新発田の第2師団へ入隊するとすぐに日清戦争が始まりました ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
佐渡から新発田入営まで
日清戦争は明治27-28年なので,徴兵は「徴兵令」(明治22年1月22日法律第1号)[1]に従って行うことになります.

毎年1月-12月に満20才になる者は,その年の1月1日-31日までに市町村長に書面で届出をします.戸主でない場合は,戸主がその届出をします(第二十五條).ここ,余計な手間しとるなあと思うのは,『新徴兵令解釈及徴兵事務取扱手続 正編』[8]の解説によると,前の年の12月に市町村長側から國民兵名簿か戸籍で翌年20才になる者を調査して戸主に手続に遺漏が無いよう注意していたらしいのです.もしかしたら,免除の理由がある場合などに申し出させるためなのかもしれません.
戸主は父親だったのだと思われますが,作中に語られる人物像だと手続とかちゃんとしそうにないなあ.追い出したくて嬉々としてやったかもしれないし,周りが「自分の所の働き手を取られたくない」「地域で手続きしない奴が居るとえらいことになる」と考えて無理矢理か代行かでやったのかもしれない.
月島の住んでいた場所が下駄を手にもって喧嘩している宿根木だと仮定すると,明治26年当時は羽茂郡岬村です.徴兵令改正前ですが明治16年の資料[13]p495では,羽茂郡の徴兵下検査の場所は,小木町です.ただ,中頸城郡の文章ですが,明治24年の徴兵検査は4カ所あって,4/21-5/4にかけて行われている[13]p498ので,もっと細かく検査場所が分かれていたのかもしれません.
岬村は,明治22年に小木村(※小木町とは別),琴浦村,金田新田,田ノ浦村,江積村,沢崎村,深浦村,犬神平村,強清水村,宿根木村が合併してできた村で,村役場は宿根木にありました.現在,公会堂が建つ広場の辺りです[21].もし徴兵検査の場所が幾つかに分かれていたのなら,この辺りで徴兵検査したのかも.
新兵の入営期日は通常毎年12月1日でした(徴兵令事務條例[11]第四十七條).新兵は先ず大隊區司令部か便宜の地に召集され,人数に応じて大隊區副官か書記が入営地に引率しました(同第四十八条)[11], [8].
佐渡がどの大隊区だったかは,「陸軍管区表」(明治21年5月・勅令第32号)[7]に記載があります.新潟だけ抜粋すると,下記の通り.
| 師管 | 旅管 | 大隊區 | 警備隊區 | 管府縣 |
|---|---|---|---|---|
| 第2 | 第3 | 新發田 | 新潟區,南蒲原郡,北蒲原郡,中蒲原郡, 西蒲原郡,東蒲原郡,岩船郡,古志郡 | |
| 柏﨑 | 刈羽郡,三島郡,北魚沼郡,南魚沼郡, 中魚沼郡,東頚城郡,中頚城郡,西頚城郡 | |||
| 佐渡 | 雜太郡,羽茂郡,加茂郡 |
ただし,欄外に警備隊設置迄は(中略)新潟懸雜太羽茂加茂三郡は柏嵜大隊區ニ(中略)属ス
とあって,佐渡警備隊は『両津市史 町村編 上』p620-622などにもあるように,結局は作られなかったので,徴兵の事務は柏崎大隊区が担っていました.よって,召集場所は柏崎大隊區司令部になりそうです.
さて,明治26年頃の佐渡からの新潟への定期航路は,『佐越航海史要』[9]によると,夷港(両津)-新潟間と澤根-小木-直江津間だったようです.柏﨑に行かなければならないとすると,新潟に着く船は使わないと思われます.

宿根木から徒歩1時間ほどで小木港へ行き,そこから直江津港に上陸,鉄道は無いので1日ぐらい歩いて柏崎というルートかと思います.
