第二章

Und er kommt zu dem Ergebnis:
Nur ein Traum war das Erlebnis.
Weil, so schliesst er messerscharf,
nicht sein kann, was nicht sein darf.

Aus "Die unmögliche Tatsache" Christian Morgenstern

かくて彼かくの如く帰結しぬ:
かかる経験夢にすぎぬ
なんとなれば、と彼 剃刀の如く鋭敏に斯く推し量る也
有り得ぬ、則ち在らねば也

クリスティアン・モルゲンシュテルン『有り得ぬ事実』より

日は昇り、日は沈む。

アイアン・ギアーが立ち去ってからまた何日も経った。あるいは何週間か。何カ月か。

ある時点からゼンガーは日を数えるのを()めている。彼にとってそれは意味を持たなかったからだ。外との関わりが無いのなら、今が何月何日であるかはたいした問題ではなかった。

ザクザクと音を立てながら、ゼンガーは穴を掘っている。アースクレイドルに戻ってからこっち、それはゼンガーの日課になっている。

最初は貯水槽らしき物を作ったものだ。重機かあるいは機動兵器が使えればよかったのだが、エネルギーパックが残り少ない以上、使用は極力控えるべきだと考えた。

それに、手で掘るべき物もある。

掘っては埋め、掘っては埋め。

ずっと続けていたその作業も粗方(あらかた)終わった。けりをつけてしまおうと、いつもは午前中しか充てないその作業に、今日は丸々一日費やした。

計ったように一時間に一度休息を入れていることにゼンガー自身は気づいていない。あるいはそれは、軍人であった彼に染み付いた性癖であったかもしれなかった。

作業を終えたのは、日も暮れて夜になろうかという頃だった。

ゼンガーは周りを見回して、必要な物を使い切ってしまったことに気が付いた。

シャベルをアースクレイドルの入り口に立て掛けると、ゼンガーは暗い廊下をコツコツと音を立てて進んで行った。

右に折れ、左に折れ、一階降りたところに倉庫がある。

ゼンガーは中へ入ると、明かりを点けた。そこには、シャベルだの鋤だの鍬だのが何本もあり、支柱になりそうな棒や板、縄なども揃っている。

畑を作るためだったのだろうか。

その割にはこんなに奥にあっては効率が悪いとも思ったが、アースクレイドルの内部配置については喧々諤々の議論があって、結局のところ人型機動兵器の格納庫及び防衛兵器で最外周を占拠したのはゼンガーの意向なのだから、文句を言えた立場ではない。

部屋の奥へと入り込んで、雑多な物が並ぶ棚を見て回っている時、

「……?」

地鳴りのような物を感じて、天井を見上げた途端、突然、体が跳ね飛ばされた。

と思う暇もあればこそ、両脇から音を立てて物が崩れ落ちてくる。いや、崩れたなどという生易しいものではない。ほとんど、飛んできたのだ。

地面が激しく揺れる。体が揺さぶられる。

地震!

狭い倉庫からせめて廊下に出ようとした。

落ちてくる物、物、物。

暴力的な自然現象の前にゼンガーにできたのは、そこだけでも守ろうと、手で頭部を抱えることぐらいだった。

……目が開いた。意識が戻ったというよりも。

揺れは随分長かったように思う。だが、正確にどれだけの間揺れていたかは、分かりようがない。気づけば床に倒れていて、体に重みを感じていた。種々雑多な物がゼンガーの上に落ちてきているのだ。

体が強張(こわば)っている。思ったより意識の飛びは長かったらしい。

上に覆いかぶさっている物を押しのけて上体を起こし、頭を振った。まだ揺れているような錯覚を覚えてくらくらした。

辺りは真っ暗だった。

手探りで自分の回りを探ってみる。どうやらロープと小型のスコップ、熊手といった物がまとめて落ちてきて散らばっているらしい。

足をそろそろと立てて、立ち上がったとたん、ゴン、と思いっきり頭をぶつけた。

何事かと今度は上を探ってみて、両脇に立っていたはずの棚が斜めに倒れかかっていることに気づいた。部屋が狭かったので、つかえて倒れきらなかったらしい。そうでなければゼンガーは押し潰されていただろう。

――例えば、階段から落ちて怪我して動けなくなってても、一人じゃどうしようもないじゃないか!

