函館山を左手に海を望む。朝の湾内には集まった船が何隻も停泊していて、港湾都市函館の活況を物語っている。海を望む月島の背後から太陽が白々と海を照らし、それらの船にも光を投げかけている。
湾の真ん中、漁船に混じって一際大きな船が錨泊している。中央に煙突、前後にマストを備えた鉄の塊は、いかにも船足が速そうに見えた。あれがこの三月に就航したという青森への連絡船だろう。大湊からやってきた鯉登少将が、あげん最新技術ん船こそ軍で真っ先に取り入れよごたった、と鶴見に語っていたのを薄らと思い出した。
謹厳実直な薩摩の軍人も、今やこの海の底だと聞く。
沖合の凪いだ海面を見ていると、明るい光景にわずかに目眩を覚え、月島は手前の水面へと視線を落とした。
岸壁の端を波が洗っている。
月島の最も長い付き合いの上官も、結局、見つからなかった。引き上げられた汽車の中にも海底の砂の上にも、どこにも。年若い少尉に乞われて軍務に戻ることに同意したものの、こうして海に出れば自然に目線は何をかを探して移ろい彷徨う。青黒い海の水は生き物のように蠢いて、何かを隠しているように見えるのだ。
――未練だな。
何より大事な物を海で無くすのは二度目だった。海を攫うのも。だが、一度目と違って、二度目は何度も何度も月島を呼びに来る人があった。そうして、鯉登について宿に戻った時よりも、戻った宿で、自分と同じく療養をしていた兵士が月島の顔を見て「軍曹殿」と呼ばわった時に月島は観念したのだ。故郷と呼ぶのも厭わしいあの佐渡に月島の居場所は無かったが、軍には居場所が出来ていた。軍という場所すら、鶴見がいるから居場所があるのだと思い込んでいたというのに、そういうわけでもなかったのだ。部下が浮かべたほっとしたような笑みを見て、ようやく月島はそのことに気がついた。
そろそろ療養を理由に函館に留まるのは難しい。この地を離れ、原隊に帰らねばならない。この日を最後と波止場に来たが、やはり、何も見つからない。あの人は何も残してくれなかった。
「兵隊さん、ちょいとばかし退いちゃくれないかい?」
話しかけられて見てみれば、もっこを担いだひとかたまりの若い人足たちが海縁に出ようとしているところだった。
「ああ、すまん」
ぼんやり海など眺めているうちに、人の通りが増えてきていた。邪魔にならないように道を避けると、若い衆はどやどやと波止場に揚げられた荷物の方に近づいていく。ぎしぎしと重く軋む車輪の音がして横を見ると、今度は煉瓦を積んだ大八車が通り過ぎるところで、足場が組まれた大きな建物へと行くようだ。
函館は昨年の大火で街のほとんどを焼いた。甚大な被害が出て、聯隊区司令部も類焼したと報告があったのを覚えている。この場所から函館山に向かう方向も招魂社に向かう方向も、更地のような有様だったそうだが、海縁の倉庫はすぐにも再建が始まって、もう、粗々建物の外観はできている。作りかけの煉瓦造りの建物を見遣ると、曲尺に森の印が誇らしげに付いていて、未だに前に進めぬままの己の心持ちのせいか、それは眩しくすら見えた。月島は軍帽の鐔に手を掛け、ほんのわずかに引き下ろした。
――いつまで突っ立っていてもしょうがない。
思い切り、海に背を向けて歩き出そうと顔を上げた時、正面に伸びる道の向こう、見目の良い二重廻しの男とはっきりと目が合った。
「ッ......」
息を飲む。頭には中折れ帽、整えられた美髯、秀麗なと言って良い容貌を、目元から額にかけての大きな傷が――
「つ......る――」
瞬間、何もかも忘れて月島の口から零れた音を遮って、男はしぃ、と人差し指を口に当てた。咄嗟に口を噤み、しかし、早足で間を詰める。それを見て、男の目が得たりと細められる。男は帽子に手をやって顔をやや隠すと、函館山の方向に歩き出した。一瞬、視界から男が消えたので、慌てて月島は大通りに走り出た。果たして、男の後ろ姿が見えている。手には何も持っていない。一度息を整えてから、月島は一気に間を詰めて、いつもの距離、一歩下がったぐらいの距離を付き従った。男は月島が付いてくることを微塵も疑っていないようで、振り返りもせずに前を歩いている。事実、月島が鶴見の後を付いて行かないことなどあり得なかった。
もしも、鶴見に会えたなら、よくもご無事でと縋り付く自分を想像していた。だが、いざ会えてしまうと、何一つ言葉にも態度にも出てこない。聞きたいことも話したいこともたくさんあると思っていた。なのに、身の内に詰まりすぎたものは出口で詰まってしまって、何も表層に出てこない。ただ、じんわりと指先が冷たくなる。それに気づいて月島はぎゅっと手を握り締めた。
迷い無く歩く鶴見に付いて行く。
