怒りの日(二) - 報

三日前からベセルは活気付いている。

それというのも、戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)の小隊が毎日到着するからだ。

エゥナーナ・イ・フォェルトからベセルまでには幾つもの難所がある。

まず、高地湿地帯。

板敷きの細い道は大人数の行軍を不可能としている。道を広げようにも足場となる固い場所がないのだ。エゥナーナ・イ・フォェルトが小分けに出発するのはそのためだ。

そして、高地湿地帯を抜けたあとの上り。

起伏よりも地の高さが問題なのだ。ここを急いで走り回ろうものなら〈山酔い〉を起こす。空気の薄い故だ。〈山酔い〉というと切迫した感はないが、悪いときには死に至る。

ゆえに、エゥナーナ・イ・フォェルトが大部隊を出すときは難所を越えたベセルを合流地にするのが常だった。

さらに大掛かりな戦の場合は、周辺の村々からも兵が出て、もう少し山を下ったクセスという都市で落ち合うのである。

エクトは酒場を見回した。

酒場と言っても、宿屋に付属のそれで食事も出す。

エクトはこの宿の主人である。

早朝の酒場におがくずをまいて箒で念入りに掃く。厨房からは湯気とともに食欲をそそる匂いが漂ってくる。もうすぐ、戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)が起きてくるだろう。

掃除をあらかた終えて、エクトはカウンターの椅子に腰を下ろした。

一服していると、扉が開いて、がっしりとした体格の若者が顔をのぞかせた。

「おじさん、裏に置いといたよ」

ぶっきらぼうに言った若者に、エクトは笑みを浮かべて、

「すまんな、ビシ。戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)の出陣で酒が思ったより早く無くなったんだ」

言いながら、ビシもよく働くようになったものだと思った。

酒造りが酒を売るのは当たり前だろ、とビシが口の中でもごもご言った。知らぬ者なら無愛想ととる口調だったが、エクトはビシを幼い頃から知っているから分かる。照れているのだ。

「ビシ、今日はセグノ様の隊が来るぞ」

「え、そうなのか。俺、今日、クセスに行くのに」

いかにも口惜しそうに若者が顔をしかめた。

なぜか知らないが、ビシは戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)の長であるセグノになついている。そもそも、少年の頃、家業も手伝わず盗むわ暴れるわしていたビシがまっとうになったのもセグノのおかげだと言う。

何があったかビシは語らないし、セグノも笑ってはぐらかす。

ビシは私よりもセグノ様の言うことをよく聞くんですよ、と父親がこぼしていた。

「ビシ、出発を遅らせたらどうだ」

エクトの提案は魅力的だったはずだ。ビシは長い間うなっていたが、とうとう言った。

「やめとくよ。仕事を放り出したなんて知ったら、きっとセグノ様は怒る。それに、クセスからの帰りに会えるかもしれないし」

「そうか」

うん、うん、とエクトは丸顔をうなずかせた。

「おじさん、くれぐれも言っておいてくれよ、な」

至極まじめに言い置いて、ビシは帰って行った。

エクトはビシが帰ってからもしばらく一人でうなずいていたが、やがてよっこらしょと立ち上がった。

その日の夕刻。

予定通り戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)の最後の小隊がベセルに着いた。

今回やってきた戦場の鷲は〈攻め手〉の〈翔〉番に当たっている者たち皆だと最初の隊から聞いている。これだけの大所帯が一度に出てくるのも珍しい。

ベセルにはこれだけの人数を一度に泊めるような大きな宿はない。したがって、鷲たち(エゥナーナ)はいくつもの宿に分散して泊まった。中には親族の居る者もいて、出陣前の短い滞在をささやかに愉しんでいる者もいた。

