新発田の第2師団へ入隊するとすぐに日清戦争が始まりました ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
佐渡から新発田入営まで
日清戦争は明治27-28年なので,徴兵は「徴兵令」(明治22年1月22日法律第1号)[1]に従って行うことになります.

毎年1月-12月に満20才になる者は,その年の1月1日-31日までに市町村長に書面で届出をします.戸主でない場合は,戸主がその届出をします(第二十五條).ここ,余計な手間しとるなあと思うのは,『新徴兵令解釈及徴兵事務取扱手続 正編』[8]の解説によると,前の年の12月に市町村長側から國民兵名簿か戸籍で翌年20才になる者を調査して戸主に手続に遺漏が無いよう注意していたらしいのです.もしかしたら,免除の理由がある場合などに申し出させるためなのかもしれません.
月島の住んでいた場所が下駄を手にもって喧嘩している宿根木だと仮定すると,明治26年当時は羽茂郡岬村です.徴兵令改正前ですが明治16年の資料[13]p495では,羽茂郡の徴兵下検査の場所は,小木町です.ただ,中頸城郡の文章ですが,明治24年の徴兵検査は4カ所あって,4/21-5/4にかけて行われている[13]p498ので,もっと細かく検査場所が分かれていたのかもしれません.
新兵の入営期日は通常毎年12月1日でした(徴兵令事務條例[11]第四十七條).新兵は先ず大隊區司令部か便宜の地に召集され,人数に応じて大隊區副官か書記が入営地に引率しました(同第四十八条)[11], [8].
佐渡がどの大隊区だったかは,「陸軍管区表」(明治21年5月・勅令第32号)[7]に記載があります.新潟だけ抜粋すると,下記の通り.
| 師管 | 旅管 | 大隊區 | 警備隊區 | 管府縣 |
|---|---|---|---|---|
| 第2 | 第3 | 新發田 | 新潟區,南蒲原郡,北蒲原郡,中蒲原郡,西蒲原郡,東蒲原郡,岩船郡,古志郡 | |
| 柏﨑 | 刈羽郡,三島郡,北魚沼郡,南魚沼郡,中魚沼郡,東頚城郡,中頚城郡,西頚城郡 | 佐渡 | 雜太郡,羽茂郡,加茂郡 |
ただし,欄外に警備隊設置迄は(中略)新潟懸雜太羽茂加茂三郡は柏嵜大隊區ニ(中略)属ス
とあって,佐渡警備隊は『両津市史 町村編 上』p620-622などにもあるように,結局は作られなかったようです.なので,徴兵の事務は柏崎大隊区が担っていました.よって,召集場所は柏崎大隊區司令部になりそうです.
ところで,同じ文書内で既に「柏﨑」と「柏嵜」の表記揺れがあって,けっこう適当だったのかな.
さて,明治26年頃の佐渡からの新潟への定期航路は,『佐越航海史要』[9]によると,夷港(両津)-新潟間と澤根-小木-直江津間だったようです.柏﨑に行かなければならないとすると,新潟に着く船は使わないと思われます.

宿根木から徒歩1時間ほどで小木港へ行き,そこから直江津港に上陸,鉄道は無いので1日ぐらい歩いて柏崎というルートかと思います.
柏崎からもまだ鉄道がありません.庶民である新兵をそれなりな人数連れて行くことを考えると,馬や馬車ではなく,徒歩で新発田に行くことになると思います.現在の国道8号線はほぼ北陸道でその頃も主要道だったと考え,上記の地図では直江津から新潟までを国道8号線をなぞりました.この間の主な宿場町は直江津-青梅川-柏崎-出雲崎-弥彦-新潟です.適度に宿を取りながら北上したのだと思います.新潟から新発田は国道7号線をなぞりました.昔の羽州浜街道になります.新潟からなら1日歩けば着くと思います.
この旅程や,冬期の日本海の船の欠航状況などを考えると,11月初旬から遅くとも中旬には佐渡を出発していたのだと思います.
新発田にて
新発田にあるのは歩兵第16聯隊です.元 新発田城の場所にあり,現在その兵舎は白壁兵舎史料館として一部が残されています.
