一杯おごろう


なあ、こんど〈あそこ〉に入ってみようぜ。

そうだな。で、もらっちまおう。

それがいい。どうせだれの物でもないんだから。

え?でも、あれはひとのだって……

そんなやつ、いるもんか。

でも、取りにくるって言ってたよ。

いつ来るんだよ。

大丈夫。そんなの、〈あそこ〉に子供を近づけないための【うそ】なんだから。

そうなの?

そうだよ。だからな、こんどの夏まつりの日に入ろう。

まい年ひとつずつ増えてんだ、きっといっぱいある。

楽しみだな。


「と、とりあえず、あいつらを片付けてからですね、大将」

迫り来る魔物の群れに、さすがにエースはジョーカーとの言い争いをやめた。

絶体絶命、といっていい、層の厚い群れを前に、さすがに冷や汗が流れたのだが。

「ああ、さっさと行くぞ。もどったら一杯おごろう」

返ってきたのは、思いもかけぬ穏やかな声だった。珍しい口調に思わず振り返ると、普段はあまり表情を変えぬゲドが穏やかな笑みを浮かべていた。

突然、身の内に、自分は絶対に助かるのだという安堵とも自信ともいえる気持ちが湧いてきた。

「ひゅーーー、これはこれは」

「大将からのおごりとは、光栄だ」

口々に軽い口調で言葉を交わして身構えたクイーンもジョーカーも同じ気持ちだったに違いない。

怯えを見せていたアイラも気を取り直して紋章を使う体勢に入っているし、それを庇う位置に立っているジャックにも迷いの色はない。

俄然やる気になって、エースも走りよって武器を構えた。

「よおし、行くぜぇ!!!」


険しい山道を越えると、カレリアの門が見えてくる。

近づけば近づくほど、無骨さが目につく門だ。

まあ、実用第一なのだからしょうがないといえばしょうがない。

十分に近づくと、小隊の先頭を歩んでいたエースは、立ち止まり、両の手を腰に当てて、その門を見上げた。

ビネ・デル・ゼクセに着いた時のような、爽やかな、明るさに満ちた感慨はない。

しかし、カレリアのもつ独特の脈打つような活気あふれる雰囲気が漂ってくると、

――帰ってきた。

という気分になるのだから、最早、カレリアとは切っても切れぬ腐れ縁のようなものだ。

ひとしきり眺め終わると、エースは少し離れて歩いてくる仲間たちを振り返った。ことに、一番後ろを歩いている背の高い男に目を向ける。

さあて、おごってもらえるかな。

だが、実のところ、エースにはおごってもらう権利が未だ残っているのかどうか分かっていない。というのは、魔物の囲みを破って、湖の城に生還を果たしたその当夜、羽目を外すほどしたたかに飲んでしまって、記憶が定かでなかったのだ。

