第八章

"Man muß sterben, weil man sie kennt." Sterben
an der unsäglichen Blüte des Lächelns. Sterben
an ihre leichten Händen. Sterben
an Frauen.

Aus "Man muß sterben, weil man sie kennt" Rainer Maria Rilke

「彼女を見知ったならば死なねばならぬ」死なねばならぬ
名状し難き微笑の華やぎのために。死なねばならぬ
彼女の軽やかな両手(もろて)のために。死なねばならぬ
()(ひと)のために。

ライナー・マリア・リルケ『彼女を見知ったならば死なねばならぬ』より

日は昇ったばかりである。

基地に隣接したグランドにはまだ人の気配がない。

その片隅にもらった場所にゼンガーは居る。

場所をもらったと言っても、単に修練に使う立木(たてぎ)を置かせてもらっただけだ。

十字に組んだ又木とその間に渡した横木の束の具合を見る。頼んだ通りになっている。それはそうだ。請け負ったのはこの世界のゼンガーなのだから。

それからゼンガーは、地面に並べた(ゆす)の枝から一本を選び出した。軽く振ってみて、様子を確かめる。久しぶりの木の感触だった。

退院以来トレーニングはしていたものの、思った位置に振った腕を止められないことにゼンガーは不満を感じている。それでも膝を曲げ、腰を落とし、誰もいない空間に礼をしてから、ゼンガーは立木の前へと進み出た。

静の動きから一転――

「エィィーーーーー」

声を上げ、連続して打ち続ける。

気勢の声が終わるとともに打つのをやめると、ゼンガーは息をついた。

まだ、だめか。

声に気合が乗り切らない。振るう腕が覚束ない。

軽く息を()き、ゼンガーは再び構えようとした。

ジャリ。

足音に振り向くと、そこに自分が立っていた。未だ銀髪の。

自分と同じように枝を手にしているのを見て、ゼンガーは黙って場所を譲った。

礼。そして――

「エィィーーーーー……」

ガガガガガ。

切れ目なく立て続けに左右から振り下ろされた打撃に横木が振動する。

ゼンガーはそれを(じっ)と見つめ、木刀を持った拳に力を込めた。

しばらく二人は交互に打ち込みを続けた。

「今日、一〇〇〇に出立する」

小一時間修練を続け、人影がばらばら散見されるようになった頃に銀髪の男が言った。

「あのアースクレイドルに居住していたお前の方が調査隊を率いるにはいいのかもしれんが――」

「そうも行くまい。俺にはその権限がない」

「指揮権の話ももちろんだが、外にも理由はある」

「何をやれと?」

先回りすると、頷きが返ってきた。

「研究者から依頼だ。超長期間冷凍睡眠が人体に及ぼす影響を調べたいそうだ。身体データをしばらく継続的に取らせてほしいという依頼がきていると聞いた。受けるか?」

言われてみれば、普通ならばありえない貴重なデータではある。

「いいだろう」

「ならば、そのように連絡しておこう」

「……ネート博士は?」

「解析用の大型コンピュータの手配をすると言っていた。俺が率いる先発隊でアースクレイドルの予備調査を行い、その結果を受けて機材の調達に入る。データセクションの解析には、グロリア級のコンピュータを調査隊のベースに構築する必要があるのではないかと言っていた」

「そうか」

「調査にあたって何か注意すべきことはあるか」

「いや。アースクレイドルの現状について俺が知っている情報の量はお前たちとそうは変わらん」

「そうか」

どちらが合図したわけでもなかったが、二人は同時に基地の建物へと歩き出した。それぞれの居室に向かう際、ゼンガーはふと思いついたように、ゼンガーを振り返った。

「イルイを頼む」

「イルイ?あの娘か」

「ああ」

至極当然といった口調だったが、ゼンガーには突拍子なく思われた。しばし言葉を失ってから、

「……俺が、か」

「そうだ。お前は俺だ。これ以上の代役は居るまい」

「……」

相手はあくまで真面目な面持ちだった。

やや長い沈黙の後に彼が諾すと、満足したように銀髪の頭が頷いた。

パリ、と音を立ててマイはセンベイをかじった。

シュッと扉がエア音を立て、

「マイ、行儀が悪いでしょう?」

「ああ、アヤ」

ベッドに寝っ転がったような体勢で映像を見ていたマイは起きあがって座り直した。

「何を観ていたの?」

アヤは近寄ってマイの横に腰掛けた。

「ニュースだ。アースクレイドルのことを何か言っていないかと思ったんだ」

あれだけの巨大構造物が現れたことは隠しきれるものではない。アフリカ方面を預かるナラカイ長官は早めに情報をオープンにすることを選択した。と言って、現状では何も分かっていないに等しく、流せる情報も少ない。

「何か言っていた?」

「いや。何か、さっきからコネクションとクシュとの関係がどうこうという報道ばかりで」

「クシュ?」

「NPO法人だそうだ」

「ああ、そういえば騒ぎになっていたわね。ヌビア・コネクションだったかしら、関係を噂されていたのは」

マイもアヤも軍人であって、警察ではない。犯罪組織であるコネクションとは直接対峙する関係にはない。従って、詳しいことは知らない。

「あ、始まった」

突然出現した巨大構造物――アースクレイドルである――に関する報道は、ナラカイ長官の記者会見から始まった。ナラカイは周辺の時空が不安定であることや、調査班員が襲撃されたことを説明し、付近に近づかないよう勧告していた。