下記は,『新発田町・新発田本村地図』(明治17年)と『改正新発田町全図』(昭和期)を参考にして,現在の新発田駅から新発田城址辺りの地図に練兵場の場所を作図した物です.現代の地図は地理院地図Vectorを利用しました.歩兵第十六聯隊の兵営は,新発田城跡にあり,現在は陸上自衛隊新発田駐屯地になっています.

| 年月 | できごと |
|---|---|
| 明治27年(1894) 1月10日 | 東学党の乱起こる(日清戦争のきっかけ) |
| 7月25日 | 日清戦争勃発(豊島沖海戦) |
ところで,一つ気が付いてしまいました.
「この島に俺の居場所は無いけれど…」「戦争が終わったら一度だけお前のために帰る」「その時に駆け落ちしよう」 ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
日清戦争が起きるのは入営後です.12月の入隊後に起きた1月の朝鮮での動乱が日清戦争に繋がるなどとは予想できないでしょう.となると,この台詞は入隊後.新兵は外出などできないですし,例え一日二日休みをもらえたとしても帰れる距離ではありません.つまり,上記の台詞の背景の夫婦岩は,イメージ映像です.
普通に考えると,手紙か何かで伝えたことになるけど,手紙だと「この島」って書かないか.
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 8月1日 | 正式に宣戦布告(宣戦の詔勅) |
| 9月15日 | 大本営開設(広島) |
| 9月17日 | 黄海海戦 松島誘爆により大破 |
松島は大破しましたが,沈んではいません.また,戦闘自体は日本軍が勝利しています.
平二さんにしたら,余計にやりきれなかったでしょう・・・・・・.音之進も,日本が勝ったと聞いて,兄さあ凄い,はやく帰ってこないかな,話が聞きたいと思っていたら――という状態たったかもしれないと思うと可哀相で.
黄海海戦後,清の北洋艦隊は残存戦力を母港・威海衛に引き上げ立て籠もりました.この威海衛攻略のために第2師団にも出兵の命が下ります.
| 年月 | 第16聯隊の動き |
|---|---|
| 9月25日 | 第2師団動員下令 予備役召集[2] |
| 9月28日 | 応召完了 町裏練兵場にて訓練[2] |
| 10月3日 | 町裏練兵場(現在の新発田南高校裏)で 野戦隊の武装検査[2] |
| 10月5日 | 後備役召集[3] |
「召集」は予備役等を集めることです(通常の徴兵された現役兵は既に兵営にいます).あちこちに散らばって生活している予備役がわずか3日間で新発田に集まったということです.これは,下記の連隊長の諭告によれば,予定より2日早かったようです.
現代人の自分からすると,鉄道も無いのに5日で集まれという命令自体が無茶だと思ってしまいます.
上記の図を見てもらうと分かりますが,兵営前にも営前練兵場というのがあります.しかし,歪な形をしていて手狭なのもあって,予備役召集で膨れ上がった兵卒の訓練には町裏練兵場の方が便利だったのではないかと思います.兵営からは徒歩30分弱の距離になります.当時は,練兵場の周りは田んぼだったようです.
10月3日に連隊長・福島庸智大佐が下した諭告は次の通りです.[2]
出征ニ付キ諭吿
今回充員ノ下令アルヤ,各自家ヲ忘レテ爭ウテ召集ニ應ジ,豫定期日ニ先立ツコト二日ニシテ要員ヲ充足スルコトヲ得タリ.是レ畢竟諸士ガ忠君愛國の氣象ニ富ミ,軍人ノ職分ヲ確守セルニ職由シ,予ノ最モ滿足スル所ナリ.
抑モ今回ノ開戰ハ,我帝國ノ浮沈ニ關スル未曾有ノ事件ニシテ,而モ國威ヲ發揚スルノ最好機タリ.其勝敗如何ハ直チニ我帝國ノ盛衰榮辱ニ係ルノミナラズ,又東洋ノ局面ニ影響スルコト大ナリ.而シテ此重任ハ一ニ軍人ノ双肩ニ懸ル.諸士ノ任重且ツ大ナリト云フベシ.且夫れ强ヲ挫キ强ヲ破ルハ,軍人ノ潔シトスル所,彼老淸國固ヨリ我ニ敵スルノ勇ナシト雖モ,其ノ兵力ノ如キハ殆ド我ニ幾倍スルモノアリ.又以テ我ガ武ヲ試ムルニ足ラン.諸士勉旃誓テ奮進,敵ヲ殲滅シテ後已ミ,上ハ 大元帥陛下ノ宸襟ヲ安ンジ奉リ,下ハ聯隊ノ光榮ヲ發揚センコトヲ期スベシ.其各自ノ名譽ノ如キハ,長シエニ皇土終始センノミ.