柏崎からもまだ鉄道がありません.庶民である新兵をそれなりな人数連れて行くことを考えると,馬や馬車ではなく,徒歩で新発田に行くことになると思います.現在の国道8号線はほぼ北陸道でその頃も主要道だったと考え,上記の地図では直江津から新潟までを国道8号線をなぞりました.この間の主な宿場町は直江津-青梅川-柏崎-出雲崎-弥彦-新潟です.適度に宿を取りながら北上したのだと思います.新潟から新発田は国道7号線をなぞりました.昔の羽州浜街道になります.新潟からなら1日歩けば着くと思います.
直江津から新潟までは,アーネスト・サトウの著書『A Handbook for Travellers in Central & Northern Japan(2nd Ed)[14]』でルート30として紹介されている旅程と一部が同じです.ほとんど海沿いを行くルートになります.明治17年出版なので,道の状況など参考になると思いますので抄訳します.
- 296ページ辺りから.宿の名前,歴史の記述,人力車を使う場合の記述,脇道などは省略
- (T.)はTeregraph Office=電信取扱局所のある記号.
- 原文は里と町(1里=36町)とマイルの記載ですが,マイルをkmで計算し直した物を追記.直江津からの距離にしています.
直江津から 里 町 km 黒井 1 1 4.8 潟町 2 29 11.3 柿崎 4 26 19.3 鉢崎 6 15 25.7 青海川 8 5 32.2 鯨波 8 26 35.4 柏崎 9 25 38.6 荒浜 11 7 45.1 椎谷 13 6 53.1 石地 14 30 59.5 出雲崎 15 33 62.8 寺泊 19 8 75.6 弥彦 21 33 86.9 竹野町 24 4 94.9 赤塚 25 25 101.4 内野 27 12 107.8 新潟 31 2 122.3 (T.) 今町,または直江津(訳注:直江津はもともとは「今町」で,明治11年に「直江津」になりました),人口6000人で関川の河口左岸に位置し,沿岸を航行する廻船の寄港する小さな港である.ここから鉢崎までの道はおおむね良好で,初めは低い砂丘の裏手に沿って海岸近くを通り,その後は柿崎までの半ばから海を一望できる道となる.
[前方には米山がひときわ目立って見えている.柿崎または青海川から登ることができる]
黒井,片町,柿崎は小さく貧しい集落である.道は米山の麓を通り,鉢崎までは海辺に沿って続く.そこから道は山裾へと登り,海を望みながら小さな尾根を上り下りしつつ,鯨波の手前まで続いている.
鉢崎,青海川,鯨波は小さな村である.
(T.)柏崎は人口14,00で,海岸沿いに3マイルほど広がっている.ここから内陸へ入る道が分かれ,9里先の長岡へ通じている.近くの村々では麻から「越後縮」が織られている.
寺泊まで続くこの海岸には,たくましい漁師たちが暮らしている.海では大きな鯛・カレイ・ヒラメが豊富に獲れる.ここで獲れる魚は,西の越中沖のものより味が格段に良いと言われている.女性たちも強壮で重労働をこなしており,日常的に荷物運びや荷車を引く仕事を担っている.
椎谷までの道は良好だが,その先は寺泊に近づくにつれてだんだん悪くなる.
荒浜は規模の大きな漁村で,細々とした交易も行われている.家々は切妻を通りに向けて建てられ,戸口以外に開口部はほとんどない.前から奥へと長い通路が伸びていて,内部は,各部屋が障子とその外側に設けられた壁とで寒さから二重に守られるように配置されている.柏崎から砂丘の上を通ってきた道は,ここで砂浜近くに下り,海水浴に適した場所を通る.そして宮川(荒浜から1里14町)というそれなりに大きな村を抜けて椎谷に至る.椎谷の入口には小綺麗な茶屋が2軒ある.この町はかつて堀右京亮という小さな大名の居所であり,その領地は一万石だった.町の中心部近くの高台にはその陣屋跡が残っている.
道はここで椎谷岬を登り,岬を回り込むとすぐにいくつかの小さな岬の向こうにある石地が見えてくる.再び急な下り坂となり,砂浜の上を曲がりながら進む.石地の入口には「吉野屋」という立派な料理屋があり,椎谷岬の方向への見晴らしが利く場所にある.
