怒りの日(四) - 疑心

トントンと机を叩く自分の指をゲドはじっと見ていた。

ふと、それに気づいて意識して指を止める。

囲まれた人々に剣は取り上げられ、守り手の多い区画に建つ窓の無い小屋に閉じ込められていた。

ゲドは抵抗しなかった。

信じたかったからだ。

人々がゲドの話に耳を傾け、〈翔〉の動きに同調してくれることを信じたかったからだ。

ゲドはじっと待った。

食事は出されたが、言葉は掛けられなかった。

一番会いたかったのはガルアだった。

しかし、叶いそうになかった。

気がつくと、また、指が机を叩いていた。

ゲドはため息をついて、手を組んだ。組んだ両手に額を乗せ、下を向いたまま、じっと待った。

何もできずに何日も経つのは拷問に似ていた。

窓は無いのにどこからか日は薄く差し込む。

薄暗い部屋の中でゲドは全身を耳にしていた。慌しいのは感じ取れる。誰かが何かを命じ、それに誰かが答えている。

ゲドは目を閉じ、ひたすら音を聞いていた。

遠くからのぼやけた音に聞き入っていたとき、その音に混じってひどく明確なカタ、という音がした。

扉?

注視していると、縦に細長く光の線が入った。

「おじさん?」

聞き覚えのある声がそっと部屋のうちに入ってきた。

「コーム?」

ガルアの息子。

ゲドは一瞬、喜んだ。これで、ガルアに話ができると。

しかし、小柄な少年は、滑り込んできてゲドを見るなり、ぐっと引き締めていた口元をぐにゃりと歪ませた。ブルブルと唇が震えて、目から涙が溢れ出た。

「俺、俺、仲直りしたのに。オスカと。オスカはおじさんとの約束を守ったのに」

泣きじゃくりながら要領を得ない言葉を少年が繰り返す。

黙れと言いたかった。

黙ってくれと頼みたかった。

要領を得ない繰言(くりごと)は、要領を得ないながら多くのことを知らせていた。

まるで――

不吉を告げる大鴉の啼き声……

ゲドは黙りこくったまま開け放たれた牢を出た。先に立ったコームがあたりを気にする様子をゲドはじっと観察した。

「こっち」

横に立った小柄な少年が腕を引くのをゲドは無視した。

「おじさん、だめだよ。そっちはだめだよ」

慌てるというよりも怯えた様子でコームはゲドを押しとどめた。その様子にゲドは確信した。

――俺は知らなければならない。

「だめだったら」

コームは後ろから叫んでいたが、立ち尽くしたままついてこようとはしなかった。

――俺は知らなければならない。

むしろ傲然と足を運んだ。意地だった。

背後にちょっとした空間を隠す、建物の角を曲がってみて茫然となる。意地など霧散し、歩みは萎えた。

折り重なって。

村の外と内とを分ける柵と、前に建つ家との作る狭い空間に。

折り重なっていた。

人が。

人が、人が。

足はよろよろと。

前に。

進みたくなど。

見知った顔ばかりだった。

進みたくなどもはやなかったのに。

足が前に出る。

皆、〈翔〉の家族だった。

まだハルモニアの兵は入り込んでいないのに。

誰が。

誰に。

ゲドは折り重なる死体を前に立ち尽くした。

目が、思わず、探していた。

探すな、の声が胸に響き。

探せ、の声が頭に響く。

どちらに従うとも決めぬうち、それは目に入ってしまった。

エムシントをゲドは見つけた。足に力が入らなくなって、ゲドはエムシントの傍らに膝をついた。

殴られたか蹴られたか。エムシントには四肢といわず身体といわずあちこちに痣があった。顔には苦痛も恐怖も浮かんでいなかった。疲れ果てて目を開けつづけることを放棄してしまった者のように見えた。