道を数回折れ、馬車鉄道の通る広い道を二度渡り、無心にそれを追っていると、前にもこんなことがあったとぼんやりと思い出した。そうだ、あれはロシアで。俺は何を見ても物珍しくて、鶴見少尉、鶴見少尉と何もかもを質問して、その度に鶴見は面倒がりもせず却って面白そうにいろんなことを教えてくれた。
あの時の洋装が、今見ている二重廻しの背に重なった。
いつからか、二人が私的な会話をすることは無くなっていた。いや、「いつから」ははっきりしている。奉天の砲撃の後だ。今度は耳の後ろで血がだくだくと波打つ気がして月島は右手をそこに当てた。冷たい指先が血を冷やす。
正面に坂が見えてきた。随分と幅のある道路の上に大きな鳥居が見える。そこで鶴見は立ち止まって初めて振り返った。一歩を踏み込んで横に並ぶと、鶴見は坂の方を指さした。
「この辺りは英国領事の私邸があってな。大火で領事館が焼けたものだから、そこで執務を行っているそうだ」
物問いたげな視線に気づいたらしい、鶴見は肩をすくめて首を振った。
「いやいや、別に領事とは知り合いではない」
「......」
この人なら「今は」という意味であってもおかしくない。だが、月島はそれは問わなかった。
「どうしてここへ?何かあるのですか?」
「なあに、今、世話になっている家があってな。もとは領事館の料理人で、紅茶を出す店をやっている」
「テイ?」
「чайだよ。чёрный чай。領事がいるからか、英国人がそこそこ立ち寄っていく。おかげで大火の後もどうにかやっていけているようだが」
そのどうにかやっている程度の家の者が、どうして大の男の世話ができるのか月島には想像がつかない。何をどうやって潜り込んだのか、元より息がかかっていたのか。推し量りかねる月島の心の内をよそに、鶴見は白い建物を指さした。
「あれだ」
月島は、一つため息をつくと、鶴見を見上げた。
「またВареньеを食べすぎて呆れられてるんじゃないんですか」
なぜそんなことを言ったのか分からない。だが、口にした途端、月島の胸の内に長く根を張っていた重みがわずかに軽くなった気がした。言われた方の鶴見も、少し目を瞠ってから、きゅっと目を細めて口元に微笑を浮かべた。
「残念だが、ヴァレニエは出ないんだ。だが、旨い洋菓子が食える」
歩き出した鶴見は機嫌が良い。付いて歩き出しながら、月島は今が何時なのかここがどこなのか、分からないような心持ちになっていた。
店の中に客はおらず、入口に給仕と思しき中年の女性が椅子に浅く腰掛けていた。奥で物音がするのでそちらが厨房で、もうひとりふたりいるのだろう。入口の女給は腰を上げかけたのだが、鶴見が手で少し抑えるような仕草をすると、黙礼だけしてまたすぐに腰を下ろした。
こぢんまりとした店内には四角い洋卓と布張りの椅子の組が六つあって、日があまり射し込んでおらず、落ち着いた風情を見せていた。一番奥の窓側の席に座ると、鶴見は帽子をとって窓を少し開けた。肌寒い時期だというのに窓を開けたのは、外の雑踏の音が入ってきて、会話が聞こえにくくなるからだろう。鶴見に習って軍帽を取って傍らに置く。
「何にする?」
「おまかせします」
ふむ、とわずかばかり考えた後、鶴見は手を上げて女給を呼んだ。
「ミルクテイとビスケをくれないか」
「はい、ただいまご用意します」
優雅に微笑んで女給を見送る鶴見に、月島が疑問の調子で話しかけた。
「ミルクテイ」
「чай с молокомだ。英国人は紅茶に牛乳を入れるものらしい」
「では、ビスケは菓子ですか」
「biscuit。これからは英語を覚えるのもいいかもしれんな」
英語に造詣はないが、日本語とは懸け離れた音韻は正確なのではないかと思った。
「......不思議な気がします」
「何が」
「佐渡にいた時は、あの土地の言葉だけが言葉だった。新発田に行ったら皆が別な言葉をしゃべっていて、軍では標準語をしゃべれと言われて、それから――」
いったん、月島は言葉を切って鶴見を見た。
「――中尉殿がロシア語を覚えろと言いだして、北海道に来てみればアイヌがアイヌ語をしゃべっていて、ロシア人もお上品な連中はフランス語を交ぜてしゃべっていて、今度は英語か、と」
「幼年学校ではドイツ語を学ぶ連中も多いし、満州は中国人が中国語をしゃべっているし、こないだ派兵の命が下っていた仁川は韓国語だ」
「切りがないですね」
「そうだなあ」
店の者の目を憚り、当たり障りのない話題を選んで不自然にならない程度に場を繋ぐ。鶴見は今は和装だが、経緯からすると軍人であることを店の者は知っているはずだ。そこへ陸軍軍装でやってきた自分が、部下であることは分かりきっているのだろうか?
