孤影、(はる)

北方の、しかも高山の秋は早足で駆け抜ける。クセスは地方都市にしてはずいぶんと賑わっている。それというのも、「世界の天井」とも呼ばれる山々の中腹にあるこの都市の美しい景観のせいでもある。

主に交易で栄えているカレリアとはずいぶんと趣を異にしている。

南部辺境警備隊に属する第十二小隊がクセスくんだりに赴いたのは、エースに言わせれば

「腕が物を言った」

からである。確かに、それが理由であろう。指令は面倒だったが、こなし終わってみれば、これまたエース曰く

「多めの報酬と世界に名だたる観光地での長期休暇」

が待っていた。

ジャックは街を見物に出かけるというアイラにつきあって出て行った。物資調達のために出て行ったエースは自分で思っている以上には真面目な性格なのだろう。クイーンとジョーカーが宿の一階にもうけられた酒場でのんでいるのは、いつもどおりだった。

ゲドはといえば、街の喧騒を耳に流しながら、あてがわれた宿屋二階の見晴らしのいい部屋から、道行く人々の動きを眺めたり、街を見下ろす山の()を見つめたりしていた。

高山では雲の様子がさまざまに変わる。見終ることがない。

「大将、いいですか?」

ノックに引き続いてわずかに開いた扉からエースが顔をのぞかせた。

そちらに視線を流すと、エースはにやりと笑って酒をあおる仕種をした。

「一杯ひっかけませんか。()いのが手に入ったんです」

ゲドが頷くのを確認してエースの顔が引っ込んだ。

ゲドはもう一度山の()を眺めると、ゆっくり部屋を出ていった。

ゲドが一階に降り立ってみると、ちょうど、ジョーカーとクイーンがエースの持ち帰った酒を試そうとしているところだった。

カウンターのほうをチラリと見ると、酒場の主人が渋い顔をしていた。

エースが他から酒を持ち込んだのが気に入らないのだろう。

(くだん)のエースはといえば、いたずらっぽい笑みを浮かべて酒瓶の首をつかんで二人を見つめている。

「妙な酒だな」

「……クセがあるね」

「俺もそう思った。でも、ま、騙されたと思って、もう一杯飲んでみな。ゆっくり舌で転がしてな」

不信感も(あらわ)に二人がもう一度グラスに口をつける。

「うーむ……」

ジョーカーが唸った。

「これ……」

驚いた様子でクイーンがグラスの液体をのぞきこんだ。

「な?」

我が意を得たりとばかりに嬉しそうにエースが言った。

「来ましたね、大将。どうぞ」

エースはグラスをゲドに渡すと、すぐに酒瓶を傾けた。トクトクと無色の液体がいい音を立てた。ゲドはそれを口に含むと、目を見張ってまじまじと酒を見つめた。

「二杯目からがいいんですよ」

と注ごうとするエースをさえぎって、

「どこで手に入れた」

「市に来てた行商人ですよ。なんでも、この街よりずっと高いところに位置する辺鄙な村でつくってるんだそうで」

「瓶に入ってたのか」

「は?ええ、そうですけど」

グラスに残る液体を見つめて何やら考え込んでしまった己の上官をどう扱っていいものやら判らず、エースはテーブルの二人に助けを求めるような視線を送った。返ってきたのは肩をすくめる仕種だけだった。

出かけてくる、後を頼む、とゲドがエースに告げたのは翌朝のことだった。

何が、といえば、この景色だった。

何が、といえば、この秋風だった。

しかし、ゲドを踏み切らせたのはエースの買ってきた辺境の酒だったのだ。

食料、燃料をたっぷりと買い込んで、ゲドは山道に足を踏み入れた。

カレリアの山道と違って、このあたりは木が多く、非常に気持ちがいい。天気も上々だった。

ゲドは細々とした一本道を黙々と歩き続けた。なにやら鳥の声が聞こえてはいたが、姿は見えなかった。

その日の夕暮れ、そろそろ夜営のことを考え出したゲドは、前方に人影を見つけた。ただし、人影だけではない。

翼持つトカゲが二度三度、降下するのが見えた。

――襲われている。

お人好しなつもりはないが、さりとて、目の前で襲われている人を無視するひとでなしでもない。ゲドは剣を抜くよりもと判断し、右手を上げた。慣れた雷の圧力が瞬時に集まる。