ゲドは急いで手袋を脱ぎ、エムシントの頬に触った。

もう、死んでいる。

もう、目覚めない。

何度も何度も、確かめるようにゲドは妻の頬を撫でた。

それから、ふいに顔を上げた。エムが抱いているはずの子供が居ない。目線がうろうろと漂って、転がっている小さな丸い物に留まった。

本当に、転がっていたのだ、娘は。近づいてみると、ご丁寧に、止めがさしてあった。

ぎり、とゲドは唇を噛んだ。血の味が広がった。

のろのろと、ゲドは辺りを見回した。

オスカは妻と少し離れた場所に斃れていた。その手には剣が握られていた。ゲドの愛剣の一だった。学者になりたいと言った息子は剣を構え、そして及ばなかった。

「我らは」

ゲドは息子から剣を取り上げ、血を吐くがごとく叫んだ。

「我らはこのような仕打ちを受けるために危険を犯したのではない。我らはこのような光景を()るために駆け戻ったのではない!」

叫ぶなり、ぎっと背後を振り向き、立てひざをついた。まさに、今、男が二人斬りかからんとしていた。

光芒がゲドの足元より(はし)り左の男の首筋を()いだ、と見た瞬間、その光芒は地に落ちる稲光の如く右下方に落ちた。刹那、斬りつけた二人が血飛沫をあげ、左右に分かれて倒れ伏した。

今やゲドは立ち上がり、自分を囲む十人ばかりの男たちを見回した。

血の滴る剣をひっ提げて捕り手を睨むゲドに、男たちが二、三歩下がる。

「恐れるか、俺の目を畏れるか」

低く小さくゲドは云った。

「見るがよい」

ゲドが剣を勢いよく横に凪いだ。空間を切り裂いた、その剣勢に驚いて、囲みがまた広がった。そんな男たちを気にもせずにゲドは愛剣で己の背後を指した。

(おの)が為した悪行(あっこう)を見るがよい」

ゴクリ、と誰かが生唾を飲み込んだ。

ゲドは剣をまっすぐ横に向けていて、これ以上ないといっていいほど隙だらけに見える。

や、とか、えい、とか叫びをあげてまた二人、斬りかかる。

二本の剣を後ろに飛んでかわし、紫電一閃、斬り上げる。斬られて倒れかかった男を突き飛ばしてゲドは(はし)った。あ、と飛び退ろうとした男が間に合わぬ。男の横を駆け抜けたとき、ゲドの剣はすでに存分に相手を切り裂いていた。

剣を両の腕でがっちり握って切り抜けた体勢をゲドはゆっくり戻した。戻すと同時に、剣を鷲たちが〈地摺り〉と呼ぶ下段の位置に持っていく。

その双眸が醒めた色を帯びる。

このとき、やっと男たちは気づいたのだ、己の対峙する相手の力量を。

佇む男を囲みながら、斬り込めぬ。といって、背を向けて逃げ出すこともできぬ。

「何をしている!」

鋭い声がしたとき、ほっとしたのはむしろ囲んでいた男たちのほうだった。現れたガルアは一瞥で何が起きたかを見て取った。

「愚かな。そも、お前たちの手に負える相手か」

「手に負えるかどうかは関係ありませぬ」

「裏切り者を野放しにしてはおけませぬ」

「〈攻め手〉が裏切るわけなどあろうはずがなかろう」

「なれど。なれど〈長〉は〈翔〉の家族を集めよと!」

「〈長〉はただ『集めよ』と申されたのだ、あのような……」

ガルアが突然、言葉を切った。

「!?」

ごく低い少し前から流れる声は、紋章を使う前の詠唱だ。既に、魔力の塊が血の滴る剣を引っさげた男の前に集まっている。

恥も外聞もなく、男たちは散った。

ガルアは咄嗟に土の紋章の宿る左手を掲げた。早口で唱える。土の紋章による魔力が発現するのがわずかに間に合わず、器から零れるように溢れ出た光が脇に居た若い男を打ち倒す。

ガルアもどうにか受け止めたものの――

――重い。

魔力の天蓋で受ける腕に重みがかかり、ふ、く、と息が漏れた。

耐えて忍んで諸手に力をこめ、魔力の(いかずち)の重さをどうにか撥ね退けて、ガルアは叫んだ。

「この場は私が預かる。お前らは行け!」

「しかし……」

「足手まといだ。それよりも門を固めよ。時は近い」

時、とは兵が攻め込んでくることだと分からないほど察しの悪い者はこの場に居ない。いかに不服があろうとも、そう言われては〈二の長〉の命に逆らうわけにはいかない。

バラバラと不揃いな足音が遠ざかっていく。

一方、ガルアに対峙する男は、見つけたときと同じように再び剣を〈地摺り〉に置いていた。それがゲドの得意とする構えだとガルアは知っていた。こうなったからには、もはや紋章を使うだけの隙を見せてはもらえまい。