たぶん、そんときにおごってもらっちまってるんだろうなあ。

エースという男は存外、雰囲気というものを重要視していて、

――おごってもらうんだったら、しゃんとしてるときにしてもらやあ、感慨もひとしおだったろうになあ。

と、残念に思っていた。

「大将、じゃ、俺はちょっくら本部に報告に行ってきますわ」

近づいてくるゲドにエースが声を掛けると、

「いや、本部には俺が行こう」

「え?」

「お前は馬を調達してくれ。数日借りるだけでいい」

「は?」

「それと。皆、何日か俺にくれ」

「何かやるんですか、大将」

やっとまともに口を挟んだエースに、ゲドはひとこと、

「いっぱいおごろう」

途端に、

「そいつは楽しみじゃ」

「期待してるよ、ゲド」

「馬に乗って行くのか?」

「……」

嬉しそうにさんざめいている仲間たちをよそに、驚いているのは自分だけなのか、とエースは半ばあきれ半ば考え込んでしまった。

たとえば、なんで馬がいるのか、とか。

たとえば、どこに行くのか、とか。

こいつらは考えないのだろうか。

しかし、ひとつ謎が解けた。

――まだおごられてなかったのか。

時は、初秋であった。

夏の名残の暑さの残るよく晴れた天候の下、ぽくりぽくりという馬の足音が心地よい。

「こりゃまるっきりピクニックだな」

エースが漏らすと、ジョーカーがすかさず、

「良かったな、エース。お前さんの好きなアットホームな雰囲気というヤツではないか」

と、からかった。

「そうは言うがなあ……」

エースは手綱をほとんど使わずに、足だけで馬を操っている。

「いったい、どこに行こうってんだ?だんだん道から外れてきちまったぜ」

「そりゃ、お前、(たいしょう)の御心のままにじゃ」

前を並んでゆくクイーンとゲドは何やら穏やかに語らっている。いや、寡黙なゲドを相手に〈語らい〉と言えるかどうかは怪しいところだが。

「あんたもそうだが、クイーンもクイーンだ。ちっとは疑問を持ってみるとか質問してみるとか考えないもんかね」

「お前さんも訊かなかったではないか」

「そりゃあ……その場の雰囲気に押し切られちまって……」

ジョーカーも視線をエースから前方に向けた。

「どうせ、暇をもてあましとるんじゃ。先が分からん方が面白い」

ジョーカーはもう一度、横を行くエースに視線を戻した。

「いいな、じじいは、人生なんも考えてなくて」

「そういう言い方をすると、まるでお前さんが考えて人生を送っているように聞こえるのう」

「あのな。俺には大胆不敵、豪華絢爛にして壮大な人生設計ってヤツがあって、日々、着々とそいつに向かって微に入り細に渡った計画通りに進んでるの!」

単語を並べ立てて相手を煙に巻き、エースは会話を切り上げた。そして、後ろを振り返る。

馬に慣れないジャックが手綱を握り締め、悪戦苦闘をしている。

「おーい、大丈夫か?顔上げろ、ジャック。前見ろ、前」

一生懸命うなずいているが、なかなかうまくいかないようだ。

カラヤ馬に乗りなれていたからだろう、アイラのほうは慣れたものだった。少女が、危なっかしそうなジャックの傍を心配そうに見ている様は、いつもとは逆の構図である。

これは微笑ましい光景と言うべきか。

ぽくりぽくりと、やはり蹄の音は心地よい。

道行きは丘陵地である。

それはいいのだが。

街道から外れだして久しい。

ゲドに限ってまさかとは思ったが。

道に迷ってるんじゃあ……

のどかな風景と反比例して、エースは不安になってきた。

不安はもちろん、道に迷うことに対するものではない。根無し草の傭兵生活だ。地理に明るくない場所に派遣されることもざらである。

どちらかといえば、エースの不安は、

「予想外の出来事が持ち上がった場合、自分が一番に貧乏籤を引きやすい」

ことにある。

エースは前を行くゲドに声を掛けた。

「大将!」

ゲドが馬を止め、律儀に振り返った。

「どこまで行くんです、大将。まさか、行った先には人っ子一人いない秘蔵のブドウ畑があって、それを摘み取るとこからはじめるなんていうんじゃないでしょうね」

答えが返ってくるまで、少し、間があった。

「人がいなくなっている可能性はあるな」

途端に、しまった、と思った。冷や汗がタラリ流れる。仲間の視線が突き刺さっているような気がするのは気のせいではあるまい。

「だが、まだいると思う。見かけるからな」

「何をです?」

「……」

ゲドは答えを返さなかった。が、慣れた者にしか分からぬ程度の微かな表情の動きがあった。それは。

――強いて言えば、〈悪戯っぽい笑み〉?

