そして彼は

カラヤには現人神(あらひとがみ)がいるという。

現人神は少年の姿をしていて、名を――


「ヒューゴ」

入り口の布を捲るなり戦士が呼んだ。その肩からは(しずく)が垂れている。

ヒューゴにじゃれついていた幼い子供たちは、戦士の声に含まれる軽い緊張を敏感に感じ取って、押し黙った。応えるヒューゴの声も自然とピンと張る。

「どうしたんだ」

たいしたことじゃないかもしれないが、と前置いて、

「ダッククランとの間の水場に見慣れない奴がいる」

「別にグラスランド中の人間と顔見知りってわけじゃないだろう?」

「ちゃかすな、ヒューゴ。そういう意味じゃないのは――」

「分かってるよ」

ことさら穏やかにヒューゴは頷いた。

「それで?」

「グラスランドの者じゃない。鉄頭じゃないかという奴もいたが、俺はどちらかというと――」

「ハルモニアか」

少しためらってから、戦士の顎が上下した。

「間者じゃないかと」

「一人なのか」

「ああ」

ヒューゴが思案顔をしてみせたのはほんのしばらくの間だけだった。

「見てくるよ」

「お前が?だめだ、お前は指示さえしてくれればいい」

「遠くから見るだけさ」

「しかし、そいつの目当てがお前なのだとしたら――」

「そんなこと気にする意味がない。俺がカラヤに居るのは誰でも知っているじゃないか」

自分よりも一回りも背の高い戦士に宥めるように声を遣る。

――それに、俺はいつも共に在った。戦士に混じり、共に武器を振るい、泣き、笑う。俺の言葉は天から降ってくるものじゃない。

そういった、自分の中の思いを口にしないだけの分別がヒューゴにはついていた。替わりに少年は柔らかく頷いて、

「大丈夫だ」

と言った。

やりとりをそばで聞いていた幼子がギュッとヒューゴの手を握った。

外は雨だった。

身に(まと)った雨除(あまよ)けがすぐに用を成さなくなるほどの。

夏の近い草原は力強い草の匂いで()()ちていて、そこに湿った空気の匂いが覆いかぶさっている。

「ひどいな」

「やめるか?」

「いや」

昼なのに濃い雨が辺りを薄暗くしている。

ふと、いつか見た灰色の世界が眼前に立ち昇った。

――しばらく立ち尽くしていたのかもしれない。

「ヒューゴ?」

声を掛けられ、

「いや、なんでもない」

声を返せば、一瞬前と同じ、ただの雨の景色だ。

しばらく、足元だけに気をつけて歩き続ける。少し息が弾んできたとき、前を歩いていた戦士が止まった。

「あれだ」

下を向いていたヒューゴは頭を上げた。

水場の近くにしっかりとした体格の男が居る。立ち上がればかなり背丈があるだろう。傍らにある剣は巾広の直刀で、カラヤ戦士のものではあきらかにない。

ヒューゴは足音を殺して注意深く近寄った。

男は雨除けもつけずに地面に座り、天を見上げていた。それは、恨めし気でもなく、あきらめ顔でもなく、落ちてくる雨粒の軌跡を落ちるままに眺めているのだった。

いつもなにかしらを眺めている男にヒューゴは昔あったことが――

突然、男がこちらを見た。

確かに目が合った。

とたんに、ヒューゴはさっと血が上るのを感じた。興奮で前後も考えずに飛び出したとき、ヒューゴはただの少年だった。

「ヒューゴ!」

あっけに取られた連れの叫びはずっと後ろから聞こえた。

「ゲドさん!」

男は昔と全く変わっていなかった。

突然現れたヒューゴに驚きもせず、言った。

「変わりはないか」

「はい、ゲドさんもお変わりなく」

ゲドは頷いた。

――ああ、なんて普通の会話だろう。

ゲドはまた天を仰いだ。

「グラスランドにはいつ?」

「少し前だ」

ヒューゴはちょっと躊躇ってからその質問を口にした。

「一人ですか?」

ついとゲドはヒューゴに視線を戻した。訊いてよかったのかどうかと宙ぶらりんな表情をしているヒューゴと目が合うと、ふ、と微かに眉根が柔らかくなった。

「今は」

ゲドの答えは短い。

――相変わらずだ。