「ゼンガー少佐のことは言わないんだな」

「言えないのよ。ほら、周辺地域の自治体から出ているのは懸念の声ばかり」

マイはモニターに映る街頭インタビューを眺めた。軍はもっと情報を公開するべきだとか、不安だとか、そんなコメントが流される。

「これはナイロビか」

「ええ。近いからよけい不安なんだと思うわ」

「大きな都市なのか?」

「そうよ。こんな状態で、アースクレイドルに人がいました、それは先の大戦の英雄ゼンガー・ゾンボルト少佐でした、じゃ誤解されかねない」

マイは幼さの残る顔に難しい表情を浮かべた。

「ゼンガー少佐、いい人なのにな」

聞いていたアヤは吹き出した。

「何かおかしな事を言ったか?」

「あ、えーと……ううん。ごめんなさい」

悪い人でないのは分かっているのだが、あの、硬い表情を滅多に崩さない武人を、「いい人」と形容することが、アヤにはおかしかったのだ。

「さ、そろそろミーティングよ」

「わかった」

ミーティングルームにはSRXチームの面々が既に来ていた。

リュウセイがライに何やら話しかけていたのをやめて、入って来たアヤやマイに笑顔を向けた。その横にいるのはゼンガー少佐で、あまり表情を出していないのはいつもの通りだ。どっちだろう、とマイが思ったのは一瞬だけで、その紫がかった髪から、すぐに未来から来た方だと分かった。

「もう一人のゼンガー少佐は?」

「親分の方?もうアースクレイドルに向かったよ」

「遅れているのは私達のミーティングだけよ」

「隊長、遅れるなんて珍しいですね」

「ええ。ブライト大佐の指示を待っていたの」

「何かあったのですか?」

「少しね」

大佐も大変だわ、と呟くと、ヴィレッタは少し微妙な顔をしてゼンガーを見、それから皆を見回した。

「では始めるわね。調査は知っての通り三班構成になっているわ。アースクレイドルにはゼンガー少佐――この世界の方のね――が責任者となって入る。ここには予備調査のために調査班の先発隊、その護衛に兵士が一五名、それと剣鉄也と炎ジュンが同行している。それから調査班ベース。ここには調査班のほとんどが常駐していて、護衛に機動兵器隊、それとゲッターチームと早乙女ミチル、兜甲児と弓さやかが就いた」

「アースクレイドルよりも調査班が襲われるとでも?」

「いいえ。一番危険なのはアースクレイドルであることに間違いはない。だから、調査班ベースに駐留する部隊は、同時にアースクレイドル外部一帯の哨戒も任務にしているの。いずれアースクレイドル側の受け入れ態勢が整ったら部隊を移すわ」

「まだどこから敵が現れたのか分からないんですね」

「そう。部隊を送るためにラー・カイラムは出たけれども、すぐに異変がないのなら基地に戻ってくるわ」

「調査班ベースにいた方がいいのではないですか?」

「難しい所ね。何かあった場合、都市の防衛を優先するのが大方針だから」

「ネート博士もまだ基地におられるようですね。さきほどお見かけしました」

「そそ。レーツェルさんと一緒にいんのさっき見たんだ」

「ネート博士はとりあえず待機して、先発隊からのデータ待ち。それによって必要な機材を決定・手配したら、ベースに移動する予定よ」

「兄の役割は?」

兄、という単語が渋々だったような気がして、ヴィレッタは小さく口元に笑みを浮かべた。

「アースクレイドルに行ったゼンガー少佐がネート博士の護衛を頼んでいたわ」

マイがチラッとこの場のゼンガーに視線を流した。

「頼んだ?頼むなら――」

分かっている、とでも言いたげにヴィレッタが頷いた。

「どちらのゼンガー少佐も今回の件については自由に動ける立場にないからだと思うわ」

「それで隊長、私たちの役割は?」

「二つあるわ。一つは、今までどおり。XNディメンジョンの完成に尽力すること。これについてはアースクレイドル調査班に協力して、この付近の時空変動に関するデータ解析と平行して行うことになる」

「それはゼンガー少佐を未来に返す方法の模索、と考えてよろしいですね」

「ええ」

「もう一つは?」

「そちらにいるゼンガー少佐の護衛」

「……は?」

「スレードゲルミルは不可解な攻撃を受けている。今のところ理由は不明だけれど、警戒に越したことはないわ」

リュウセイは曖昧な表情になってポリポリと頬をかいた。

「いや、隊長、それは分かるんだ。ただ――」

「目は多い方がいい」

それまで黙っていたゼンガー本人が言ったので、リュウセイも何度か口を開け閉めした後で結局もごもごと了解、と言った。遣り取りを確認すると、ヴィレッタはチームリーダーであるアヤの方を向いた。

「いいわね。アヤ、ローテーションはあなたに任せるわ」

「了解」

「では、解散」

冴えた声で号令を掛けた後で、ヴィレッタがゼンガーに話しかけた。

「ゼンガー少佐、少しお話があります。残っていただけますか?」

ゼンガーが頷き、他の者は部屋を出た。後ろ姿を見送ったゼンガーはヴィレッタに視線を戻すなり言った。

「監視なのだな」

「……やはり、お気づきでしたか」

「部下には言わないのか」

ヴィレッタは視線を外した。

「私が命じたかったのは護衛です。それに間違いはありません。上からの命令がどうあろうと。ブライト艦長も同じご意見でした。それは分かっていただきたかったのです」

「……いいのか」

「何が?」

「それを俺に明かして」

淡い微笑がヴィレッタの口元に浮かんだ。

「分かっている人に隠すことに意味はない。それに、何も単に嘘をつきたくないからとか隠し事をしたくないからと言う理由で明かすのではありません」

私も軍人ですから、とヴィレッタはゼンガーを見た。

「どういうことだ」

「あなたがゼンガー・ゾンボルトだからです、少佐。あなたには率直に接した方がいい、そう判断したのです」

「……」

いい判断だ、とゼンガーは心の中で呟いた。

基地の生活はかなり便宜を図ってもらっているとはいえ、完全に自由とは言い難い。それはゼンガーだけではなく、客分のような状態のネート博士やSRXチームも同じである。演習用のグランド、機体を搬入した格納庫の一区画、貸与された宿舎、通信機、大型計算機、それらは自由に使える。だが、他の区画に立ち入ることは厳格に禁じられている。もっとも、軍人ならばそれぐらいの不自由さはむしろ当たり前で、ゼンガーに取り立てた不満はない。