これもそれに類する出来事だろう。確かに、これでは反論できない。

立ち上がるのをやめ、匍匐前進で前に散らばる物を探りつつ押しのけつつ、やっとのことで廊下に出た。

廊下にも明かりはない。

手探りで部屋の明かりのスイッチを見つけ、何度かカチカチやってみたが、反応はない。

パワープラントが損傷を受けたのでなければいいのだが。あれが壊れてはゼンガーには手がつけられない。

しばし、状況を把握するためざっと歩いてみて、上に行く手段が見つからない事に気が付いた。降りてきた階段は崩れていた。試しに隣の階段を見に行ったところ、側壁が崩れて埋まっていた。

「落ちたわけではないのだがな……」

ジロンの言葉をまた思い出してゼンガーは独りごちた。

ただし、収穫もある。

懐中電灯が見つかった。

また、幸運なことに水は出た。そのことについては、自分のためもあったが、コトセットのために安心した。あんなに喜んでいたのに、いくらも経たないうちに壊れてはきっとがっかりしただろう。

さらにありがたいことに、食糧庫に行き着くことができた。

皮肉なことに部屋ごと揺さぶられた形になって配置が変わったせいで、コーヒーが見つかった。ただし、火を起こす手段はなく、したがってお湯はない。コーヒーにありつける日がくるのはまだ先のようだ。

――まあ、いい。

これを機会に倉庫の整理に本格的に手をつけるとしよう。それで資材や機材が見つかれば補修作業にも役に立つだろう。

ゼンガーは急がなかった。急ぐ必要もなかった。

慌てることもなかった。

アースクレイドルは広い。階段は外周に一六、内周に八あるのだ。順番にあたっていけば、どれかは残っているだろう。そうでなくとも、地上に出る手段は何かあるに違いない。

この階にも個室はあったので、埃っぽいのを我慢すれば寝る場所には困らなかった。元より、どこででも眠れる人間である。

毎日、倉庫を整理しながら、ゼンガーは場所を移動していった。

この地を選んだのは、確か地震が少ないせいだったはずだが、「少ない」と「無い」は同義ではない。少々懲りたのは確かだったので、できるだけ棚や物の固定に心がけた。少なくとも、落ちたり倒れたりが致命的になりそうな物は。最初から荒縄が見つかっていたのは僥倖だ。

作業を始めて半日で、非常灯が点く区画が見つかった。これはありがたかった。懐中電灯はいざというときのために温存したかったからだ。

そして、四日目が来た。

その日は雨だったようだ。というのは、どこからか微かに雨音がしていたからだ。

いい知らせだ。

密閉度の高いアースクレイドルにおいて地下で外の音が聞こえるということは、どこかが上に向かって開いているということだ。

ゼンガーは音をたどった。が、途中で眉根を寄せて、聞き耳を立てた。

――声?

アースクレイドルに訪れる者がいないわけではない。先の戦争時にわずかな間行動を共にした者達だ。

だが、その連中が来たにしては静かだった。

それとも、何も知らぬ者が迷い込んだか?