確かに、エースはその瞬間、空恐ろしくなったのだ。

機嫌がいい。恐ろしいほどに機嫌がいい。

気がつくと、ジョーカーがエースを見ながらニヤニヤ笑っていた。

一夜を夜営で明かすと、また馬の道行きが始まった。

二日目ともなると、ジャックの馬の扱いも慣れた物になっている。もっとも、持ち前の運動神経と動物好きがものをいっている部分も大きい。比較的大人しい牝馬をあてがったとはいえ、その才能には舌を巻く。

心配事が一つ減ると、やはり最初から抱いていた疑問の方が大きくなってくる。

ゲドは自分たちをどこに連れて行こうというのか。

いや、根本的には、

――おごられるってのは、こんなに苦労するものなのかねえ。

口にするのをやめておいたのは、とたんにジョーカーかクイーン辺りから集中砲火を浴びるのが目に見えていたからだ。

こいつら、自分が正当な論理をはいてるかどうかよりもへらず口のためのへらず口を叩くからな。

太陽が中天を過ぎた頃、なだらかな坂道が急にきつくなった。

「あの坂を越えれば目的地が見える」

「へえ?」

ゲドが顎をしゃくる方向は、人の通った形跡とてない。

「道になってないですね」

「道は別にあるのだろう。俺はここからしか行ったことがない」

いったい、どんな状況で辿り着いたのやら。

ゲドはジャックを見た。それと気づいてジャックが、大丈夫、とうなずきながらひとこと返した。すると、今度はエースに視線が向けられた。

「分ぁりました、先頭、行きます」

「俺は殿(しんがり)につく」

「了解。ジャック、アイラ、お前らは真ん中だ。ちょいと面倒な坂だが、落ちるなよ。来いよ、じじい」

「誰がじじいじゃ、誰が」

「あんただよ」

軽口の応酬を続けながら、エースは真っ先に馬を急勾配に向けた。そのまま、一気に上る。

「こりゃあ……」

見下ろす丘陵地のさほど遠くもない所に、名前は分からないものの何かの畑がこじんまりと広がっていた。

豊穣な実りの光景。

「たいしたもんだ」

確かにピクニックの甲斐はあるかもしれない。

エースは気を取り直して、馬の手綱を引き絞った。

坂を上れば当然、下りもあるわけで、難しいのはこの下りの方だ。エースには駆け下りることもできたのだが、仲間のことも考えて、敢えてゆっくり勾配が緩やかになるように道を選んでやった。

馬の足元に注意を配りながら先へ先へと下りていたとき、ふ、とエースは視線を感じて前方に目を向けた。ジャックほどではないが目はいいほうだ。

子供、かな。

まだ遠くで、小さく見えるが、子供たちの集団はエースに気づいて、こちらを指差しながら何事かを言い合っている。

やがて、その集団がこちらを指して駆けて来た。そして、おっかなびっくり微妙な距離を置いて止まった。

「あっちから来たの?」

話しかけてきたのはたぶん、リーダー格の少年だろう。あっち、というのは今降りてきた坂だ。

「ああ、そうだ」

答えると、興奮したように、ばあっと子供たちが沸いた。旅人が物珍しいのだろう。ことに、道でないところから現れるとなると。

「ね、おじさん、名前は?」

「俺はエース。あっちの怖そうな女がクイーン。で、向こうのボケ爺さんがジョーカー」

覚えてろよとばかりに、ジョーカーとクイーンが首を掻っ切る真似をした。

「あの、苦労して馬を操ってるのが弓マニアのジャックとアイラだ」

「マニアって何だ?」

ジャックを振り返ってアイラが訊き、対してジャックは小首をかしげた。

「それからな、そろそろ見えてくるかな……」

「まだ来るの?」

「ああ。ほら、あれだ、見えてきた」

なぜかは知らないが、子供たちが身を固くしたように思ったが、エースはおどけた調子で続けた。

「あれが我らが大将。名前はゲド」

とたんに、子供たちは見る間に青ざめた。

「逃げろ!」

リーダー格の少年が叫んだ途端、わあっとばかりに脱兎の如く走り出したものだから、エースはあっけに取られてしまった。

慌てたのだろう、そのうち一人が転んだが。

「待ってよ。置いてかないでよ」

叫んでいるのに、立ち止まる者もいない。

薄情なもんだぜ、と思いながら、仕方なくエースは馬を降り、子供に近づいて行った。が、いやだ、いやだ、とでも言いたげに怯えた様子で首を振りながら少年があとずさるのには、閉口してしまった。