その中で、〈攻め手〉の長セグノはどんなときでもエクトの宿を選んでいた。今回もその例にもれることはなかった。

「セグノ様、お待ちしておりました」

「いつもすまんな。今回もよろしく頼む」

「はい、こちらのほうも今日ビシが入れてくれたものがうなっています」

とエクトは盃をかたむけるまねをして見せた。

「おお、ビシは元気か」

「はい。真面目に働いておりますよ。今日はクセスに行くとかで、セグノ様にお会いできないのを残念がっておりましたよ。くれぐれもよろしく、と」

「くれぐれもよろしく、か」

ははは、とセグノは闊達に笑い、二階のいつもの部屋へ上っていった。

しばらくして、セグノが下りてきて、いつのも(テーブル)についた。同じ(テーブル)につくのは、これまたエクトには馴染みの鷲たち(エゥナーナ)だ。

一人は小隊の副隊長で、しっかりとした顔つきの精悍な(エゥナーネン)、名を確かレーフというそうだ。

セグノとレーフが居ることで、セグノの宿はたまに司令部のようになることがある。

(テーブル)にはあと一人(エゥナーネン)が居る。

なんでも、小隊の殿(しんがり)を務めているそうで、その事実から戦士としての技量を推し量ることができる。

酒造りの若者ビシがセグノびいきであるように、エクトにもひいきの(エゥナーネン)がいる。

それが、いつもセグノやレーフとともにいるこの第三の男だった。

話題が豊富でよく笑うレーフとはまったく正反対のこの寡黙な男をなぜエクトが気に入っているかといえば、確たる理由がない。

ただ、初めて会ったときにセグノに紹介された男が、

「ゲド、と申します」

と丁寧に言ったときから好感を持っている。

そもそも、のみっぷりがいい。

大酒を飲む、と言う意味ではない。

最初の一杯はそっと酒を口に含む。そして、そっと言うのだ。

「ああ、ベセルの酒だ」

と。酒造りの村に生まれたものとしては、嘆息とともに吐かれるそのひと言がなによりの褒め言葉だ。

それから悠々と時間をかけて酒を飲み、その間、姿勢を崩さない。賑やかにしゃべり笑いしているレーフに耳を傾けてときどき相槌をうっては飲む。うなずいては飲む。決して居汚(いぎたな)くなることがない。

端然として飲み続けるゲドを見ながら、不器用そうなお人だ、とエクトは思ったものだ。

長年、宿の主人をやっているエクトの目に狂いが生じることはほとんどない。

この高山地一帯の住人の例に漏れず、エクトは戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)に敬愛の念を抱いている。鷲たち(エゥナーナ)は羽目を外すことはあるが概ね規律正しく、助けを求める手を振り払うことがない。