(T.)出雲崎は人口9000人で,多くの漁師が暮らし,沿岸交易も少し行われている.町は海岸沿いに二マイル以上延びており,家々は新井や高田と同じように切妻を通りに向けて建てられ,家の前には屋根付きの通路(訳注:雁木造りのこと)がある.ただし荷物などで塞がれていてほとんど通行できない.町の東端にはきちんとした料理屋が一軒ある.
寺泊は人口6,000人で,海岸沿いに広がっている.信濃川の大河津から寺泊まで,洪水の水を排出するために5マイルほどの運河が1870年に着工されたが,その後,この工事は放棄されている.
訳注:『佐越航海史要』[9]p129によると佐渡・赤泊-新潟・寺泊間は明治13,4年頃には旅客の出入りが頻繁で,その後明治14年頃に汽船が両津-新潟間や小木-出雲崎間定期を通るようになると客船こそ廃れたものの,明治の終わり頃まで佐渡産牛などを搬出する押切船の往復がまだ頻繁だったようです.
次の宿場へは2つの道があり,弥彦山の西側を通る人力車向きの新道か,砂浜を半里ほど進んでから山の尾根を越える旧道かを選べる.旧道は19町ほど短いという利点があり,さらに振り返ると海の向こうに佐渡島が見え,東側には飯豊山やそのそばの県境をなす山々へと続く、越後の肥沃な平野が広がっている.
弥彦はこの地方の神道信仰の本拠地である。弥彦山の麓、威厳のある大樹が茂る立派な林の中に建つ弥彦神社は,独特の造りをしている.二階建ての楼門の内部には,大和舞や神楽など,神々を愉しませる舞を奉納するための舞台があり,その隣には管弦が附属している.3月18日から7月10日までの間,さまざまな講中の負担によって,毎日舞が奉納される.拝殿は細長く奥行きのある建物で,装飾灯籠や奉納絵馬でいっぱいになっており,そこから回廊でつながった御幣殿には,重要な祭儀の際に供物が置かれる.この建物のすぐ後ろには,石の欄干に囲まれた非常に古い神聖な常緑樫があり,そのさらに後方に,神宝と御神体を納める社殿(本社)がある.拝殿の西側にある小さな建物は仮殿で,本殿が修理されている間に用いられる.この神社に祀られている神は天香山命である.
岩室の村を過ぎると,新潟までの道はほとんど平坦になる.竹野町は貧しい感じの集落である.道はここで砂地に変わる.赤塚を少し過ぎた左側には小さな池がある.背後に見える草山は,弥彦山の北に続く角田山だ.内野に入ると,道は信濃川と海岸沿いの低い砂丘の間を進み,最終的に川べりに出て南側から新潟の町へ入っていく.

もう一つの可能性は,川を使った旅程です.前述のアーネスト・サトウの著書[14]によると,この時期の新潟での移動は川船が主要交通手段だったようです.鉄道が通る前だと江戸時代の旅行記も参考になるかと十返舎一九の『越後路之記』[15]を見ますと,新発田→新潟について新発田をたちて三里行きて,木崎にて馬を返し,(中略)それより小舟にうち乗り,五里ほど行きて新潟に至りける
とあります.これらの記述から,川を利用した旅程を考えると,柏崎から長岡近くで信濃川に行き当たるので,ここから新潟まで信濃川を下り,新潟からは新発田近くまで阿賀野川を利用できます.新潟→新発田は今は通船川と言っていて,明治の頃は汽船が通っていたようです[17].
サトウの著書[14]のルート60の最初が新潟から新発田なので,再び訳してみます.
482ページあたり.
新潟から 里 町 km 沼垂 - 21 1.6 内島見 4 6 16.1 新発田 7 19 29.0 中条への行程に記された道は主要道路ではあるものの,北へ向かう旅人が通常通る道ではない.舟でおよそ半里ほど運河を下り,信濃川を渡り,さらに阿賀野川を渡し船で越える必要がある.そのほかの区間は車(人力車)で通行可能である.内島見を過ぎると道は右に折れ,山の方角へと進み,新発田に至る.