「〈中年男、少年を襲う〉の図じゃのう」

「あのなあ……。自分は関係ないような顔しやがって」

「泣かせたのはお前じゃろ」

「違う!俺じゃない!」

「皆、そう言うんじゃ」

「あーのーなー」

「何やってるんだい、まったく」

いつものごとく言い合いを始めた二人の脇をすり抜けて、クイーンが少年を立たせた。

ゲドが追いついたのはちょうどそのときだ。

とたんに、少年がさっとクイーンの後ろに隠れた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、言うこときくから助けて」

悪鬼に襲われたかのように、子供はワンワン泣きながらそれだけを繰り返した。

「大将、いったい何やったんです?」

ゲドは口を中途半端な大きさにあけたっきり動かなかったが、しばらくしてひとことだけ言った。

「いろいろだ」

説明が面倒になったんだ、きっと。絶対。いや、確かに。

「だが、こうまで怯えられる覚えはない」

「どうするんです?置いてくってわけにもいかないでしょう?」

ジャックとクイーンが二人がかりでなだめすかしているのを横目で見ながらエースが問うと、ゲドは子供の真正面に立って、見下ろした。

「ロルレアの者か?」

クイーンの腕をしっかり掴みながら、子供は上目遣いでゲドを見上げた。

「食べない?」

一瞬おいてから、どっと笑い声が上がった。

その中で、ゲドはほんの少し憮然としているように見えた。

それで、と口火を切ったのはエースだった。

子供は自分が食べられてしまう心配がないと分かってからは、クイーンの前に乗せられて、大人しくしている。大人しくこそしているが、きょときょとと辺りを見回して興奮をおさえ切れない様子だ。

いま泣いたカラスがなんとやら、だ。

エースは、子供に向けていた視線をゲドに切り替えた。

「結局、どこに向かってるんです?」

「ロルアル館。ロルレアのロルアル館」

「ルロレアのルロアル館?早口言葉ですか、そりゃ」

エースの間違いの方を無視して、ゲドは続けた。

「どこにも属さない町だ」

「独立を保ってるってことで?」

「いや。どちらかというと、無視されていると言った方がいい。街道から離れているうえ大した特徴もないせいで、グラスランドからも円の神殿からも忘れ去られていた節がある」

「要するに、 が無い、ということじゃな」

そうだ、とゲドがうなずいた。

少し前から、考え込んでいたクイーンが歌うように節をつけて呟いた。

「ロルアル、ロルレア、ロルレアリン……」

ゲドは少し眉を上げた。

「それで、ロルアル館というのは?」

町長(まちおさ)の館、ということになる」

「で、それが奢りとどう関係があるんですか?」

エースが訊いた時、前方が騒がしくなった。

見ると、町の入り口辺りに、人々の集団が見える。剣を持っている者もいないではないが、ほとんどは(くわ)だの(すき)だのをへっぴり腰で構えているだけだ。

「またかのう」

「ああぁぁぁぁ、どうして、いつもいつも」

「そりゃあんたが悪人面だからだろう」

他人(ひと)事だと思うなよ、クイーン!」

「いつも思うんだ。私とジャックとアイラだけだったらこんな歓迎うけないってね」

「そりゃあ――」

そこで、エースは詰まってしまった。

そうなのだ、クイーンは(腹の立つことに)黙って立ってりゃいい女だし、ジャックも(これはいつものことだが)黙って立ってりゃ美男で通る。アイラも異国情緒あふれる少女に過ぎない。中身がどうであれ。