部隊すべてが揃ったからには戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)は明日にも旅立つだろう。

エクトはいつものように目を細め、鷲たち(エゥナーナ)の夜を(たの)しんでいた。

エゥナーナ・イ・フォェルトを出てから、かなり経った。

神官将の率いるハルモニアの部隊と合流した後は、小さな紛争の頻発する国境沿いの道をストウまで同道した。神官将とはそこで別れ、いまは、さらに東を目指している。

行軍中いつも殿(しんがり)を務めるゲドは、逗留地ではセグノの護衛に就く。誰に命じられたわけでもない。強いて言えば、ゲドの性格がそうさせたといえよう。

「生真面目な男よな」

とセグノは苦笑する。

宵の口のことだった。

男が逗留地でセグノの部屋の扉を開けたときも、ゲドはセグノの傍に在り、ゆるゆると酒で口を湿らせていた。

現れたのは見慣れない三十がらみの良く日焼けした男だ。

扉が開けられた途端ゲドは剣に手をかけていたのだが、セグノと男が視線を交わす様子を見て、むしろ邪魔は自分らしいと判断して腰を浮かしかけた。

「いや、いい」

セグノはゲドの動きを止め、男に言った。

「この男なら大丈夫だ。口の堅さでは我が隊随一だ」

ともすれば、言わねばならぬことも口に出さぬ、と笑いを含んだ調子で付け加えた。

セグノの笑みを見ながらも、痩せぎすの男は思いあぐねた様子でゲドを窺っていた。用心深い所作と雰囲気とで、男が間者か何かなのは見て取れた。

男は静かに扉を閉めた。

「セグノ様。エゥナーナ・イ・フォエルトが囲まれております」

さすがにセグノも笑みを消した。

「どこの軍だ」

「ハルモニア。地方軍が一つ出ておると思われます」

セグノは押し黙った。ゲドも黙って続きを待った。

「いつから」

「〈攻め手〉がクセスを発ってから集まりだしていたようです」

「囲まれてどれぐらいだ」

「そろそろひと月になるかと」

「隣国へは抜けられぬのか」

「関が閉じておりました」

「ハルモニアを恐れたか。まずいな」

セグノは腕組みをして考え込んだが、ついとゲドのほうを見た。

「ゲド」

呼ばれてゲドは頷き、立ち上がった。階段を途中まで降りると、下の酒場で賑やかに騒いでいる男に合図を送る。

「なんだ?」

「隊長が呼んでいる。俺では盛り上がらんとさ」

「だろうな」

笑いながらレーフは立ち上がり、一緒に飲んでいた隊の者に軽く手を振った。

ゲドのいるところまで上って、ポンと肩に手を置いた途端、レーフは人好きのする笑みを消した。

「何があった」

「エゥナーナ・イ・フォェルトが囲まれた」

聞いて、レーフは、チ、と舌打ちをした。

「おかしいと思ってはいた。いくらでも近くに部隊はいるのに〈戦場の鷲(われら)〉を動かすとは」

どうせ、ハルモニアだろう、と言うレーフにゲドが肯き、ポツリと付け加える。

(いぬ)()らる、か」

「こちとら〈鷲〉よ、黙って烹られてやるものか」

ゲドがセグノの命を帯びて退室したのは、密談が始まって間もなくのことだった。立ち去りかけたゲドをセグノが呼び止めた。

「すまんな。俺がやればいいんだが」

「いいえ、隊長の役割ではありません。それに、元よりそのつもりでした」

「ゲド」

横から呼びかけたレーフにゲドは頷いてみせた。

「レーフ、セグノ様を」

「ああ、分かった」

細い月は動きの速い黒雲に隠されながら切れ切れに光を投げていた。

ゲドは〈戦場の鷲〉の逗留する宿から宿へセグノの招集の命を伝えて廻った。

最後の宿で了解の返事を得ると、今度は大路に繋がる小さな横道の物陰で長套(マント)を脱いだ。徽章鉤(きしょうこう)を取るとき、ふと動きを止め、それを握り締めた。しばらくしてから拳を開くと、ゲドは徽章鉤を硬貨とともにしまった。

それから、ゲドは狭い横道でややうつむいた姿勢で静かに待った。

待つことしばし、ゲドは足音を聞きつけた。

整った歩調。二人だろう。

ゲドは顔を上げ、警邏の者が横を通るのを待ち受けた。

兵士の側面が見えた途端、鞘に入れたままの剣を突き出した。横腹を打たれ、屑折れる仲間を見て、もう一人が状況を把握しないながらも、大声を上げかける。ゲドは横道から飛び出し、兵士の口を押さえ込んだ。同時に胸のあたりに手を当てて詠唱を完成させる。バチバチと鋭く閃光が走り、兵士から力が抜けた。

――紋章をこういう風に使うものではないな。

右手は引き攣れたような痛みで(うず)き、焦げた手袋からは不快な臭いがわずかにしていた。

兵士たちが息をしているのを確かめると、ゲドは二人を自分の隠れていた横道に引き込んだ。兵装を奪って、身につけられるものだけ身につける。いままで帯びていた〈戦場の鷲〉特有の広幅の剣は、外して服と共に長套(マント)(くる)んだ。

ゲドは急ぎ足で市門に向かった。

走り寄るゲドを見て、市門の衛兵が声をかけた。

「どうした?」

ゲドはずりおちる兜を押さえるふりをして逆に目深にかぶった。

「危急報だ。早馬を用意してくれ。クセスまで行く。途中の駅にも先に報をあげてくれ」

顔を見合わせている二人の衛兵は気にせず、ゲドは続けた。

「伝令をもう一人用意してくれ。そちらにはクリスタルバレーまでこれをもって行ってもらいたい」

ゲドが見せた手紙の封蝋を見て、はじめて衛士たちが動いた。

この手紙は〈本物〉である。あの名も知らぬ間者が持ってきたものだ。ここの領主がクリスタルバレーにあてて出したもので、間者がそれを横取りしたのが、そもそもの事の発端だったらしい。

