昨日,『罪と罰』のことを書いていた時に思い出したので,書いておく.
ニーチェと言えばやはりツァラトゥストラかなとは思ったのだが,ツァラトゥストラは長そうで,以前キルケゴールの『死に至る病』で挫折した経験があったので,長いのは止めておこうと思ったのだ.
それで選んだのが『悦ばしき知識』だった.
読んでいたのは一昨年の春頃で,当時,「今ニーチェ読んでる」「また何で?」という会話を友人と交わした覚えがある.いや,短い考察が並んでいる書き方なので,けっこう読めるよ?難しいこと考えなければ,芥川龍之介の『侏儒の言葉』を読んでるみたいな感じで.(趣は違うが)
『罪と罰』を読んでいて思い出したのが,28節「己の最善のもので害をなす」である.『罪と罰』におけるラスコーリニコフは,意識してそれを為している段階で(意識しなければ為すことが出来なかった段階で)既に世に言う「偉人」では無かったのだろうなあと思う.と同時に,偉大な人間達
ではない自分としては,勘弁してくれと思うわけだ.多分,世界が動揺したら私は逃げ惑うばかりである.降りかかる火の粉を逃れようと頭を覆い,逃げ惑うばかりである.
さて,私がニーチェの著作の中で『悦ばしき知識』を選んだ理由は,世評でも最も名高い125節「狂気の人間」,そう,「神は死んだ!Gott ist todt!」の件を読みたかったからである.どういう文脈で出てきた言葉なのかを知りたかったからである.
読む前に思っていた背徳的な物,絶望的な物はそこにはなかった.
どちらかと言えば,宗教が形骸化したことの明確な指摘,世人がそれに気づいておらず型ばかりの信仰を口にしていることの指摘であるように思う.しかも,それは嘆きではないのだ.これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった
なのである.絶望があるとすれば,人々がそれを偉大なことと思っていないことに対する発言者の絶望である.背徳と言い出すよりも,解放された喜び,前に進めという鼓舞,それに乗らない世間への苛立ち,そんなもののように思う.
結局のところ,キリスト教的な世界観を持たない私にはこの言葉が当時与えた衝撃という物は味わえない.またそれは,現代の西欧社会に生きる人々の大部分にも当時ほどの衝撃は味わえないのではないかと少々思う.(西欧社会を知らぬ自分がこんなことを言うのは筋違いだが)