新発田(宿屋多数あり)は人口18,000,かつて溝口氏という大名の城下町で,その領地は10万石だった.ここで道は左に折れ,山裾をかすめるように進み,黒川に至るまでの大部分は立派な松並木が続いている.
陸路になるか川路になるかは,宿代と船賃のどちらが高くつくかとか,引率する人数とか,引率する側にとって旅程が短い方が良いのかどうかによるかなと思います.
どちらの旅程でも,1日で着くわけではありませんし,佐渡から本土へはどうしても冬期の日本海の船の欠航状況を考えないとなりませんので,11月初旬から遅くとも中旬には佐渡を出発していたのだと思います.
新発田にて
新発田にあるのは歩兵第16聯隊です.元 新発田城の場所にあり,現在その兵舎は白壁兵舎広報史料館として一部が残されています.


雁木造(=ひさしが張り出していて通路に屋根がある)が特徴で,雪や雨でも通るのに便利.
下の地図は,『新発田町・新発田本村地図』(明治17年)と『改正新発田町全図』(昭和期)を参考にして,現在の新発田駅から新発田城址辺りの地図に練兵場の場所を記した物です.現代の地図は地理院地図Vectorを利用しました.かつての歩兵第十六聯隊の兵営は,新発田城跡にあり,現在は陸上自衛隊新発田駐屯地になっています.

お城だった所を営庭にして,周りに兵舎があった(リンク先は『歩兵第十六聯隊史』の写真のページ:国立国会図書館デジタルコレクション)ようです.
明治27年(1894)
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 1月10日 | 東学党の乱起こる | |
| 5月30日 | 乱を自力で治められず,李氏朝鮮,清に援軍を要請 | |
| 6月2日 | 日本,朝鮮出兵を決定 | |
| 6月4日 | 日本,清に即時撤兵を要求.清,これを拒否 | |
| 6月6日 | 日本,出兵発動 | |
| 6月12日 | 日本,仁川に上陸 | |
| 7月16日 | 日本,漢城近郊に布陣して清軍と対峙 | |
| 7月25日 | 日清戦争勃発(豊島沖海戦) |
ところで,一つ気が付いてしまいました.
「この島に俺の居場所は無いけれど…」「戦争が終わったら一度だけお前のために帰る」「その時に駆け落ちしよう」 ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
日清戦争が起きるのは入営後です.12月の入隊後に起きた1月の朝鮮での動乱が日清戦争に発展するなどとは離島の庶民に予想はできないでしょう.となると,この台詞は入隊後.新兵は外出などできないですし,例え1日2日休みをもらえたとしても帰れる距離ではありません.つまり,上記の台詞の背景の夫婦岩は,イメージ映像です.
普通に考えると,手紙か何かで伝えたことになるけど,手紙だと「この島」って書かないか.
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 8月1日 | 正式に宣戦布告(宣戦の詔勅) | |
| 9月13日 | 明治天皇,東京出発[2]p40 | |
| 9月15日 | 大本営開設(広島) | |
| 9月17日 | 黄海海戦 松島誘爆により大破 |
松島は大破しましたが,沈んではいません.また,戦闘自体は日本軍が勝利しています.
平二さんにしたら,余計にやりきれなかったでしょう・・・・・・.音之進も,日本が勝ったと聞いて,兄さあ凄い,はやく帰ってこないかな,話が聞きたいと思っていたら――という状態だったかもしれないと思うと可哀相で.
黄海海戦後,清の北洋艦隊は残存戦力を母港・威海衛に引き上げ立て籠もりました.この威海衛攻略のために第2師団にも出兵の命が下ります.