ゼンガーの一日は修練で始まる。朝食の後は医学者たちの要望に応えて各種の生理・心理検査につきあう。昼食の後は検査が続くときもあるが、たいていは空き時間で、ゼンガーはその時間をトレーニングと端末での情報収集に費やしている。

置かれた状況は特殊なのだが、突然、日常が戻ってきたかのようだった。遙か昔に決別したはずの日常に。

夕食はもう一人のゼンガーに与えられた居所に行くことが多かった。SRXチームも顔を出すことが多く、家族用の宿舎とはいえ居間は少々手狭なぐらいだ。

賑やかなパイロットたち、軟らかい表情をしたソフィア、嬉しそうなイルイ。

ゼンガーにはこの「団欒」の一時がしばしば現実味乏しく感じられた。

――俺は平穏をくすねている。

ふと胸に浮かんだ想いこそが違和感の温床であろう。

「今日、先発隊がアースクレイドルに着いたと連絡があったわ」

食後のコーヒーで少し唇を湿らせて、ソフィアが言った。

「え?とっくに着いてるんだと思ってた」

「準備と編成があったからすぐには行っていないのよ」

そうですよね、とアヤが言うとソフィアは頷いた。

「疑問があるんだ」

「何が疑問なんだ、マイ?」

「アースクレイドルは誰のものなんだ?〈あの〉アースクレイドルは」

自分のコーヒーに手をつけながらレーツェルが言った。

「そうだな。ただ出現したのなら、連邦が接収ということだったのだろうが」

「だけど、ありゃもともとDCのものなんだろ?なら、DCの――」

「いや、それは違うな、リュウセイ。DCはアースクレイドルを計画の途中で放棄した」

「組織を離れてネート博士が資金を集めたのでしたよね?」

「ええ」

「なら、ネート博士の物なのか?」

「違います。所有権は非営利法人クシュの物になっています」

「クシュ……最近どっかで聞いたような……」

アヤとマイは目配せを交わしあった。

「ソフィアさん、クシュというのは今ニュースで報道されている、あの?」

「ニュース?」

「ニュースも見ないのか、お前は。確かヌビア・コネクションとの関連が指摘されて騒ぎになっていた」

「そうです。そのクシュです」

「アースクレイドルはヌビアに乗っ取られていたのか?」

「待ちなさい、マイ。アースクレイドルを準備していた頃からクシュとヌビアに関係があったとは限らない」

「ありがとう、アヤ。でも、マイが正しい――いえ、違うわね……。乗っ取られたのではありません。クシュには最初からヌビアの息がかかっていたのです」

「ネート博士、それをご存じだったのですか?」

ライが訊くと、

「知っていました」

頷くソフィアを見て、ふとリュウセイはメイガスを思い出した。マシンナリーチルドレンを率い、ゼンガー・ゾンボルトを自らの剣としたメイガスを。

「指摘してくれたのはゼンガーでしたが」

「ゼンガー……」

友人の呼びかけにゼンガーは単に頷き、皆の視線を落ち着いた様子で受けているソフィアを見た。

ネート博士は、あの時の会話を覚えているだろうか。

DCがアーク計画を放棄してからすぐに表面に出た問題は二つある。資金と人材である。

人はパンのみにて生きるにあらず。だが、パンがなければ生きられないのも事実だ。そこで、ソフィアは出資者を募るため、一般向けでないプレス発表を何度か行っている。

その何回目かの発表の後で、ゼンガーは訊いたのだった。

「あの発表の仕方ではまるでこの計画がエアロゲイターの襲撃から逃げ延びるための物のように聞こえますね」

「……」

「しかも、それをあの者たちに提供すると暗に示唆していた」

「ええ」

「……わざとですね?」

「率直言えばそうです。私には資金が必要です。この計画がお金の蕩尽であるという意見はある意味間違っていません。莫大なお金が必要なのは確かなのですから」

「ゆえの富裕層向けプレスでしたか」

「……名誉を捨てる覚悟はおあり?ゼンガー・ゾンボルト」

ソフィアはほとんど睨むようにゼンガーを見上げた。

「私はこの計画を成功させるためならば泥をすすり、汚名を被る覚悟です。あなたが戦場において命を捨てる覚悟を持っていることは知っています。でも、名誉を捨てる覚悟はありますか?」

真っ直ぐに見つめる彼女を気高いとゼンガーは思った。故に、できうる限りの真摯さを込めて返答した。

「もとより」

堅かったソフィアの表情が安心したように和らぎ、その瞳の端に涙が滲んだ。ソフィアはそれを急いで拭き取った。

「私は……本当は、こんな備えが必要ないに越したことはないと思っています。私たちが眠りから覚めることなく、人類はエアロゲイターを退け、地球環境も破壊されることなく……」

