月隠(つきごも)

とどろとどろ、と雨音が()の内に(こも)っている

てん、とんてん、と屋根打つ雨粒が唱和している。

とどろ、とんてん、とどろ、てん。

日は()うに暮れている。

氷雨の冷たい雨音は、聞くものを物憂くする。

胡蝶はひとり冷めた部屋の中に居て、ただその音を聴いている。

とどろ、てん、とどろ、とんてん。

とどろ、とんてん、とどろ、てん。

(あね)さん」

ふいに障子が()いた。

片膝をついた中年の下男が障子を開けた姿勢のまま低い声で言った。

「どうしたんだい?」

「初音が逃げたようなんです」

胡蝶は(かろ)く嘆息した。

「馬鹿だねえ……」

すい、と胡蝶は立ち上がり、じっと沙汰を待つ(やっこ)に言った。

「あの業突張(ごうつくば)りに見つからないうちに連れ戻すんだ。それと、空いてる()はいないかい?」

「若菜がよろしいかと」

「そうだね。あの()は初音を可愛がっているから……。じゃあ、初音を探しに行く前に、ここに来るよう言っとくれ」

「はい」

音もなく障子が閉まると、もう一度胡蝶は嘆息した。

雨が冷たく頬を打っている。

はあ、はあ、はあ。

初音は走り続けている。

美しい振り袖は泥にまみれている。

小ぶりの履物も泥にまみれている。

逃げている。

逃げているつもりである。

息苦しさで足取りも覚束無ず、走っているつもりで歩くより遅い道行きだった。

それでも初音は顎を上げ、足を動かした。

雨の夜の通りに人は少ない。その少ない人々が皆、初音の尋常でない様を見て、驚いて立ち止まる。

初音が明かりを避けるように避けるようにひた走ってきたせいで、道はいよいよ真暗い小路に入った。

歩を緩めて上がる息を整えながら、小路から小路へと蹌踉(よろ)めくように歩く。明かりは広い通りから洩れさすばかりで、弱々しかった。

そうやってどれほど歩いたろう。小路の切れる場所にたどり着き、初音は歩みを止めた。

やや広い通りとぶつかる場所だった。

広いと言ってもそれは広さのことだけで、両側は屋敷の白壁が続き、人の通りは無い。向かい側には田圃が広がっている。

息を潜めて辺りを窺い、出てもいない唾を飲み込むと、意を決して初音は小路を飛び出した。

と、袖が何かに引っかかった.否、引き戻された。

初音は為すすべもなく地面に倒れこんだ。

刀。

男。

雨。

高々と掲げられた刀を地面にへたり込み、恐怖のままに見上げた。

地面に広がった振り袖がしとどに濡れている。

その様は、あたかも羽根をむしられた蝶のようだった。

急に、高々と構えられた刀が向きを変えた。

鉄と鉄とがぶつかり合うにぶい音がした。と思ったとたん、ざ、と男は跳び退った。

また、男。

背の高い男、と見えた。

その男もまた刀を持っている。

初音は地面に尻餅をついたまま、ただただ怯えて見上げていた。

互いを窺うように二本の刀がピタリと止まる。一本は胸の辺りに。一本は腰の辺りに。

ざあざあ。ざあざあ。

両者の間を分かつように雨が降り続く。

やがて。

上手(かみて)にあった刀がソロリソロリと退き始めた。その刀を握る男は、ある程度引いたところでさっと(そびら)を返した。

残っていた方の刀が構えの位置からゆっくりと下ろされた。

何が起きたのか分からなかった。

刀を伝って雨水が雫となり、地面に落ちる。

見れば、その刀はこの辺りでは見かけぬ湾曲のないものだった。男の握る抜かれたままの両刃の剣が恐ろしくて、初音は身じろぎさえもできなかった。

闇に紛れて人影も剣も黒々としていて、とても大きく見えた。初音は剣から滴り落ちる雨水だけをずっと見つめていた。闇の中、それだけは白く見えた。

――死に神……

叫び声の一つも立てられず、初音が唇だけを戦慄かせているその前で、黒々とした男は俯いて黙って雨に打たれていた。