(ごう)――

音を立てて光筋が鉄槌となって落ちると、辺りを震わす断末魔を残して、翼竜は崖下へ落ちていった。

襲われていたのは、ロバを連れた青年だった。ロバをかばう位置に立っていた青年は、何が起きたのか把握できていない様子で立ち尽くしていたのだが、ややあってからその膝ががくがくと揺れ始め、ペタンと座り込んでしまった。

声をかけてやるべきだろうか。

そちらへ歩み寄りながらゲドが考えていると、足音を聞いて、青年がこちらに首をめぐらし、ゲドを見上げた。

「あなたが……?」

ゲドがうなずくと、青年はロバにすがりつくように立ち上がり、翼竜の落ちていった崖下を覗き込んだ。そして、大きく肩で息をつくと、ゲドのほうに向き直り、

「ありがとうございました」

礼の言葉にこの辺り特有の古風な訛りがあった。

「土地の者か」

「僕ですか。ええ。クセスから帰る途中なんです。戦士様は――」

「この先の村に向かうところだ」

「この先の村って言っても――ベセルしかありませんよ」

ゲドはついと視線を前方に向けて、ぽつりと言った。

「そうだな」

「ベセルに向かわれるならごいっしょしませんか。僕の村なんです。一本道だから道案内ってわけでもないんですが」

正直、ごいっしょしていただけると心強いんです、と頭をかいた青年の素直な物言いにゲドは好感を持った。

素朴な青年は、名をオロフと言った。

「古風な名前でしょう?」

と気恥ずかしそうに言った青年は、ゲドの名前を聞いて

「それも古い名前ですね」

と嬉しそうに笑った。

穏やかな青年と無口な傭兵は特に話をするでもなく、紅葉の鮮やかな森の道を歩きつづけた。ベセルは近隣とはいえクセスから数日かかる。

冬の準備にクセスに買いだしに行った帰りだというオロフは、荷物を一杯に背負ったロバをよくしなる細く長い枝でピシピシと調子よく打ってあやつりながら、土地の古歌を歌った。

こういった歌というのはどうしてその土地土地の光景に似合うようにできていくのだろう。

秋風に乗る青年の小さな歌声を聞きながら、ぼんやりとゲドは思った。

ベセルについてはじめてオロフはゲドに訊いた。

「宿のあてはあるのですか」

無理もない。観光地でもなく、いまとなっては旅人の通り道でもないベセルに宿屋らしい宿屋はない。

「よければ、うちにいらっしゃいませんか」

「いいのか」

「ええ。まあ、ちょっとうるさいのが居ますけど」

木を組み上げて造った家がポツリポツリと立っている。

村を区切るように小川が流れていて、青年と共に小橋を渡ったところで、件の「うるさいの」の姿が見えた。

玄関の前に立ちふさがるようにして立っている老人は、背丈こそ小さいが、いかにも頑固そうな顔つきだ。ゲドもたいがい無愛想なほうだが、

――あれほど敵意に満ちた顔はしていない。

「ああ、じいちゃん。こちらはゲドさんと言って、僕を助けてくだすったんです。うちに泊めてさしあげたいんだけど――」

老爺はゲドの顔つきやら剣やら上から下まで検分してから、フン、と鼻を鳴らして扉の中に入っていった。

「ごめんなさい」

でも、悪い人じゃないんです、ともうしわけなさそうに言って、オロフはゲドを中に招き入れた。

入って行くと、扉の真正面に置いてあるテーブルについて、老爺がゲドを見つめていた。

「お座りなさい」

ひとつ頷いて、ゲドは老爺の向かいに座った。

ゲドが座るのを確かめてから、老爺は自分の前に並べた椀に無造作に酒を注ぎ、ずい、とゲドのほうによこした。ゲドはそれを手にとると、そっと啜った。そして、首をかしげる。それを見守っていた老爺が急に声を上げた。

