ヴァレンシュタイン(フリードリヒ・クリストフ・フォン・シラー)

読売だったか日経だったか忘れたが,去る有名人(誰だったか,これも忘れた)の寄稿があって,その中に,シラーの『汝の運命は汝の胸中に在り』という言葉が好きだ云々,という文章があった.

なるほど,それはいい言葉だと思って調べてみると,これは『ヴァレンシュタイン』の第2部第2幕第6場にある言葉だと分かった.

30年戦争における将軍の話だということで,好みにも合っていたので読んでみることにした.

読んで,まあ,唸ったわ.見事な序破急なのである.第2部に差しかかる辺りから,運命が,あるいは不幸が,あるいは悲劇が,鎌首をもたげて,織り成した事実と人々の意図せぬもしくは意図した動きがいろんな人を絡めて急流に押し流し去っていく.

大規模戦闘は描いていないにもかかわらず,戦争がもたらす人や心の動き,有り得る悲劇が凝集されている.この話より多くの筆を費やして描かれた,似たような話はたくさんあろう.

シラーも旗手の一人であったドイツ文学の一潮流を「疾風怒濤 Strum und Drang」と言い習わされた訳が分かったような気がする.劇的である.劇「的」ではなく,まさに劇だが.

もっとも,Strum und Drangはある作家の戯曲の名前であるらしい.

ヴァレンシュタインがプロローグに言われるような「大罪人」と誹られるような人であったとは私には思えない(そして,シラーにしても悪逆非道の人物とは描いていない).みんな同じなのだと思う.スケールの大きい小さいはあれ,同じように自分の意図どおりに事を運ぼうとしただけなのだと.

ヴァレンシュタインが,進む道が一つしかなくなった事を嘆く場面があるのだが,もうその前から彼は自由を失っていたのではないだろうか.イロもテルツキもオクターヴィオ・ピコローミニもヴァレンシュタインの意思と違う動きをし,最終的にそれが破滅に繋がるのだから.面白いのは,一方は自分の利のためにヴァレンシュタインを動かそうと事を運び(もっともやり方は画策というよりは浅慮だと思うが),もう一方は破滅をもたらした結果が自分の栄達になってしまったことだ.栄達を望む気持ちはあったのかもしれないが,血塗られた栄達は必ずしも意図してはいなかっただろう.ブトラーの伯爵の件へのヴァレンシュタインの謀は本当のことだったのか?嘘だったのか?ブトラーを引き入れるための嘘だったとしたら,もたらした結果が余りにも罪深い.

マクスがなじるまで思いもしなかったのだが,別の道というのはありえたのだろうか?つまり,諌めたとしたら聞き入れられていたのだろうか?

どうも,皇帝とヴァレンシュタインの間で起きた,徐々に心離れるということが,ヴァレンシュタインとその部下にも起こったように思え,皇帝の元で起きたヴィーン貴族とヴァレンシュタインの確執が,ヴァレンシュタイン麾下でも起きたように思う.

そして,一貫して思ったことは,皇帝であるというただ一点だけで,何もせずに忠誠を受けることができるなんて,ずるいなあということだ.ずるいのは皇帝というより,それを取り巻き利用する貴族かもしれないけれど.この話において皇帝自身は出てこず,皇帝自身がどういう感情を抱いていたかは描かれない.

渦巻く利己心の中で,己の高潔を守ったのはマクスだけだったかもしれない.自分で認識していた通り,彼が罪を負うとしたら,それは自分と共に死に追いやった忠実な部下達に対してだけだろう.

ところで,冒頭に書いた「汝の運命は......(In deiner Brust sind deines Schicksals Sterne. 直訳:君の運命の星は君の胸の中にある)」の文章であるが,これだけ読んだ時に感じるような,勇気を鼓舞するような――それだけを意図したような――輝かしい文脈では使われていない.鴻門の会で玉玦を振った范増を思い出す.もっとも,言ったのは范増のような知恵者ではなく,学も無く思慮に欠けたところのある人物だった.それは傭兵部隊のたたき上げが大勢を占めていたヴァレンシャタインの軍においては仕方のないことだったのだろう.ヴァレンシュタインに心底必要だったのは知恵者である盟友だったのかもしれない.

例のリンゴの場面で有名な『ヴィルヘルム・テル』を読んだときは,読み流した感があったが,『ヴァレンシュタイン』は,もっとずっと面白い.だが,面白いという言葉を使うにはいささか重い話ではある.

ヴァレンシュタイン(岩波文庫)濱川 祥枝 訳

日時: 2008年8月10日 | 感想 > 本 |

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