だが、とエースは握りこぶしに力を入れた。負けてなるものか。

「俺だって、いつもこんな歓迎を受けるような面ぁしていない!だいたい、この中で一番悪人面なのは――」

はたとエースは止まったが。

「――俺だな」

あっさりゲドが引き継いだ。

自覚はあるんだ、この人。

妙なところでエースは感心した。

「しかし、一番胡散臭いのはお前さんだと思うがのう」

「黙れ、クソじじい。胡散臭さの権現みたいな存在のクセして」

「どちらかというと、ジョーカーが〈うさんくさい〉でエースが〈信用ならない〉だと思うな」

サラリとアイラが言い放ち、エースとジョーカーは揃って情けない視線を少女に向けた。少女の隣でジャックが得心の入ったような面持ちでコクリとうなずいたものだから、二人の視線が険しくなった。

クイーンの肩が楽しげに揺れている。

肩を震わせて笑っているクイーンの前にちょこんと大人しく座っていた子供が、おーい、おーい、と嬉しげに呼ばわった。

「見て見て!居たんだよ!本当に来たんだよ!取りに来たんだ!!」

「返して!私の子を返して!」

天真爛漫な子供の叫びと、悲痛な母親の叫びがどうにもちぐはぐだ。

「ここじゃ、誘拐犯か」

エースは思わずつぶやいた。

「クイーン」

ゲドがひとこと言うと、クイーンはひらりと馬を飛び降りて、子供も下ろしてやった。

地面に降り立つと、いかにも嬉しげなパタパタという音を立てて、子供はまっしぐらに母親の元へと駆けて行く。

「ね、本当に来たんだ。お館のお爺さんのおっしゃったとおりだったんだよ!」

あっさりと人質が解放されてしまうと、振り上げた鍬だの鍬だのの行き場はなく、なにやら戸惑ったような表情がチラリホラリと現れる。

武器が下がりかけたときに、ゲドが一歩進み出た。

ザッと揃って武器が上がる。

「何か誤解があるようだが、我々に敵対の意思はない」

静かにゲドは言った。

といって、武器は下りない。

そんなもんだろうなぁ、とエースは思った。

大将、交渉なんかには不向きだよな、どれ、ここはひとつ――

一歩前に出ようかと踏み出したときに、相手方の人垣が割れた。

こりゃ、真打登場ってとこか?

〈真打〉は、一人の老人だった。

(かた)りかと思えば、本物じゃないか。ずいぶんと(なが)の御無沙汰だね」

いかにも知り合いといった感じで語りかける老人の目の前にゲドは進み出た。

「面識があるだろうか」

「大有りだ」

「すまないが分からない」

「だろうともさ。あのときの儂はほんの若造だった。ほれ、あのやたらとあんたたちに突っかかってきた馬鹿がいただろう」

ゲドの中にぼんやりと記憶の中の生意気な青年が浮かんできた。

「ああ――確か名前はルフ」

「御明察」

「ならば、今はロルアル館の主なのか」

「いいや。もう隠居だ。館主は儂の息子だ」

ゲドは眩しげに老人をつくづく眺めた。

「年を……取ったな」

何がおかしかったのか、ルフは途端に声を立てて笑った。

「あの、ルフ様、そうしたら、この方は――」

「そうだ、ゲドさんだ」

「本物ということで?本物というのはつまり、本当に本当という意味で?」

「他にどんな意味がある」

老爺の言葉が波紋のように周りの集団に伝播すると、人々はつかんでいた得物を下ろすのみならず、ゲドの前に次々と平伏した。立っているのは笑い顔のルフとあっけにとられている傭兵たちのみ。