死に神は雨に濡れながらしばらく(こうべ)を垂れていたが、やがて静かに剣を納めた。それから、初めて死に神は初音を見た。

死に神は異人で、片目だった。無表情だったのに、なぜか目が哀しげだと思った。

「早く戻るがいい」

落ち着いた声音が耳朶に触れ、最初の〈死に神〉の印象がゆっくりと書き換えられた。

「あ、あの」

初音は後ろについていた手を膝の方に持ってきた。

「ありがとう……ありがとうございます」

礼に対する(いら)えはなかった。

そのまま立ち去ろうとする男に、初音は咄嗟に声をかけた。

「何をしていたのですか?」

「何も」

短い返答の後は沈黙が流れた。雨が沈黙を埋めていく。

「あの……」

「強いて言えば」

男が口を開いたので、初音は口をつぐんだ。

「考えていた」

「何をですか?」

「他愛もないことだ」

答えはそれだけだったらしい。

「剣士様はこれからどうなさるのですか?」

異人さんだから〈お侍〉ではおかしいだろうと思って、初音は言葉を選んだ。そうやって言ってみてから、そんなことを思った自分がかすかにおかしかった。

「……」

「その……この町では外からの人をあんまり……だから……」

「……」

「今日の宿が無いのなら、いらっしゃいませんか。……きっと、(ねえ)さんならなんとかしてくれる」

そもそも自分だってほうりだされるかどうかも分からなかったのに、雨に濡れそぼる恩人に思わずそう言っていた。

剣士はじっと黙っていた。

沈黙は長く、男が断るのではないかと思った。

が、何故かあきらめたような目つきをすると、男は黙ってうなずいた。

雨は蕭然と降っている。

ゴトリ、と戸が鳴った。

心張り棒のせいで開かないと分かると、とんとん、と控えめに叩かれた。しばらくしてまた、とんとん。

胡蝶は土間に降りた。

「誰だい?」

小さく囁く。

(ねえ)さん、私です。初音です」

雨音に混じって声が返ってきた。

胡蝶は急いで戸を開けた。

「初音」

「姐さん、私……」

それっきり、何からしゃべっていいのか分からないのだろう、濡れそぼったまま初音は口ごもった。

「いい。今はいいよ。はやくお入り。こんなに冷たくなっちゃって……」

言われたとたん、初音の目からぽろりと涙がこぼれた。冷たい雨の滴に混じって、その涙だけが熱かった。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「次はないよ、初音」

初音は頷いた。

「次はちゃんと行きます。次はちゃんと……だから……」

「いいよ。あたしより若菜に謝るんだ。あとお礼もおし。あんたの代わりに客の相手しに行ったんだから」

「はい」

初音の体を抱えるようにして中に引き入れて、戸を閉めようとしたのを、初音が止めた。

「姐さん、お願いが……泊めてほしい人が外に……私を助けてくれたの」

「助けた?」

胡蝶は用心しいしい戸の外を窺い見た。

軒下に突っ立って、天から落ちてくる雨を眺めている男がそこにいた。

心配そうに言い募る初音を宥め賺して風呂へと追い立て、胡蝶は改めて戸の外を見た。

戸の外にいた男は傘も無いままに雨降る道を歩きだそうとしていた。

「お待ちなさいな」

「……」

黙って振り返った男は異人らしく、背も高かった。

「お待ちなさいな」

言葉は通じるのだろうかと思いながら、もう一度胡蝶は言った。

「うちの()が世話になったそうじゃないか」

「成り行きだ」

「ふうん」

胡蝶は値踏みするように男を上から下まで見つめた。

幅広の剣を()いているからには、剣士であることは間違いないだろう。片眼は戦いで失ったものだろうか。

初音を襲ったのは、今、巷を騒がせている辻斬りだろう。ならば、その辻斬りと対峙したこの男は?