「性急な輩を抑えられなかったことは謝ろう。だが、この頭数の足らぬ時にあくまで()向かうというのなら――」

スラリと音もなくガルアは腰の物を抜いた。

斬る、と構えられた剣が言った。

剣を下段に置く〈地摺り〉は、一般に守りの位置とされている。しかし――

ひた、ひたひたとゲドは大胆に間合いを詰めた。剣の切っ先は(くう)を切る怪鳥(けちょう)のごとく地面すれすれを滑ってくる。

迫る(やいば)は勢いもそのままに刃風をたてながら斬り上った。ガルアはほんの一寸の差でそれをかわすが、有無を言わさぬ剛剣は留まることなく斬りおろされた。

一合、二合……

かわし、受け、流して凌ぐ。

息もつかさぬ連撃を、息も切らさずゲドは繰り出し続けた。その切っ先は怒りに満ちている。怒りが剣先から(ほとばし)っている。しかし、修練に修練を重ねた剣技は怒りごときで曇りはしない。

鈍い金属音を立てながら、連撃を凌ぎきったガルアは一転、鋭く突き返した。

すい、と柔らかく避け、ピタリ、振りかぶるような中段にゲドは構えた。皓々と暗く、冴え冴えと鈍く、ゲドの双眸がガルアを捕らえた。

その眼光の鋭さを、ガルアは真っ向から受け、返した。

どうあっても斃れるわけには行かぬ。討たれてやるわけにはいかぬ。守り手の二の長である限り。

緊張を孕んだ静を突き破って、ざ、と二つの影が同時に跳んだ。

不快な音を立てて、互いの刃が互いの刃の上を軋みながら滑っていく。

その時だ。

「父さん!父さん、父さん!」

甲高い少年の叫びが響いたとき。

怒りに染まりきっていた瞳が揺らいだのはなぜだったか。

殺気に満ちていた剣先が流れたのはなぜだったか。

突然、朱が飛び散った。

斬りつけたガルアに驚愕の表情が浮かんだ。そして、ゲドの顔を、ゲドの右目を奪った己の剣先を、己の腕を順番に見ながら二、三歩退いた。

ゲドの剣がずるずると下がっていった。一度下がった剣はどうにも持ち上がらなかった。上体が泳いだ。それを支えようとでもするように、ゲドは剣を地に刺した。そのままがっくり膝をつく。

今はじめて気づいたようにゲドは斬られた右目を押さえた。

「ゲド……」

いまや、剣をだらりと下ろしてしまったガルアが近づこうとした。

「行け!」

ゲドは短く強くガルアを突っぱねた。ガルアはその場にふみとどまってゲドを見る。

「向こうでお前を必要としているだろう〈守り手〉よ」

ゲドは残った左目でひたとガルアを()めつけた。

ガルアの目がゲドの上を彷徨った。ゲドがもう一度口を開いた。

「〈翔〉の旗は偽旗だ。――本物の〈翔〉もここに向かっている」

「すまぬ」

一瞬だけ、男の(おもて)を〈ガルア〉が()ぎった。が、背を見せて走り出したときには既に〈守り手の二の長〉に戻っていた。

ゲドはその背中を、見えなくなるまで睨みつけていた。

だく、だく、と鼓動にあわせて右目から血潮が溢れ出る。溢れた血が袖すら濡れ浸していた。

突き立てた剣に手を伸ばそうとして失敗すると、ゲドの体は()(すべ)もなく(くずお)れた。

その友を捨て置いて、ガルアは広場に張った本陣まで駆け戻った。

「トア殿は」

詰めている守り手に問うと、二本柱です、との声が返ってきた。ガルアは頷くと、村の入り口の二本柱へ向かった。

戦士は柱によりかかり、(じっ)と敵陣を見ていた。

トアは均斉の取れた考え方の持ち主で、精悍ながら落ち着いた風貌は攻め手の二の長という地位にふさわしい。かつては〈荒鷲〉の異名をとっていたそうだが、今はその(さが)は鳴りを潜めている。