「オロフ、一番古いのを持ってきなさい」

「え?あ、うん」

まごつきながらも青年はすぐに皮袋を手に戻ってきた。

老爺は皮袋を受け取ると、黙ってゲドのほうに手を差し出した。意を汲んで、ゲドは椀を押し遣った。そこに老爺が先ほどと同じように酒を注いだ。こんどの酒はわずかに琥珀に色づいていた。また、手元に返された椀を手にし、ゲドは一口くちに含んだ。ほう、とため息が漏れた。

「ベセルの酒だ」

ゲドがそういうと、老爺は満足そうに頷いて口を開いた。

「お前さん〈(エゥナーネン)〉かね?」

そうだ、と答えると老爺は感慨深げに目を細めた。

「もう〈戦場(いくさば)の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉は居なくなってしまったのだと思っていたよ」

ゲドは琥珀色の飲み物を見つめながら

「ええ」

とだけ言った。

それからは、黙って飲んだ。青年はやりとりが分からず二人を交互に見つめていたが、うるさく質問するような真似はしなかった。

翌日、ゲドが旅支度をはじめると、老爺が近寄ってきた。

「エゥナーナ・イ・フォェルトに行きなさるのかね」

「はい」

すると、老爺は手に持っていた長套(マント)を見せた。

「懐かしいな」

手にとって、その織りが質のいいものであることを確認しながらゲドは言った。

「お貸ししよう。そろそろ雪の季節だ」

じいちゃん、また、そんな古いものを、と言いさしたオロフに首を振って、ゲドは長套(マント)を受け取った。さらに拳ほどの円い留め具も手渡そうとする老爺をゲドは(とど)めた。

「いえ、それは持っています。借りるのはその家の者に悪い」

荷物の中ににしまいこんで忘れていた自分の留め具を引っ張り出して、ゲドは長套(マント)を身に付けた。もう、()け方など忘れてしまったかと思っていたが、存外、こういう動作は忘れないらしい。