領主は滞在する〈戦場の鷲〉に対する指示を仰いでいた。領地内をどう動かすべきか。最後にはどうするべきか。

そこから間者は不穏な臭いを嗅ぎつけ、状況を探り出したというわけだ。

急にあわただしくなった市門には、本当の伝令職の者と馬が二頭用意された。

「替え馬用意の狼煙(のろし)はあげておくが、天候のせいで見えにくい。通りは悪いかもしれん」

「了解」

ゲドはもろもろの物を馬にくくりつけ、飛び乗った。

荷物の中には長套(マント)や剣、何より徽章鉤(きしょうこう)が入っている。こういった〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉を感じさせるものは置いていくべきなのかもしれない。しかし、どうしてもそれができなかった。

行ける所まで行こう、とゲドは思い定めている。

馬を走らせ出したゲドが一つ不安に思っていたのは、伝令にしては馬の扱いがうまくないことに気づかれることだった。

十分離れてしまうまで緊張をしていたゲドだったが、市門が見えなくなると、大きく息をついた。

秋の雨は嫌いだ。

ビシは酒蔵の点検をしながら雨音を聞いていた。

秋の雨は長くて暗くて何もかも湿っぽくする。ただでさえ短い昼の光を雨が奪い去っていくように思える。

外から聞こえる単調な雨音は止みそうになかった。

ビシは鬱憤をぶつけるように壁を蹴った。苛立ちは収まらなかった。

ベセルに居座るハルモニア兵が気に食わない。ベセルだけではない。近くの村すべてにハルモニア兵が居る。

その矛先はエゥナーナ・イ・フォェルトだ。

エゥナーナ・イ・フォェルトが囲まれてずいぶん経つ。たまたまエゥナーナ・イ・フォェルトに居た旅人も商人も出られなくなっているという。

誰もエゥナーナ・イ・フォェルトを助けるために動かない。

最初、ビシは飛び出そうとした。出て行ったセグノの隊を追いかけて知らせようと。〈攻め手〉が戻ってきたらきっと状況は変わる、そう思ったのだ。

しかし、止められた。馬鹿にされた。

結局、皆、ハルモニアを恐れているのだ。

ビシの不満は自分もその「ハルモニアを恐れる村人」の一人でしかないことだった。

酒造りの青年はもう一度思いっきり壁を蹴った。蔵の壁という壁、柱という柱に掛かった酒の入った皮袋がわずかに揺れた。つまさきがズキズキする。

ビシは一つ舌打ちをして酒蔵を出た。

雨は冷たくて、目をあけるのも難しいほど激しい。

〈相棒〉は大人しくしているだろうか?

ビシは酒蔵を出て(うまや)に走り込んだ。

濡れた頭の上を手ではらう。そんなものですむほど生易しい雨ではなかったが、しずくが落ちてくるのがうっとうしかったのだ。

「おい、おとなしくしてるか?」

声をかけてもたいした反応は返ってこない。ロバなんてそんなものかもしれない。いつもどおり、黒い目を開いてもそもそと飼い葉をはんでいる。

「今はなまけてていいけど、晴れたらクセスまで行くぞ」

酒は売りにいけないし、必要なものを買いにも行けない。

ビシはつくづく恨みがましく降り続ける暗い空を見上げた。

しばらく、動きを止めていた、その時。

がさり。

背後の物音に、ほとんど飛び上がりかけたのだが、持ち前の負けん気の方が辛うじて(まさ)った。

「だれだ!」

言うがはやいか、狭い厩をくまなく見回す。

誰も居ない。いや、開けた扉の裏か?

ビシはそろそろと立てかけてあった(すき)を手に取った。それらしく構えて、扉の取っ手に手をかける。

グッと引くなり、振り上げていた鋤を振り下ろした。

ガン、と鈍い音がした。

ずぶぬれの男が居た。

黒い髪からしずくをたらしながら、片膝をついた格好で、ビシの振り下ろした鋤を辛うじて鞘に入った剣で止めていた。

――ハルモニア兵?