足音に気づき、トアはガルアに顔を向けた。

「ガルア殿。コームの言ったことは本当だったか」

「ああ。ゲドが、いた」

察するものがあったのだろう、トアはひとつ頷いた。

「ゲドは、協力せぬと?」

「あの、虐殺の場を、ゲドは見てしまった。何をもって――」

「そうだな。私が〈翔〉にあたっていたら、私でも協力せぬ」

「それでも、ゲドは、報せはくれた。あの旗は偽旗だと。それから攻め手が戻ってくると」

「その旗だがな」

見てみろ、とトアは敵陣を指した。そこにあれほどにも厚顔に掲げられていた旗がなかった。

「必要なくなった、ということか」

「そういうことだ。この有様ではな」

トアは村の方を見た。

村は不気味に静まり返っている。

「私の責任だ」

ガルアが吐き捨てるのを受けて、トアが言った。

「責任と言うなら、攻め手の二の長の私にもあろう」

風が冷たい。小高いところにあるエゥナーナ・イ・フォェルトに、風が容赦なく吹きさらす。

「人とは、弱いものだな」

「……ああ」

「私は、何度か出陣し、こういったことが起こるのを見てきた。だが、心のどこかで思っていたのだ。これは〈(エゥナーナ)〉に起きることではない、と」

根拠などありもしないのにな、とトアは頬に苦いものをのぼらせた。

「……キリクにこちらに行くよう言ったのだが」

「ああ、来た。攻め手である私に従うのは不満だったかもしれんがな、村の守りのためだ、嫌とは言わせん」

「私が見つけたときは、何人か率いてゲドを取り囲んでいた」

「ほう。して?」

「相手にならない」

「であろうな。あれで旗隊の殿(しんがり)なのだから。それで、ゲドは」

ガルアはすぐには応えなかった。

「剣を納める様子はなかったので、私が……この手で……」

トアはチラリとガルアを見たが、追求しようとはしなかった。

「必ずこの地は守られん……」

守り手の二の長は小さく呟いた。

「ガルア殿、私は貴公を責めんよ。正直、虐殺に加担した輩は切り捨ててあまりある。だが、貴公のことは責めんよ」

他の誰もが責めるだろうから、と付け加え、攻め手の二の長は押し黙った。

守り手の二の長は目を閉じ、わずかに頷いた。

夕暮れ時の、刻々と色を失って行く空が以前はとても好きだった。それは、近づいてくる夜に胸が高鳴るからだった。真っ暗になるとこっそり抜け出して、夜営の真似事をしてみるのがコームのひそかな楽しみだったのだ。

父親に知れないように家を抜け出して、オスカの家に行く。すると、家の窓辺ではオスカが待ち構えていて、それからは少年たちだけの時間だった。

そのオスカは、もう、いない。

今は夕暮れ時の空を見るとひどく寂しくなる。

村の外にはハルモニアの軍隊がとりまいていた。夜襲を警戒して、日が暮れてくると村のところどころに篝火が焚かれた。最近では、子供たちにも見張りの当番が割り当てられていた。戦力になる兵をなるべく休ませるためだという。

近所の老婆は、子供にこんなことをさせるなんて、と泣いていた。しかし、コーム自身は見張りについては別に異論はなかった。むしろ、戦士の仲間入りをしているという誇らしさを感じていた。

「コーム、お前は明日だったか?」

配給を受けに本陣に行くと、顔見知りの戦士が訊いてきた。

「うん。ビルセさんと組みだよ」

「そうか。なら明日だな」

「父さんは?」

「ガルア殿なら大丈夫だ。心配するな。お前こそ一人で大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。いつものことだから」

「そうか、なら気をつけてな」

「うん」

配給物をいれた袋を抱えて歩く自分を兵士がずっと見つめているのを感じる。道を曲がって、その視線から逃れられたとき、コームは思わず息を吐いた。それから、小走りに家に急いだ。家の前につくと、少年はあたりを憚りながら素早く中に入った。

それから、足音を忍ばせてベッドに向かった。

そこには、長身痩躯の男が眠っている。

あまりに静かで、コームは不安になった。

ゲドは静かに眠り続けていた。ときどき、苦しげに眉根が寄せられるだけで、呻き声もあげない。

コームは、ガルアとゲドとの斬り合いの後に取り残された。

自分の父親が友達の父親を斬ったのだと認識するまで時間が掛かった。自分のせいだ、と思った。でも、もし、自分が声を掛けなかったら、ここに倒れているのは父であったかもしれない。

どちらの結果も望んではいなかったのに。

父親は本陣へ向かって走り去ってしまい、戦士は只ひとり倒れている。コームは震える膝を無理に前に進ませて、ゲドに近づいた。

死んでしまった、と最初思った。が、すぐにそれが間違いだと気づいた。血が脈打って流れ出ていた。血が流れるのは生きている証拠だと誰かから聞いて知っていた。ともかく、生きているのだと分かった途端、コームは我に返って駆け出した。

布と傷薬を持って取って返すと、慣れぬ手つきで手当てじみたことをしてみた。傷にあてがった布は見る間に赤くなった。それが不安を募らせた。

泣きたくなるのをぐっとこらえて、コームはゲドの長身を引きずりだした。向かうのは自分の家だ。小柄なコームには大変な作業だった。しかし、助けを頼める者はいなかった。そもそも助けを求めても誰も助けてくれないだろう。