だが、この地は人がわざわざ来るような土地でもない。

あるいは、一攫千金を狙ったブレイカーども。

有り得る話ではあったが、荒くれの多いブレイカーが来たにしてはどうにも静かだ。

ゼンガーは足音も気配も消して、歩いた。

非常灯が点いているのはまずかったかも知れない。何も知らぬ者にここが生きた施設だと知れるのは好ましいことではない。

しばらく廊下をたどっていると、瓦礫が突然多くなった。

――床が崩落したか。

上階の床が広範囲にわたって崩落していた。

だが、そのことよりもゼンガーを警戒させたのは灯りだ。

灯りは上の階を動いていて、何者かが辺りを探っていることを窺わせた。

――まずいな。

知った者ならば、自分の名前ぐらい呼ぶだろう。それを、黙っているということは、迷い込んだ者か、最悪の場合……

人影が、崩落でできた床の端に現れた。灯りを持っているのはその人物である。

小柄な人影は、下に向かって光を射し込んだ。

「ひどいものね……」

女のつぶやき声。

刹那、ゼンガーは衝撃のあまり、立ち竦んだ。らしくもなく、瓦礫を踏み、音を立ててしまった。

「誰?」

女の声に不安が滲んだ。

「誰かいるのですか?」

ゼンガーはよろよろと緩慢に女の方へと歩を進めた。

――有り得ない、これは。……ありえない。

幻覚か。幻覚ならば、己の精神を蝕む物は何だ。

そのとき、女が脆くなった部分に足を踏み出すのが見えた。

「あ……」

小さく悲鳴をあげて垂直に落ちる女を見て、まやかしと思いつつ、咄嗟に走りだしていた。

危うく地面に落ちる寸前で受け止める。

はっきりとした重みに息を止め、歯を食いしばる。

まやかしならば消えるだろうと、まやかしならば消えろと念じた。

女は、消えなかった。

腕の中の女は暖かい。驚いたのだろう、早い鼓動が感じられた。咄嗟に、ゼンガーの首に巻き付けたられた女の腕、それが柔らかかった。肢体、それが柔らかかった。

受け止められて落下が止まると、女は恥ずかしげに赤らんだ。

「あなただったのですか、ゼンガー」

地面に降ろされて、女は笑った。

「聞こえたなら答えてくれればよかったのに」

ゼンガーはそれを茫然と見つめた。

「一番乗りのつもりだったのに、負けてしまいましたね」

柔らかく笑う女が信じられなかった。

「ゼンガー?」

「ソ……フィ……ア……?」

掠れた声を絞り出して呻く。

「どうかしたのですか?」

心配そうに覗き込む女の瞳は深い青。見ようによって紫の混じる、あの深い青だった。機械と同化する前の。人であった頃の。あの。

眩暈を感じて、ゼンガーは二、三歩よろめくように後退した。口に手を当てる。

「ゼンガー?大丈夫ですか?」

辛うじて絞り出すように答える。

「何でもありません、ネート博士。何でも……」

不思議そうに小首をかしげてから、〈ソフィア〉は周りに目を転じた。

「非常灯だったのね……」

言いながら、自分の持っていた電灯を消したのは恐らくゼンガーと同じく、電池を惜しんだためだろう。

女は場違いにも、ワンピース姿だった。かつてソフィアが着ていたような衣服ではある。もっとも、そういったことには疎いので、確かにソフィアの嗜好どおりなのかと問われれば、自信がない。

ソフィアの形をした物は、あちらの壁を見たり、こちらの戸をのぞき込んだりして、周辺を窺っている。

最初に考えたのは、〈これ〉が何であるかということだ。

死人は生き返らない。それは、厳然と横たわる真実である。

あからさまな帰結として、これはソフィアではない。ロボット。アンドロイド。あるいはソフィアによく似た別の誰か。

何であれ、問題なのは、何故、の部分である。何故〈これ〉がここに来たか。

アースクレイドルは修復さえすれば十分軍事基地になり得る。また、メイガスが蓄え続けた技術とデータはそれだけで莫大な価値を持つ。狙われる可能性ならばいくらでもあった。それについてはゼンガーも十分承知している。

貴重なデータと設備をある意味ゼンガーが占有している――占有を許されている――のは、あのとき一緒に戦ったディアナやジャミルの厚意である。それ故、ゼンガーは兵器に類する物は極力復旧させないようにし、修復は生活に必要な物に限った。それがせめてもの礼だと思ったのだ。アースクレイドルを脅威と取られることは、ゼンガーの本意ではなかった。

彼らが自分を放置し、また、ここの存在を漏らさないことを無意識のうちに信じていたのだが。

――甘かったのだろうか?

しかし、だ。

データが欲しいだけなら、頼まれれば拒むゼンガーではない。実際、ゼンガーはいつもアイアン・ギアーの連中に好き勝手にさせていた。コトセットはアースクレイドルを弄くりまわすための知識をムーンレイスに求めていたのだから、拒絶されることなどないことはディアナ――キエルか?――であれジャミルであれ知っているだろう。

要塞としてのアースクレイドルが欲しい場合。そして、ゼンガーがそれを拒むと判断された――実際、それはゼンガーには飲めない要求だ――場合。

もし、彼らなら、ここに戦力がないことは知っている。どうしても欲しいなら力ずくで奪えばいい。諜報員を送る必要などない。用心のために探りを入れるにしても、死人を送り込むはずがない。そんなことをすれば、ゼンガーが疑うのは分かりきっている。ならば、何も知らずに迷い込んで来た一般人を装った方がよっぽどましだ。

――あるいは。

アウルゲルミルの保管を頼まれたぐらいだ、政敵が現れたのかもしれない。その輩が現在最大の戦力をもつ彼らに対抗するためにアースクレイドルに目をつけた……探りをいれてアースクレイドルとゼンガー、ソフィアの存在を知ったはいいが、正しい情報は入手していない……

もう一つ敵として可能性があるのは、イノセントだ。ジロンたちはイノセントは壊滅したと考えているようだったが、別に世界全体をくまなく探したわけではない。どこかに勢力が残っていても不思議ではない。イノセントは人工人類を作り出す技術を持っている……