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 9月25日 | 第2師団動員下令 予備役召集[2]p40,[3]p8 | |
| 9月28日 | 応召完了 町裏練兵場にて訓練[2] | |
| 10月3日 | 町裏練兵場で 野戦隊の武装検査[2] | |
| 10月5日 | 後備役召集[3] |

この頃の陸軍では,現役3年の後,豫備役4年に服します。この7年間を常備兵役と言います(徴兵令[1]・第三條)。その後は後備兵役で,5年間でした(同第四條)。ちなみに,徴兵されて常備役・後備役に服している以外の満17才~40才は国民兵役に服すことになっていて(同・第五條),いざというときには駆り出されることになります。
平時に兵営にいるのは現役兵で,「召集」はそれ以外の予備役等を集めることです.あちこちに散らばって生活している予備役がわずか3日間で新発田に集まったということです.これは,下記の連隊長の諭告によれば,予定より2日早かったようです.
現代人の自分からすると,鉄道も無いのに5日で集まれという命令自体が無茶だと思ってしまいます.
上の地図を見てもらうと分かりますが,兵営前にも営前練兵場というのがあります.しかし,歪な形をしていて手狭なのもあって,予備役召集で膨れ上がった兵卒の訓練には町裏練兵場の方が便利だったのではないかと思います.兵営からは徒歩30分弱の距離になります.当時は,練兵場の周りは田んぼだったようです.
野戦隊というのは,明治26年に制定された戦時編制で,現役+豫備役+後備役での編制でした。
明治21年の編制では,平時の師団は2旅団(=2個聯隊=6大隊)・騎兵1大隊(のちに1聯隊),砲兵1聯隊,工兵1大隊,輜重兵1大隊。それに比べて戦時編制の野戦1個師団は,歩兵12大隊,騎兵3中隊,砲兵6中隊(野砲兵4・山砲兵2),工兵2中隊と膨れ上がり,ここに輜重隊と独立作戦する諸機関が附属します。[2]p8
10月3日に連隊長・福島庸智大佐が下した諭告は次の通りです.[2]p41
出征ニ付諭吿
今回充員ノ下令アルヤ、各自家ヲ忘レテ爭ウテ召集ニ應ジ、豫定期日ニ先ツコト二日ニシテ要員ヲ充足スルコトヲ得タリ。是レ畢竟諸士ガ忠君愛國の氣象ニ富ミ、軍人ノ職分ヲ確守セルニ職由シ、予ノ最モ滿足スル所ナリ。
抑モ今回ノ開戰ハ、我帝國ノ浮沈ニ關スル未曾有ノ事件ニシテ、而モ國威ヲ發揚スルノ最好機タリ。其勝敗如何ハ直チニ我帝國ノ盛衰榮辱ニ係ルノミナラズ、又東洋ノ局面ニ影響スルコト大ナリ。而シテ此重任ハ一ニ軍人ノ双肩ニ懸ル。諸士ノ任重且大ナリト云フベシ。且夫れ强ヲ挫キ强ヲ破ルハ、軍人ノ潔シトスル所、彼老淸國固ヨリ我ニ敵スルノ勇ナシト雖モ、其ノ兵力ノ如キハ殆ンド我ニ幾倍スルモノアリ。又以テ我ガ武ヲ試ムルニ足ラン。諸士勉旃誓テ奮進、敵ヲ殲滅シテ後已ミ、上ハ 大元帥陛下ノ宸襟ヲ安ンジ奉リ、下ハ聯隊ノ光榮ヲ發揚センコトヲ期スベシ。其各自ノ名譽ノ如キハ、長ヘニ皇土ト終始センノミ。
終ニ臨ンデ更ニ一言ス。諸士須ク其健全ヲ保チ、砲聲場裡 陛下ニ忠事スルノ榮ヲ全ウセヨ。我聯隊充員ノ完成ニ際シ、茲ニ諸士ニ吿グ。
「職由」主としてそれを根拠とすること/「勉旃」之れを勉めよ.努力せよの意/「宸襟」天子の心/「場裡」その物事の行われる範囲内
……自分は「勉旃」とか分からなかったんですけど,これ,兵卒全員理解できたんですかね? 義務教育に授業料が必要だったこともあって,就学率低くて学校行ったことが無いのが大半という世代のはずなんだけど.例えば,明治12年の佐渡の折柴校(のちに相川第二尋常小学校,現・相川小学校の前身)の修学調べによると,学齢1,155人に対して修学は242人(うち男171人,女71人)[13]p216.就学率は20.1%と5人に1人しか学校に行っていません.当時は義務教育でも授業料が必要だったことが理由で,例えば明治10年の同じく相川の姫津校の開業願いには生徒授業料 1人に付き平均1ヶ月金1銭
とあります[13]p235.