ゲドの滑らかな動作を見つめて、老爺はちょっと涙ぐんだ。

「本当に〈鷲〉なのだね」

かつて、知人が居たのかもしれない、と老爺の様子を見ながら思った。

老爺はもう一品貸してくれた。

「最近は便利なものができたもんだよ」

遮光眼鏡(サングラス)だった。

ありがたく借りておいた。

もう、人など通らないのだろう、かつての街道は下草の生え放題で、両側から細い枝も張り出していた。それをゆっくり掻き分けながら進んだ。

思ったより時間がかかりそうだ。

それもまたよい、とゲドは思った。

高所の登りである。鬱蒼とした森というものはさほど続かないのだ。

一日歩いた次の日は、少し歩いただけで眩暈に似たものを感じ、どうしたものかと訝しく思ったが、そういえば高山特有の現象だったと心に当たり、我知らず苦笑した。

――そんなことも忘れていたのか、俺は。

歩いてきた道を振り返ってみると赤や黄に変わった木々が山を彩っていた。

陽射しの強さが目に痛い。

ゲドは借りてきた遮光眼鏡(サングラス)を取り出して掛けてみた。

なるほど、便利だ。

意識して息を強く吐き出すように気をつけながら、ゲドはまた歩き出した。

やがて、道がぐっと折れる場所に来た。

景色をさえぎっていた木が左右に分かれ、向かいの山肌を望むのに格好の場所となっていた。白く見える三筋の糸は滝である。

ゲドは足を止めてそばの木に手をついた。少しの間、その姿勢で景観に目を(やす)ませると、ここを休息の地と決めてゲドは地面にべったり座り込んだ。

持ってきた乾し肉をもくもくと咀嚼していたゲドだったが、ふと自分の目の前にあたる木に傷があるのに気づき、また、その意味に気づいて辟易(たじ)ろいだ。

立ち上がってそばに寄り、目線の高さぐらいにあるその傷をしげしげと調べてみる。

誓いの傷――

胸が軋んだ。

自分の記憶の中の光景と比べてこの傷はずいぶんと高いところにある。

この木は何年経っているのだろう。これから何年生きるのだろう。

対して。

――俺はまだ百才だ。

思うに、人の想像の及ぶ永遠など森羅万象の()る本物のそれと比して随分短いものなのではなかろうか。

ほろ苦い微笑の片鱗を唇にのせながらゲドは歩き出した。

――しかし、誓いの傷は木でなくて岩にでも付けたほうが良かったのではないか。

道を彩っていた木々はいつの間にか背丈の低いものに代わっていた。地面を這うように伸びる木は、針のような葉をつけている。

その下から丸い体形の白地の鳥が顔を出したのを見つけて、ゲドは立ち止まった。鳥はこちらを気にするように上目遣いでこちらを見ながら、二度、三度と首を伸ばした。その合間に地面をちょっとつついてみせながら、こちらを物珍しそうに見ている。

高山の生き物はあまり人を恐れない。あるいは、この鳥は初めて人という生き物を見たのかもしれない。

ゲドは空を見上げた。

秋の高い空を見て、矮小なる自分を意識する。

風は強く冷たいのに、背中を押す日の光は強く汗ばむくらいだ。

雲の流れの通りに影が山肌を流れていく。

標高があまりにも高すぎるため、植物は僅かだ。

嶺峰は白く染まっている。

――先を急いだほうが良い。

一歩一歩を踏みしめながら歩いて行くと、前方の地面が深くえぐられているのが見えてきた。ずっと底の方に濃い青緑の水が湛えられている。ゲドは注意深く斜面を滑り下りて、水をすくった。バチャバチャと音を立てる水は()んでいた。

流れ込む水もなければ、流れ出す川もない。

孤立した湖。

しかし、雨が降れば、あの断ち割られたような崖に沿って水が集まるのをゲドは知っていた。

(いただき)を横目に歩きつづけ、道が下りになるとまた周囲の景色が変わる。

この辺りは高地の湿地帯で、ポツリポツリと溜池が点在する奇観が目を楽しませる。先達が作った硬い木の道がところどころ腐りながらも残っていた。道の両脇に、赤く丸い実をつけた腰ほどの高さの木が生えていて、強い風に細かく揺れていた。

ここまで来れば、目的地はあと僅かだ。

ゲドは我知らず低く小さく古歌を歌っていた。

 ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト

   リュンゲルドゥ・ソム・スプロトゥーアンデ・ヒムゥエル

 ヴィ、エゥナーナ・イ・フォェルト

   ヴィングゥエ・オム・セーガ

ゲドの微かな声はそっと大気をすべっていった。

ごく単純な節回しに単純な意味。

――この(うた)はどれだけの(とき)を掛けて醸しだされたのだろう。

ほどなくして目印の柱が二本見えてきた。村の入り口だったはずだ。

ゲドは立ち止まった。

――俺は何を考えているのか。今、抱いているこの感情は何と呼ぶのか。

難しい問いかけだった。

ずいぶん前に肉の落ちてしまった骸が斜面を埋めていた。その斜面を一気に上りきり、ゲドは村の入り口に立ってみた。

人の気配は全く無かった。

木造の家々は、あるいは壊れ、あるいは崩れ、元の姿を保っているものは無かった。

村のあちこちに人骨が転がっていたが、それも完全な形を保っているものは無かった。

(まじな)い師であれば辺りに渦巻く怨嗟の声が聞こえるのかもしれない。

生憎(あいにく)、ゲドにはそのような力は無い。

故に、暖かく出迎える声を聞けない代わりに、己を責める声を聞くことも無かった。

――声は俺の内にある。外には無い。

ゲドは足を踏み入れた。乾いた足音がした。

一歩、一歩と近づくごとに足取りが重くなる。自分を見つめる者など居ないのに、意地を張って、普通の歩調を保とうとはした。

ジャリ、ジャリと瓦礫を踏み締めるのに併せて、ゲドは、

正視しろ、正視しろ――

と己に言いきかせていた。

とうとう、かつての村はずれに到着した。

風雨に曝され脆くなった人骨が地面に厚く敷き詰められていた。原形などもちろん留めていない。

晩秋の乾いた秋風がやや強めに吹いた。

ゲドは自分に()ることを強いた。しかし、ほんの数瞬で目を伏せた。

やはり、まだ(いた)い――

居た堪れなくなってゲドは荒れた村の奥へと足を転じた。

村の最奥には、崖にうずまるように設けられた神殿が在った。いや、神殿と呼ぶにはあまりにも簡素な造りで、石室といったほうが相応しい。人の居ない石室の入口はここまでの崩れた家々と同様、蔦が絡みついていた。ゲドは腰を折って入口をくぐりぬけた。