ビシは、負けるものかとばかりにジリジリと力を振り絞った。

ハルモニアの兵装を見ると、よけいに力が入る。

と、突然、男が力を抜いたので、ビシの体が泳いだ。慌てたところで、グッと押し返された。

どうにか転倒はまぬかれたが、その隙に相手は立ち上がって体勢を整えてしまった。

ビシは奥歯をかみ締めると、あらためて鋤を構えなおした。

やられてたまるかと男を睨むと、男は鞘のままの剣を盾でもあるかのように両手でかかえて体の前に構えていた。

じり、じり、と二人は弧を描くように移動した。

「あ、あんた……〈鷲〉?」

厩の暗い部分から抜け出した男の顔にやっとビシは気づいたのだ。鋤を構えていた手がだらりと下がる。

「セグノ様の〈鷲〉だろ、あんた。セグノ様が帰ってきたのか?」

男は、ゆっくり剣を下ろした。ビシを探るように見る。

「セグノ様はまだだ。俺が先駆け、ということになるな」

言葉には、ビシのことを考えあぐねているような調子があったが、ビシはそんなことに気づかない。

「やった、攻め手が帰ってくる!」

歓声を上げたビシを男は困惑した表情で見ながらも、

「一晩、ここにおいてくれ。迷惑はかけないつもりだ」

と言った。

とたんにビシの頭の中を考えがめまぐるしく動いた。

「あんた、名前は」

「ゲド」

「ゲドさん、こんなところじゃなくてもっといい場所を使えばいいよ」

「しかし――」

「まかせなって。親父はだめだけどエクトさんなら」

「エクト?宿屋の?」

「そうさ。ついてきなって」

雨をものともせず、ビシは元気いっぱいに駆け出した。しかし、ゲドが後ろをついてこないのに気づいて、ふくれっつらで戻ってきた。

「なにもたもたしてんだよ。俺があんたをハルモニアに売るとでも思ってんのか」

声を潜めてはいたが、怒っていることはよく分かった。

「いや。走れぬのだ」

とたんに、ビシの顔に後悔が浮かんだ。

「怪我を?」

「ああ」

「敵に?」

「……馬から落ちた」

「ドジだな」

若者の言動は不遜ではあったが、(てら)いがなく、それが今のゲドにはありがたかった。

雨こそ上がったものの、どんよりとした雲が空を覆っていて、朝から薄暗い。

エクトはいつも通り朝早くから起き出して、いつも通りおがくずを床にまいた。

箒を手にとったところで、ふと窓から空を見上げた。

――嫌な雲行きだ。

裏口が開く音がしたので、エクトはびくっとなって視線をそちらにやった。だが、入ってきたのがビシだったので、安堵の溜息をついた。

「あの人は?」

「まだおやすみだよ」

「まだ寝てるのかい。こんなときだってのに」

「無理もない。ストウの北、国境近くからここまで飲まず食わずで早馬を駆ってきたのだから」

声を荒げた青年をエクトはやんわりたしなめた。

昨晩、ビシに連れられ現れたゲドは、それはひどい有様だった。

ハルモニアの兵装に身を包み、疲労の色が濃く、その顔色は青いを通り越してどす黒かった。それが、冷たい雨を滴らせながらわずかな荷物だけ抱えて現れたのだ。

エクトに匿われることにはじめゲドは難色を示していた。それは、どちらかと言うとエクトやビシに迷惑が掛かることを恐れてのことらしかった。

「でもね、ゲドさん、あなたも休まなくちゃならないでしょう。休まなくちゃここからエゥナーナ・イ・フォエルトに行くのもままならない。そんなことは〈(エゥナーネン)〉のあなたが一番よく知っていることじゃないですか。なあに、私たちのことなら大丈夫。こんな老いぼれとビシみたいな青臭いの、ハルモニアは気にしませんよ」

青臭いの、と言われてビシが不満げに口を尖らせた。

「気にしないわけはあるまい」

ゲドが言い張るので、とうとうエクトが言った。

「分かりました、なら、こうしましょう。これがバレたら私たちはあなたに脅されたと言う。ね、それならいいでしょう」

そこで考え込んで、ようやくゲドは頷いた。

話を聞きたそうにしていたビシに着替えを持ってくるよう言いつけ、エクトはすぐさま火の傍にゲドを連れて行った。火の傍の椅子に座ったゲドは、疲れ切っていただろうに、それでも姿勢を崩さなかった。エクトはそんなゲドを見て何かひどく心打たれた。