視線を天に戻してしまったゲドの傍らに立って、ヒューゴも天を仰いだ。

激しかった雨は降り始めと同じように急速にやみつつある。

二人の後ろにはヒューゴを追いかけてきた戦士が立ち尽くしている。気配と呼吸がその存在を示している。

どんな顔をしているだろう、彼は。

雨はとうとう()んだ。

とたんに、雲が割れ、()っと金色の陽の光が一条、草原に射しこんだ。

雨露をのせた緑の海が陽の光を浴びながらうねっていた。

「――奇跡のようだ」

ゲドが漏らした言葉にヒューゴははっとなった。見慣れた草原の見慣れた光景――灰色でない……

「ゲドさん、カラヤに寄って行ってよ」

「ああ」

ゲドは髪から水滴をたらしながら剣を取って立ち上がった。

「ああ、そのつもりだった」

突然訪れた族長の客人が衆目を惹いていたのは重々承知だったが、ヒューゴは誰にも何の説明もしなかった。外界から客を迎えるときの大きな宴にもしなかった。

昔からゲドは人の輪の中心になることをあまり好まなかったし、今もそのままだろうと思ったからだ。

果たして、ゲドは静かに酒精を口元に運んでいる。

食事が終わって、ヒューゴがちょっと酒で口を湿らせたとき、ゲドは目を細めて口元に微笑を浮かべた。我知らずヒューゴは朱くなった。

積もる話もあるだろうと人々が気を利かせてその場を去ると、焚き火の木がはぜる音がやけに大きく聞こえた。

「成長したな」

短い言葉が何を指して発せられたのかは分からなかったが、ヒューゴは素直に嬉しかった。

「ゼクセンとは?」

「相変わらず。たまに小競り合いしたりまた休戦したり――」

「……」

「そういえば、こないだクリスさんが来たよ」

「……」

「騎士団を辞めたって」

「ゼクセンは人の(さが)がここと違う。居づらいだろう、あそこは」

ヒューゴは思い出した。相変わらず美しく、強く、まっすぐな銀髪の女性が浮かべた自嘲のような笑みを。

灰色のあの風景を彼女もよく見るのだろうか。

あの笑みを見たとき、そう思ったのをよく覚えている。

「――旅に出るって」

「そうか」

しばらく二人は黙っていた。

「世界はほんとうにいつか――」

口に出していたつもりはなかったのに、小さく弱弱しい声が自身の耳朶に触れていた。

「この頃、思うことがある」

消え入る自分の声に、はっきりと応える声がしてヒューゴは顔を上げた。

「紋章の意思は本当にそこにあるのか」

そこ、が何なのかはもちろん分かる。

「あれは未来でもなんでもない……?」

我ながら縋るような声だったかもしれない。

「知らんよ」

あっさりとゲドは言った。

「所詮、歴史を作るのは人だ」

「人が世界の中心に居ると?」

「違う」

ゲドは暖めるようにして持っている自分の杯の中を見た。

「人が歴史と呼ぶものは、世界のうちの、人が気にかけ、人に知覚される部分でしかない。紋章に意思があるか?――分からん。だが、少なくとも悪意は無い。意思があるとしても人とは別な次元のことだ。あれは紋章の未来だが、あそこに人はいない」

ヒューゴは下を向いた。

「よく……分からないよ」

「俺もだ」

穏やかに異国の戦士は言った。

ヒューゴははっとなってまじまじとゲドを見つめた。

――この人は別なものをみたのか。

やがて、とろとろとヒューゴは視線を自分の杯に落とした。

もっと世界が見たい。

グラスランドはヒューゴにとってこの上なく大事な土地だけど。

もっと、世界が見たかった。

――少なくとも、この人のみたものを。


人々が知らないうちに、少年はいなくなっていたという。

怒りに触れたのだ、とある者は云い、

休んでいるだけだ、と別の者は云う。

しかし、本当の理由は誰も知らない。

ただ、もはや、カラヤには現人神(あらひとがみ)はいない。

平成十六年五月三日 初稿

補足説明

こういう、心情吐露系な話はよろしくないね、うん。必殺「書いた気になる症候群」に陥るから。まあ、久々の慣らし運転ってことで。

ちなみにヒューゴはゲドに懐いてますから!