女給が銀盆に菓子皿と丸底の急須と思しき物を載せてやって来る。二人の前に注文の品を置くのを見計らって、奥から出てきた店員が入口の「商い中」の札を引っ込めた。ちらりと鶴見が目配せすると、女給ももう一人も奥へと引き取っていく。――つまりは、そういうことなのだろう。
月島は見慣れない形の急須を持った。
「самоварではないのですね」
「これが英国流らしい」
とぽとぽと紅茶をカップに入れ、牛乳を入れるのだと言われたのを思いだして並べられていた白い液体を入れてみる。紅い水色が柔らかな茶色になる。鶴見の方は牛乳を先に入れて後から紅茶を注いだ。
「イギリス人は牛乳を後で入れるか先に入れるかで議論を戦わせるらしい」
「......同じでしょうに」
月島の前のカップも鶴見の前のカップも同じ色だ。
「まあ、楽しむための議論なんだろう。――そして、ここにビスケを漬ける」
楕円の洋菓子を持ち上げ、鶴見は楽しげにそれを白茶の液体に浸した。しばらく浸けてから、嬉しげにビスケなる菓子を口に入れる。
「うん、旨い」
月島は鶴見とビスケとを交互に見ていたが、自分はそのまま平たい洋菓子を齧った。ガリッと固い食感が歯に伝わる。ボリ、ボリ、とぞんざいに咀嚼して口の中の甘い物を飲み込むと、何から話せばいいのか分からないまま月島は口を開き、また何度か口を閉じたり開けたりした後で出てきた言葉はと言えば、お怪我は、のひと言だけだった。果たして鶴見は正確に理解し、ビスケを皿に置いて、人差し指と中指を揃えて自分の胸を指さした。
「ここに、穴が空いた。そのまま海の中だ、とても動ける状態じゃ無かった」
今、この場所で撃たれたのを見たかのように、月島は鶴見に向かって手を伸ばしかけた。それは小さな身動ぎにしか見えなかったはずだが、鶴見はわずかに首を振った。
「――そんな顔をするな。今はこの通りだ。痛みは無い。痕は残ったが」
「俺が――」
月島が絞り出したのを、鶴見が遮る。
「お前も動ける状態じゃなかっただろう。......鯉登は正しかった」
ミルクテイに口を付け、鶴見が訊いた。
「それで?お前の方はどうだったんだ。部下たちはどうなった」
「五稜郭から線路に沿って、死傷者がだいぶ散らばっていました。衛戍病院が近かったので、そこに収容しようとしたらしいのですが、数が数なので野戦病院のような有様だったようです。私も意識が無いまま収容された口なので後から聞いた話ですが」
「だいぶ死んだか」
「......はい」
決意の号砲は実を結ばなかった。
「......そうか」
二人の間に、しばし、沈黙が流れた。計画のために積み上げた歳月と費やした物がのしかかる。
鶴見は一度目を閉じ、静かにそれを開けて月島を凝と見つめた。
「お前自身はどうなんだ。左手など捻れていただろう」
「もう治りました。何不自由なく動きます」
鶴見は芝居がかった調子で両手を左右に広げて肩をすくめてみせる。
「お前は全く頑健なものだ」
「中尉殿も大概でしょう」
そうだな、と呟いた後で、鶴見は問うた。
「旭川に帰るのだな」
「はい」
月島が軍服であることから察したのだろう。月島は苦笑になりかけたような曖昧な表情でわずかに首を振った。
「どんな手でも使って守るのだそうです」
「鯉登か」
「はい」
月島は己を見つめる鶴見の黒々とした瞳を見る。
「中尉殿に出来なかった正統な方法を鯉登少尉なら取ることができる」
「薩摩出身の若者、か......」
鶴見は彼の若者を思い出すように目を細めた。月島はただ事実を報告するように淡々と述べた。
「鯉登少尉には、あの地位のままで中尉殿のように高官との人脈を広げていくような器用な真似ができるとは思えません。ですから、正統な方法で上に行ってもらいます。大見得を切ったからには鯉登少尉もそのつもりはあるでしょう。それに、結局のところ、地位が高い方ができることの巾は広い」