風の音さえしなくなった。

足音が大きく響く。

神殿の中にも人骨がそこここにあった。ただ、外と違って人の形を留めている。

長い石廊を抜け、ゲドは祭壇の前まで来た。

そして、しばし眺めた。

本来なら、ここ、この場所でこそ、最も大きな痛みを感じるべきなのだろう。

だが。

痛みを感じないとは言わない。しかし、村はずれで感じたほどの疼きは感じなかった。

――人とは都合のいい生き物だ。為した悪行より為された悪行のほうにより強い感情を抱く。

そう思った自分が傲慢に思われ、すぐに訂正する。

――俺が都合のいい生き物なだけか。

一晩を明かすため薪を探すうちにあっという間に夜になった。

ゲドは大きな石に腰掛け、揺らぎ揺らめく炎を見詰めた。また、降りかかる圧倒的な星々を飽くことなく見続けた。

ああ――

想っていた。

――孤独(ひとり)だ……

蟲が鳴いている。

翌日。

()けにまだ建物の形をしている家を一晩の宿としていたゲドは底冷えの寒さで目が覚めた。

外に出ると案の定、薄く雪が積もっている。

ゲドは高山の強い陽射しを見上げて目を眇めた。今日を逃すと山を越えられなくなる。

味のあまりしない口糧を食べ終わるとゲドは長套(マント)を留め具でしっかり巻きつけ、遮光眼鏡(サングラス)を掛けてすぐに出立した。

道をしばらく行ってから一度だけ振り返ってみた。

廃墟は、相、変わらず閑かだった。

出かける、後を頼む、とゲドに言われて「分かりました」と答えたのはエースだったが、ゲドが部屋を引き払って出て行ったとは思っておらず、晩になってからその事を宿の主人から聞いて青くなった。

それから、慌てて小隊全員で数日街を聞き込み歩いて、どうやら山を登っていったらしいことを突き止めた。

「でもね、そろそろ山には登れなくなるよ」

「どうして」

「そりゃあんた、もう(いただき)が白くなってるもの。雪が降り積もったらとてもとても登れたもんじゃない」

さりとて、追わぬわけにはいかなかった。

慣れぬ道を五人は急いだ。

五人ともむっつり黙って先を急いでいる。

ジャックの無口は元からだが、クイーンもジョーカーもエースでさえも無駄口ひとつたたかなかった。はじめは、いろいろと話し掛けていたアイラも今は黙って歩いている。

言葉数から言えば居ても居なくても同じなんだがなあ。

切羽詰ったようなクイーンと不機嫌そうなジョーカー、そして不安で一杯の自分。ジャックの感情というのは読みにくいが、心なしか心配そうなのは気のせいではないだろう。アイラは疲れたような泣きそうなような顔をしている。

自分の落ち度であったような気がしてエースはしょげ返っていた。

何度か野営して、やっと人の住む村に着いた。

「ああ、その御仁なら、山越えの道を行ったよ」

「ほ、本当かい、じいさん。ありがとよ」

すぐにも出て行こうとするエースを頑固そうな老人が止めた。

「どこへ行きなさる」

「どこへって、追いかけるんだよ」

「無理だ。もう雪が降る」

クイーンが刺のある口調で言い返した。

「でも、ゲドは止めなかったんだろう?」

それを聞いて、老人は小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。

「あのお人は〈戦場(いくさば)の鷲〉じゃもの」

さも当然といった口ぶりに五人は顔を見合わせた。

「〈戦場(いくさば)の鷲〉?」

質問を無視して、もう用は無いとばかりに老人はくるりと背を向けた。それまでやりとりをハラハラと見守っていた青年がとりなすように言った。

「まあ、この村でしばらくお待ちになってはどうですか。どちらにせよ、今日の出立は無理でしょう。皆さん、ひどい顔をしていますよ」

人のいい青年の申し出で粗末な家に五人は泊まることになった。確かに、強行軍で疲れ果てていた。言葉に出して言われると、途端に精も根も尽き果てた。いかに疲れていたかと言えば、クイーンもジョーカーもエースも一滴の酒も飲まずに泥のように眠り込んだことでも知れよう。

