1年のうち年度末の1~3月は数回「廊下で一日中座っている」という業務が入る.本当に座っているだけも同然で,のわりにその場を離れてはいけないもんだから,寒いのはどうしようもないにしても暇で暇でしょうがない.
必然的に本でもということになるのだが,でっかい荷物など持っているわけにはいかないから,そこそこ読むのに時間がかかる本を1冊,ということになる.昨年は『罪と罰』を読んでみた.
今年はどうしようかなあと思っていて,ふと,高校の頃に世界史の先生が「ノーベル賞作家でもなんちゅう面白い本かと思った」と言っていた作品を思い出した.それがシェンキェーヴィチの『クオ・ワディス』である.
それで,いそいそと廊下で読み出したんだが.
なんちゅう面白い本か!!
ちょっと,こんなに面白くていいの?ってぇ勢いだったよ.歴史物好きなら是非.そうでなくとも本が好きなら読めるよ.この本さ,下手にシェンキェーヴィチがノーベル賞取っちゃってる上,すました外観の本になっちゃってるから敬遠されてるだけでなんじゃないのか,という面白さなんだよ.ローマの大火やネロによる迫害の場面なんて大スペクタクルだ.列強の圧政に苦しむポーランド同胞への思いを,迫害されるキリスト教徒に託した
という紹介文があったけど,そんな小難しいこと抜きにしてもものすごく面白い.
こんなに見事に古代ローマの生活ってものを血肉を持った表現で書けるとは.
しばらく読んでいて,「まともに婚姻申し込め~!!」と思ったけどさ,パックス・ロマーナの時代のローマ貴族としては何ら非常識ではないんだなあと読み進めるうちに思った.
それで,まあ「クオ・ワディス」なだけにキリスト教の話でね,初期のキリスト教徒の敬虔さとか情熱とかそんなものを感じるわけで,ローマ貴族的ローマ人だった主人公(たぶん,主人公だと思うんだが)ウィニキウスが改宗する話です,と言ってしまえば言ってしまえるけど,全然それだけじゃあない.
泣いた場面はですね,あれです,「わたしを許してくれ!」「あなたを許します!......」十字架に架けられた者に向かって勝利者であるはずの男が許しを請い,何度も何度も辛酸を嘗めさせられたはずの男を死の寸前の男が許すんですよ,そこでボロボロと泣けてしまった.それでね,後でペテロが声をかけますね,いや,改宗するわ.私でも改宗するわ.こんなに熱心に誠意を持って語られたら.言葉が力を持つ瞬間だ.
この場面の前ぐらいの辺り,小狡いギリシア人であるキロンに耐えられなかった物を,ローマ市民は貴族平民を問わず「見せ物」と見ている,その堕ちきった倫理観は何なのだろう.ソドムという単語を思い出さずにいられない.
それから,同じキリスト教徒でもペテロとクリスプスは対照的で,ペテロは慈父だなあと思うんだけど,クリスプスはほとんど狂信的で激しい.
さて,キリスト教の全面肯定物語で終わらないのが,ペトロニウスの存在である.たぶん,この物語中,一番かっこよく描かれていると思う.ウィニキウスが主人公なのかなあとは思うんだが,はっきり言って,ペトロニウスの物語だとも思う.
この人は実在の人物で,「趣味の審判者」と呼ばれた『サテュリコン』の作者とされる人物.タキトゥスの『年代記』におもいっきり無精でもって有名となった
と書かれている.あんたー!!(笑)ただし,タキトゥスの記述全体を読むとなかなか面白い人物像が浮かぶ.間違いなく,このタキトゥスの記述がなければ『クォ・ワディス』におけるペトロニウスの造形は無かっただろう.
この人,自分でも言ってるし,他人にも言われてるけど善悪を区別する感覚をとうの昔に失って
いる.じゃ何を基準に動くかというと,自分の美的感覚ですね.その美的感覚というのは余人に受け入れがたい物ではなくて,ちゃんと血なまぐさいことや暴力には眉をひそめる感覚がある.ネロの気まぐれが支配する宮廷社会を言葉で渡り合う,たいへんきれる快活な懐疑主義者.ギリシア・ローマ文化の粋を身にまとった人物.
宮廷でのやりとりは真剣勝負並みに緊張感があって,ペトロニウスは嘲笑を含んだ言葉による戦いをおもしろがっていたんだろうなあと思う.だから,きっとどんなにキリスト教が素晴らしくともこの人は改宗しないし改宗できないだろうなあと.
この人,ぜーんぜん,自分の評判に頓着しないくせに,自分の主義を曲げないがゆえに民衆には人気がある.自分のやりたいように生き,勝利も敗北も真っ正面から受け入れて,笑みを浮かべて去っていく,このペトロニウスという人が私はこの物語では一番好きである.エウニケのことでは最初ボケてたけどね.気付よ!と思った.あははは.エウニケは目立たないけれど,彼女がいてペトロニウスは幸せだと思う.
最後に.ウィニキウスとリギアの前に鷹は立ち寄っただろうか?
2009.1.17読書開始 - 2.6
クオ・ワディス〈上〉
クオ・ワディス〈中〉
クオ・ワディス〈下〉