鶴見が中尉でしかない不自由さを傍で見てきた。定限年齢まで時間が無いことも性急にならざる得なかった理由だろう。日清日露を戦った者たちが「報い」を求めるなら、正統な方法は間に合わないだろうが。
「守るというだけなら、そんなに難しいことではないだろうと踏んでいます」
「理由は?」
教師が生徒に回答を求めるような調子で鶴見は促した。柔らかい色の紅茶の入ったカップを両手で持って、月島は海の方を見た。あの海の底に鶴見と月島が引き込んだ艦隊が沈んでいる。
「こうなると土方がパルチザンを引き込んだのは都合が良かった。海軍はロシア人を排除するために艦隊を動かしたと主張しています。武器弾薬を持ち出し多くの兵が動いている以上、監督責任を問われる師団上層部がそれに乗らないわけはありません。そして、乗ってしまったなら重い処分をするわけにはいかなくなります」
月島は紅茶を少し飲んでカップを置き、小さく息を吐いた。
「早急に戦力を集めるには仕方がなかったのでしょうが、ロシア人を引き込んでおいてこの函館に住む人々の支持を得られたとは思えません。土方歳三の描く蝦夷共和国は理想論だ。私たちに勝てたとしても、その後、日本国を全て敵に回す」
「とも言えない。榎本閣下がご存命なのだから、権利書があればあるいはと踏んだのかもしれない」
「榎本閣下ももう随分お歳を召されているでしょう。どれほどの影響力をお持ちかは存じ上げませんが、ことこのことに関して、政府の命令が市民全般に行き渡るなどと私には到底思えません」
道行く人々、建物を建てている大工、それらを眺めながら月島はごく普通の調子ではっきりと言い切った。
「不寛容なものです、人というのは」
「......」
己の部下を静かな視線で眺めてから、鶴見も同じく外を見る。
「Варварыという単語があるだろう?」
「野蛮人、でしたか」
「あれは元々はギリシア語で、『聞きづらい言葉を話す者』という意味だそうだ。人は何か違いがあるだけで壁を立てるものだが、その最たる物が言葉だな」
鶴見は月島に目線を戻して、首肯した。
「同感だ。お前の見立ては正しい」
二人は同時にカップに手を伸ばした。先にそれを置いたのは月島で、ビスケにも手を伸ばしている鶴見に向かって、再び口を開いた。
「聯隊の兵士たちについては、もう一つあります」
「それは?」
「ご存知の通り、ロシアとの戦争後、徴兵忌避する者が増えています。対外緊張が無くなったわけでもないのに、補充に難がある状況で大人数の処分はできないと思います」
月島はじっとりと街の様子を見てから、鶴見に視線を戻した。
「聯隊の者が中尉殿に付いてきたのは社会からの冷遇故ですが、軍人冷遇故の徴兵忌避ですから、皮肉なものです。中尉殿には第二七聯隊の多くの者たちがついてきました。団結を維持できていれば、上層部が我々をまとめて処分することは難しい。兵をまとめておけるかが鍵でしょう」
鶴見はそこまで聞くと、少し皮肉げに唇を曲げてみせた。
「少数の処分なら?」
「鯉登少尉ですか?新任少尉一人に責めを負わせて済むとは師団上層部も思わんでしょう。奥田閣下にしてもそうです」
「ほう?」
「奥田閣下への報告は主に菊田特務曹長だと考えられます。あの人は鯉登少尉への工作に関わった張本人でもあります。それに、我々から離れていて、少尉の変化を見てはいない。『騙されている若造』と言ったとしても、奥田閣下の脅威と見做されるような報告はしていないでしょう。特務曹長殿も根は人が良いですから」
ふふ、と軽く鶴見が声を立てた。
「人が良い、か。自分を棚に上げてよく言う」
鶴見が言いたいことが分からず、月島は黙り込んだ。
「まあ、だいたいは私の見立てと変わらない。さすがは俺の右腕だ」
戯けた調子で鶴見が言った途端、月島はため息を吐いて首を振った。
「ご冗談を」
疲れたように、ただ、述べる。
「俺があなたの右腕だったことなど、一度も無い。俺があなたの考えを分かったことなど一度も無いじゃないですか」