ボツリ、ボツリとゲドは語った。と言っても、多くを語ったわけではない。攻め手が戻りつつあること、攻め手の帰還ルートをハルモニアから隠すため、自分は敢えて主要路を駆け戻ったこと。

「ゲドさんは途中で捕らえられることを覚悟していたらしい。しかし、結局、止められることはなかった」

「ふーん」

「だが、クセスを出てしばらくしてとうとう追っ手がかかってな。弓馬兵も出て、かなりしつこく追いかけられたそうだ。射掛けられた矢をかいくぐってはいたのだが、乗っていた馬に当てられてしまっては、もういけない。馬は横倒し、ゲドさんは落馬。それで、雨の中森にもぐりこんで、どうにかベセルにたどり着いたのだそうだ。暗くなっていなかったら、おそらく切り抜けられなかっただろうとおっしゃっていたよ」

話を聞くうちにビシの顔がさあっと赤くなり、なにやらばつの悪そうな表情になっていった。どういったわけだろう、とエクトは思ったが、敢えて訊かなかった。どうせ、ビシはだんまりを決め込むだろう。

それよりも、エクトはゲドの言葉を思い出していた。

――横倒しになった馬が雨に打たれていたのが妙に目に残っています。いい馬だったのにかわいそうなことをしました。

変わったお人だ。

しかし、エクトはさらにこの(エゥナーネン)を好もしく思った。

話し終えたゲドはビシが持ってきた着替えをもらってあてがわれたベッドに倒れこむなり、まだ眠りから覚めない。

「でもさ、急がないと――」

「ビシ。私たちに何ができる」

「それが嫌なんだよ。俺は。そういう考え方が。戦場(いくさば)の鷲には何度も助けてもらってるじゃないか。なのに、誰も何もしない」

「まあ、落ち着け。私が言いたいのはね、攻め手が――セグノ様が戻ってきて、何かできるだけの人手ができるまで待てということなんだよ。下手に動いてハルモニアに気取られたら元も子もない」

「分かるよ、分かるけど」

ビシはちょっと口をつぐんで考え考え言った。

「ゲドさんが射掛けられたってことはさ、ハルモニアに感づかれたってことじゃあないか」

「そうとは限らない」

とは言ったものの、エクトも自信を持って言い切っているわけではない。

「さあ、話は終わりだ。いつも通り働くんだ、ビシ。いつも通りだぞ」

「分かってるよ」

不機嫌そうにビシは酒袋を運び出した。

エクトはため息をついた。

まあ、ビシが不機嫌そうな表情をしているのはいつものことだ。下手なことをしなければハルモニアの憲兵が気づくこともないだろう。

聴覚が(うつつ)の世界を認識しだす。

次に戻ってきたのは触覚で、横たわる身体が自分を包む布の感触を思い出す。

ゲドはまぶたを閉じたまま、己の状況をゆっくり思い返した。

ここは、ベセル。宿の二階のさらに上。隠し部屋。狭い。宿の主人の名はエクト。馴染みの人物。柔らかい物腰に義侠心を隠している。おそらく、信頼は、おける。

ゲドは目を開いた。

うつぶせになっていた身を起こして、ベッドのふちに腰掛けると、半分裸のような格好だった。借りた服をしっかり着込むのももどかしく、ずるずると睡魔に引きずりこまれてしまったのだ。

少し、肌寒い。

己の意識が浮上してくるのをじっと待っていると、物音が近づいてきて、床に設けられた出入り口の蓋が勢いよく開いた。

ゲドが黙って入ってきた青年を見遣ると、なぜか相手は不満そうな顔をした。

「もし、俺がハルモニアの憲兵だったらどうするんだよ」

実際のところは、ゲドには音の調子から近づいてくるのがビシだと気づいていたのだが、何も言わなかった。

「ビシ、早く入ってくれ」

部屋の外から声がすると、ビシは身軽に部屋に入り込み、エクトから食事を受け取った。ゲドはエクトがよじのぼろうと悪戦苦闘しているのを見かねて、そばにより、グイとエクトを引き上げた。それから、二人を見回し、