どちらかといえば、ディアナやジャミルが敵に回る可能性よりも、未知なる敵対勢力が現れる方がありそうだ、とゼンガーは思った。

必要ないと思っていたが、グルンガスト――スレードゲルミルの修復をもう少し進めておけばよかった。

とにかく、今は、相手の狙いを探らなければならない。そして、必要ならばできるだけの情報を信頼できる者に渡さなければならない。

「困ったわ」

女が言ったので、ゼンガーは推測を一時中断した。

女はゼンガーを振り返って、首を振った。

「上に戻れない」

ゼンガーは上階を窺い、少し考えてから来た道を戻ろうとした。

「どこへ?」

「すぐ戻ります」

ゼンガーは倉庫からロープを一巻(ひとまき)取って戻った。穴の縁に立ち、肩にロープをかけたまま、垂直に飛び上がる。もともと、天井はさほど高くはないのだ。指の先が上の階の床にかかったので、そのまま足を振って勢いをつけると、ぐっと力をいれて上体を起こし、這い上がった。回りを見て、しっかりしていそうな手すりにロープを通し、下の階に垂らす。

「上れますか」

下の階からゼンガーを見上げていた〈ソフィア〉が瞬きした。

「『何を食べてあんなに大きくなったのかしら』」

「……?」

誰かの口調を真似たような口ぶりに、ゼンガーは怪訝な顔をした。

「エリが初めてあなたを見た時にそう言ったの」

背の高い人に会うといつもそう言うのよ、とソフィアは笑った。

「エリは知っているでしょう?安西エリ。考古学者の」

「はい……お会いしたことは……あります……」

茫然と呟きながら、ゼンガーは第三の可能性を思った。

これは幻覚である。己の弱さが見せた妄想である。最初に感じた通りに。

そこまで自分の心は弱かっただろうか?

ここまで現実味をもった幻は有り得るのだろうか?

ロープをつかんだ〈ソフィア〉を引き上げる。はっきりとした重みを感じながらロープを引くたびに、幻覚と現実との判断が曖昧になった。

地上階に引き上げられた〈ソフィア〉が腰を曲げ伸ばししながら息をつくのを見て、ゼンガーは奥歯を噛み締めた。

「ありがとう」

言ってから、〈ソフィア〉は歩きだした。

地上階外周はすべて格納庫と防衛兵器施設である。本来なら隔壁が外部と内部を遮断しているのだが、あの地震の影響だろうか、人が通れるぐらいの亀裂が走っている。

おそらく、〈これ〉はそこから侵入したのだろう。

「一人で来たのですか?」

どう答えるだろうか。

「私?ええ。本当は上空から観察するだけのはずだったのですけれど、大気の状態が悪くなったのか、エンジントラブルのせいなのか、不時着することになってしまって」

「飛行機の操縦を?」

「まさか。私にはできないわ。三人できたの。私と操縦士と研究員。不時着の時に研究員が大怪我をして。でも、故障のせいか三人だとどうしても浮力が足りないと言うから、私が残ったの」

