第一〇章

Oft und gewiss nicht ohne Berechtigung ist gesagt worden, dass der Naturwissenschaftler ein schlechter Philosoph sei. Warum sollte es also nicht auch für den Physiker das Richtigste sein, das Philosophieren dem Philosophen zu überlassen?

Aus "Physik und Realität" Albert Einstein

よく、自然科学者とは出来の悪い哲学者であると言われていて、それは故の無いことではない。ではどうして、だから物理学者は哲学的思索は哲学者に任せるのが一番正しいのだ、とは言われないのだろう。

アルベルト・アインシュタイン『物理学と実在』より

検査のために入院した〈自分〉に代わり、貸与された独身者用の部屋に行く。そこの窓を開け、風を入れるのがゼンガーの日課になっている。頼まれたわけではなかったが、初日から毎日一度は訪れるようにしている。

ガランとした部屋だった。当然だ。彼の所有物はすべてアースクレイドルの中だ。と言うより、今となってはアースクレイドルが彼の所有物だ。

いつも通り窓を開けると、ゼンガーは枕元に置かれた物に目を留めた。

それは二本の棒状の物で、一本は、ゼンガー自身が贈った刀である。

もう一本は布に巻かれていた。そちらも刀だと聞いている。戦闘で(ひしゃ)げてしまって、もはや鞘に入らない。全体を布で巻いてあるのはそのせいだ。元々、刃の無いなまくらだったそうだが、あの未来から来たという自分には大事な物らしい。

ゼンガーはそれを手に取った。

もし、鋳つぶして新たに打ち直せるのなら――

急にゼンガーは動きを止め、訝しげな顔になった。

側にあるもう一本の刀も手に取り、それぞれを右手と左手とに持ってみる。

しばらくそうして考え込んだ後で、やおらゼンガーは大股で部屋の外に出て行った。

モニターに友人が映ったので、エリが取り澄ました表情を崩し、笑いかけた。

「ひさしぶりじゃない。どうしたの、ソフィア」

「あなたに訊きたいことがあって」

「何かしら」

「あなたは未来に行ったのよね?」

エリは驚いて思わず声を高くした。

「ソフィア、あなた、それを知って……」

「あなたも聞いているでしょう?今、アースクレイドルに起きていることを」

「突然アースクレイドルが出現したってことは。あなたがその調査団の長だってことも。でも、ニュース以上のことは知らないわ」

「そのアースクレイドルにはゼンガー少佐がいたの」

「ええ?!それは、つまり……」

「そう。あなたが未来で会ったゼンガー・ゾンボルト。『メイガスの剣』としてプリベンターに立ちはだかったゼンガー」

驚きから回復すると、エリはすぐに冷静になった。

「そこまで知ってるなら、隠す事なんて無いわね。どうりで通信を暗号化するはずだわ。びっくりした。緊急事態が起きたのかと思うじゃない」

エリは自分の真っ直ぐな髪を手で後ろに流し、それで、とソフィアを促した。

「私に何が訊きたいの?」

「未来に行った時のことを知りたいの」

「私が知っていることならいくらでも話すけど」

「察しはついていると思うけど、主に知りたいのは、アンセスターの事」

「アンセスター……」

エリは記憶をゆっくりたどり、慎重な口調で話し出した。

「……結局のところ、私たちに分かったことはとても少ないのよ。敵としてしか私たちは会わなかったから――会えなかったから。話す機会はほとんどなかったの。分かったのは、アースクレイドルが変質してしまったこと。あなたは種の保存のためにあそこを作り上げたのに……」

「地球を守るためと称して、人類抹殺の勢力になった」

「ソフィア……」

エリは親友を見つめた。ソフィアは大丈夫だとでも言おうとするように頷いた。ソフィアの表情は冷静に見えた。エリはそれを確認してから話を続けた。

「アンセスターは勢力としては小さかったの。イーグレット・フェフ博士が作ったと思われるマシンナリーチルドレンを自称する三人の少年、アースクレイドルただ一人の生き残りのゼンガー少佐、それからメイガス。メイガスのことも知っているの?」

「ええ。おそらく、私にマシンセルが注入され、メイガスと融合した姿。冷酷なアースクレイドルの女主人」

「ソフィア、でも、その深層にあなたも居たのよ。この世界の月での戦いで、私はあなたと話したわ。メイガスが倒されて解放されたのよ。ソフィア、あなたは私に私のことを覚えてるって言ったわ」

