野辺の送り
クリス・ライトフェローが真なる水の紋章を宿して湖の城に帰ってきたその日。
グラスランドの諸氏族は勇敢な戦士の死を悼む宴を開いていた。炎の英雄ヒューゴも兄と慕ったその戦士の死を悼む輪の中に入っている。
ゼクセン騎士団騎士見習いのルイスは、自分が女神とも慕い尊敬する騎士団長が「今日は誰も入れてくれるな」と寂しく言って部屋に篭ってしまったのを我がことのように心配した。ルイスのみならず騎士団員みなが同じ心持だった。だが、正しくクリスの心情を思いやることができたのは、騎士団のうちにおいては事情を知る副団長サロメ・ハラスただ一人だった。
炎の運び手のいわば三人目の重要人物にして湖の城の最年長者に注意を払っていた者は、ほぼいなかった。それは、ゲドが平常どおりの無表情を崩していなかったからということもある。
ジンバというカラヤ戦士の死はカレリアからやってきた傭兵たちにはたいして大きな衝撃ではなかった。
エースは、いつもどおり面白い本はないかと図書館を物色していた。
「………………外の…………雰囲気がいつもと違いますね」
「おわぁ!」
いきなり背後から話しかけられ、エースはおもわず飛び上がった。眉根を寄せている司書と一歩距離を置き、まだバクバクいっている心臓をどうにかおちつかせようとしながら
「なんでも、ジンバが戦死したんだとさ」
「そう…………ですか」
アイクは木枠のはまった図書室の窓から外の様子を見下ろした。
「あの方はこの城にも…………縁のあるお方ですから」
「へぇ?」
「…………ワイアット様とゲド様がいなければ…………この城は…………」
「ああ?なんでそこに……えーと、ワイアットって?」
向き直ったアイクがエースの顔を真正面から眺めたまましばらく何も言わなかったので、エースは居心地悪くなってぼりぼりと頭をかいてみせた。
「ジンバ様は本名をワイアット・ライトフェローとおっしゃいます。真なる水の紋章をその手に、かつての炎の英雄を補佐したそうです。そして、ここ、このビュッテヒュッケ城でゼクセンとグラスランドの間に結ばれた約定の調印式の折、ゲド様とワイアット様が立ち会ったのです」
こいつがこんなに長い台詞をよどみなくしゃべるのを聞いたのは初めてだ、とエースは思った。だから、その台詞の中身を吟味するのが一拍遅れた。あとから理解が追いかけてきた。
「ということは……」
エースは難しい表情になって図書室を出た。
さっきまで階段のあたりでたむろしていたジョーカーは見当たらない。エースはエレベーターに飛び乗って地下一階に行くようシズに頼んだ。
飛び降りて、船のほうへ急ぐ。
ゲドの使っている船室の扉をノックする間もあらばこそ、
「大将!」
「ゲドならいないよ」
グラスを傾けながら言ったクイーンは、エースのただならぬ様子に
「どうしたんだい?」
「どうってことは……ないんだが……」
「なんだい、歯切れが悪いじゃないか」
かいつまんで話すといった器用なことができず、エースはアイクに聞いた通りを伝えた。さっとクイーンの表情が翳ったのを見て、自分の懸念が正しく伝わったのを知る。
「酒場には行ってみたかい?」
「いや。人があまりいない場所のほうが居そうだったから。だが、いちおう、見に行ってみるか」
「じゃ、私はメイミの店のほうに行ってみるよ」
子供じゃないんだから、とは思う。
こんな折に探し回るなんて迷惑なんじゃ、とは思う。
でも、自分の中に宿る不安が消えないのだ。ただ、姿を見つけるだけでいい。姿さえ見れば、想いに沈んでいようと邪魔しようとは思わない。
夕暮れ時のメイミの店は人がいっぱいだった。しかし、その中にゲドの長身はない。クイーンは交易所の前を通り、野菜や果実が揺れる畑を横目に会う人会う人にゲドの所在を尋ねた。
いや、知らないよ。
見てないなあ。
返ってくるのはそういう答えばかり。
「ああ、そういえば、牧場の方に歩いていったぜ」
指南所を開く眠そうな顔をした青年がそう言ったので、クイーンはいくばくか安堵した。
「ほんとうかい?」
嘘言ってもしょうがねえよ、と返してジョアンは
「ビッキーを連れてたぜ」
「ビッキー?どっちの」
「ポワンとしたほう」
安堵が疑問に変わってクイーンは首をひねった。
なんにせよ、とジョアンに礼を言い、クイーンは牧場に歩いていった。
いつも景気のよいしゃべり方をする牧場主がクイーンを見つけて、手を振った。
「ハイ!クイーンさんもこの子達が必要?」
「いや、ゲドを探しに来たんだ。居る?」
「ああ、えーと」
とたんにキャシーの歯切れが悪くなる。
「何かあったのかい?」
「えーとね……」
語ってくれたところによると。
ゲドはビッキーを連れてやってきて、足の速いのを一頭貸してくれと言ったらしい。