「あんた、なんだってこんな大嵐の中を突っ立ってたんだい?」

「理由はない。ただ、考え事をしていたらいつの間にか雨になっていた」

「よっぽど深くお考えのようで。で、何を考えていたんだい?」

「金がなかった」

「何だって?」

話がどうつながっているのか分からず、胡蝶が声を立てると、

「このまま何も食べなければ死ぬだろうかと思った」

黒々とした男は一度言葉を切った。

「雨が降ってきてからは、このまま雨に打たれたら病で死ぬのだろうかと考えていた」

「……ねえ」

異人には会ったことがないけれど。

「あんた、馬鹿だろう」

言わずにおれなかった。

「多分、な」

返答は短かった。

正直、どう扱ったものか迷ったものの、胡蝶は男に上がるように言った。

上がるにあたって、刀を預かると言ってみた。どう出るかと思ったが、腰に吊るした真っ直ぐな得物を取ると、しばし見つめてから何も言わずに胡蝶に手渡した。

履物を履いたまま上がろうとするのを留めて、見慣れない履物を脱がせ、風呂へと急き立てた。

異人を泊めたとなれば役人がうるさい。履物も着物も見繕わなければならない。

「要蔵のが間に合えばいいけど……」

初音を探しに行ったっきりの要蔵だけが頼りである。

要蔵は腰の低い男であったが、腕っ節が強い。昔はお武家だったのではないかと思っているのだが、要蔵が自分の過去について語ったことはない。

胡蝶は水瓶の後に異人の履物を隠し、代わりに要蔵の使っている下駄を出した。

とんとん、とん。

戸が鳴った。

――要蔵。

叩き方でそれと悟って、胡蝶は急いで戸を開けた。

(あね)さん、」

「大丈夫、無事だったよ、初音は」

「自分で戻ったわけで?」

「そうさ。それも男連れて、ね」

「男を……」

中に入り、芯張り棒を掛けていた要蔵が動きを止め、胡蝶を見た。

かいつまんで説明してから胡蝶は、

「それで、お前さんにその異人さんを見てほしかったのさ」

「腕の方を?」

「そう」

「対峙もせずに?」

「難しいとは分かってるさ。でも騒ぎを起こす訳にもいかないだろ?」

要蔵は静かに頷いた。

「姐さんはどうお見立てで?」

「私にやっとうのことは分からないよ」

「いえ、人と()り、です」

胡蝶は要蔵をしばし見つめてから、ゆっくりと瞬きをした。

「……難しいね。何か――」

胡蝶は口篭もった。

「ぼんやりとしてる。一歩間違えりゃでくのぼうさね。でも……」

「でも?」

「……何かを投げちまったように見える」

「そうですか。存外、」

要蔵が言いかけてやめたことが胡蝶には分かった。

――存外、ここに来るに相応しいかもしれませんね。

そう言いたかったのだろう。

男は幸い瞳も髪も黒かったので、要蔵の着物を着ると遠目では異人に見えなかった。

「何とかごまかせそうだね」

身を整えた男を見上げて胡蝶は頷いた。胡蝶の後ろには要蔵が控えている。

畳の上に置かれた座布団と、座っている胡蝶を見比べてから、男は自分も胡蝶をまねて座布団に腰を下ろした。教えた訳でもないのに端座する様は、いっぱしの武士らしく見えた。

「異国の者を匿うとまずいのではないのか?」

「まあ、ね」

「酔狂なものだ」

「酔狂?義に篤いと言ってほしいね」

男は笑うでもなく、頷くでもなく胡蝶を見ている。胡蝶は肩をすくめて見せた。

「異人相手は昔から御法度だったけど、前はこんなに厳しくはなかったのさ。ただ、このところの辻斬り騒ぎでお役人がピリピリしててね」

「辻斬りは異国人だと?」

「それは、あんたの方が知っているんじゃないのかい?」

「……」

胡蝶は男に水を向けた。

「会ったんだろう?今日」

「あれがそうならば。ただ、暗かったからな」

「へえ?」

「俺よりもあの娘の方がよく見ていたのではないか?」

「そうかもね。ところで……」

ここから切り込むのは無理と悟って、胡蝶はすぐに話題を変えた。

「あんた、なんだってこの街へ?」

「……理由はない。足の向くままに来ただけだ」

「でも、止められただろ?船で来たか関を抜けたか知らないけど、どこから来たって言われたはずさ。異人が来たらすぐにひっぱられるってね」

「……」

「それとも、何かい、あんたも噂に乗せられたくちかい?」

「噂?」

「やれ、金がザクザク取れるだの、やれ、女がなんでも言うこときくだの」

冗談めかした口調に男は首を振った。

「何も聞かなかった。その噂とやらも。関越えが法度だということも」

そのまま口をつぐんだ男を前にして、それは案外本当かもしれない、と思った。話しかけさえすれば普通に返答は返ってくるが、男にはどこか堅い殻を感じさせる物があった。それは他者には圧迫と取れる。話しかける者がさほど多くはなかっただろうことは容易に察しがついた。