「エリ、その〈私〉をどう思った?」

「どうって……?」

「悪意のないソフィア・ネート、だったの?」

「ええ。あなたはあなたのままだった。あなたが還したの、私たちの友人たちを、未来に」

「……」

ソフィアの目が泳いだ。エリは姿勢を正し、ソフィアを見つめた。

「ソフィア、どうしたの。言ってしまいたいことがあるなら聞くわ」

「別に……」

「嘘。なんで私に連絡してきたの。私が今言ったことぐらい、そっちに集まっている人からも聞けるでしょう。正式な報告をしたのはブライト艦長だし、ブライト艦長が立場上あなたに話せなくても、未来に行ったパイロットがそっちに何人かいるでしょう?」

「……」

「話を聞きたかったんじゃないんでしょう?話をしたかったんでしょう?」

「そう……なのかもしれないわ……」

それはソフィアの無意識だったのかもしれない。無意識に親友を頼ったのかもしれない。

「ソフィア」

少し焦れたような声を出してみせる。エリにはここで追及の手を止めるつもりはなかった。止めてしまえば、この友人はいくらでも自分の中に仕舞い込んでしまう。

「私……映像データの解析をしていて、何度もメイガスの映像を見たの。ゼンガー少佐の映像も。メイガスとイーグレットの子どもたちはゼンガー少佐を人として扱わず、参式のパーツとして扱っていた。……違うわね。人である故に、だわ」

「ソフィア……」

名を呼んだエリをちらりと見ると、ソフィアは首を振った。

「その映像を見るのが辛いわけではないの。ただ、私、何をしたいのか、解析に意味があるのか、あの、未来から来たゼンガー少佐の軌跡を勝手に覗き見しているような、そんな……」

支離滅裂になってきたのを自分でも感じたのだろう、ソフィアは言葉を切った。

「メイガスが自分ではないかと思っているの?」

「いいえ。分かっている。分かっているけれど……単に自虐に過ぎないのではないのかと。自虐の果てに可哀相なソフィアと言ってほしいだけなのではないかと。可哀相という言葉に依って許されたいだけなのではないのかと――」

「ソフィア」

ほとんど遮るようにしてエリはソフィアを呼んだ。

「顔を上げなさい、ソフィア」

若草色の髪がゆるゆると緩慢に上がる。

「ソフィア、覚えてる?φιλοσοφια(フィロソフィア)という言葉が好きだってあなた言ってたでしょう?『哲学』っていう意味としてではなくて、『知を愛す』という原義を持っているところが好きだって」

沈黙したままのソフィアにエリは畳みかけるように言葉を継いだ。

「『知る』ってことから目を背けたら負けよ、私たち。青臭いかもしれないけれど、私は自分を学徒だと思っているの。あなたのことも。ねえ、ソフィア。らしくないわ。どうせ止まれと言ったって学者のあなたは『知る』という道の真ん中で立ち止まることなんてできないでしょう?なら、『知る』ことで心に傷がついても、胸からダラダラ血を流しながら進むしかないじゃないの」

「……ええ」

ソフィアが浮かべた表情を見て、エリはハッとなり、畳みかけていた言葉を止めた。

二、三別れの挨拶を交わしてから通信が切れると、エリは映らなくなったモニタの前で溜め息をついた。

その時、ソフィアが浮かべたのは淡い淡い微笑だったのだ。

必要とあればソフィアは必要なだけ冷静を装える。時に冷たい印象さえ与えるほどに。でも、彼女は本当は自分が見せたいと思っているほどには冷酷ではないのだ。

アースクレイドルを失って、もう一つの世界でも失っていて、それが全部ソフィアの傷になっているのではないかとエリは危惧している。

「一度重い傷を負ってしまったら、忘れることは許されないのかしら……?」

部隊を送り届けた後、調査班ベースから帰還したラー・カイラムだったが、正直、基地では手持ち無沙汰である。今、手が要るのはどう考えてもアースクレイドル側なのだ。敵が現れた際には都市防衛が優先というのは分かるのだが、敵襲があった際に出鼻を叩くために、ラー・カイラムも出ていた方がいい、とブライトは考えている。少なくとも調査班ベースには居た方がいい。