「悪路もあるから、丈夫なのがいい。一頭、選んでくれ」
そう言われて、キャシーは一頭の黒い馬を薦めた。
「この子なんかどう?気性は荒いけど、ゲドさんなら乗せてくれるよ」
ゲドはポンポンと馬の首を叩き、
「お前の目利きなら間違いなかろう」
と言って、キャシーをおおいに満足させた。
それから、ひらりと馬にまたがり――
「そこからがね……」
「どうかしたのかい?」
手にしていた荷物を鞍にくくりつけ馬にまたがったゲドを見上げて、ビッキーが口を開き、
「えーと、チシャでしたよね」
杖をかざした。
「いや、チシャではなく……」
その言葉を残して、ゲドと馬は掻き消えた。
「ゲドさん、何か言ってたけど……」
「え……?」
ビッキーはちょっと首をかしげて、
「しっぱい、しっぱい」
と舌を出したものだ。
そこまで聞いてクイーンは、ため息をついた。
「ともかく、チシャに着いてるはずなんだね」
「うん」
では、危険なわけでもあるまい。
風景が一瞬またたくと、
「チシャだな」
見事にチシャだった。正確には村の裏手、崖よりのほうである。
まあ、目的地はそう遠くない。それに、馬もある。
ゲドは並足で馬を進ませた。
遠い地平線に日は落ちようとしている。草原は日に染まって金色に見えた。
豊饒な土地。
己の故郷でないながら、その美しさに息を呑む。友人たちが愛したのもよく分かる。
ポク、ポク、と快い馬の足音を聞きながらゲドはゆっくり進んだ。
チシャからさほど進まないうちに、前方に見知った人影を見つけた。向こうのほうでも、馬の足音に気づき、立ち止まってゲドが近づくのを見守っている。
「サナ」
「ゲド」
老婆は馬上のゲドを見上げて微笑んだ。
「こんなところで、どうしたんだ」
「きっとあなたと同じことを」
ゲドは、うん、とひとつ頷いた。
「では、ワイアットのことは」
「ええ、ルシアが知らせてくれました」
魔法って便利なものですね、とサナは言った。
「いいのか、村長が一人でこんなところを歩いていて」
サナはふふ、と笑った。
「自分はどうなのです?私よりも炎の運び手の最重要人物の一人のほうがきっとグラスランドにとっては重いでしょうに」
ゲドはわずかに微苦笑を唇に乗せた。
「歩いていくつもりだったのか」
「ええ。若いころはいつもそうでしたから」
でも、正直、息が切れました、と言うサナにやれやれとゲドは首を振って見せた。
「でも、私のほうが準備がいいところもあるのですよ」
そう言って、サナが見せたバスケットの端から酒瓶の首がのぞいている。
「チシャの酒か」
「ええ」
ゲドは馬から降り、足場になりそうな路傍の石の前まで馬を連れて行くと、サナを差し招いた。
「ゲド?」
「馬のほうが速い」
うなずいてサナが近寄ると、ゲドはそっとその体を抱え上げ、馬の上に横向きに座らせた。ブンブン、と首を上下に振る黒馬の首を何度か叩いて機嫌を取ると、ゲドはあぶみに足をかけ、サナの後ろに飛び乗った。
「馬なんて、ひさしぶり」
言いながら、サナはいつもと違う高い視点でグルリと周りを見回した。
「悪いな、俺で」
ゲドが言うと、老婆は少女のようにころころと笑った。
高台には、石を切り出して作った円卓があり、その周りに同じ石で作った円柱の椅子が四つ置いてあった。椅子も円卓も周りに生えた草に隠れそうになっている。
この高台からは、遠く、ビネ・デル・ゼクセの街や、厳ついブラス城までが見える。この場所から見ると、ビュッデヒュッケ城さえ古風な佇まいの城として映る。
「変わらんな」
ポツリとゲドが言った。
「ええ。近くを見続けると何もかも飛ぶように移り過ぎていくけれど、こうやって遠くから眺めれば、世界はそんなに変わらない――」
乗せたときと同じように、サナをそっと馬から下ろして、ゲドはこの眺望をもう一度見直した。
「覚えてますか、あの人がここに円卓を置いたときのこと」
「ああ。何をしているのかと思った」
――だからさ、ワイアットのほうが俺よりガタイがいいだろ?こっちのでかい石運んでくれよ。
――あのなぁ。だいたい、思いついたのはお前だろうが。付き合ってやってるだけでも俺は物凄く親切なんだぞ。
手を止めて二人が言い争っているところにゲドがやってきたのだった。
――なあ、ゲド、聞いてくれよ、こいつ、冷たいんだぜ。
二人の話を黙って聞いていたゲドはひとつ首を傾げた。
――どうして、荷車を使わないんだ。
とたんに、顔を見合わせた二人が弾けたように笑い出した――
「あのとき、息が切れるほど笑ってる二人と、それを生真面目に見ているあなたが可笑しくて」
サナは円卓にワインの瓶と杯を並べながら言った。
杯の数は四つ。
誰のものかは明らかだ。