「あなたが」

「それ以外の選択肢はないでしょう?操縦できるのは一人だけ、残る二人のうちすぐに手当が必要な怪我人が一人」

「一人でここに入るのは不用心だとは思わなかったのですか」

「あなたはどうなの?」

「自分は軍人です」

言ってから、それが正確でないことに気づいた。もはや彼に所属する軍はない。ただ、女はそれを指摘することはなく、

「仕方なかったの。雨が降ってきて。それで中に入ったら、明かりが見えたものだから――」

そして、観念したように、肩をすくめた。

「言い訳ね。それで下層に落ちているのだから、弁解の余地はない。軽率でした。認めます」

しかし、すぐに女はその瞳に鋭いものを宿らせてゼンガーを見た。

「でも、あなたも同じことでしょう?いくら軍人だからと言って、一人でここにいるのは不用意ではありませんか?」

「……」

黙り込んだゼンガーの前で〈ソフィア〉は首を振った。

「あなたが無茶なのは今に始まったことではなかったですね」

会話を打ち切って、〈ソフィア〉は亀裂の方へと歩いて行った。

外は未だ雨である。音を立てるほどの。乾いたこの地には珍しく。

「すぐに戻るとは言っていたけれど……」

女は床に置いてあるザックを開けた。ザックは〈これ〉が持ち込んだものだろう。ゼンガーはそこへ近づいて、荷物を窺った。

一、二回分の食料、水、マルチセンサー、通信機と小型のハンドガン……

「足りないかもしれないわ」

「何がですか」

「食料と水」

「あります」

「何がですか」

「食料と水」

かがんで荷物を点検していた〈ソフィア〉がゼンガーを見上げた。

「かなりあるの?」

「保存食が。水は出ます」

「水の生成装置が……動いているの?」

「はい。修理は必要でしたが」

「あなたが直したの?」

「いいえ。コトセットが――」

「コトセット?」

訊き返されて、しまった、と思った。あるまじき失策だ。このせいでアイアン・ギアーが襲われでもしたら、詫びのしようがない。

「あなたの部下か何か?」

「そのようなものです」

内心を隠して、ゼンガーは答えを()かした

「今はどこに?」

「ひとまず帰しました」

「ひとまず」という副詞を付けたのは、ここにいるのが基本的にゼンガー一人であると悟られるのは得策ではないと考えたからだ。

「ここは……生きているのね……」

〈ソフィア〉の呟きが感慨を含んでいる。破壊の後、修復の進まないアースクレイドルは廃墟にしか見えないからだろう。

突然、何かに気づいたように女が立ち上がり、這い上がったばかりの穴の方へと駆け出した。

「どこへ」

冬眠施設部(スリープセクション)です!ここが生きた施設なら誰かまだ生きているかもしれない!」

突如、沸き上がったのは怒りだ。狂おしいほどの。

「誰もいない!」

叩きつけるような言葉に、女は打たれたように立ち尽くした。

「見たの……ですか?」

ゼンガーは黙ってただ睨んだ。言葉が出てこなかったのだ。

お前ではないか。〈処理〉をしたのはお前ではないか。

頭を渦巻く怒りの言葉に、自分が目の前の人物をメイガスに見立てていることに気づいた。

そうだ。そもそも、なぜ、ソフィアだなどと思ったのだ。ソフィアであるわけがないのは分かり切った――

「そう……ね。そんな虫のいい話……あるわけが……ないですね……」

伏せられた目と消え入った声とが悲しみを滲ませていたのを見て、はたと怒りがせき止められた。

――〈これ〉は……何だ。

残念なことに、〈それ〉はメイガスよりもソフィアに似ていたのだった。

のろのろと引き返すと、〈ソフィア〉はザックの中から小型の通信機を取り出した。タイプからして、文明レベルの高い集団の者だろう。だが、戦後、ムーンレイスやイノセントの技術は徐々に地上にも流通しつつある。これだけでは判断がつかない。

「どこへ?」

「状況ぐらい報告しておかないといけないでしょう?」

「……」

こんなにも大っぴらに通信を行うとは思っていなかった。もっとも、音声が一人にしか聞こえないタイプだ。相手からどんな指示があってもゼンガーには分からない。

「通信もあまり通らないと言っていたけれど……」

ひとりごとを呟きながら、〈ソフィア〉は機械を操作した。周波を合わせ、指向を調整する。上から覗き込んで設定を見た。女にゼンガーを気にしている様子はない。

「こちら、ソフィア・ネート。誰か……え?ちょうどよかった、実は調査機が……あ、ええ……ええ。それで、怪我の方は……良かった。間に合ったのですね。……私は対象の中に入りました。……いえ、ほんの入り口。雨が降ってきたものですから。……分かりました。ここで待てばいいのね。……ええ?……それは何とも言えないわ。少なくともそんな機能はありませんでした。……いえ、私なら大丈夫です。騎士(ナイト)がいるから」

そこで〈ソフィア〉はいたずらっぽい視線を閃かせてゼンガーを(かえり)みた。

「いえ、冗談です。ゼンガーがいたの。そう、ゼンガー・ゾンボルト少佐」

ゼンガーの指がピクリと動いたが、女は気づかなかった。

「……ふふふ、そうね、本当に。ええ、言わないでおくわ」

笑ったまま再び女は通信機の方に向き直った。

「それも大丈夫、水も食料もあります。水は装置が動いているそうです。……コトセットという方が直したのだと言っていました。ゼンガーの部下の方。……ええ……ええ。……この設定のままで?……分かりました」