実を言うと、調査班ベースの位置もブライトの考えでは最適とは言い難い。基地からもアースクレイドルからも離れすぎている。拠点が増えた分、無駄に人員が居る。

基地司令マブロック准将を説得して、調査班ベースをアースクレイドル直近に移し、ラー・カイラムもそこに移すには、まずは誰に働きかけるべきだろうか。

今後の方策について考えを巡らせていたため、艦長室のノックに生返事だったのは否めない。

「入れ」

反射的に返事したブライトだったが、現れた男を見て、やや苦い表情になりかけ、慌てて繕った。

「テレンス・ローム、入ります」

ブライトは座ったまま男を見た。きっちりと揃えられた短髪、縁の細い眼鏡、小柄だが背筋の伸びた姿。これで制服姿でなく黒い革鞄でも持っていたら、弁護士で通じる。

今の場合は検事か。

テレンス・ローム大尉はマブロック司令が選任した、スレードゲルミル砲撃事件の調査員なのである。

「艦長、私を置いて行かないでいただきたい」

苦情を言っているにしては、ずいぶんと平坦な口調だった。

「ラー・カイラムが調査班ベースに人員・機材を下ろした後すぐに戻ることは知っていたのだろう?それに、君は戦闘要員ではない」

「お気遣いの必要はありません。私はマブロック司令の命を受けて乗艦しております。現在私が受けている命は、スレードゲルミル砲撃事件の調査であって確かに戦闘ではありませんが、私はそもそも軍人です」

「……」

テレンスの経歴は調べた。ずっと地上勤務で、着々と階級を上げている。前線に出たことはない。いざ戦闘になったなら、彼はどんな反応を示すものだろうか。

「私はしばらくラー・カイラムに乗艦します。部屋を用意してください。暗号通信ができドアロックも高度な物がいい。艦長室並の」

「艦長室?」

「無ければそれに次ぐ部屋を」

テレンスはマブロック直々の命を受けている。断るわけにもいくまい。

ブライトはなるべく表情を動かさないよう注意しながら頷いた。

「分かった。用意しよう。他には?」

「一時間後から尋問を始めます。最初はあなたからです、艦長」

「私から?」

「スレードゲルミルを砲撃した砲手は自殺していますね?」

「その通りだ」

「独房内で銃で頭を撃った。武器の類は取り上げられるのだから、通常ありえない」

「そうだ」

「従って、ただの自殺ではない」

「それは分かっている」

「ですので、私は周辺事情を知らなければなりません。これは彼の個人的発意なのか、或いは、命令を受けたものか。命令ならば誰のものか」

「私の可能性もあると?」

あり得るでしょう、と言ったテレンスはそこに頷くという仕種すらつけなかった。挑戦的でもなかった。ただ義務的に言葉を発している。

「該当する方は、全て私の捜査対象です。例外はありません」

「……」

「型どおりのことです、艦長」

多少は人の反応も気にしていたのだろうか、テレンスはそんな決まり文句を口にした。ただ、普通、こういった台詞は宥めるように言うものではないのだろうか。

目の前の眼鏡の男は始終台詞を棒読みにするかのような、感情のこもらない口調だった。

医師の気の弱い様子は前と変わっていなかった。

壁の一面を占めているシャーカステンは大きなものだったが、たくさんのX線フィルムが挟んであって、ほとんど埋まっていた。シャーカステンに続けて大型のモニタがある。そこにも何らかの映像が映っている。

フィルムも映像もゼンガーにはそれが何を意味するのか分からなかった。

ゼンガーについてSRXチームが勢揃いし、さらには金髪の少女もくっついてきている。

XNディメンジョンとやらはいいのだろうか?

軍医はさきほどから周りを取り巻くフィルムやら映像やら、さらには手元の端末が表示するデータやらを何度も何度も不安げに確認している。だが、やがて、椅子を回してこちらを向いた。