自嘲気味にソフィアは笑った。

「総責任者が起きない方がいいと思っているなんて。詐欺師のようなものですね。ここに集った志同じくする者たち皆を騙している」

ソフィアは俯いた。

「ゼンガー、私は……あなたを呼んだのを後悔しています。あなたのその力をアースクレイドルに費やすことが果たして正しいことなのかどうか……。あなたの力はまさに今起こる戦闘にこそ使うべきではないのかと」

「ソフィア」

ハッとなってソフィアは顔を上げた。ゼンガーが彼女のファースト・ネームを呼ぶことは滅多になかった。

「俺がここにいるのは俺の選択だ。あなたの選択ではない。この先、何があるかなど誰にも分からない。眠りが果たして我々を守るかさえも分からない。眠り覚めぬままに朽ち果てる可能性も理解している。その覚悟無くこの場にいるわけではない」

「私たちに朽ちるという結果は許されません」

再び、ゼンガーはソフィアを気高いと思った。

「ならば、守ります。あなたがこの計画を遂行することに命を懸けるならば、私はあなたとこのアースクレイドルを守ることに命を懸けましょう」

――そして、俺はその誓いを(たが)えた。

ゼンガーはコーヒーを一口飲んだ。苦みはやわらかかった。

「ゼンガー少佐、ヌビアの関与を知っていながら――」

「人と資金、それが必要だったのは確かだ。だが、選別はした。選別せざるを得なかった。お前たちも知っての通り、アースクレイドルは単なる逃避のための箱船ではない。現在以上の危険が待つかも知れぬ未来への意志がない者は耐えられん。戦える者でなければあそこには入れない。安息を求めてきた者を騙すことは俺にはできなかった。それはネート博士も同じだ」

「カーメン=カーメンがアースクレイドルをヌビアの民のための人口冬眠施設にしようとしていたのは間違いないと思います。ただ、それは人を選ぶ物だったのです」

「にもかかわらず、カーメン=カーメンは出資したのですか?」

「ええ。真意は本人でなければ分かりませんが、私がそうしたように、彼は人が生き延びるためのいくつもの可能性のうちの一つにアースクレイドルを選んだのでしょう」

「ヌビアの民という狭い範囲内ではあったが、カーメンはカーメンで人の生き延びる道を模索していたわけだな」

「おそらく」

難しい顔をしていたマイが口を開いた。

「では、この世界ではそのクシュというのが残っているから、アースクレイドルはクシュの、ヌビアの物なのか?」

レーツェルがいや、と首を振った。

「〈あの〉アースクレイドルについて言えば、問題はもっと複雑だ。この時空のアースクレイドルが崩壊したのは間違いのない事実、誰もが知っている事実だ。すなわち、あれがこの時空のクシュが所有していたアースクレイドルではないことは誰の目にも明らかだ」

「まあ、そりゃあ……。でも、そんなこと言ったら、〈あの〉アースクレイドルを作り上げた人々はみんな……」

言いにくそうに口籠もったリュウセイの言葉をレーツェルは冷静に続けた。

「そうだ、我が友を残して皆いなくなった。それゆえ、この時空で論議するならば、事実上、あのアースクレイドルの継承者はお前だ、ゼンガー」

「……」

「私もそうあるべきだと思います。ですので、連邦の上層部にも働きかけています。おそらく名実共にあなたの物と判断される事になると思います」

「調査隊を入れるにあたって私に許可を求められたのはそのせいでしたか」

「ええ」

「しかし、あんなものを個人の所有物にするなど、よく――」

そこで言葉を切ったライは、自分で答えを呟いた。

「――そうしておいた方が都合がいいこともある、ということか」

「その通りだライディース。……それが良からぬ方向に行かないといいのだがな」

――構わない。アースクレイドルを失うのでなければ。

ゼンガーにはアースクレイドルを手放す気は一片たりともなかった。

始めにたどり着いたのは特機を載せた輸送車輌である。

空路を選ばなかったのは、アースクレイドル出現初期段階であった機体トラブルを警戒したためである。今のところ、あの機体トラブル及び通信トラブルはアースクレイドル出現の際の時空歪の影響だとみられている。大事は取ったものの今は収まっているようだ。しばらく様子を見て異常がないようならば通常の運用にしようと思っている。

ゼンガー自身が陣頭に立った特機による周辺の査察が終わると、兵員輸送装甲車、PT隊と戦車隊、調査団の車輌が続く。

ゼンガーはダイゼンガーから降り、入り口であるはずの部分の前で立ち止まった。手動操作のパネルは、以前記憶していた位置と変わりがなかった。

そのゼンガーの後ろからジャリジャリと土を踏む足音が近づいてくる。チラッと後ろを確かめると、グレートマジンガーを降りた鉄也だった。

ゼンガーはパネルを操作した。認証を求められ、手を押し当てる。虹彩スキャンも入っていたはずである。

認証されるのか疑念を持ったのは、つかの間だった。アースクレイドルはその口を大きく広げ始めた。

「開けゴマ、だな」

「……」

「どうする、少佐。機体は中に入れるか」

「いや。車輌だけにする。特機は外だ」

「分かった」

あらかじめ指示していたとおり、兵士が先に入りこみ、三人組になって散らばっていく。

長い間、ガランとした空間だったアースクレイドルに今人が入り込んでいる。システムは中途半端にしか稼働しておらず、非常灯は点いているが、他に動いていると思しきものは無かった。

「ゼンガー少佐、一階の確認終わりました。敵らしきものは見当たりません」

「地下一階、OKです」

「少佐、調査隊が入っていいかと訊いていますが」

「内部図はできあがったか」

「はい。準備できてます」

「サイデンステッカー博士をお呼びしろ」

とりあえずは格納庫にテーブルを置いて作業に使っている。

今回の調査は連邦軍との協同作業で、ゼンガーはその責任者ということになっている。

ゼンガーは辺りを見回した。

薄暗い格納庫。

崩落した床。

朽ちた手すり。

暗い廊下。

ふいにゼンガーは視線を上に上げた。

「どうかしたのか、ゼンガー少佐?」

急な動きを不審に思ったのか、同道していた鉄也が話しかけてきた。

ゼンガーは鉄也を見て考え込んだ。

鉄也は幼い頃から戦うために育てられてきたという。この男をして何も感じないのなら……

――気のせいか……?