自分が恨めしいのか悔しいのか、月島自身にも分からなかった。言葉を切り、息を吐いた月島を見て、鶴見はしばらく沈黙を保った。言うべきでない言うつもりもない言葉を吐いたと月島が俯いていると、言葉が静かに振ってきた。
「......胸襟を開くということが、俺にはもう難しい」
月島が顔を上げる。
「俺はもう長いことこういう生き方しかしてこなかった。もう、それ以外の生き方はできない」
小さく嘆息して、鶴見は首を振った。
「これはそれだけのことだ」
そこで鶴見は改まったように姿勢を正した。自然、月島も背を伸ばす。
「少数の処分はあり得ないとさっき言ったな。俺は一人だけ懸念がある」
「私ですね」
月島は即答した。
「奥田閣下から見れば、私は日清戦争からのあなたの側近です。菊田特務曹長もそのように報告しているだろうことは想像に難くありません。軍曹程度、捨て置ける性格ならば良いですが」
そこで月島が問いかけるように鶴見を見ると、鶴見は一つ頷いた。
「慎重と言えば聞こえは良いが、小心者というんだ、あれは。おまけに猜疑心も強い」
「ならば、自分が中尉殿に命じたことを漏らさぬ為に、口封じは有り得るでしょう。本当にそう来るなら、考えはあります。軍曹の地位など、師団が尻尾切りに使うにも責を負うにも力不足と思っておりましたが、中将が手を出してくれれば大きく見せることも可能で――」
「月島」
「なにか」
遮られたことが意外で、月島は小首を傾げた。
「自分を安売りするなよ」
「そんなつもりは毛頭ありませんが」
不可解だとでも言いたげな月島の前で、鶴見は懐に右手を入れた。その手が、す、と取り出されると、そこには畳んだ紙片があった。それを洋卓の上に置くと、鶴見は人差し指と中指とを揃えて紙片を押さえ、そのまま月島の方に滑らせた。月島は紙が自分の目の前で止まるのを見て視線を上げた。
「これは?」
「宇佐美が菊田から奪取し、奥田中将に渡されるはずだった物だ」
言われて思い出し、口を噤むと月島はもう一度紙片を見た。
「俺には必要が無い。だが、お前たちには役に立つだろう」
月島の頭の中を急速に考えが巡る。
これは菊田が奥田のために働いていたことを示す物であり、第七師団に第一師団がスパイを送り込んでいたことを示す物でもある。上手くいけば、鯉登誘拐事件への関わりを引き釣り出してみせることもできるだろう。奥田閣下への牽制に使う?いや、むしろ、奥田閣下の謀略だと第七師団上層部に説明することに使えば、師団を挙げて聯隊を守る方に動くだろう。師団間の駆け引きは分からないが、兵や鯉登の処遇は安泰か――
月島が紙に手を伸ばすと、紙を押さえたまま鶴見は言った。
「生かす方法はお前が考えろ」
鶴見が紙から指を放すと、月島はそれを丁寧に衣嚢に入れた。
「謹んで頂戴します」
月島が紙片を収めたのを見計らって、鶴見はすっと右手を伸ばし、月島の眉間に指を当てた。その場所を撃たれたかのようにはっとなって目線を上げる。鶴見は摯実謹厳な表情をしていた。
「形有る物は奪われ得る。だが、この中にある知識が奪われることは決して無い。忘れるなよ」
「......はい」
――その知識を誰がくれたかも、俺は忘れていないし、忘れない。
満足そうに頷くと、鶴見は手を引っ込めた。
「まずはどう動くつもりだ?」
「鯉登少尉には少将殿の方面からの繋がりを探っていただくとして、俺としてはまずは有坂閣下との繋がりも密にしておきたいと考えています」
「あの方は陸軍内の政治には興味は無いぞ」
「分かっています。ですが、あれだけの技術者を軍は簡単には手放せない。政治に興味が無いだけに、地位は揺るぎない。定限が近いですから、できれば南部閣下をご紹介いただきたいと思っています」
そこまで聞くと、鶴見は面白そうに笑みを浮かべた。
「南部閣下か。きっとお前と馬が合うぞ」
「まさか。たかだか一軍曹と――」
「有坂閣下と一緒におられるところを見れば分かるさ」
楽しげに語る鶴見を見ながら、件の有坂閣下を思い浮かべる。なかなかの奇行ぶりが目立つ人物だが、その部下である南部閣下との......?