ゼンガーと目が合うと、慌てて逸らして、ボソボソと言った。

「誠に申し上げにくいんですが――」

「先生、それ、どういう意味なんだ?まさか!」

若いパイロットが大声を出しただけで、軍医は首をすくめた。

「やめろ、リュウセイ」

リュウセイはライにたしなめられて大人しくなった。とりあえず危害は加えられないで済みそうだとみたのだろう、医師はすくめた首を伸ばし、それでもおどおどと言った。

「異常なしです」

「は?」

「完全に健康体です。つまり、我々の出来うる限りの検査の結果では」

リュウセイが天を仰いで首を振った。

「ならなんで、そんな言い方するんだよ」

がっくりと大げさにうなだれたリュウセイの横で、アヤが懸念の表情を浮かべた。

「でも、ドクター。それはなお一層判断が難しいということではありませんか?」

「そうです。不定愁訴というものは厄介です。つまり、原因不明なので」

「ふていしゅうそ?」

「つまり、明白な疾患が見つからないのに、さまざまな症状を訴えておられる状態です」

「……」

ならば、不定愁訴とやらですらない。

ゼンガーには全く自覚症状が無いのだ。

「どうしましょうか」

医師が言った。

「……ドクター、それをドクターにお訊きしたいのですが?」

ヴィレッタがなかば呆れて言うと、医師はそうですよね、ともぐもぐ口籠もった。

その時だ、突然、ドアが音を立て、開くか開かないかのうちに、勢い込んで男が一人入ってきた。

「あの、診療中というか診察中というか、順番を――」

この日、この医師が感心されたとしたら、突進してきた人物に一応制止の言葉をかけたことだったろう。だが、入ってきた大柄の男はそんな言葉など聞いていなかった。

「体重は何キロだ」

座っているゼンガーに向かって、いきなり入ってきたゼンガーがそう言った。

ゼンガーは紫の頭をやや沈ませて黙り込み、自分を凝と見据える男を見上げた。

「お前もそれを訊くか」

「『も』?」

「アースクレイドルに居る時にネート博士にも訊かれた」

立っている方のゼンガーが、座っているゼンガーの腕をやにわに掴んで、診察室の隅にあった体重計の前に無理矢理連れて行った。

「載れ」

「何?」

「いいから載れ」

表示を見ようと覗き込んだリュウセイが言った。

「八八キロ。身長と筋肉の付き具合考えりゃ、おかしかないと思うけど……」

「待って。少佐、そのまま」

アヤがリュウセイの横に並んだ。

「ああ、ダメだ。動かないでもらえませんか、ゼンガー少佐」

「……リュウ、ゼンガー少佐は動いてない」

マイが言うと、リュウセイはがばっと頭を上げて、何度も計器とゼンガーとを見比べた。

「なあ、先生、こいつ壊れてねえ?」

「壊れていないはずです。つまり、今朝、私が乗ってみたから」

皆が見ている前で表示は八四から九〇をフラフラと揺れている。かと思うと、ゆるゆると何かを回復するように数値を増やし、最後に九二を示して止まった。

「これは……」

紫の髪のゼンガーは絶句した。

銀髪のゼンガーは難しい顔になった。

「何だったんだ、今のは」

「これは医学の範疇じゃないですよ。つまり、体重は普通どんな格好をとっても変わらないから」

自分のミスではない事が分かって気を取り直したらしく、医師が初めてテキパキと動いた。内線を取り上げどこかに掛けると、通話の途中でこちらを見た。

「科学班と連絡を取っています。つまり、物理のチームと。私はこれから彼らにこの現象を詳しく伝えに行きます」

「ゼンガー……退院していいの?」

ゼンガーにピッタリくっついていたイルイが心配そうに訊いた。答えたのは通信先の科学士官である。

〈体重が変動するならしばらくの間、計測器付きの部屋に閉じこもってもらって継続計測しないとダメじゃないですかね〉

「その機材はあるのですか?」

医師が訊くと、

〈耐震強度を測るための部屋が使えると思う。コンテナ一つぐらいの部屋で、いつもは揺らして使うんだが、そこに質量計測器を置けばいい。改修はすぐですよ〉

「どれぐらいの間そこにいなければなりませんか?」

〈そりゃ現象次第ですよ〉

「そうですね……前回倒れたのはいつなんですか?」

「もう三ヶ月は前だ」

〈なら、数ヶ月から半年ほど計測する必要があるんじゃないですかね〉

「それでは独房より待遇が悪い」

ライが言うと、科学士官が思案顔になった。

〈そうだねえ。食事や排泄物の影響を排除したりなんだり。やっかいだねえ〉

「そうではなく……」

〈いや、そう言うけど、人命かかってんでしょ?それに、こんな現象滅多に見られないしなあ。興味そそるよなあ〉