「あんた、行く当ては」

「あて、か」

低い声は一度途切れた。

「ない」

短い沈黙のうちに何を考えていたのだろうと胡蝶は思った。

胡蝶は片目の異人をおいて外に出ると、油断なく部屋の襖を伺っている要蔵に小声で話しかけた。

「どう思う」

「……気配は静かですが、おそらく」

「できるかい」

ええ、と頷くのを胡蝶はほぼ予想していた。

「そうかい」

「どうなさるおつもりで」

「初音との約束だ。この長雨が止むまでは置いておくよ。もちろん、怪しい素振りをするようなら話は別さ。要蔵、悪いけど」

「はい。目を離さないようにいたします」

胡蝶はその足で一階に降りていった。降りきった廊下には障子越しにぼんやりとした光が射している。胡蝶は襟元を整え、障子を引いた。

いつもならば、誰が入ってこようと眼鏡をつけて算盤をはじき、帳簿ばかり見ている弥平が今日ばかりは胡蝶を見上げ、渋い顔をした。

「あの異人、どうするつもりだ」

「置いておやりよ。どうせ、雨が()むまでのことさね」

弥平は渋い顔をますます渋くした。

「面倒ごとは御法度だ。うちの商売じゃなおのこと。分からぬお前でもあるまいに」

胡蝶は微笑を浮かべて弥平の(そば)に座ると、艶めく仕草のままに、その唇を相手の頬にくっつきそうなぐらいに近づけた。

「察しが悪いねえ」

胡蝶が囁くと、弥平の声も自然と低くなった。

「なんだと?」

「お聞きよ、相手は勝手の分からない無一文の異人さんだ。その上、得にもならないのに小娘助けるお人よしだよ。ここでうんと恩を売っとけば、あんた、飯代だけで用心棒が手に入るじゃないか」

あのぼうっとした男が恩を感じるかどうかは知らないが、言うだけなら何とでも言える。

「まあ……しかし、腕が立つのかどうかは」

「聞かなかったかい?辻斬り追い払ったんだよ?」

「そうは言うがなあ、胡蝶」

渋ってはみせているが、ただ同然で用心棒が手に入るという話にかなり心動かされているようだ。

「使えるかどうかは要蔵に見張らせてるよ。ねえ、ちょっと様子見るのも悪くないと思わないかい……?」

「しかしなあ……」

「この辻斬り騒ぎだ。今日だって、初音が襲われた。娘ひとり商売に出すのにどれだけ掛かったか、それこそ分からぬあんたじゃないだろう?」

「……」

「呼び出しが増えりゃ要蔵一人じゃどうにもならないよ。ね……?」

弥平は、帳簿に目をさ迷わせた。ひと一人の食事代と商売とを天秤に掛けているのだろう。

「いいだろう。だが、胡蝶……」

「分かってる。目は離さないよ」

弥平の首に軽く両手をかけて、胡蝶は、ふふ、と軽く笑った。

爾来、二階には異人がいる。

雨は降り止む気配もなく、水嵩の増した川は旅人の行く手を阻んでいる。金のある者はその憂さを遊びに晴らし、娘の呼び出しも毎晩かかった。

異人はいつも与えられた部屋に大人しくしていた。要蔵と胡蝶は注意深くどちらか一人は男を見張るように気をつけた。男がもともと持っていた剣はおろか、匕首ひとつ渡さなかったので、今のところ、弥平に言い繕ったような仕事はさせていない。

娘たちは最初、異人を怖がり、近づく者といえば初音だけだった。初音はいそいそと異人の身の回りの世話をしている。それは、どちらかと言えば父親の世話をする娘のようだった。

その初音がある日、嬉しそうに紙を胸に抱いて異人の部屋を出てきた。

「どうしたんだい、初音。何かいいことでもあったのかい?」

声を掛けた娘に初音は胸に抱いた紙を見せた。

(ふみ)を書いてもらったの。田舎に送ろうと思って」

「ええ?あの異人さん、字が書けるのかい?」

ええ、と嬉しそうな初音に、話しかけた方は心配そうな顔をした。

「ちゃんと書いてあるか分からないよ?」

「そんなことありません。そんなひどい人じゃありません」

言い募る幼さの残る娘を傷つけずに済まそうと、

「そうじゃなくてさ……。ほら、あんた、せがんだんじゃないのかい?あんまりあんたが言うから断れなかったのかもしれないよ」

素直な娘は今度は心配そうな顔になった。

「どうしよう……」

「要蔵さんに見ておもらいよ」

二人がいっしょに薪を割っていた要蔵の所に行くと、要蔵は紙を汚さないようにてぬぐいで手を拭いてから、手を差し出した。

「達筆ですね」

要蔵が言うと、初音は笑顔をはじけさせた。

「田舎に送ってもおかしくない?」

「ええ。大丈夫です」

それからは、男の仕事は娘たちの代筆になった。

字が分かるのは弥平と要蔵と胡蝶ぐらいで、弥平は書いてくれるはずもなく、要蔵はいつも忙しく、胡蝶に頼むのは娘たちには敷居が高いらしかった。

(ふみ)を書いてもらうようになると、他の娘たちも徐々に異人を怖がらなくなった。結局、怖いのは外見だけで、だんまりではあるものの、手荒なことは決して言うこともすることもないと分かったからである。