この人は〈翔〉だったから。でも――

こんなところでこんなふうに死んでいいはずがない。

それだけを一心に思って、歯を食いしばり、コームはゲドを運んだのだった。

以来、三日たった。

コームの家はすなわち守り手の二の長の家だ。この場合、ゲドにとって一番安全だと思った。その判断は正しいともいえたし、正しくないともいえた。

村は取り囲むハルモニア軍の動静にしか注意を払う余裕はなくなっていたのだ。誰の家の中で誰が横たわっていようと気にする者はいない。

もう、コームは家にあった癒しの札や傷薬をほとんど使ってしまっていた。

それでも、この人は死んでしまうのだろうか。

にじみ出る涙をこらえようとコームは目をこすった。

そもそも(こと)は、攻め手が出立してから間もなく起こった。

出て行ったばかりの攻め手の旗がエゥナーナ・イ・フォェルトの外に翻ったのだ。

旗は、ハルモニア軍の中央にあった。まるで、攻め手がハルモニア軍を率いて戻ってきたように見えた。

正確に言えばエゥナーナ・イ・フォェルトはハルモニアであり、攻め手の部隊もハルモニア軍に違いなかったのだが、この辺りで彼らをハルモニア軍と考えている者は全く居なかった。それだけ、〈戦場の鷲〉がハルモニアという国にあっては異質だったと言える。

その旗を掲げた軍隊がエゥナーナ・イ・フォェルトを取り巻いて、ピタリ、止まった。

何事か、と誰もが思った。

そこで、父は使者を送った。

使者は待てど暮らせど帰ってこなかった。

「ガルア様と言うのはどなたで?」

ある日痺れを切らして守り手の陣にやってきたのは、旅商人だった。

エゥナーナ・イ・フォェルトを軍隊が取り巻いて以来、守り手は村の中央広場に陣を敷き、ガルアはそこに詰めている。コームはたまたまガルアに届け物をしに行って居合わせた。

「いつまで私らはここに足止めされるんで?商売と言うものは常に動くんです。失礼な言い草ですが、こんな辺境の地にずっと留め置かれては困るんです」

「しかし、外はあの状態だ。何が起きているのか分かってからにしたほうがいいのではないか?」

「ですが、別に戦闘が始まったわけじゃないんでしょう?」

父の制止を振り切って、商人は出て行った。

が、その夜、商人は転げるように戻ってきたのだった。

コームがそれを知ったのは朝になってからで、えらそうに出て行ったくせにだらしない、と笑ったものだ。この話をすぐにオスカに教えてやろうと、いつもの小川にかけていった。

「な、馬鹿な奴だろう?」

面白おかしく話を終えたコームとは逆にオスカは暗い顔をしていた。

「……その人がね」

「どうしたんだよ」

「見たって言ったんだって」

「何を」

「しばらく前におじさん、使いを出したじゃないか」

「え?ああ、うん、あれか」

「その人が殺されて、さらしてあったんだって、道に」

「なんだって?」

「それで、そこにセグノ様がいて、ハルモニア軍の将軍と仲よさそうにしゃべっていたって言ったそうだよ、その人は」

「そんな――そんなわけないじゃないか!信じるのか、それを」

「ううん、僕は信じない。でもね――」

「なんだよ」

「……」

オスカは何も言わなかったが、ひどく悲しげだった。

オスカが明敏に覚っていたことにコームもすぐに気がついた。

奇妙なやりとりが始まったのだ。表面的な友好の態度の裏でヒソヒソと流れる悪意ある噂。たまたまエゥナーナ・イ・フォェルトに居合わせただけの外の人間は、しがらみもはばかりもないだけに、さらにあからさまだった。

仲間うちの統制は割と上手くいった。なんとなれば、コームは子供たちの間では絶対権力者だったし、子供同士の世界は大人のそれとはまた違う秩序を持っていたからだ。

大人の方はそういう風にはいかなかった。

しかし、〈翔〉を悪し様に言う人々を見るたびに力及ばずともコームは食ってかかった。オスカのほうがそれを止めて回っていたぐらいだ。

「悔しくないのか!」

「悔しいよ。でも、思うことを止めさせることってできないから」

「なんだよ、それ」

オスカは黙って首を振る。

あきらめるのか。

「ったく、馬鹿ばっかりだ」

コームにはあきらめきれない。

しばらくたつと、いろいろな物が配給になった。食料その他もろもろの物が一度広場の本陣に集められて、分配しなおされる。

ある夜のことだ。

コームは久しぶりに夜の村に出てみた。普段なら密やかなのに、今は村のあちこちに篝火が焚かれ、風景に陰影が踊っている。ガルアはずっと本陣に詰めているので、コームが家の者に見つけられて叱り付けられる心配は無かった。