「待ってください。医師として言わせてもらいますが、それは現状の健常状態を悪化させかねません。つまり、ストレスと運動不足に陥るおそれがあるからです」

「先生、頑張れ!」

リュウセイが後ろから小声で医師を応援する。

見ていた銀髪のゼンガーは一つ嘆息し、口を開いた。

「発言を求める」

〈じゃあ、コンテナサイズより大きくして、運動器具も置いたら?それで、一日に合計一時間だけ散歩に出ていいと〉

「普通に居住するように使うわけにはいかないのですか。食事時間と睡眠時間だけでもかなりのデータになるでしょう」

〈だって、現象がよく分からないんでしょう?これでも譲歩しているんですよ〉

「連続データが欲しいのは分かります。しかしそのために――」

「……黙れ!そして聞け!」

とうとう怒鳴ったゼンガーに視線が集まった。

ゼンガーは未来の自分が持ってきた刀を手に取った。

「この刀を計測するのではだめなのか?」

「刀?」

「そうだ。これはこの男の物だ。この刀も重さが変わる。俺がこの現象に気づいたのはそのせいだ」

〈なんだ。そうなのか。じゃ、それで解決。それを計測しましょう。ラボに持ってきてください〉

陽気な研究者の顔が通信機から消えた。

「……」

頭のいい連中というのは、どこか何かが抜けている気がする。

「すいません。それ、私が持って行きます……」

怒鳴られた時にすくみ上がっていた医師が、首を伸ばしながら申し訳なさそうに言った。

その日、マブロックは機嫌が悪かった。

その日といわず、一連のアースクレイドルの騒ぎが起きてからずっと機嫌が悪かった。

ネート博士がクレイドルに取り残されたときに、DCの調査班が基地を介さずにブライト・ノアに救援要請したことがそもそも気に入らなかった。基地を介さないということは基地司令である自分を介さないということだ。

しかも、ブライトは自分を飛び越してナラカイ長官に連絡を取った。それもマブロックには気にくわない。

もちろん、今回のアースクレイドル調査班は、科学技術審議会が編成した各地の科学者達の協力組織であるわけで、正確にはDCの調査班ではない。だが、調査班のトップにソフィア・ネート博士が就き、ビアン・ゾルダーク博士が口を出した段階でマブロックにとってはDCの、だった。

挙げ句に、ゼンガーなる男に対する処置も気にくわない。マブロックはブライトの指揮能力に疑いを持っているわけではなかったが、あの未来から来たというゼンガー・ゾンボルトの処置には苛ついている。侵入者があった場合、まず疑ってかかるのが軍人だろう。

その上、ブライトはマブロックが内偵のために選任した調査官が気に入らないらしく、勝手に別の人員を動かしている。調査はナラカイ長官から自分が受けた命令だったはずだ。

部下の反抗というものを受けたことがないとは言わない。だが、退役を間近にしてのこの事態はよりいっそうマブロックの感情を害した。

帰宅途中のマブロックは苛々しながら後ろを振り返った。

「何だ、私に用か」

マブロックが噛みついたのは、中肉中背の男である。背広は着ていたが、着慣れた感じではない。ヘラヘラと鼻持ちならない笑みを浮かべてだらしない足運びで歩いてくる様は、軍人ではない。間違っても軍人ではない。

男は基地を出た時からずっとマブロックの後を付いてきていた。尾行ではない。自分の存在を隠す様子もなく、マブロックと護衛との三メートルほど後ろをずっと歩いてきたのだから。

「マブロック准将」

立ち止まったマブロックに向かって呼びかけながら、のんびりと男は近づいてきた。マブロックの前に護衛が一歩出る。脇の銃に既に手が伸びている。

男がどうしようかなとでもいうふうに立ち止まる。マブロックは右手をやや上げて護衛を制した。すると、男がまた近づいてきた。

「少しお時間いただけませんかね」

「用件は何だ」

男は十分近づくと声を潜めていった。

「コネクションからの使いですよ」

「……コネクションの者だと?」

ええ、と悪気ない様子で男は頷く。

「……それで?」

「ここではなんでしょう。どうです、そこの店に入りませんか。護衛の方も一緒に」

マブロックの返事を聞く前に既に男は先に立って店に入っていく。

「……」

その背を見ていたマブロックだったが、ややあってから護衛に向かって顎をしゃくり、男の後を追って、店の中に入っていった。

マブロックが中を見回すと、先に入った壁を背にして男が親しげに手を振っているのがすぐに目に入った。口をへの字に曲げながら、マブロックは男の向かいに座った。護衛は横に立ったままだ。