その一方で、違和感は拭えない。

この纏わり付くような視線。そう、視線だ。これはなんなのか。

その感覚はアースクレイドルに入った時から続いている。気配はひどく薄くぼんやりと曖昧な物でしかない時もあれば、ひどく鋭角的に感ずることもある。あまり好意的とは思えなかった。

「……」

あるいは、その感覚の源泉は己の中にあるのかも知れない。任を果たさず、守るべき者を失って己は生き残ったという罪悪感。アースクレイドルという場がそんな想念を呼び起こすのか。

――それはない。

そこまで自分が心弱いとは思えない。それ以前にそんな妄想癖はない。己のこととはいえ、これについては適正な判断だろう。

「ゼンガー少佐」

声を掛けられて、ゼンガーは振り返った。

「もう入ってもいいのかな?」

「サイデンステッカー博士。この付近に何者もいないことは確認しました」

「イージーでけっこう。ネート博士にもそう呼ばれています」

「了解しました。イージー博士、これを」

「あー……」

イージーは心ひそかに後悔した。そこに「博士」はつけてほしくなかった。これからずっと「安易な(イージー)博士」と呼ばれ続けるのだろうか。

こっそり一つ溜め息をついて、イージーは示された大判の紙を見た。機材がない場所ではいまだに紙が記録媒体の主役だ。持ち込まれた急ごしらえの図には手でいろいろと書き込まれている。

「これはここの内部図か。色の意味は?」

「赤は構造強度に問題がある部分です。測定したわけではなく、兵士が歩いていて明らかな軋みを感じた部分です」

「要するに、あからさまに修復が必要なところか。私の専門だな」

「博士の専門は?」

「大まかに言えば大型構造物の強度。耐震強度とかね。最近は材料からのアプローチばかりやってる。今回呼ばれたのもそのせいかな。例のネート博士発明のマシンセル、あれが使われているときいて、そっちの興味もあってね。ゲッターチームに先にここの天蓋を削ってもらって、それの分析はベースの方でやってたんだが――」

イージーはここでいにも嬉しそうに笑みをこぼした。

「やっぱり現地に入るのは心躍るよ」

なるほど、この人も「学者」というわけだ。対象に目を輝かせる様をゼンガーは好もしく思った。

イージーはぐるりを見回した。

「もっとも、先に主要な部分に業者を入れて、調査に必要な辺りは修復しないとだめなようだが。業者入れる前の調査の前段階だな、今はまだ。〈主要な部分〉の決定の折りには少佐の意見も訊きたいんだが」

「了解しました」

「そうだ。データセクションの断片を取ってくるよう言われてたな」

「データセクション?」

「ライブラリだよ」

「ネート博士もここに住まっていた男からもライブラリには接続できなかったと聞いていましたが」

「だからライブラリのセクションまで行って物自体を採取したいんだ。これは情報処理屋(専門家)の意見だが、数千年も経っていたら、現在とは全く違ったシステムが構築されている可能性もあるのではないかと。ネート博士はそれを解析しようとしているわけだ」

「では、とりあえずはどのデータでもいいということですね」

「そう。一番近いところでいいんだ。私は怠け者だし臆病だから」

笑ってみせたイージーを見ながら、ゼンガーは考え込んだ。

「それにしても奥になります。いわばアースクレイドルの頭脳の部分だからと内側に場所を取っていたのです。現状では安全が確保されているとは言い難い」

「俺が行こう、少佐」

運び込まれたコンテナに寄りかかっていた鉄也が言った。

「これでも大型計算機の基礎的な知識はある。記憶基板を持ってくるぐらいならできるだろう」

「えっと、君は……」

「剣鉄也」

「おお、じゃあ、グレートマジンガーのパイロットなのか!」

少々興奮気味にイージーが言った。

そういえば、サイデンステッカー博士は有名人というものが好きらしく、ソフィアも初対面の時にはずいぶんと熱を入れて話し込まれたらしい。ソフィアは面白がってそのことをゼンガーに伝えたものだが。

大計(だいけい)の知識もあるとは素晴らしい、そういえば科学要塞研究所は――」

「少佐、場所を教えてくれ」

鉄也はあっさり話を遮った。

「浮上していない部分だ。かなり遠い。一人で行くな。誰かつける」

「なら、ジュンを連れて行く。ジュン、いいな?どうせここに居てもさしてやることはないだろう」

「もう。ひと言多いのよ、鉄也は」

「行かないのか」

「行くわよ」

「通信機を用意する。外では通信は回復していたが中はどうか分からん。役に立つかは分からんが」

「無いよりはマシだ」

ゼンガーが近くにいた兵士に合図すると、話が聞こえていたのだろう、すぐに通信機が鉄也に渡された。

内部通信(インターコム)も起動はしておく。一部分しか稼働していないようだが、無いよりはいいだろう」

「分かった」

廊下を歩み去っていく二人をゼンガーは見送った。

鉄也はデータだけではなく、敵を探しに行ったのだろう。元々、彼らが来たのは地底勢力の絡みなのだ。

今は〈視線〉の感覚は淡い。

敵が、見えない。

リュウセイは緊張した面持ちで座っていた。その向かいには端然と座る男。

男はしばらく前からそうやって座っているだけだ。リュウセイは一応目の前のゼンガーの護衛をしているつもりなのだが、何かの修行に付き合っているような錯覚を起こしかけている。右の椅子に腰掛けているアヤをチラッと見ると、アヤも困ったような視線を返してきた。