普段、表情をあまり変えることのないゲドもこれには少々慌てた。

「これは……?」

堪えきれずに笑いながら老爺は説明した。

「あんた、ここじゃ神様になっちまったんじゃ」

「神?」

平伏す人々を見下ろして、ゲドは二度三度と瞬きした。

「神というならあいつではないのか」

「〈炎の英雄〉?違うね。ここはグラスランドじゃない。ハルモニアに攻められたこともない。〈炎の英雄〉の名はここじゃたいした意味がない」

「ならば、俺の名などさらに意味がないだろう」

ところがどっこい、とルフはなぜか得意げに言った。

「あんたあ、雷を使うだろう」

「……」

「もともとここは雷神を信奉してたんだ。そうしたらな、混じっちまったんだ。長い間来なかった上に、実物を知る者はどんどんいなくなる。いや、時が経てば経つほど、知る者のほうが、あれは実のところ神の化身だったんじゃないかなんていいだす始末だ」

聞くうちに、ゲドの顔に不本意の表情がありありと浮かんできた。

それを見て、絶対にそういう顔をすると思っておったよ、と隠居はこれ以上ないぐらい可笑しそうに笑った。

豊穣の時期に〈神〉が来たとあって、村は一転、沸き立った。

そして、その〈神〉は少々困惑している、とエースは踏んでいる。

「大将、そろそろ教えてくれてもいいでしょう?『いっぱいおごる』の意味」

「ああ、なら、とうとうあんたも取りに来たんだな?」

答えたのは、先代・村長のルフで、今は自ら客人をロルアル館に案内しているところだ。

「取りに来た?」

「そう。昔々の話になるが。聞くかね?」

ひょい、とエースはゲドを見て、まあ、いいだろう、と判断した。

「聞かせてくれよ」

「簡単な話だ。五十年前、収穫の前に大雨が降った。そりゃひどいもんだった。あんときほどのひどい雨はその前もその後も経験がない」

「それで?」

「土砂崩れが起きてな、せき止められた水がここより上に溜まったんだ。崩れりゃ村は濁流に飲まれる、そんな位置だ。いつ崩れてもおかしくなかった。生きた心地がしなかった。人の手で何とかできるようなもんじゃなかった。そこに、だ――」

「ははーん」

エースは深くうなずいた。

「そこに炎の運び手が来てどうにかしちまったわけか」

「正確に言えば真の紋章持ち三人がね。以来、この村では秋になるたびに、その三人にその年の収穫で造った酒を奉納する事にした、ってわけだ」

「でも、なぜこんなところに来たんだい?グラスランドからはずいぶん離れてるじゃないか」

クイーンが疑問を投げると、ゲドはただ淡々と、

「俺たちはその濁流が欲しかった」

「ああ。――この下はグラスランドへの街道」

理解したらしいジョーカーが声を上げたので、エースにも分かった。

「そうか、ハルモニアの補給線か」

「土砂の流れを変えるのはグラスランドでの戦いのためだった。だから、本来、俺たちが感謝されるいわれはない」

「もしかして、あんた、だからずっと取りに来なかったのかい?」

く、く、とルフが笑った。

「本意がどこにあったとしても、村があんたたちのおかげで救われた事実に違いはない。あの炎の英雄殿は毎年取りに来てたよ。挙句の果てに、ここの酒の製法をチシャに持ち帰っちまった。やあ、本当にあの男は人に取り入るのが上手いよ。ワイアット殿は数年に一度ふらっと来ては持ってってたなあ。あの人に会うことはあるかい?今は何をやってるのかな」

