手向(たむ)けられる物をゼンガーは何一つ持たなかった。それは、軍人(いくさびと)()るを己に課した瞬間から背負った(ごう)ではあっただろう。

「だから、この地で安らかに眠ってくれ……」

――………永遠に…………

ひととき武人は、己の涙の流るるを許した。

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