「あー......」
何となく、鶴見が言いたいことが分かったような気がして、月島は曖昧な表情になった。
「あとな、もうすぐ師団長が異動で変わる。新たに赴任する上原中将はきっと上に行く人物だ。よく仕えておけば悪いようにはならんだろう」
なんでもないことのように伝えられ、月島はまじまじと鶴見を見た。まったく、どこからこういう情報を仕入れてくるのか、いつもの事ながら計り知れない。こんな人物がいつまでも中尉であることに歯噛みする思いを抱かずにいられない。
「......師団に戻るつもりはないのですか」
問いかける声が縋るようだと月島は自分でも思った。その様子を見ながら鶴見は頭を振った。
「事茲に至って、それが難しいことぐらいお前も察しているだろう。先ほどからの考察は、俺が戻らないことが前提じゃないか」
分かっている。鶴見こそ戻れば処分を免れない。それも軽い処分で済むはずもない。それでも、この人ならば何か策を巡らせているのではないかと一縷の望みに縋らずにいられない。
「ならば、どこに行くのですか」
「お前は知らない方が良いだろう」
「関東都督府か満鉄調査課にでも?」
「......俺の右腕だったことなど無いと言いながら、それだものなあ」
苦笑を浮かべた鶴見に、月島は慎重に呼びかけた。
「鶴見中尉」
緊張で口の中が乾く。
「ひと言『付いてこい』と言ってくだされば、俺は――」
途端、鶴見は居住まいを正し、月島を屹度見据えた。
「俺はお前を蕩尽するぞ」
「かまいません」
月島は答うるに間、髪を入れなかった。睨み合い数瞬、ふい、と目を逸らしたのは鶴見の方だった。そのまま視線を窓の外に向ける。坂の下、焼け跡と再建の入り交じる街の向こうに海がある。その海を見て、月島に視線を戻さないまま、鶴見はぽつりと言った。
「惜しくなってしまってなあ」
「え?」
疑問の声を発し横顔を見つめると、鶴見は遠く街を見霽かしながら呟くともなく呟いた。
「確かに、あの時、あの列車で、俺はお前を連れて行くつもりだった」
「でしたら」
言い募る月島の語気に比べ、こちらを見ないままの鶴見の声は静かだった。
「血だらけのお前を、血だらけの鯉登が必死に掴んで放さないのを見た時、お前の命が惜しくなった」
窓の外を見ている鶴見は、その実、外の光景など見てはいない。
「惜しみなく俺に手を伸ばすお前が惜しくなった」
その横顔に静かな笑みが浮かび、鶴見は眩しそうに目を細めた。
「誰よりも優秀な兵士で、同郷の信頼できる部下で、そして私の戦友だから」
相手を意に沿わせる時は常に真正面から見据える男が、月島から視線を外したままだった。突然、月島は、この人はもう連れて行ってはくれないのだ、と身が引き千切れるように悟った。
「......ずるいですよ、中尉」
聞き分けのない子どものように拙い言葉が、かすかすと喉を絡まりながら零れた。
「おや、知らなかったのか?」
鶴見はやっと月島の方を見て、にこりと笑った。
「......知っています――」
月島は膝に視線が落ちるほどに俯いた。
「――よく、知っています」
それからは黙々とビスケを食べて、ミルクテイを飲んだ。鶴見がぽんぽんと手を打つと、ほどなくして奥から人が出てくる。勘定を頼む、と鶴見が言った途端、財布など持ってきてなどいなかったことに気がついた。もともと何か買う予定もどこかに寄る予定も無かったのだ。ばつが悪い思いで上目遣いに見遣ると、鶴見は想定内だとでも言いたげに、うんうんと二度頷き、奢りだ、とひとこと言った。
店を出ると、鶴見は坂を下って歩き出した。付いてくるなとも言われなかったので、月島はいつものように付き従った。馬車鉄道の線路に突き当たると、左手に折れ、海へと向かう。
波の音がはっきりと聞こえるようになる辺りで、更に鶴見は左に曲がった。見え隠れする海と平行に道は函館山へと向かう。この道行きがどこに到達するのか分からずにいるうちに、低い声が聞こえてきた。
〽筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
は、と顔を上げれば、その歌声は前を行く上官から流れてくるのだった。それは謡のような調子で取り立てて大きくはなかった。何一つ聞き漏らさないようにと、海風に千切れ飛びそうな声に耳を傾ける。