終ニ臨ンデ更ニ一言ス.諸士須ク其健全ヲ保チ,砲聲場裡 陛下ニ忠事スルノ榮ヲ全ウセヨ.我聯隊充員ノ完成ニ際シ,茲ニ諸士ニ吿グ.
……これ,兵卒全員理解できたんですかね? 義務教育に授業料が必要だったこともあって,就学率低くて学校行ったことが無いのが大半という世代のはずなんだけど.例えば,明治12年の佐渡の折柴校(のちに相川第二尋常小学校,現・相川小学校の前身)の修学調べによると,学齢1,155人に対して修学は242人(うち男171人,女71人)[13]p216.就学率は20.1%と5人に1人しか学校に行っていません.当時は義務教育でも授業料が必要だったことが理由で,例えば明治10年の同じく相川の姫津校の開業願いには生徒授業料 1人に付き平均1ヶ月金1銭
とあります[13]p235.
出兵
| 年月 | 第16聯隊の動き | その他のできごと |
|---|---|---|
| 10月24日 | 青森第四旅団分列式 | |
| 10月26日 | 第2軍に編入.新発田兵営出発 郡山まで戦闘訓練をしながら行軍 | |
| 10月28日 | 青森第四旅団出兵(旅団長:伏見少将宮) | |
| 10月29日 -11月3日 | (郡山で合流) | 仙台鎮台各軍隊(第三旅団)出兵 |
| 11月6日 | 広島着 | |
| 11月24日 | 歩兵第1旅団(旅団長:乃木希典少将),旅順要塞を1日で陥落させる |
入営時期は12月1日なので,月島は新発田には11ヶ月足らずしかいないことになります.
中国大陸へは広島の宇品港から出るのですが,この頃はまだ鉄道網が発達しておらず,新発田から移動するには,直江津に行くか郡山に行くかの2択でした.
第2師団の本部は仙台なので,仙台から南下する部隊と合流するために郡山に移動することになったようです.ちなみに,新発田から郡山までは約150kmあります.
仙台のは6日間連日部隊が出発しており,南下するその部隊に郡山で合流し,広島に着くのが11月6日になります.
| 年月 | 第16聯隊の動き | その他のできごと |
|---|---|---|
| 明治28年(1895) 1月6日 | 第2師団長,第3・第4旅団長,大本営に召される. | |
| 1月9日 | 広島出発 | |
| 1月10日 | 宇品港出発 |
しばらく広島で滞陣します.師団司令部は大手町通りで,各部隊は各所に散らばって待っていたようです.
| 年月 | 第16聯隊の動き |
|---|---|
| 1月14日 | 大連に集結 |
| 1月19日 | 大連出港 |
| 1月20日 | 山東半島の栄城湾東端に上陸. この夜暴風雪で前哨部隊の過半集が凍傷になり,重症者1名兵卒1名凍死. |
| 1月24日 | 栄城出発,威海衛へ向けて前進. |
| 1月28日 | 師団の前衛となり,威海衛へ前進. 亭子斎付近に宿営し敵の偵察 聯隊のうち第3大隊を温泉条付近に出し前哨とする. |
| 1月29日 | 午前9時敵兵が前哨戦を襲撃. 暴風雪により敵情が分からず第3大隊苦戦. 第2大隊が増援,軍参謀の偵察守備をしていた第1大隊も敵を攻撃. 午後0時15分敵兵退去開始. |
| 1月30日 | 第3旅団の前衛になり,温泉場を出発. 楊家屯付近の敵を撃退追撃し海岸に達したものの, 敵艦からの砲撃により楊家屯付近に退去. この戦闘で戦死者40名,負傷者52名. |
| 1月31日 | 楊家屯を出発し,敵を追撃. |
| 2月1日 | 羊亭集付近で敵の後衛と衝突→撃退. ここで宿営滞陣し第1中隊を威海衛の偵察として派遣. |
| 2月2日 | 第2大隊を増発. 正午威海衛に到達,諸砲台を占領. |
| 2月17日 | 威海衛陥落. |
| 2月27日 | さらに侵攻・守備していたが,軍の後衛になって威海衛に退却. |
| 2月28日 | 威海衛を出港し,旅順港に上陸. 将家屯付近にて宿営. |
威海衛の戦いは,陸海軍共同作戦で,決戦にむけて制海権を完全に掌握するためのものでした.勝利したものの,日本軍は厳寒地での戦闘経験に乏しく装備も不足して凍傷に苦しんだようです.これが八甲田山の雪中行軍の事件に繋がるのでしょう.また,前線では食料と燃料が不足し,さらに威海衛では水不足でもあったようです.