果たして、次の日は雪になった。

隊員全員がひどい敗北感に似た感情にみまわれた。

雪が降ったり日が射したりを繰り返す、きわめて不安定な天気は尾根を越えた辺りで完全に崩れた。

行きに水をすくった紺青の湖が今は濃い灰色に見える。

小さく凍れる雪片が大気に直接さらされている頬を容赦なく叩いた。風に逆らって歩いていると、息苦しくなって、途中何度もゲドは横を向いて空気を吸った。

視界を奪う白い覆い。果てしなくそれは続く。

荒い呼吸音が耳に届く。

風がひゅうひゅう唄っている。舞い散る雪が踊っている。

白魔、と人の言う。

しかし、ゲドは雪降る荒野を歩くのが嫌いではなかった。

風を孕んではためく長套(マント)を押さえる努力は、当の昔に捨て去っていた。

積もる雪に、吹き付ける雪に、とうとうゲドは足を止めた。

しばらく休もう。

風を避けるために雪穴を掘った。

苦労して掘った穴に腰を下ろし、長套(マント)を巻きつけると、ゲドは目を閉じた。

天候がようやくおさまった朝、十二小隊の面々は外に出て、立ち尽くした。

降り積もった雪がこの地を厚く覆って、元からあるかなきかだった道が完全に姿を消していた。

皆、敗北感のようなものに見舞われて、言葉をなくした。

アイラなど、泣きそうになってうずくまってしまった。

その、うずくまっていたアイラが、パッと顔を上げた。

「誰か来る」

「本当か」

エースは確かめずにいられなかった。安易に希望をもって、結果、裏切られるのはまっぴらごめんだった。

「うん。でも、誰かは――」

「…………あれだ」

小隊一の視力を誇るジャックの言葉に、めいめいが同じ一点に視線を重ねた。誰もが何も言わずに見つめつづけていると、米粒ほどの大きさの点がやがて人の形になり、長身の男になり、目を遮光眼鏡(サングラス)で覆った雪だらけの長套(マント)の男になった。

その異装に確信が持てず、エースが恐る恐る声をかけた。

「――大将?」

歩み寄りながら男が不思議そうに言った。

「何かあったのか」

とたんに、皆がいっせいに口々に声を出した。

「な……」

「何かじゃないよ!」

「心配してたんだよ!」

ゲドはエースを見て、確認するように、

「言っただろう?」

エースは口をパクパクさせて、何をどう言い聞かせていいやら分からない様子だった。それを見、少し考え、得心がいったように、うん、と肯いてゲドが言った。

「すまなかった」

柳眉を立てているクイーンを、呆れ返っているジョーカーを、何か言いたげなエースを、涙ぐんでいるようなアイラを、そっと目を落としたジャックを、順番にゲドは見た。それから、近づいてくる老爺に視線を向けた。

「どうでした」

ゲドはすっかり雪に閉ざされてしまった稜線をチラッと見てから答えた。

「変わっていませんでした」

老爺はただ黙って重々しく頷いた。

「この者たちにベセルの酒を飲ませてやってはいただけませんか」

「〈鷲〉の頼みなら」

どやどやと歩き出す一行の一番後ろについたゲドは、もう一度振り返って、しげしげと白くなった峰を見つめた。

――また来よう……

いっとき()んでいた雪が、また、舞いだした。

平成十四年十月十四日 初稿

平成十五年五月二十日 二稿

補足説明

本来は、現在、書いている『怒りの日』のプロローグもしくはエピローグにしようと思っていたのだが、長くなったので分けることにした。

書き出してしばらくして大将にマントを着せてサングラス掛けさせ、その格好で吹雪にマントをたなびかせてみたくなったので、こんな具合になった。

題名に使った「冂」という漢字を見ると、何故か空恐ろしくなる。あるべきところに何も無いのが怖いのだと思う。