ピ、と通信を求める信号音が鳴った。リュウセイは内部通信機(インターコム)に近寄った。

「はい。……替わりますか?……え?――了解。伝えます」

リュウセイは振り向いた。

「ゼンガーさん」

敬称に迷いながら、呼びかける。

もういっそのこと甲児みたいに「大将」で通しちまった方がいいかな。

「解析室の方からで、ネート博士が今日は遅くなりそうだからイルイを見てもらえないかって」

「……」

ゼンガーが眉根を寄せたので、リュウセイも困ってしまった。何となく、予想された反応ではある。

「えっと……」

「何でしたら私が行きましょうか?」

アヤが申し出ると、

「いや、行こう」

ゼンガーが立ち上がったタイミングでライが入ってきた。後ろにはマイもいる。

「交替だ、リュウセイ」

「ああ、頼むぜ、ライ」

「御苦労だった」

ゼンガーに声をかけられ、リュウセイは慌てて敬礼した。が、男の姿が扉の向こうに消えるなり、我知らずフウっと息をついた。

「疲れたの、リュウ?」

「そういうわけじゃないんだけど……。俺たち護衛として役に立ってんのかな」

ポリポリとリュウセイは頬をかいた。

「ああいうの、隙がないって言うんだろうな。ピンと張ってるっていうか」

曖昧な口調だったが、アヤにもリュウセイが言いたいことは分かった。

「そうね。何か、鋭い感じがするわ。嫌な感じではなくて。何か、(すが)しい感じ」

「竹、なんだよな、イメージ」

アヤは腕を組んで、軽く握った右手の上にちょっとあごを載せた。

「どうしたんだ、アヤ?」

「近くにいても意味無いかもしれないと思って」

「でも、目は多い方がいいって、ゼンガーさんも言ってたじゃないか」

「それよ。同じ場所にいて視線を同じにしていては意味がないと思うの。少し離れたところから周囲を見回さなくちゃいけないんじゃないかしら」

「そうかなあ。ボディガードってのはさ、とっさの時に盾にならなくちゃいけないんもんなんじゃないのか?アニメとか映画とかたいていそうだけど」

「それをやらせてもらえるかしら。わたしたちが気づいたときにはもう打ち込んでいそうなんだもの」

「うーん……」

アヤは軽くため息をついた。

「私たちパイロットだものね。警護のプロじゃないからセオリーが分からないわ」

「何で隊長は俺たちにやらせたんだろうな」

「あら、音を上げたの?」

「違うよ。けど……」

リュウセイは声を潜めた。

「この基地の奴ら、協力的でないような気がするんだ。なんとなくだけど」

「……気のせいでしょ」

そうは言ったが、アヤも心の中ではそう思っている。警戒されているような気がするのだ。

――ゼンガー少佐、いい人なのにな。

マイの言葉が思い出された。

――本当にね。本当にそうなのにね、マイ……

夕食はゼンガーとイルイの二人きりになってしまった。てっきりライディースとマイが一緒だと思っていたのだが、アヤからの連絡を受けるなり、二人は護衛場所を変えたのである。今は、ライディースは窓の外に、マイは玄関の外に立っている。

ネート博士はといえばシステム系の解析チームと共に解析室に籠もっている。アースクレイドルから基板が送られてきたためだ。おそらく、直ぐには帰ってこないだろう。

博士は自分にイルイを頼むと言った。アースクレイドルに行った『自分』も、イルイを頼むと言った。戸惑っていないと言えば嘘になる。だが、出来る限りの努力はするつもりだった。

ゼンガーは食卓を挟んだ向かいの席を見た。少女は大人しく食事のためにもくもくと口を動かしている。

この金髪の少女は、ゼンガーが手隙になるとどこからかやってきて、トコトコとついてくることがある。どうやら懐かれてはいるらしい。

夕食が終わり居間に場所を移すと、少女はソファに座ったゼンガーの横にちょこんと座り、嬉しげに話かけてきた。

そうなのだ。ベンチにしても、ソファにしても、この少女はゼンガーの横を自分の特等席だと思っている節がある。

そして、少女の話は他愛なく、(つたな)い。

対してゼンガーの受け答えというのは「そうか」と「ああ」にほぼ限られる。そもそも、子供相手でなくても当意即妙な受け答えを思いつく方ではない。受け答えが出来ない代わりに、言葉足らずな文章を類推で補いながら、何を伝えようとしているのか理解しようと真面目に聞いた。