「何にしますか」

「……コーヒー」

背広の男はすいと手を挙げて、おっかなびっくり近寄ってきたウェイターに注文する。ウェイターがいなくなった途端、マブロックが言った。

「それで」

「話、ですか」

「……」

男はずい、と身を乗り出した。

「アースクレイドル」

「……アースクレイドルだと?」

二人の声がやや低くなった。今、(くだん)の場所はこのような所で話題するような状況にない。

「アースクレイドルとアースクレイドル周辺で何が起きても手を出さないでもらいたい」

男の声が初めて鷹揚になった。

「何が起きても、だと?」

「そう、何が起きても」

「……」

マブロックは眉根をよせ、ゆっくりと言った。

「何をするつもりだ」

「知る必要はない」

やや下から睨め付けた視線が強くなる。

「……」

男が乗り出していた身体を元に戻した。そこへウェイターがやってきて、コーヒーをそれぞれの前に置き、そそくさと退散した。

ウェイターがいなくなると、男は一口コーヒーを飲んだ。

「そんなに無理なことは言ってないでしょ?」

先ほどと打ってかわり、最初に話しかけてきた時のように気さくな口調に戻っている。

「……」

「ご機嫌斜めですね、准将。そりゃね、私のような輩にウロチョロしてほしくないってのは分かってますよ」

「……」

「ただ、ちょっと緊急だったんでね。悪気はないんですよ、准将。司令とお呼びした方がいいですか?」

「呼び方などどうでもいい」

低く唸ったマブロックに向かって、そんなに毛嫌いすることもないでしょうに、と男は肩をすくめた。

「話はそれだけか」

「おっと、話は最後まで聞かないと」

「……」

男はマブロックが立ち上がらないことを確認し、満足げに話を続けた。

「退役後は政界に出ることを考えているのでしょう?」

「……」

「私たちの力、あてにしてもいいんですよ?」

「……」

マブロックが黙ったままなのを確かめると、男はニヤッと笑った。

「准将、協力していただけますね?」

「……話はそれだけか」

「まあ、今は」

「ならば、帰れ」

「ご返答は?」

「……」

マブロックは黙ったままだった。男はこれ見よがしに首を振ってみせると、コーヒーを飲み干し、席を立った。

「奢りますよ、准将」

「いらん」

「いいでしょう、コーヒーの一杯ぐらい。払っていきますよ。どうぞごゆっくり」

外に出た男が人ごみに消えていくのを見届けてから、初めてマブロックはコーヒーに手をつけた。冷めかけたコーヒーがうまいのかまずいのかマブロックには分からない。

コネクション同士の争いが激しくなっていると聞く。マブロックが思うに、優勢なのはヌビアである。

これも、その一環か。

マブロックは拳に力を込め、奥歯を噛みしめた。

人工物が溢れているというのに、都市部でさえ地球という土地はコロニーや月のドームとは違った顔を見せる。

街路樹の根元の土は木陰に守られて湿った色を見せている。

そして、空だ。

オープン・カフェにはアムロと万丈の二人しかいない。注文した物がくるまで本題には入れない。そのわずかな時をアムロは往来を眺めてやり過ごすことにした。

「暑いですね、大尉」

「ああ」

どうして気温を下げないのだろうと一瞬思ったが、ここが地球であることをすぐに思い出した。コロニーや月面都市のようなわけにはいかない。不便といえば不便なのに、どうして人は地球に心惹かれるのだろう。

コトン、と小さく音がしてコーヒーが置かれた。

運んできたウェイトレスに万丈が愛想の良い笑みを浮かべて、ありがとうと言っている。ウェイトレスは赤くなってやや会釈し、暇そうにしている仲間の元に戻った。そのまま若いウェイトレス達は万丈とアムロとをチラチラと見ながら何やら囁きあっている。万丈がそちらにもにっこり笑みを送った。それを見てアムロもやや笑みを浮かべた。

万丈もアムロも人の目を引くことは間違いない。アムロも以前に比べればずいぶん慣れたが、万丈のあしらいの良さはそれより上だ。実業家であったという経験のせいもあるのだろうが、元々の性格が大きいのだろう。