日清戦争終結-しかし
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 3月20日 | 日清両国の間で講和交渉 |
| 4月5日 | 乃木希典少将,中将進級 第2師団長に. |
| 4月17日 | 講和成立 |
| 4月23日 | 三国干渉.遼東半島を放棄. |
『鶴見篤四郎の宿願』で小城閣下とされている乃木大将は,日清戦争終結直前に第2師団長になっています.顔ぐらいは知っていたのかもなどと思ったり.
ここに,日清戦争は終結するのですが――
日清戦争が終わる頃・・・なぜか彼女の手紙がプッツリと途絶えたんです ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
| 年月 | 第16聯隊の動き |
|---|---|
| 5月18日 | 第2軍の戦闘序列を解かれ,占領地総督部の隷下に入る |
| ~9月下旬 | 第2大隊・金州,第3大隊・岫巌,本部と第1大隊は九連城付近に分屯 清兵の偵察,草賊の掃討,兵站線の守備. コレラ・赤痢等の伝染病にも苦しむ. |
帰れない.
| 年月 | 第16聯隊の動き |
|---|---|
| 10月1日 | 大連港を出港 |
| 10月10日 | 台湾南部西海岸,馬公湾枋寮岸に上陸. 北進し,台南を攻撃. |
| 10月21日 | 台南に入り後守備. |
帰れない.
| 年月 | 第16聯隊の動き | その他のできごと |
|---|---|---|
| 明治29年(1896) 4月11日 | 平安から乗船. | |
| 4月19日 | 宇品港着 | |
| 5月1日 | 郡山を経て第3大隊凱旋 | |
| 5月4日 | その他の部隊凱旋 | |
| 5月8日 | 平時編制に復す. 聯隊の戦死者47名,負傷者75名,病疫者226名. | |
| 10月31日 | 佐渡鉱山,三菱合資会社に払い下げ[4] |
手紙が来なくなってから1年以上も月島は帰れないわけです.5月8日ですぐに佐渡に帰れたかも不明.
徴兵令(明治22年1月22日法律第1号)によると,現役は陸軍は3箇年(第三條)で,現役年期の計算は総て其入営する年の12月1日より起算(第二十九條)しました.佐渡に戻った月島は別に脱走しているわけではなさそうですので,特別に休暇がもらえるのでない限り,明治26年12月1日から明治29年11月30日で現役を終えて12月に帰ったことになるのでしょうか.
ただ12月だとすると,さすがに海を浚うにあの格好は寒すぎるし,佐渡でのあれこれで収監されて陸軍監獄で鶴見に会うのが12月だとすると,鶴見の工作を終えて監獄を出る頃には既に明治30年,その年には鶴見とウラジオストクに行っているので1年も経たないうちに辞書に頼っているとは言え,そこそこロシア語を喋れるようになっているという,最早天才かとしか言いようがない.(1年で喋れるようになってても凄いけど)
そして,普通に考えると,現役が3箇年であるからには,鶴見と月島が会った時は既に月島は現役終了間近,12月に入っていたとするともう予備役です.ここを伸ばすとしたら,志願して下士になっているしかない.が,駆け落ちを考えていた月島がそれをしていたとは思えないので,鶴見少尉は,死刑を回避すると同時に第七師団に移るどさくさに紛れて月島を現役に戻すあるいは予備役召集する&連れ回している最中に下士にするという離れ業をやっていることになります.
あと,母方の墓参りはいつ行ったんだ.
下士に関しては,明治35年の中頸城郡の物ですが,志願者が少ないから奨励するような文書が発出[13]p511されているので,なり手が少なくて押し込めることができたのかもしれません.