コームはオスカの家へと向かった。このところ疲れているみたいだったから誘おうかどうしようか迷ったのだが、一応、廻ってみたのだ。

そこで忍び出るオスカを見つけた。素早く家の裏に回るオスカを見て、悪戯心が出た。

きっと、小川に行くんだ。そっと近づいて驚かしてやろう。

コームがオスカの後をついて行くと、案の定、オスカは小川へと近づいて行った。いつもなら、オスカはそこで小川に映る月を眺めたり、夜にしか見られない小さな虫を探したりしだす。でも、このときは違った。そのままバチャバチャと小川に入り、持っていた網で魚を捕りだしたのだ。コームの中でムクムクと怒りが湧いてきた。

「おい!」

声を掛けると、オスカがびっくりしたような目をこっちに向けた。

「何やってるんだよ!」

「……」

「お前、隠れて魚捕ってるんだな。それ、自分のものにするんだな。食べ物はみんないったん本陣に出すことになってるの、知ってるだろ!」

ずんずん近づいていって、大柄なオスカを見上げてみると、思いがけず険しい表情だった。

「君のとこはいいよ、コーム。おじさんがいるから」

コームには訳が分からなかった。

「どういう意味だよ」

「おじさんは戦士だから。戦士の分の配給は僕らより多いんだ。僕らに割り当てられた食べ物じゃ全然足りないんだ」

オスカがコームにこんなにも激しく言葉をたたきつけた事はなかった。

「僕はリィテンに……」

突然、オスカは言葉を止めた。コームがあっけにとられて見ている前で、大粒の涙が転がり落ちた。

「言いたきゃ言えよ、おじさんに」

捨て台詞を残してオスカが駆け去ると、コームは一人闇の中に残された。

次の日、昼ごろコームはオスカの家に行った。

オスカはエムシントと一緒に畑の雑草を抜いていた。オスカがコームに気づいて、何か言いかけてやめた。コームはオスカのほうを見ずに、エムシントに袋を差し出した。

「なあに?」

「あげます、これ」

ぶっきらぼうに言ったコームを不思議そうに見てから、エムシントは袋を開けた。袋には木の実と干し肉とがいっぱいに入っていた。

「どうしたの?どこで……」

「あったから。うちは僕しかいないからいらないんだ」

エムシントは、コームをじっと見つめた。コームは目をそらさずに見つめ返した。ふいに、エムシントはコームを抱き寄せた。

「優しいのね、コーム。でも、こんなことをしてはいけない。もう、二度としないで。あなたが優しいのは分かってるから」

コームはエムシントの腕の中にいて、かぁっと顔に血が上るのを感じた。慌てて身をよじってエムシントから逃げ出すと、叫んだ。

「優しいなんて男に対する褒め言葉じゃないよ」

すると、エムシントは柔らかく微笑んで、言った。

「そうね。ごめんなさい」

とても綺麗だった。もし生きていたら、コームの母親もこんなふうに微笑んでくれただろうか。

なんだかどうしようもなく気恥ずかしくなって、コームは駆け出した。後ろから誰かが追ってくる。きっとオスカだ。ひとしきり走った後で、立ち止まると、やはりついてきたのはオスカだった。二人でハアハアと荒い息をついた後、オスカが口を開いた。

「……ごめん」

「何が」

「いろいろ……」

「いいよ」

憮然とした表情のままのコームを見て、オスカは穏やかな笑みを浮かべた。ここしばらく見ていなかったお馴染みの笑みに、コームも表情を和らげた。

起きてしまった悪いことの中にはあらかじめ分かったはずのことが(たま)にある。そんな時、いつもコームは後悔するのだ。考えれば分かったはずなのに、なんて自分は馬鹿なんだろう、と。

これも、きっと分かったはずのことだ。

でも、分かっていたとしても、自分に何ができただろう。

コームはそれでも、後悔した。

あの、穏やかな家族のために何かできたのではないか、と。

きっかけはきっと些細なものだったのだと思う。食料を隠していたとか配給が足りないとか、そういった、ごく、些細なことだ。

ともかく、コームが気づいたとき、人々は怒り狂っていて、あちこちから〈翔〉の家族を家から引きずり出していた。誰かが石を投げ出すと、間もなく、それは雨霰のように数が増えた。