「どうして探偵なんてやっているんだい?」

「変ですか?」

「いや。ただ、目立つだろうと思ったんだ。探偵をするには都合が悪いだろう」

「手品と一緒ですよ」

「手品?」

「そう。タネの方に目が行かないように派手な動きで別な方向に目を反らす」

「そうか。君は目くらましで後の四人が『タネ』をやるのか」

「という時もあります」

ニヤリと万丈が笑い、アムロは苦笑を浮かべた。

おそらく、そうでない時も多いのだろう。それでも万丈ならそつなくこなすような気がした。

「大尉の方はなんでこんな所に来たんです?」

「こんなことするつもりはなかったんだ。ただ、内偵にと派遣された奴がちょっとね……」

「マブロック司令推薦の調査官ですか?」

「そうだ」

「テレンス・ローム、でしたっけ。頼りにならないと?それとも僕らが疑われているのかな?」

「なぜそう思うんだ?」

「マブロック准将は内輪以外の人間は好きそうじゃないようでしたから」

万丈の率直な物言いをアムロは否定しなかった.

「尋問を受けてアストナージが愚痴ってたよ。『会計監査か』ってね」

「事務屋ってことですか」

「役人さ」

「アムロ大尉はそのお役人の代わりに何を?」

あんまり気が進む役じゃないんだが、とアムロは表情を曇らせながらデータカートリッジを取り出した。

「それは?」

「スレードゲルミルを砲撃した男――」

「ジョゼフ・デュフールですね」

「そうだ。自殺したデュフールの遺品の中にあった。恋人宛の手紙なんじゃないかと思う」

「それを渡す役なんですね」

「ああ。本当なら捜査にあたってデュフールの背景を探るのにも役に立つはずのものなんだが――」

「やってきた調査官は『役人』で、ブライト艦長は『お役人』には手紙(それ)をうまく役に立てられないんじゃないかと危惧した」

「そうなるな。ブライトも迷ったんだろうが、結局、俺が。君たちがデュフールの恋人を探し出したと聞いたから便乗したんだ」

「僕に任せてくれてもよかったんですがね」

「どちらがより自然かというだけだ。元破嵐財団総帥が行くより、同僚か上司が行く方が自然だろう?ラー・カイラム運行に必要な要員を外していったら、俺になったんだ。ラー・カイラムに正式には所属していないから」

「今はテストパイロットをしてるんでしたね」

「試作機の研究所でね。今回はブライトの要請でラー・カイラムに出向している」

「テストパイロットなんてもったいないですね」

「ちょうどいいんだ」

「ちょうどいい?」

「ああ」

アムロはまた道路の方を見た。燦々と太陽が降り注いでいる。人通りは多くもなく少なくもない。

「この後、人々がどこへ行こうとするのか。俺はそれを見極めたいと思っている。あの男が性急にやり遂げようとしたことを、俺はゆっくりと眺める立場で居たいと思う」

あの男、が誰のことなのか分からぬ万丈ではない。

「まるで隠居に聞こえますよ、アムロ大尉」

「そんなつもりはないよ」

ゆったりとした笑みを浮かべた目は決して引きこもった者の物ではなかった。それに安心して万丈は話を元に戻した。

「その手紙、中身は確認したんですか?」

「した。ただ、事件の兆候なんか全くないんだ」

「自殺の兆候も?」

「自殺の兆候も。単に日々を書き連ねて、それから、会うのを楽しみにしていると」

「恋人、か。確かデュフールの死は伏せられていましたよね」

「ああ。何が起きたか分からないままなのは――酷だよ」

「そう……でしょうね」

アムロは少しぎこちなく手を動かした。

「ただでさえ気の重い役だ。調査なんて裏がない方が良かった」

「仕方ないですよ、大尉。――それにしてもレイカの奴、遅いなあ。何やってるんだ」

「あら、ずいぶんじゃない、万丈」

「レイカ!」

万丈がひょいと背後を見ると、そこにレイカが立っていた。栗色の淡い長髪が緩いウェーブを描いて、スラリとした身体に揺れている。角を曲がってきたのが、急に現れたように見えたのだった。