〽その真心は、隔て無く、
一つに盡くせ、國の為。
歌が次の節に遷るに合わせて、月島も口を開いた。
〽台湾の果ても 樺太も
唱和した月島に目をやって、鶴見は月島を招くように手を伸ばした。素直にそれに従って、鶴見の横に並ぶ。
〽八洲の内の、護りなり、
きっと、端から見れば友人同士のようであっただろう。道行く他人の注意は引かぬまま、しばし二人の低い歌声が寄り添うように重なった。
〽至らん國に、勳しく、
努めよ我が兄、恙無く。
ひとときの歌が終わった。雑踏と海風と波の音があるのに、急に静かになった気がした。
しばらく行ったところで右に折れると、海に突き出る桟橋が見えてきた。桟橋に視線を走らせると艀があって、連絡船へ向かう人々を乗せているところだった。それに気づいた途端、月島は微かな不安を感じて、横を歩く鶴見の横顔を見上げた。鶴見の方は前を向いたままである。視線の先を追うと、桟橋へ向かう道の脇、坊主頭の子どもが横に積まれた角材に腰掛けていた。その傍らに、ロシアに行った時に持って行ったような大きな鞄があるのを見つけ、不安は確かな物となる。子どもは鶴見を見ると、ぱっと立ち上がった。鶴見が帽子を少し動かして子どもに向かって挨拶する。
「荷物番、ありがとう。少ないが、取っておきなさい」
風の寒さに頬を赤くした子どもが手を広げ、そこに鶴見が小銭を乗せた。
「ありがとう、おじさん」
子どもが駆け出すと、鶴見は子どもが番をしていた鞄へと近づいた。鶴見が手ぶらだったせいで、別れが今日この日、今ここでとは思っておらず、月島は虚を突かれたように目を見張った。
――行ってしまう。
呆然と立ち尽くす月島を振り返り、鶴見は帽子をわずかに上げた。
「達者でな」
――行ってしまう!
あっさりと踵を返した鶴見の袖を、月島は咄嗟に捕まえた。結果、ぐん、と引っ張られてたたらを踏んだ鶴見の様子に、引っ張った月島の方が驚いて慌てて手を離した。
なんだ、とでも言いたげにこちらに向き直った鶴見に、月島は懸命に言い募る。
「あなたは俺に新しい世界を見せてくれた人で、誰よりも尊敬する上官で、」
声が震えないようにするのは非常に難しかった。
「――俺の積年の戦友ですから、」
右手の指の先までを、痛いほどに真っ直ぐ伸ばして、月島はこれ以上無く奇麗に敬礼した。
「また会いましょう、鶴見中尉」
一瞬、鶴見は呆けたように月島を見下ろした。だが、その眼差しが優しげに緩むまで、幾許も無かった。分かった、分かった、と朗らかに笑い、その顔を笑みの形にしたまま鶴見は頷いた。
「また会おう、月島」
「はい」
鶴見は今度こそ踵を返し、桟橋へと向かう。月島はその背を敬礼で見送る。艀に乗り込んだ鶴見は、月島の方に身体を向けた。次々に人が艀に乗り込む中、月島は不動の姿勢を保ち、二人は見つめ合ったままだった。やがて、出発の声がかかった時、鶴見が中折れ帽に手をやって少しだけ挨拶のように動かした。
人を満載した艀が鋼鉄の船へとゆっくりと進んでいく。人々が最新鋭の連絡船に乗り込むまでにはなお時間がかかったが、月島は微動だにしなかった。
やがて、煙を吐いて湾内を回頭し、船は青森へと動き出す。そこで初めて月島は敬礼を解いた。
船が徐々に、徐々に、小さくなる。湾を出た連絡船が函館山を回り込んで見えなくなってしまうまで月島はそれを見送り続けた。
というわけで,私の頭の中では鶴見中尉は大陸に渡ってるし,この後,月島はいごちゃんと再会して結婚してるし,月島家にはほとんど毎日「月島ァ!(スパーン)」って鯉登が入ってくるし,いごちゃんそれをニコニコ見てるんだけど,あまりに2人がツーカー過ぎて「ときどき妬けるな」って言って,月島に意味が分からないという顔をされてほしい.あと,鶴見中尉はたまに日本に帰ってきて,月島に無理難題を吹っかける.(でも,頼み事されればやっちゃう)
イメージとしては,今このひとときだけロシアに行ってた頃ぐらいの心持ちになって話を交わして,別れた後は再びお互い修羅の道.鶴見としては,長年付き従って来た月島を再び宙ぶらりんにするのが忍びなかったので危険を冒して姿を見せた.