少女は短い相槌をうたれるだけだというのに、ふんわりと笑みを浮かべて話を続けている。

自分の何を気に入ったのかが分からない。

話が切れたところで、ゼンガーは前から尋ねたかったことを口にした。

「俺が怖くないのか?」

すると少女は、パチパチと目を(しばた)いてから、にっこり笑い、

「ううん」

と首を振った。ゼンガーが困惑したのが分かったらしい。少女は更に付け足した。

「だって、ゼンガー、優しいから」

ゼンガーはますます困惑した。いまだかつて「優しい」などという形容をされたことは無かった。

すると、ふふ、と少女は小さく声を立てて笑った。

「?」

「あのね、ゼンガーも同じこと訊いたの」

「……そうか」

時計が九時を打った。この古風な音色は誰の趣味だろう。

しばし注視していた時計から目を外し、ゼンガーは少女を見下ろした。

「?」

「寝る時刻ではないのか」

「うん……」

みるみる残念そうな顔になったが、少女は駄々はこねなかった。

「博士は遅いな」

「うん……」

そろそろ自室に引き取るべきだと思う一方で、こんな幼子を一人にしていいのだろうかとも思う。思案顔のゼンガーの心を読んだかのように、下からの声が言った。

「大丈夫。みんな近くにいるから……」

確かに、隣の部屋はコバヤシ姉妹の部屋であり、反対隣はヴィレッタがいる。何もゼンガーが心配することはないのかもしれない。

「ゼンガー、ソフィアさんの所に行く?」

少女に訊かれて、ゼンガーは考え込んだ。

「無理しないで、って言ってほしいんだけど……」

ゼンガーが頷いてやると、ありがとう、と子どもは小さく笑った。

コン、コンとノックの音がした。

「どうぞ」

ほとんど反射的に答えると、失礼しますという声とともに足音が入ってきた。

ソフィアは声に安心して、振り返らずに作業を続けた。

カタカタカタ。

夜更けの基地の解析室はシンと静まりかえっていたが、不思議と心地よかった。

「何をしておいでなのですか?」

このゼンガーはいつまで経ってもソフィアに対する堅い調子が抜けない。と言って、もう一人の方もあたりが柔らかいわけではないのだが。

「記録の解析です。メイガスが連綿と記録し続けたデータを解析できれば、この時空でも役立つはずです。とりわけ、地球環境変化のデータが欲しいのです。気候や地形などの――」

「データ基板を採取したと聞きましたが」

「ええ、いくつか。材質が変質している物もあって、それにはまだ手をつけていません。そちらはそもそも、本当にデータ基板か分かりませんから」

「材質が変化していない物もあったのですか?」

「ええ、一枚。やっと選り分けたので、それを弄っているところです」

「おひとりで?」

「ええ。さっきまでチーム皆で作業をしていたのですけど、もう夜も遅いから、今日は打ち切って」

「……」

ソフィアは何か言いたげなゼンガーを振り返って、クスリと笑った。

「何故私だけ残っているのか訊きたいんでしょう?」

「はい」

「あと少しでデータの中身が分かるんじゃないかっていう予感があって。いえ、予感と言うより興奮してるんだわ」

ソフィアの瞳が好奇に輝いている。ゼンガーはそれを見留めてわずかに目を細めた。

「どうしても続けたくて。ふふ、抜け駆けだったわね。チームの皆には明日謝らないと」

「手応えがあるようですね」

「そう。保存形式が昔の――というよりもアースクレイドル創設時と同じ物をみつけたのです」

「それは、昔の、つまり今現在の記録なのではないのですか?」

ソフィアは手を止めて、やおらゼンガーを振り返った。

「……気がつかなかった。考えてみればおかしいわ」

「……」

ソフィアはコンソールに向き直り、前以上の速度でキーを打った。

「でも、データの作成日時は今ではないのです。途中で暦年のカウントを改めてあるのか、正確なところは分かりませんが、おそらく一万年以上の未来。あなたの時代だと思いませんか?」

キーを打ち続けていた指を止めて、ソフィアは実行キーをポンと押した。

「これでどう?」

機械に向かって話しかけるように言うと、モニターが実行中の表示を出した。大画面を見上げて、ソフィアは呟いた。

「うまくいきそう……」

突如、画面が切り替わった。

〈……ゼンガーよ。何故、私の命令を拒否したのだ?〉

冷えた調子の声が流れ出た。ソフィアは息をのんだ。モニターに映っているこの女性は――

〈何故、スレードゲルミルもろとも自爆してイレギュラーを消去しなかった?〉

毎日見ている顔だった。生まれてこの方ずっと知っている顔だった。

「ネート博士」

背後から咳き込むように掛けられた声にも答えず、ソフィアはモニターを見つめ続けた。

女は、ソフィアだった。ソフィアの顔をしていた。

その〈ソフィア〉の前で、紫がかった髪をした男が表情乏しく女の言葉を聞いている。

そして、見たことのない少年。

伸びてきた手が中止のキーを押そうとするのをソフィアは両手で止めた。そのまま、その大きな手を両手で包み込んだ。

〈私は……メイガスの守護者です。あそこで自爆していれば……あなたを守ることが出来ない……〉

モニターの男は真摯に答えている。だが、女の答えは冷徹だった。

〈私の守護者はお前だけではない〉

〈そう。メイガスの傍には僕達がいる〉

〈いいか、ゼンガー。お前は私の剣だ。剣は敵を討たねばならぬ。だからこそ、お前にはスレードゲルミルを与えている。それを忘れたのか?〉

次々と冷厳な言葉を吐き続ける女の前で、沈黙を保っていた男の顔が何かに抗うように歪んだ。

〈……く……う……。……私は……ソ……フィア……を……〉

瞬間、ソフィアは自分の手に力をいれていた。男の手を包んでいる手に。男の手が引かれかけ、ソフィアははっとなって手を離そうとした。だが、今度は男の手がソフィアの手を捕まえた。