コームの脳裏を掠めたのは、オスカのことだった。考えただけで胸が悪くなるのを無理に抑えてコームは走った。そして、まさに、家から無理やり出されるエムシントを見たのだ。

「何をなさいます!リィテン!リィテン!」

「母さん!」

「おい、こいつ、剣を抜いた!」

誰が誰だったのか、わけも分からず、コームは男のうちの一人に後ろからしがみついた。

「やめろ!やめろ!」

「どけ!」

強く振り切られ、小柄なコームは文字通り後ろに吹き飛んだ。地面に頭をぶつけてぼーっとなった。どうにか、身を起こしたときには、四、五人の男がオスカたちをどこかに連れ去る後姿しか見えなかった。

だめだ、僕じゃ、だめだ。

「とうさん!とうさん!」

コームは守り手の詰める陣へと走った。

「コーム、今は駄目だ!ハルモニアが動いた。ガルア殿に会うことは……」

「でも、大変なことが!皆が!攻め手が!」

なかなか話が通らなかったのをコームは後々まで(うら)んだ。

結局、守り手の一隊が事を収めに出たのはずいぶん後だった。ついて行ったコームは、守り手たちがはたと止まったのを不安に思った。

「父さん……?」

「来るな、コーム!」

息を呑んだ姿勢のまま固まっている父に声を掛けると、鋭い応えが返ってきた。それでも、コームは前に出た。そして、その光景を目にして、思わず父の長套(マント)を強く握った。

「そんな、オスカは……」

「……ガルア殿、いかがいたしますか」

「ここを封鎖せよ。手の空いた者で弔いを……」

「全部埋葬するまでどのぐらいかかるか……」

呟いた守り手がガルアに睨まれて口をつぐんだ。その腕を別の守り手が掴み、あごで陣のほうをしゃくると、目礼だけして去って行った。

父子だけになると、コームは堪らず言った。

「鷲が、(エゥナーナ)がこんなことするなんて」

「……」

「あの時、死んでも離すんじゃなかった。死んでも守りたかったのに。離さなければオスカは生きていたかもしれないのに!」

途端に、ぱぁんと音がした。

父が自分を殴ったのだと分かったのは、尻餅をついてジンジンする頬に手をやってからだった。

「死ぬなどと、軽々しく口にするな!皆、生きたくて生きたくて、生きたいと思いながら死んでいったのだ!」

コームは父を見上げた。父は口元を震わせ、拳をわなつかせていた。

――泣いている。

涙こそ一滴もこぼさなかったが、泣いているようにしか見えなかった。

やがて、その激情の一瞬が過ぎると、ガルアは疲れたようにコームを見下ろし、手を貸して立たせた。

「すまん。お前が悪いわけではないのに。許してくれ」

コームは何か不思議な心持ちになって、ガルアを見つめていた。ガルアは、コームから視線を外し、遠く、山並みを見つめると、強く小さく呟いた。

「くそ、〈翔〉が帰ってきさえすれば!」

それを聞いて、コームは、あ、と思った。

父は、攻め手のことを固く固く信じていたのだった。それと同時に、コームは父を信じていなかったことに気づいた。父も周りと同じで攻め手が、〈翔〉の部隊が、裏切っていると思っているのだと思って憤慨していた。