通信を終えると、女はゼンガーを振り返った。

「迎えはすぐには寄越せないそうです。近くにくると機体に異常が起きるとかで。今、原因究明中とのことです」

お前はここに辿り着いたというのにか。

「ここにそんな機能はあったかしら」

「ありません。自分の知る限りでは」

「そう……あなたは?」

「何がですか?」

「あなたはどうやって帰るのですか?」

帰る。どこにだ。

「同じ返答を受け、待機中です」

見え透いているが、向こうも自分でそう主張した手前、突っ込んだことは訊いてこないだろう。

「自分の機体で来たのでしょう?」

「いいえ」

〈ソフィア〉はふと黙り込んで、ゼンガーを見た。だが、すぐに繕うように話し出した。

「水と食料はどうにかなるとして、何か毛布になるようなものはないかしら。まさかこんなことになるとは思っていなかったから何も準備していないの」

確かに、女の持ってきたザックは大きさからして寝袋も毛布も入っていそうにない。

「ベッドがあります」

「ええ?!」

「仮眠用の簡易ベッドですが。こちらです」

雨漏りで使いものにならない可能性もあるが。

「よろしいですか?」

一言断ると、ゼンガーはザックを左肩にかついだ。女は少し躊躇(ためら)ったようだったが、異議は唱えなかった。

ゼンガーも部屋に戻るのは何日かぶりである。幸い、大雨にもかかわらず、部屋は無事だった。雨漏りの修理は一応成功したらしい。

「ここはあなたが使っているのね?」

〈ソフィア〉は刀を見つけて少し笑みを浮かべた。

「でも……」

女は訝しげに眉を寄せた。

「……あなたはいつから居るの?」

「……ほぼ最初からです」

ゼンガーは曖昧に答えた。

先程から、〈これ〉はゼンガーを外から来たと見なしているようだ。〈これ〉にしても、〈これ〉の背後にある勢力にしても、メイガスを――アンセスターを知らないのだろうか。だが、ならばなぜこれはソフィアの姿で現れたのだろうか。

アンセスターと成り果てる前のそもそものアースクレイドルの情報だけ知っているということは有り得るか?

有り得るかもしれない。新西暦の頃の記録が何らかの形で残っている可能性は零ではない。己でも分からないほど積み重なった年月が、可能性を低くしているのは確かだったが。

「私は隣を使います」

声をかけられ、ゼンガーは我に返った。

「それとも、その簡易ベッドに二人で寝ますか?」

「……」

認めよう。〈これ〉がソフィアらしく見えるのは認めよう。安西博士のことや自分がその昔少佐であったといったような瑣末な点を知っていることは認めよう。

だが、違和感もあるのだ。

それが、会った時から感じている、微妙な距離の近さだ。

自分とネート博士とは別に険悪だったわけではない。だが、とりたてて親しい口をきく仲でもなかった。自分にとってソフィア・ネートという人物が何者にも代え難い女性だったにせよ、それを自分は口にしたことはない。自分の分を(わきま)えた遣り取りしかしたことはない。ネート博士が自分をどう評価していたかは分かるべくもないが、彼女は上司が部下にするような丁寧な口調を崩したことはない。

だが、このソフィアは、記憶の中のネート博士に比べると気安げな気がする。

女がゼンガーの方へと手を差しだした。

「荷物を」

「お持ちします」

〈ソフィア〉は戸惑ったような顔をしたが、逆らわなかった。

隣の部屋も、幸い無事だった。

「大丈夫そうね。埃っぽいけれど」

ベッドの具合をみながら、

「変ね。少し前まで誰かが使っていたみたい」

「部下が」

アイアン・ギアーの乗組員はゼンガーの部下ではないが、正直に答える義理はない。すでにゼンガーはその愚を犯している。

「ああ、なるほど。そうでしたね……」

ゼンガーは荷物を渡し、彼女のやることを見守った。女は小型の通信機と多少の非常用食料、それと救急セットを出して、並べた。そして、屈んだ姿勢のまま、戸口に立っているゼンガーを見上げた。

「警戒しているのですか?」

自覚はあるのだろうか。

「はい」

「そう……。確かに、何が潜んでいるのか分からないですものね」

〈これ〉自身のことを言ったわけではなかったらしい。

ゼンガーは指を指し、名指しで糾弾したいという衝動にかられた。

尋問すればすべて吐くだろうか?

――まさか。

長丁場になりそうな予感がした。

女は準備を整えると、ゼンガーに近づいた。

「もう、内部は調べてみたのですか?」

「多少」

「私も歩いてみて大丈夫かしら」

「浮上部高層ならば。下層はやめた方がいいでしょう。調査するならばお供します」

「ありがとう」

女は廊下を歩きだした。ゼンガーは黙ってそれに付き従った。

アースクレイドルにおいては一番行きやすい高層こそが軍事施設である。立ち入らせないという選択も考えたのだが、この女がどう出るか見てみたかった。

軍事用の設備はほぼ全機能を停止している。おそらくは、マシンセルによる改変が最も進んでいた部分であり、そのマシンセルがあの最後の戦い以降、機能していないからではないかとゼンガーは推測している。

これが吉と出るか凶と出るか。

吉は、試すことさえできないがために、調査・解析が困難である点。これで、アースクレイドルを転用不能と判断してくれればよし。

だが、どちらかと言えば、ほぼ軍事力が無いと知れ、占領される可能性が高い。すなわち凶だ。AIは稼働せず、兵士はおらず、アースクレイドルの保有する軍事力と言えば、自分と自分の乗る機能不全のスレードゲルミルのみ。

女は、ゆっくりと歩いている。機動兵器の格納庫には興味を示さなかったが、それは追々(おいおい)調べるつもりかもしれない。せめてアウルゲルミルは移動しておくべきだろうが、移動させる場所もなければ手段もない。それでも時間があればどうにかしたのだが、この女を見張るということは、自分の自由も無いということである。