レイカは、アムロにニコッと笑いかけてから万丈に向き直ると、少し怒ったように腕を組んだ。

「あんなに少ない手がかりで恋人探してその住所まで探り出してきたんだから。褒められこそすれ、けなされるなんて思いもよらなかったわ」

「ありゃ、聞こえてた?」

「聞こえたわ」

レイカは組んでいた右手を軽く挙げた。スラリとした二本の指に挟まった、小さな白い紙片。

「悪かったよ。さっすがレイカ。よ、元ICPO」

悪びれもせず、万丈が手を差し出した。

「調子いいんだから」

口ではそういいながらも、レイカは万丈の手に紙片を載せた。

「ふーん。遠くないな。どんなとこだい?」

「安アパートが並んでるところ。あるでしょう、集合住宅ばかりで逆に人通りがないところ。あんな感じ。――行くの?」

「ああ。大尉と一緒にね」

「急いで。誰かが見張っていたような気がするの。今はビューティーが様子を見てるけど、先に動かれたら対処できないもの」

万丈は肩をすくめ、アムロに目配せした。アムロもわずかに頷く。

「レイカ、君は先に屋敷に戻っていてくれ。もしかしたら、保護することになるかもしれない」

「分かったわ。気をつけてね、万丈、アムロ大尉」

すぐにカフェを出て、レイカのメモの場所に急ぐ。

小さな小路の入り組む場所で、道路を挟んで建物の間を紐が何本も通してあり、洗濯物なのかシーツが翻っている。上階は知らないが、道に立っている二人がいる辺りは高い建物の影になって薄暗い。

「見通しが悪いですね……」

万丈は気にくわなそうに呟いた。

アムロは見上げてみてビューティがいるのを見つけたが、向こうも万丈も合図さえ交わさないので、自分も何もしないことにした。

「大尉、僕が先に行きますよ」

目的の建物に入る前に万丈が言った。

「任せるよ。生身の戦闘となると君たちは人外だからな」

珍しく冗談を言ったらしいアムロにおやおや、と万丈が小声でやり返した。

「MSの一機もあればアムロ大尉も人外の仲間入りじゃないですか」

アムロはわずかに笑ったが、否定はしなかった。

こういった遣り取りを通常アムロは嫌っている。なのに、控えめながらもこんな軽口が出せるところが、αナンバーズという部隊の持っていた独特の心地よさを表している。あの部隊では皆が残らず特別で、その心根において残らず普通だった。

レイカの言ったとおり、小路に入ってからは人を見かけなかった。建物の中に入るとその静寂さが緊張を孕んでいるかのようだった。薄暗い建物は所々にヒビが入っている。エレベーターは壊れていた。

今のところレイカの言っていた「見張り」の気配はない。だが、物陰が多いことに万丈もアムロも警戒している。

昼日中だというのに小さな明かり取りしかない階段は暗い。

「この階だったな」

「ええ」

階段を抜けて廊下に出る。廊下は外に向かって開放された造りで、肩より少し低いぐらいのコンクリートの囲いは、無機質なほど真っ直ぐだった。万丈はその廊下を大胆に進んだ。扉と扉の間隔からして、この集合住宅がさほど大きな部屋ではないことは予想が付く。

階段から三戸目。目的の扉の前で万丈は立ち止まり、確認するようにアムロを見た。アムロが黙って頷くと、万丈は呼び鈴を押した。

鳴らない。

二、三度押すが、機械は何も反応を示さなかった。

「壊れているな、これは」

「そうみたいですね」

万丈は扉をノックした。

中の反応はない。

「こんにちは。どなたかいらっしゃいませんかね」

前より強くノックする。

やはり反応はない。

万丈とアムロは顔を見合わせた。万丈がドアノブに手を掛け、音が鳴らないようにゆっくりと回した。少し力を入れ、万丈はアムロに向かって、開いている、と囁いた。

万丈は大胆にドアをぐっと開けた。

カーテンの閉じた暗い室内。

わずかに動く人影。

小さな破擦音。

何かが万丈の脇をかすめ。

万丈は上着に隠して脇に吊っていたホルスターから銃を抜き、一動作で構えの位置まで持って行った。

もう指に力を込めるだけ、というところで、その手を後ろから伸びてきた手が掴んで止めた。

「大尉、何を!」

抗議する万丈に、アムロは黙って中を顎でしゃくってみせた。

促された万丈が、暗い室内に目を凝らす。

「危ない、危ない」

「あーあ、何だか違う物が掛かっちゃったわね」

「これじゃどうせもうダメでしょ」

さ、と中の人物がカーテンを開けた。暗かった室内に外の光が入る。

「J……9……」

手にした銃を納める青年も、ハァイと愛想良く手を振る若い女性も、万丈とアムロが見知った人物だった。

第一一章>>