同じことだ、と思った。

今、この瞬間まで、自分は無意識に父を信じていなかった。攻め手を信じきれない人々と、父を信じていなかった自分と、どれだけの違いがあろう。

あの時も夕暮れ時で、辺りは橙に染まっていた。

眠るゲドの上には窓から斜めに長く橙の日が射している。

コームはひとつ溜息をつくと、座っていた椅子から立ち上がった。そろそろ夕食の用意をしなければならないのだが、すぐに行動に移す気になれず、ぐずぐずと窓の外を眺めた。

頬に当たる弱弱しい陽の光が、それでも暖をもたらしている。

ぼんやりと眺めていたのだが、人々の(とよ)みが村の入り口の方から聞こえてくるような気がして、コームは伸び上がってそちらを見た。

カン、カン、カン。

カン、カン、カン。

早鐘が、鳴る。

――なんてこった。

警鐘が乱打されるのにあわせ、コームの身の内を駆ける血潮も脈打った。

始まった---

何ができるわけでもないのに、外に飛び出しかけたとき。

ぎし。

後ろで何かがきしむ音がして、コームは息を呑み、慌てて振り返った。

「おじさん」

ゲドが緩慢に身を起こすところだった。コームは何故だか涙が出そうになった。

「良かった、このまま死んじゃったら、どう、しよう、と……」

コームは言葉を止めた。

身を起こしたゲドは、コームのことなど気にもしていない風に自分を覆っていた毛布に視線を落としている。毛布を見ているのではなくて、ただ、見開いた目線の先に毛布がある、といった感じだ。ゲドは右手をゆっくり動かして、包帯の巻かれた右目をそっと触っていた。コームはひどい罪悪感に駆られて口をつぐんでただその様子を見ていた。

「俺の剣は」

初めてゲドがコームを見た。その黒い瞳には(いろ)が無かった。

こんな()をする人ではなかった。

体格が良くて口数の少ないゲドをコームは少し怖いと思うこともあったが、前なら自分やオスカに向けられる瞳はいつも柔らかなものを湛えていたのだ。

「俺の剣は」

再びゲドが問うたので、慌ててコームは

「あるよ」

と、大事にしまっていたゲドの剣を引っ張り出してきた。

ゲドは渡された剣の鯉口を切ると、しばらくその滑らかな表面を眺めていた。映った一つ目を感慨も無く見つめ返している。やがて、その表面をそっと撫でると、ゲドは剣を鞘に納めた。

「他の物は」

訊かれると思っていたので、コームは黙ってゲドが腰につけていた小袋を差し出した。これまた黙ってゲドは小袋から徽章鉤(きしょうこう)を取り出した。

じっと見入るゲドを見ていて、気がついた。

剣も徽章鉤もきっとオスカかエムシントが清めたのだ。

「おじさん、何か、食べる?」

ゲドの動きに穏やかならぬものを感じてコームは努めて明るく言った。まるで、何にも気づいていないように。

ゲドは諾とも否とも言わなかったが、コームは勝手に食べ物を運んだ。ゲドは逆らわずに黙々とそれを食べた。会話は無かった。コームも何を言っていいのか分からなかった。

「そのベッド、使っていいよ。父さん、帰ってこないから」

「……」

ゲドは何も言わなかった。乾いた表情のままだった。

コームはその夜、膝を抱えたまままんじりともしなかった。何かがどうしようもなく哀しかった。

夜風は冷たかった。

夕暮れ時の突撃は向こうの命令に乱れでもあったのか、小規模なもので終わった。

「もっと火を焚け!警戒を怠るな!」

今夜の警戒は攻め手が当たることになっている。〈籠〉を率いる二の長のトアが陣をくまなく見て周り、本陣に使っている建物に帰ってくると、守り手の二の長ガルアが難しい顔をして座っていた。トアは虚無的な笑いを浮かべてみせた。

「どうした、ガルア殿。今夜は我が隊の番のはずだぞ。眠れるときに眠っておいていただかないと、明日に響く」

「ああ」

答えたもののガルアは動かない。

ふ、と息をついてトアは軽い調子に口調を変えた。

「どうしたものかな。この戦況をひっくり返せるだけのものがあれば話は簡単なのだがな」

「……ある」

あまりといえばあまりな応えに、思わずトアは口を開けたまま固まった。

「いま、なんと?」

「あるのだ、我らには。そして、おそらく、それこそがハルモニアが襲ってきた理由」

「いったい……」

「明日の朝早く、長に御出座(おでま)し願う」

「〈長〉、だと?守り手のか」

「そうだ」

「守り手の長は空位なのだとばかり……」

「いや」

「その長が戦況をひっくり返せると言うのか。馬鹿な。人ひとりで何かできる段階はもう終わっている」

「人、か」

ガルアは言葉を切ると、目を閉じた。疲労がその(おもて)に滲む。

「人には身に余る力をお持ちなのだ」

「ならば……ならばなぜ、今まで!」

「……力は力に過ぎん。振るえばハルモニアとの敵対は決定的なものになり、戦は長期的になる。それを戦い抜く力が我らにあるか。戦い抜く覚悟が我らにあるか」

「だが、ハルモニアにはもはや友好関係を取り戻す気は無かろう」

「ああ。だが、理由はもうひとつあるのだ」

「その理由とは?」

「人の手に余る力ゆえだ。悪くすれば――」

――ハルモニア軍を粉砕するだけでは済まぬかも知れぬ。

告げるガルアをトアは半信半疑で見つめるばかりだった。

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