厄介なことになった。

「パワープラントはここね」

長い廊下を歩いた後、女はそう言うと、制御室に入った。

「コンソール操作なの?」

「……」

女は近寄って、パネルをいくつか叩いた。

「メイガスは機能していないのね。統合システムが使えないとなると、難しいわね……」

メイガスの存在を知っているのか。しかもOSとしてのメイガスを。

「機能しているパワープラントは一基だけ。回線のせいかしら」

「……」

「出力も低いし、安定していない。もしかしたら……」

女はゼンガーを振り返った。

「再起動してみるわ。構わないかしら?」

「構いません」

女の意図が破壊にあったとしても、どうにかなるだろう。水ならば、今珍しく降っている大雨が貯水槽に溜まるはずだ。しばらくは()つ。

女の細い指が踊るように滑らかにコンソールを叩いた。画面は一度真っ暗になってから、起動の文字(キャレット)を流し出す。そこで女の指が何かのキーを押した。すると、画面は変わり、パスワードを求める画面になった。

ゼンガーは眉根を寄せた。

「変わっていなければいいけれど」

長い文字列を狂いのない手つきで打ち終わり、女はポンと実行キーを押した。

「どう?」

画面は切り替わり、見たことのないメニューが並んだ。

「やっぱり」

いくつかメニューを確かめながらそう呟くと、女は設定をいくつか変更した。そして、メニューを抜ける。システムが再び起動する。

「やったわ」

パワープラントの出力が一〇〇パーセントになっていると画面は告げている。コトセットがあんなに悪戦苦闘しても一〇パーセント以上にはならなかったのに。

女は立ち上がると、配電盤を開けいくつかスイッチを倒し、それからゼンガーを見た。

「なんて顔してるんです?それは私はパワープラントの専門家ではないけれど、これぐらいはできます。それに、これは別に技術力の問題ではなくて、操作を知っているか知っていないかというだけのことです」

それを、なぜ、知っているのかと問いたいのだ。

恥ずかしいのをごまかすかのようにまだ何事かを言っている〈ソフィア〉の唇をゼンガーは眺めていた。

彼女はソフィアなのではないだろうか。

あり得ないと分かっていながら、ぼんやりとゼンガーは思った。

ソフィアであったなら、どんなにいいだろう。

二人で一階層だけぐるりと回り、階段が二カ所健在なのを発見したところでその日の探索は終わった。

正直、ありがたいわ、と〈ソフィア〉は言った。

「体力がないといわれればそれまでだけれど、ロープの上り下りはきついもの」

保存食と水のみの味気ない食事を終えた後、〈ソフィア〉がぶるっと身震いした。

「雨の夜はやっぱり寒いわね」

「焚き火でもしますか」

〈ソフィア〉は驚いたような顔をした。

「本気?」

「他に手段がありませんので」

「そうね……空調は稼働していないようだし、なんと言っても、あれでは……」

〈ソフィア〉は外壁を走る亀裂を見やって、溜め息をついた。

ゼンガーは黙々と木の準備をした。これらは、ほとんどアイアン・ギアーが持ってきた物だ。アースクレイドルの周りに木と呼べる物がない以上貴重な物であったが、使ってもよいと思ったのだ。