出兵
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 10月24日 | 青森第四旅団分列式(旅団長:伏見少将宮) | |
| 10月26日 | 第2軍に編入. 地方官民の万歳の声に送られ新発田兵営を出発 若松街道を経て郡山まで戦闘訓練をしながら行軍[2]p42 |
入営時期は12月1日なので,月島は新発田には11ヶ月足らずしかいないことになります.
次の地図は,明治26年3月末日の鐵道線路圖[19]を元に作図した物です.当時の経路をちゃんとは調べていなくて,ほぼJRの路線をなぞってみた物なので,雰囲気程度に思ってください.この頃の鉄道がほとんど私鉄なのは,明治10年の西南戦争による財政困窮によるもの[20]だそうです.

中国大陸へは広島の宇品港から出るのですが,この頃はまだ鉄道網が発達しておらず,新発田から移動するには,直江津に行くか郡山に行くかの2択になります.
ここで,日清戦争時の第2師団の構成を見ると,次のようになっていました.


ちなみに,これが仙台・榴ヶ岡にあった歩兵第四聯隊兵舎(現・仙台市歴史民俗資料館.明治7年頃建築で,明治37年頃の外観に復元したもの[26])です.白壁兵舎と比べると雁木造りの有り無しがよく分かるかと.
第2師団の本部,新発田第十六聯隊が属する旅団の本部は仙台なので,仙台から南下する部隊と合流するために郡山に移動することになったようです.ちなみに,新発田から郡山までは約150kmあります.
副次的な理由として,直江津から高崎に抜ける路線は,途中の軽井沢-横川間に碓氷峠が有ったからかもしれません.ここは明治27年4月1日に開通しているのですが,最大66.7‰(約4度弱)の急勾配が連続する難所で,平成に至るまで横川で動力車の付け替えをしないと通れず,大量輸送にはあまり向いていないように思います.

さて,歩兵第十六聯隊が出立した明治27年10月26日について,新発田に近い新潟での気象データが残っていて,降水量は12.7mm,最高気温16.0度,最低気温10.3度でした[24].なお,月齢は26.9度[25]で,これから新月に向かう細い月でした.
『歩兵第十六聯隊史』に「若松街道」と記載される道は,新発田と会津若松を結ぶ道で,会津側からは「越後街道」,新発田側からは「会津街道」と呼ばれていた道のことだと思われます.宿場から類推するに,新発田からしばらくは現在の県道14号,津川の西辺りからが現在の国道49号のルートのようです[22].会津若松からのルートは記載が無いのですが,二本松街道がほぼ現在の国道49号のようで[23],これも昔から主要道と思われ,上の地図では国道49号をなぞりました.新発田からは川沿いの山道を南下してから東へ進みます.大所帯であることを考えると,会津若松には泊まったと思います.そこからは猪苗代湖沿いをさらに東に進みます.
猪苗代湖近くの磐梯山は明治21年に噴火し,500名近くが亡くなる大変な被害がありました.猪苗代辺りも被災していて,明治30年代にもまだ復興のための動きをしており,街道や街にも大岩が転がっていたかもしれません[27].陸軍大将・熾仁親王揮毫の慰霊碑もある[28]ので,碑までは行かなくとも黙祷ぐらいしていたかもしれません.