「死んだ」

ゲドの答えは簡潔で、さすがの老爺も少々言葉を置いた。

「そう、か。――奉納も必要なくなったか」

「今あるワイアットの分は、ブラス城の騎士団長に送ってくれないか」

ルフは眼を細くして、フン、と鼻を鳴らした。

「騎士団長?〈銀の乙女〉に?あんたとそいつがどういう関係かは知らないが――」

「彼女はワイアットの正当な後継者だ」

珍しく、ゲドは人の話を遮った。それから、穏やかに付け加える。

「それに、きっといい酒を飲む」

じっとルフがゲドを見つめて、ほう、と息をついた。

「そうだった。あんたは地位なんかで人を測る人間じゃなかった。すっかり忘れておったよ。すまなかったな」

それから、気を取り直したように、

「どうだね、先に蔵を見て行くか?」

ゲドは自分についてきた部下たちを感慨深げに見回した。

「ああ、そうすることにしよう」

蔵は、村と畑との境界にある。そこに行き着く前に、親子が何組かおずおずとゲドに近づいた。

「あの……」

父親らしいのが呼び止めたので、ルフが足を止めて、人の悪い笑みを浮かべた。

「おお、そうだった、そうだった」

「……?」

ゲドは訝しげにルフを見下ろし、次いで、ばつ悪げにもぞもぞしている子供たちに眼を転じた。

「お前ら、坂で会ったな?」

エースが声を掛けてやると、皆が皆一様に困ったような顔をした。

ほれ、と誰かがリーダー格らしい少年をつつくと、その少年はつついた親を不満げに見上げたが、観念して一歩前に出た。

「俺たち、あんたの(ここで、また誰かがつついた)――ゲド様の酒、飲んじゃったんだ」

憮然とした顔でつけくわえる。

「夏祭りのときに。だって、誰も取りに来ないと思ったから」

生意気な表情で、ぐ、と見上げてくる。

ゲドは、その少年の真正面に立ち、取り巻いている不安そうな子供たちを順番に見回した。

「それで?」

「ごめんなさい」

ほとんど、やけくそのように言い捨てるのを、親たちのほうが慌てている。

「したくないなら、謝るな。すると決めたら心からしろ。でなければ意味がない。互いにな」

おやおや、なんだか人の親らしいことを言ってるよ、この人は。

エースは意外さに少々眼を見張った。

父親につつかれて横を向いていた少年が、パ、と顔を上げ、

「じゃ、あやまらねぇ!」

叫ぶと、すぐに、周りの子供たちに声を掛けた。

「逃げるぞ!」

とたんに、みな、親の手を振りきって、はしこく駆け出した。

「おい!す、すいません、あの悪ガキどもにはきつく言っておきますから!」

親たちは親たちで捕まえようと走り出している。

ゲドはといえば、口角がくっと上がっている。笑っているらしい。

それを見ると、ルフはク、クとまた小さく笑った。

「まあ、許してやってくれ。あいつらもひどい目にあったんだ。酒で酔っ払ってベロベロになって、次の日はぐったりしてるところに、親たちが殴りつけて怒ってたしな」

黙ったまま、ゲドはうなずいた。

扉を開けると、蔵の中に光がすっと差し込んだ。

暗がりに目を凝らすと、棚がいっぱいに並んでいて、そのどれもに樽がひしめき合っていた。

「これがあんたの取り分だ。取りに来ないからそろそろ置いとく場所がなくなりそうだったよ」

「すげぇ、これが全部大将のもんなんですか!」

いくら酒豪が揃っていても、これだけのものを飲み干すには何年かかるか分からない。これで酒代が浮く、と考えたエースはそんな考えが浮かんだことのほうに少し落ち込んでしまった。

アイラがコンコン意味なく樽を叩き、ジャックの方はサワサワと表面をなでている。

クイーンは酒樽をひとつ丹念に調べ、

「やっぱり」

「やっぱり?」

「ロルレアリンだよ」

「ロルレアリン?」

「そう。ロルレアリンといえば、知る人ぞ知る蒸留酒。味はいいけど数が無いもんだから、大金払っても買えるかどうかっていう幻の酒だよ。出所がどこかは謎だって話だったけど、こんなところに」

「大金ってどのぐらいなんだ?」

「一瓶五十万は下らない」

エースは辺りを見回した。小さくはない蔵におびただしい量の樽が何段にも渡って並んでいる。

「大将……」

ゴクリ、とエースの喉が鳴った。

「……金持ちだったんすね」

「野暮お言いでないよ」

ピシャリ、とクイーンが言った。

夕方になって始まった宴の仕度をアイラが手伝いたがり、ジャックもその傍でなんだかんだと世話を焼いている。

最初は、とんでもない、とか恐れ多いとか言っていた村人だったが、女たちのほうが先に手伝いに慣れてしまうと、今度は夜までのんびりしようとしていたエースやジョーカーまで、外にテーブルを並べる手伝いに借り出された。