そんなある夜のことだった。

「どうしたんだい、若菜!」

胡蝶が船宿からふらふらと帰ってきた若菜を抱えると、若菜は玄関先に倒れ込んだ。その顔が殴られたように腫れ上がっている。

「お客さんが……」

胡蝶は、物もいわずに若菜の着物をはだけた。青痣がいくつもあり、胡蝶の顔が険しくなった。

「いいの、姐さん、いいの……お金、たくさんもらったから……」

弱々しく笑みさえみせた若菜の頭を胸に抱えて、胡蝶は言った。

「良くないよ」

すぐに若菜を床につかせて、胡蝶は弥平にこのことを告げた。

弥平はすぐに直談判に出た。算盤ばかり弾いている弥平だが、だからこそ娘たちを大事にするという一面もある。

「要蔵、医者を呼んどくれ」

「いいんで?」

「いいよ、金ならどうせあの業突張りが巻き上げてくるさ。それは若菜の金だろう?」

次の日は寝込んで、その次の日に、若菜は異人の部屋を訪れた。異人は腫れあがった若菜の顔を見ると、黙ってその片眼を(まばた)いた。

「おかしな顔、でしょう?」

若菜が恥じるように言うと、珍しく異人が自ら言葉を発した。

「すまない」

「いいんです。こんな顔じゃ商売に出られないから、しばらくお休み。……それよりも、(ふみ)を書いてはもらえませんか?」

異人は黙って、硯を寄せて、墨を摺り始めた。

男の手元からしゅ、しゅ、という音が鳴る間に、若菜は頭の中で何を書いてもらおうかと考えた。やがて、男の手は墨を起き、代わりに筆を手に持った。

「『お元気ですか。わたしは元気です。お仕事もうまくいっています。いいお客さんがいて、たくさんおこづかいをくれました』」

そこで若菜は幸せそうに――本当に幸せそうにだ――笑みを浮かべた。男は一度顔を上げ、娘を()っと見つめたが、若菜が続きを話し出したので、手元に視線を戻した。

「『だから、今日は多いの。心配しないでとっておいてね。そちらはこれから寒くなるから、風邪をひかないようにしてください。わかな』」

異人は書き終わると、若菜に紙を渡した。若菜は分からないながらも紙を埋める黒い文字を嬉しそうに眺めて、墨を乾かそうとでもするかのように、ふうっと息を吹きかけた。

「若菜、ここにいたのかい。だめじゃないか、無理をしちゃ」

襖が開き、胡蝶がそこに立っていた。

「ううん、もうずいぶんいいの。だから大丈夫」

「だめだめ。それに、お医者様がいらしたよ」

そこで若菜は困った顔をした。

「どうしよう。まだ乾かない」

「俺が――」

黙っていた黒髪の異人が口を開いた。

「――出しておこう」

「ありがとうございます」

若菜はそう言うと、懐から大事にしまっていた紙を出した。若菜がその紙を開けると、中には金色に光る小粒が入っていた。その中から娘は五つばかしを男に渡した。

怪訝な顔をする男に、若菜は言った。

(ふみ)のお礼です」

「……」

「残りは(ふみ)に入れてください」

若菜はそういうと、胡蝶の脇をすりぬけて自分の部屋へと帰っていった。

胡蝶はその背中を見送ってから、部屋の男の方をもう一度見た。

男は別の紙を折って封書を作り、もらった金を全てその中に入れるところだった。(ふみ)の礼に、と渡された小粒も全て。

チチチチチチリン。

金色の小粒は、軽い音を立てながら封書の底に収まった。

その夜、胡蝶は異人に刀を一本渡した。背の高い異人に見合った長い刀は要蔵が見繕ってきた物だ。

「娘たちの送り迎えをしてほしいんだ。頼めるかい?」

男は片手で刀を受け取り、黙って頷いた。

(つづく)