ゲドは馬の鞍にくくりつけてきた薪をそばに組んだ。さほど苦労することもなく、乾いた薪に火が移ると、ゲドは先に座っていたサナの隣に座った。
太陽は沈み、夜の闇が覆っていた。
サナはグラスにチシャ特産のワインを注いだ。
「何年か前、いい出来の時があって。その時のものですよ」
赤い液体はトクトクといい音を立てた。
四つの杯に等しくワインが注がれた。サナとゲドはグラスを取って、静かに乾杯のしぐさをした。チン、とグラスが澄んだ音を立てた。
「あの頃、世界に二十七しかない真の紋章の持ち主が三人も揃っていることに何か不思議な思いを抱いたことがあります」
みんな、普通の人でしたしね、とサナは悪戯っぽくつけくわえた。
ゲドは黙って杯を傾けている。
「私が死ぬ頃になっても、この三人はこのままなんだなって」
でも、とサナは視線を落とした。
「皆が見送ってくれるのだと思っていました。あなたに見送られるのならあの人に見送られるのならワイアットに見送られるなら、きっと満足だと、当然見送ってくれるものと思っていました」
少し前から秋の虫が鳴き出している。静かな語らいが虫の音を際立たせている。
「それを願う私が我侭だったのでしょうか」
「いや、あいつほどじゃない」
サナはゲドを見て微笑んだ。
「ワイアットには『似た者夫婦』と言われたわ」
ゲドは少し考えて
「なるほど」
とたんに、サナは声を上げて笑った。
「ゲド、ゲド、あなた、本当に変わらないのですね」
ゲドはといえば老いたサナを見ながら少女をその中に見ていたのだ。
――それでも、お前はよく笑う。
ふと、笑いを収めてサナは草原を、暗くなった草原を見つめるともなく見つめていた。それから、ためらいがちに口を開いた。
「ゲド、あなたは死んではだめですよ。そして、私を看取ってください」
「…………」
冷たい夜風がサワサワと流れていく。
サナは手元に視線を落として静かに言った。
「残酷なお願いですね」
「いや」
ゲドはゆっくりと頭を振った。
「慣れている」
そう答えるゲドを眺めながら、サナは微かに笑みを浮かべた。
「嘘が下手ですね、あなたは、昔から」
「かなわんな」
ゲドは苦笑を浮かべた。人の齢というものは重ねた年の長さよりも、肉体に刻まれる老いが物をいうらしい。自分より年若い娘だったサナが自分を諭すような物言いになり、それをまた自然に受け取っている自分がいる。
ゲドはワインで唇を湿らせて、言葉を選びながら話していた。
「身を切る思いもしてきたが、巷間にあることは悪いことばかりではなかった」
「あの人やワイアットに会えたことがそう?」
うん、と素直にゲドはうなずいて、お前も、と穏やかにつけくわえると、サナはやわらかく笑った。
「今なら、あの傭兵さんたちに会ったことがそう?」
部下たちを思い出しながらゲドは穏やかに笑い、そうだ、と首肯した。
「知っていましたか、ゲド。あの人、あなたのこと、尊敬していたのですよ」
はたと自分を見返してくるゲドにサナは告げた。
「あの人、死期が近づいた頃、白状したの。『お前に置いていかれるのが俺にはどうしても耐えられない。俺が置いていくのでなければやりきれない。どうして、ゲドはそんな道を選べるのだろう』と」
「惰性だ、俺のは」
それでも、とサナは言った。
「それでも、あの人はあなたが羨ましかったのですよ。あなたを尊敬していたのですよ」
反論しようとするゲドをサナはさえぎった。
「私に言わせれば、あなたちは三人とも似た者同士。他人の生き様がよく見える、寂しがりや」
「……そうかもしれんな」
強い風が吹いて草がざあっと揺れた。
「ワイアットがライトフェロー家に入ったのもそのせいではなかったのかしら。あんなに冷静で、自分の持つ紋章のもたらす生が分かって……分かり過ぎていた人が」
「…………」
「クリスはとてもいい
ゲドは肯いた。その男にからかうようにサナは言った。
「あなたは、ゲド?」
聞かなかったふりをしてグラスを一気に開けたゲドをサナは面白そうに見つめた。
「さあ、もう一杯」
素直にサナの杯を受ける。返杯をしてやる。
二人は、心静かに杯を重ねた。
風も、草の匂いのする大地も、星空も、穏やかだった。
平成十四年十月二十日
補足説明
死に及んで、ジンバからゲドへの言葉がないし、ゲドもジンバに語らない。わずかに、ゲドが継承したときの「ワイアット!」という叫びに多少の思いがあふれているのみ。それが残念だったので、書いてみました。書いてみたら思ったより面白かった。実は、『孤影、冂か』もこの程度の穏やかなもののつもりでした。あれはひとえに「 冂 」の字が悪い。
いつも、題名で迷うんだけど、これは土壇場でこの題名になりました。その直前まで「送り酒」でした。「別れのワイン」なんてのも考えましたが、それじゃコロンボになるのでやめました。