笑いながら、クイーンとアイラがその上にテーブルクロスを広げた。

ジャックは、なぜかジャガイモをむき続けている。

ゲドとルフはロルアル館の前に昔からあるベンチに並んで座って、その様をぼんやりと眺めている。

「あの人は、本当に生きるのがうまかったね」

とつぜん、ルフが言った。

〈あの人〉が誰なのか、とゲドは訊かなかった。分かりきっていたからだ。だから、老爺となったルフの方を向きもせずに

「ああ」

と答えた。

「あんたはまだまだだと言ってやろうと思っていたが」

「……」

「あんたもだんだん分かってきたようだ」

満足そうに瞳を閉じて、ゲドはしっかり頷いた。

豊穣祭と歓迎の宴がごちゃごちゃになって、酒が入りだすと、さっぱり訳がわからない状態になっていた。

今では傭兵たちはすっかり村人になじんでしまっている。

ジョーカーとエースは宴の中心に居るらしい。

アイラは幸せそうにテーブルの料理をほおばっていて、両の頬がリスのように膨らんでいる。ジャックは、目の前の紫色の代物を無表情にフォークでつついている。

自分もグラスを傾けながらゲドは、少し中心から離れたあたりから盛り上がっている宴の中心を眺めていた。

「なあ、おい、あんた、お前」

少し甲高い呼び声が自分に向けられている事に気づくのに少しかかった。

振り向くと、木々の立ち並ぶ陰になったあたりに、昼間の少年が不機嫌そうに突っ立っていた。

ゲドはそちらに向かい、少年の真正面でピタリととまった。

少しの逡巡があって、とうとう、少年は口を開いた。

「ごめんなさい」

視線を下に向けたままで声も小さかったが、嫌々ではなかった。

「ああ」

ゲドが答えてやると、少年は顔を上げ、そこに傭兵隊長の笑みを見つけて、はっとなった。

「あんた……また、来いよ」

ゲドは静かにうなずき、言った。

「ああ。また、来年にでも」

ニ、と笑って少年は木々の間に駆けていった。

それを見送ってから、宴の方に向き直ると、ゲドをみつけたクイーンがやってくるところだった。

あるいは、少し前から佇んでいて、少年が去るのを待っていたのかもしれない。

それをクイーンはそれをおくびにも出さないし、ゲドも確めはしない。

クイーンは自分の持っているグラスを持ち上げ、ゲドに話しかけた。

「楽しんでるかい?」

「ああ。今は楽しんでいる」

「今は?」

「人生は〈今〉の連続だ。長かろうと短かろうと」

クイーンはもう一方の手に持ってきたロルレアリンの瓶をゲドのグラスに傾けた。黙っている二人の間で、トクトクといい音がした。

ドッと、宴の中心で人々が沸いた。

エースが何やら中心で手を大きく振り回している。

「あいつらのような人間の方が頭がいいのだろうな」

クイーンもそちらを見て、フフン、と笑った。

「買いかぶりだと思うよ」

再びゲドのほうを見て、からかうように言う。

「珍しいじゃないか、あんたがそんなに饒舌だなんて。酔ったのかい?」

「そうかもしれんな」

クイーンはつい、と視線をゲドに向けた。

夜の似合う男は、常なく柔らかい視線をクイーンの顔面(おもて)に返してから、円く円い月に、遠く漣めく喧騒に、質のよい酒の入った杯に、視線を順番に投げかけた。

胸元に止まっていたゲドの杯がす、と上がった。

「今日ここに在る人生に」

ゲドは微笑を浮かべ、いまひとたび、杯を空けた。

平成十六年十一月二七日 初稿

補足説明

大将,〈いっぱい〉奢ってます.