猪苗代湖の北岸,猪苗代町の南西にあった三ッ和村は,明治9年に野口英世が生まれ,明治26年3月に猪苗代高等小学校を卒業後,この頃は会津若松で自分の左手の手術をしてくれた渡部鼎の会陽医院で書生をしています[29].渡部医師は軍医として日清・日露に出征していますし[30],野口は郡山へと行軍する聯隊を見ていたかも.
猪苗代湖を離れて更に南東に進み,ようやく郡山に着きます.日本海側にほぼ鉄道が通っていないことを考えると,ほとんどの兵卒たちはここで初めて「汽車」を見たのだと思われます.
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 10月28日 | 青森第四旅団出兵 | |
| 10月29日 | (郡山で合流) | 仙台鎮台各軍隊(第三旅団)長町軍事鉄道停車場から出兵[3]p60次の順番で出発.
騎兵第二大隊第一中隊(大行李員) |
| 10月30日 |
| |
| 10月31日 |
| |
| 11月1日 |
| |
| 11月2日 |
| |
| 11月3日 |
| |
| 11月6日 | 広島着 | |
| 11月24日 | 歩兵第1旅団(旅団長:乃木希典少将),旅順要塞を1日で陥落させる |
仙台からは6日間連日部隊が出発しています.上に出発順を書き写したのは,1個師団が出兵するということの物量を感じてほしかったからです(自分が読んでいて驚いたので).この出兵のために第二師団が軍専用に作らせたのが長町停車場で,ホームは無いまま24条ものレールを作り[18],上記の隊列を連日送り出したそうです.それを考えると,郡山で合流とは書きましたが,第十六聯隊用にさらに汽車を準備したと考えた方が良さそうです.郡山から広島まで汽車でどれぐらいかかるかまだ調べていないのですが,2日ほどだと考えると,11月4日に郡山を出ることになるのではないかと思っていて,仙台から出る最後の汽車が11月3日に通過し,その後に出たのではないかと思っています.
広島に着いたのは11月6日で,到着地広島の気象データによると,雨は降っておらず,最高気温は19.6度,最低気温は6.9度[24],月齢は8.4度で[25]上弦の月を1日過ぎた頃でした.
明治28年(1895)
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 1月6日 | 第2師団長,第3・第4旅団長,大本営に召される. | |
| 1月9日 | 広島出発 | |
| 1月10日 | 宇品港出発 |
しばらく広島で滞陣します.師団司令部は大手町通りで,各部隊は各所に散らばって待っていたようです.
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 1月14日 | 大連に集結 | |
| 1月19日 | 大連出港 | |
| 1月20日 | 山東半島の栄城湾東端に上陸. この夜暴風雪で前哨部隊の過半集が凍傷になり,重症者1名兵卒1名凍死. | |
| 1月24日 | 栄城出発,威海衛へ向けて前進. | |
| 1月28日 | 師団の前衛となり,威海衛へ前進. 亭子斎付近に宿営し敵の偵察 聯隊のうち第3大隊を温泉条付近に出し前哨とする. | |
| 1月29日 | 午前9時敵兵が前哨戦を襲撃. 暴風雪により敵情が分からず第3大隊苦戦. 第2大隊が増援,軍参謀の偵察守備をしていた第1大隊も敵を攻撃. 午後0時15分敵兵退去開始. | |
| 1月30日 | 第3旅団の前衛になり,温泉場を出発. 楊家屯付近の敵を撃退追撃し海岸に達したものの, 敵艦からの砲撃により楊家屯付近に退去. この戦闘で戦死者40名,負傷者52名. | |
| 1月31日 | 楊家屯を出発し,敵を追撃. | |
| 2月1日 | 羊亭集付近で敵の後衛と衝突→撃退. ここで宿営滞陣し第1中隊を威海衛の偵察として派遣. | |
| 2月2日 | 第2大隊を増発. 正午威海衛に到達,諸砲台を占領. | |
| 2月17日 | 威海衛陥落. | |
| 2月27日 | さらに侵攻・守備していたが,軍の後衛になって威海衛に退却. | |
| 2月28日 | 威海衛を出港し,旅順港に上陸. 将家屯付近にて宿営. |
威海衛の戦いは,陸海軍共同作戦で,決戦にむけて制海権を完全に掌握するためのものでした.勝利したものの,日本軍は厳寒地での戦闘経験に乏しく装備も不足して凍傷に苦しんだようです.これが八甲田山の雪中行軍の事件に繋がるのでしょう.また,前線では食料と燃料が不足し,さらに威海衛では水不足でもあったようです.