月島は,鶴見中尉と鯉登と二人に「ついてこい」と言われたら,鶴見中尉について行くんじゃないかと思ってて,それはどっちが良い悪いじゃなくて,鶴見は本当に一人になってしまうだろうから.鶴見と月島の関係って好き嫌いで語れるような簡単な物ではなくて,甘い嘘だろうと騙している疑いを持とうと,恩義も敬愛も間違いなくあって,そこに嘘はない.
ロシアに連れて行ったら,素直に真面目にロシア語覚えるし(本当にペラペラになったのは死刑を免れた後なんだから,覚えなくても命は助かってる),とことこ一生懸命ついてくるし,目をかけていただろうなあとは前から思ってたんだけど,この話書きながら,それを娘にしたかったと思ったことはあったんじゃないかと思うと可哀想でならない.網走監獄でのっぺらぼうの死体を見た時,狂乱しなかったんだろうか.
313話の鶴見の表情を少なくとも月島には見せてあげたい.見せて,「あなたの死神は未だにこんなにも人間ですよ」と教えてあげたい.でも,きっと,あれは誰も見てないからこそ出た表情なんだろうなあ.あの時,本当に妻子に別れを告げたのだろうか.自分は,あそこと,宇佐美過去回で慌てて宇佐美を止めてるのが鶴見の素だと思ってて,生来は優しい人なんだろうと思ってる.
月島の仮面が完全に剥がれ落ちてるのはあの231話「あの子は」のシーンだろう.あそこほど寄るべ無い表情をしていたことは他に無い.でも,すぐに仮面を被り直してしまうんだよなあ.大人だから.月島にとってのいごちゃんて,それはそれは重くって,他の人みたいに,「家族がいて友達がいて最愛の人が居る」んじゃなくて,「いごちゃんしかいない」.そういう人生を生まれてから徴兵される20年間続けてきた人なんだよ.あのいご草回の会話が真実であるなら,幼い頃から虐待を受けてきて,それを助けてくれる大人はいなくて,まともに扱ってくれるのはいごちゃんだけ,という生活で,欲しいと思ったものは得られるような人生ではなかったから,欲しいと思うこと自体も諦めててそれをたぶん20数年続けてきた人なんだよ.生まれてからずっと.そんな月島が,欲しいと思った数少ない対象であるいごちゃんは,周りが取り上げちゃったという.そこに現れたのが鶴見で,月島も,部下として使いたいんだろうなあとは分かりつつ,何故自分なのかという理由は無かったから,ずっと得られてこなかった無償の愛に近い物をずっと感じていたんじゃないだろうか.でも,奉天で鶴見は月島にとっては絶対に手を出されたくなかった聖域を犯してしまう.だから,鶴見は月島にとって絶望の始まりじゃなくて,とどめだったのだろうなあと思うし,だからこそ自分の人生は欲しいものが得られないようにできてるんだ,と理解してしまって,「憤るほどの価値など元々ありませんから」になるんだなあと思う.
月島は,故郷の村社会から引き離してしまえば,兵として非常に優秀で,教えればロシア語をかなり流暢にしゃべれる(激高した状態でネイティブに説教できるのはかなり凄い)ほど頭が良くて,おまけに面倒見が良いということを考えると,こんな生まれで無かったらもっと上に行っていただろうに.もっと斜に構えててもおかしくないのに,どうしてその育ちでそういうまともな倫理観を持ってしまったんだろう.そうでなければあんなにも苦しくなかっただろうに.
鯉登の成長って,210話から始まったと思っている.もともと自分が恵まれていることは分かっていただろうけど,本当に実感したのも,「恵まれていない人」に目を向けることになったのも,210話の月島がきっかけだと思う.あれ,月島じゃなきゃ鯉登もすとんと落ちないんだよ.尾形とかじゃ反発しか生まれなくて,その後の成長が無い.そもそも,鯉登がなんであんなにべったり懐いているのか分からないんだけど,とにかく,ひたすら面倒見続けて,命まで張った月島だからすとんと落ちる.あそこ,はっきりと脅されてるんだから,「こいつはこれが本性だったんだ」となってもおかしくなさそうなのに,鯉登は「この男は生来情の厚い善良な人間だ」と信じたから,必死に引き留めたのだろうと思う.面倒見てくれてたというところや,読者は終盤まで見てないけど「軍曹殿」と部下から慕われる場面を見てきたのだろうなあと思う.