〈……ゼンガーよ、お前の使命は私の剣となり、盾となって死ぬことだ。それを忘れるな〉

女は命じた。

〈わ……かりまし……た……〉

男は諾した。

そこで映像が途切れた。

ソフィアは男の手を懸命に握り締めていたことに気づき、そろそろと手の力を抜いた。

「ネート博士」

声が上から降ってきた。ソフィアは文字(キャレット)だけ映しているモニタを見上げ、その姿勢を自分に強いた。

「ネート博士、あれはあなたではない」

「……ええ、あれは私ではない」

答える声がひどく単調で、自分の物ではないかのようだった。

「あれが、〈メイガス〉」

「そうです。あれはメイガスです」

「でも、ゼンガー……。メイガスに元々〈人格〉に相当する物は無い。なら、あれは――」

「違います」

「マシンセルが注入されたからといって、あんな人格が生まれるものかしら?」

「違います、博士。違います」

男が懸命に言い募る言葉が、引っ掛かりもせずに胸の外を落ちていく。

「――それに、もし、私がプロジェクトアークに固執しなければ――」

「ネート博士」

「――あなたはこんな運命には――」

「ソフィア」

名を呼ばれてソフィアは言葉を止めた。ゼンガーが手に力を込めた。ソフィアはとうとうゼンガーを振り返った。()が遭った。その真摯な眸を、ソフィアは畏れた。

「一挙手一投足の及ぼす影響がすべて分かるなら、それは人間ではない。それは神だ。あなたは神ならぬ身だからこそプロジェクトアークを推し進めたのではないのですか。先を見通せぬ人の身だからこそ可能性を一つでも増やしたかったのではないのですか」

「……」

「そういう戦いがあってもいいと俺は思った。それに必要とされるならいくらでもこの力差し出そうと思った」

「……でも」

「結果だけを見て良い悪いを論ずるのは容易(たやす)い。だが、我々は良くも悪くも未来を窺い知ることができない。今持てる情報で進むべき道を決断するしかない。そうしなければ先に進めない」

「……私は、この計画の総責任者です。私の責任の下に参加者が命を落としたことに変わりはない」

「ええ、変わりはありません。ですが、それを言うのなら、私の時空ではアースクレイドルが無ければ、地上は地底勢力の物だった」

「でも、その戦いで……」

「地球は壊滅しました。それは否定しません。――私が言いたいのは、自分の責めによらない責任まで負う必要は無いということです。確かに、あなたはアースクレイドルの総責任者です。死んでいった者に対する責任はあるでしょう。そこに責任を感じる権利と義務とを私は取り上げるつもりはありません。ですが、少なくとも、私に関しては……」

そこでゼンガーは言葉を切った。

「俺に責任を感じる必要はない、ソフィア。いや、感じないでください、ネート博士」

――何故。あなたは何故。こんなことをこんなにも真剣に懇願するのですか。

口にしそうになった質問を飲み込み、ソフィアは俯いた。やがて、鈍々(のろのろ)と言葉を繋いだ。

「メイガスの名前は三賢者からとったの。救世主が誕生した時に東方からやってくる三賢者」

賢者たち(マギ)――賢者(メイガス)

「そう。福音もたらす者。福音を()る者」

「……」

「このシステムが完成して納入された時、私はそう名付けた。幸いの知らせを携えて旅した賢者に(あやか)って。でも――」

なるべく冷静に聞こえるように、ソフィアは注意深く発音した。

「メイガスはあなたに苦痛しかもたらさなかったのですね」

「……この基地で生活するようになって、私は考えました」

「……?」

どう飛んだのか分からなかった。ソフィアは続きを待った。

「考えたのです。メイガスは非難されるべきだったのかと」

「ゼンガー、それは――」

「いえ、メイガスが正しかったなどと言うつもりはありません。ただ、その責めはメイガスに帰するべきなのかと、我々の評価は公平とは言えないのではないかと思うようになったのです。メイガスはある時点までは正常に機能していました。アースクレイドルの管理維持のみならず、地下勢力との戦いにおいてもその分析力・解析力は大きな力になった」

ゼンガーが言葉を切った。言うべきことを取捨選択しているのだろう。

「結局、誤ったのは人なのです。メイガスは狂わされただけだ」

「……人の生み出せし物の過ちは、結局、生み出せし人の過ちなのでしょうね……」

「あなたの過ちではない」

ソフィアはゼンガーを見、そして視線を逸らした。

ゼンガーには敢えて口にしないことがある、と感じたのだ。アースクレイドル内乱の詳細を、彼は口にしていない。その一因はソフィアにあるのではないだろうか。

「……ネート博士、そろそろお休みになってはいかがですか」

長い沈黙の後、ゼンガーが静かに提案した。

「もうしばらくここにいます。少し考えたいの。一人で」

ソフィアはやんわりと「一人で」という単語を強調した。ゼンガーは何か言いかけ、それを止めた。

「……わかりました」

まだ、躊躇(ためら)うような気配があった。

「何か?」

「娘子が、無理はせぬようにと言っていました」

ソフィアは少し笑った。ゼンガーはそれを見て頷き、出て行った。

武人の姿が扉の向こうに消えるなり、堪えていた涙がツ、と一筋頬を伝った。

ずっと堪えていた。涙を見せるのは卑怯だと思ったのだ。

口にしかけた謝罪もずっと飲み込んでいた。

ゼンガーは謝罪を容れないだろう。許さないからではなく、彼には許す必要がないからだ。

容れられぬ謝罪など自己満足でしかない。

ソフィアはもう一度映像を再生した。

冷たい女神は忠実な守護者に数々の言葉を聞かせた挙げ句――自分のために死ねと命じていた。

第九章>>