日清戦争終結-しかし
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 3月20日 | 日清両国の間で講和交渉 | |
| 4月5日 | 乃木希典少将,中将進級 第2師団長に. | |
| 4月17日 | 講和成立 | |
| 4月23日 | 三国干渉.遼東半島を放棄. |
『鶴見篤四郎の宿願』で小城閣下とされている乃木大将は,日清戦争終結直前に第2師団長になっています.顔ぐらいは知っていたのかもなどと思ったり.
ここに,日清戦争は終結するのですが――
日清戦争が終わる頃・・・なぜか彼女の手紙がプッツリと途絶えたんです ゴールデンカムイ第149話「いご草」より
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 5月18日 | 第2軍の戦闘序列を解かれ,占領地総督部の隷下に入る | |
| ~9月下旬 | 第2大隊・金州,第3大隊・岫巌,本部と第1大隊は九連城付近に分屯 清兵の偵察,草賊の掃討,兵站線の守備. コレラ・赤痢等の伝染病にも苦しむ. |
帰れない.
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 10月1日 | 大連港を出港 | |
| 10月10日 | 台湾南部西海岸,馬公湾枋寮岸に上陸. 北進し,台南を攻撃. | |
| 10月21日 | 台南に入り後守備. |
帰れない.
明治29年(1896)
| 年月 | 第16聯隊の動き | できごと |
|---|---|---|
| 4月11日 | 平安から乗船. | |
| 4月19日 | 宇品港着 | |
| 5月1日 | 郡山を経て第3大隊凱旋 | |
| 5月4日 | その他の部隊凱旋 | |
| 5月8日 | 平時編制に復す. 聯隊の戦死者47名,負傷者75名,病疫者226名. | |
| 10月31日 | 佐渡鉱山,三菱合資会社に払い下げ[4] |
手紙が来なくなってから1年以上も月島は帰れないわけです.5月8日ですぐに佐渡に帰れたかも不明.
徴兵令(明治22年1月22日法律第1号)によると,現役は陸軍は3箇年(第三條)で,現役年期の計算は総て其入営する年の12月1日より起算(第二十九條)しました.佐渡に戻った月島は別に脱走しているわけではなさそうですので,特別に休暇がもらえるのでない限り,明治26年12月1日から明治29年11月30日で現役を終えて12月に帰ったことになるのでしょうか.
ただ12月だとすると,さすがに海を浚うにあの格好は寒すぎるし,佐渡でのあれこれで収監されて陸軍監獄で鶴見に会うのが12月だとすると,鶴見の工作を終えて監獄を出る頃には既に明治30年,その年には鶴見とウラジオストクに行っているので1年も経たないうちに辞書に頼っているとは言え,そこそこロシア語を喋れるようになっているという,最早天才かとしか言いようがない.(1年で喋れるようになってても凄いけど)
そして,普通に考えると,現役が3箇年であるからには,鶴見と月島が会った時は既に月島は現役終了間近,12月に入っていたとするともう予備役です.ここを伸ばすとしたら,志願して下士になっているしかない.が,駆け落ちを考えていた月島がそれをしていたとは思えないので,鶴見少尉は,死刑を回避すると同時に第七師団に移るどさくさに紛れて月島を現役に戻すあるいは予備役召集する&連れ回している最中に下士にするという離れ業をやっていることになります.
あと,母方の墓参りはいつ行ったんだ.
下士に関しては,明治35年の中頸城郡の物ですが,志願者が少ないから奨励するような文書が発出[13]p511されているので,なり手が少なくて押し込めることができたのかもしれません.