「何か火に掛けられる物があればよかったのに」

「火に掛けられる物?」

「お湯が沸かせたらと思ったの」

そう言って、〈ソフィア〉は寒そうに自分の両腕を(さす)った。

もっともだ。

ゼンガーは自室に戻ってやかんを引っ張り出してきた。〈ソフィア〉は目をぱちくりさせた。

「どうかしましたか」

「いえ……何でもあるのね」

「私はもともと長丁場のつもりですから」

「ひとりで?」

「はい」

〈ソフィア〉はなぜか言葉を失ってゼンガーを見つめた。が、慌てて話し出した。

「無いと分かるとよけいに欲しくなることはない?」

「例えば」

「そうね、今ならコーヒー」

「あります」

「ええ?」

ゼンガーは黙って穴に身を躍らせた。

残った〈ソフィア〉が何をするかは分からない。だが、どうでもいいような気がした。

ゼンガーが食料庫からコーヒーを持って戻ると、〈ソフィア〉は火の具合を見ているところだった。やかんから小さく水の沸騰する音がしている。

ゼンガーは顔を上げた〈ソフィア〉に瓶を渡した。

「本当に何でもあるのね」

言いながら蓋を開け、

「よかった、インスタントで。豆だったらどうしようかと思ったわ」

いたずらっぽく笑うと、〈ソフィア〉はキャンプのセットのようなアルミのカップ二つに粉を入れた。カップは〈ソフィア〉が持ってきたらしい。

お湯を注ぐと、ふわりとコーヒーの匂いが漂った。

ずいぶん久しぶりだ、とゼンガーは思った。何年ぶりだろうと考えてみて、そんな時間間隔では済まないことに気がついた。

一方、〈ソフィア〉は傍らに置いていた小瓶を持ち上げ、自分のカップに入れようとしている。

「それは何ですか?」

詰問に聞こえぬように加減して尋ねると、〈ソフィア〉は困ったような顔をして口籠もった。

「ブランデーなのですけど……その、どうしても寒かったらちょっとだけ飲んでもいいと渡されて……」

小瓶を見せ、躊躇(ためら)いながら、

「飲みます……か?」

ゼンガーは慌てて首を振った。

「いえ」

「ですよね。慣れたら飲めるようになる、というレベルではないですからね、あなたのは」

「……」

ゼンガーは黙り込み、〈ソフィア〉もなぜか申し訳なさそうな顔をして押し黙る。しばらく沈黙が続いた後で、〈ソフィア〉はクスクス笑い出した。

「博士?」

「覚えていますか、プロジェクト・アークの立ち上げの日のパーティ。マスコミがたくさん来て。いろんな組み合わせで各部門の責任者を撮って」

思い出した。ジロンたちが見つけた写真はその折の一枚だった。

「食事の時、あなたが突然――」

そこまで言うと、堪えきれなくなったらしく、〈ソフィア〉は笑いながら顔を(そむ)けた。

そうだった。食事のどれかにワインが入っていたのだが――

「軍事責任者が突然倒れたものだから大騒ぎになって、妨害かとか怨恨かとか随分騒がれて。あの時は大変だったわ。プロジェクト参加者は不安がるし」

「……」

「ほとんど異常体質ね、あれだけ弱いと」

「……」

「でも、私、ちょっと嬉しかったの。あなたには悪いけれど」

訝しげな顔になったゼンガーにまるで秘密を教えるように、〈ソフィア〉は小声で言った。

「腕力だって体力だってあなたの方が上でしょう?あなたは男で私は女、あなたは軍人で私は科学者、しょうがないことなのだし、反対だったら役に立たないけれど。でも、飲み比べなら勝てるなって」

笑いながら〈ソフィア〉は恥ずかしげに言った。

「子供っぽい話ね。ごめんなさい」

「いえ……」

こんな瑣末な出来事は敵にとって価値はないだろう。ならば、こんなことを知り、こんな風に語り出す〈これ〉はやはり幻影だ。

この楽しげに笑う女性が幻影なのか。

ゼンガーはしばしソフィアの形をした物を(かな)しく眺めた。

「ください」

「え?」

ゼンガーはカップを差し出した。

「そのブランデーを」

「でも……」

「大丈夫です」

所詮、幻影なのだから。それに、もしかしたら飲めるかもしれない。まやかしの世界でなら。

〈ソフィア〉は随分ためらってから、ゼンガーの差し出したカップにブランデーの小瓶を傾けた。トクと一回音が鳴ったところで注ぐのをやめる。

ゼンガーはカップを自分の胸元に引き戻し、両手で持って中を覗き込んだ。真剣に液体を見つめる。酒精が鼻をつく。それだけで酩酊を覚える。

しばらくそうやって眺めてから、一気に飲み干した。

何かが背後から寄ってくる。気配を感じると同時に、その何かを掴んだ。

手首だった。華奢な。女の。

手首の持ち主は、驚いて目を見開いている。

――まだ居るのか。

〈それ〉は、どうやら自分に毛布をかけようとしたようだ。危害を加えようとしていた様子はない。

尻尾を出さないものかとじっと凝視する。

残念ながら〈それ〉は尻尾を出すこともなく、ましてや消え去ることもなかった。

代わりに〈それ〉はか細い声で言った。

「あの……」

「……」

「ゼンガー……手を……」

「……」

「……放して……」

ほとんど消え入るように、おねがい、と言った女の手が細かく震えている。

ゼンガーは黙って手を放した。

きつく掴まれていた右手首を左手でそっと包みながら、〈それ〉は後ろを向いてうなだれた。

ゼンガーは仰臥から(わず)かに身を起こした状態で、そのうなじを(じっ)と見つめた。

やがて、うなだれていたその首が後ろを向いたまま上がった。

「ゼンガー、今後、ここの調査が終わるまでアルコールは一切禁止です。いいですね?」

いまだかつてゼンガーにそんなことを言った人間はいない。

「……はい」

消えかかっていた焚き火がパチッと小さく音を立てた。

第三章>>