「夜、だな」

と、確かめた。

「夜も夜だよ。よく寝てたもんだ」

「ビシ!」

ゲドは構わない、といったふうに手を振った。

「食事はとれそうですか。軽いものを揃えたんですが」

「ありがとうございます」

差し出された薄めのシチューをひとくち口にしてみて、ひどい空腹を覚えていたのに気づいた。と同時に、ひとたび空になった胃が食料を受け付けるのを拒んでいた。ゲドは吐き気をおして、口にしたものを無理やり飲み込んだ。

「いいもの持ってきたんだぜ、俺」

ビシはさも褒めてほしそうに得意げな笑みを浮かべて、隠し持っていた物をゲドに渡した。

「札、か」

「癒しの札、のはずだよ。〈鷲〉なら使えるだろう?」

「ビシ、お前、それをどこから……」

「へへ、くすねてきたんだ、ハルモニア兵から。奴らが倉庫代わりに使ってる空き家があっただろう?」

「危ないことはするな」

「大丈夫だって。ごっそりやるとバレるけど、一、二枚じゃ気づかないもんなんだぜ」

玄人じみた言い草にエクトが「いばれる事か」と(たしな)めた。

何にせよ、ゲドにはありがたかった。痛む足に札をあてて、紋章を使うときのように意識を集中すると、柔らかい青い光があふれでた。

「さすが、〈鷲〉」

「礼を言わねばならんな」

ゲドは足の状態を確かめた。エゥナーナ・イ・フォェルトまでもちそうだ。

それから幾分、姿勢を正してエクトに訊いた。

「エゥナーナ・イ・フォェルトの情勢について知りうる限りを教えてください」

「それが、あまり私らにも分からないんですよ」

エクトが語れることは少なかった。

ともかく、戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)がベセルを出てから数日たってハルモニア兵の移動が始まったらしい。

クセスを出た頃だろう、とゲドは思った。

きっと〈鷲たち〉と入れ替わるようにクセスに入り、一本道をベセルへとたどったのだ。

「最初は私らにも何が起きているか分かりませんでした。今思えば、少しずつ少しずつ兵を揃えてたんですね」

「エゥナーナ・イ・フォェルトを囲むにはかなり長い時間が要りますから」

「囲みが完成するまでは二週間ほど掛かったんじゃないかと思います。だいたいそれぐらいで大きな移動が止みました」

「二週間――」

ゲドは考え込んだ。

「近隣の村々にはハルモニアの憲兵が一隊ずつ入り込んでいます。おそらく、戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)に協力する者が出るのを抑えるためだと思います」

「ふん。憲兵なんて、必要なかったんだ」

小さく強くビシが言った。

エクトにはビシが言いたいことが分かった。

(ゲド)はどう思うだろう。

エクトは居心地悪そうにもぞもぞと体をゆすった。

ゲドもそれは察してはいたが、目線でエクトの話を促した。

「ハルモニアはすぐに道を閉ざしました。ハルモニア兵の話し振りからすると、隣国への関も閉じてしまって、エゥナーナ・イ・フォェルトは孤立してしまったようです」

「まだ、夏の終わりだったな、その頃は」

ゲドが言ったのはそれだけだった。

口数の少ない戦士を前に、残る二人はゲドの思考を測りかねていた。

「以来、情報と言っても、たいしたことはベセルでは分からないのです。何せ、エゥナーナ・イ・フォェルトはここから歩いて何日も掛かるでしょう。たまに交代なのか、ハルモニア兵が向こうからやってくることもありますが、そう頻繁ではありません。だから、このあたりのハルモニア兵でさえ状況は分からないのじゃないでしょうか」

「俺、奴らのいるところに酒を売りに行くけど、特に何も聞けなかった。ともかく、囲んで、たまに突撃して、退却して、そんなことを繰り返してるだけだって」

ゲドは二人の言葉に(うなず)くと、そのまま何も言わずに考え込んだ。

エクトは静かに待った。ビシは膝の上にひじを乗せ、そのひじの上の両手でつまらなそうな表情を浮かべた頭を支えた。

時は刻まれる。

長引く沈黙に痺れを切らして、とうとうビシが口を開いた。

「ゲドさん、質問していいかい?」

ゲドが視線を向けると、

「北で攻め手が何かやったのかい?」

「なぜ、そう思う」

「だって、分からないじゃないか。なんでハルモニアが〈戦場(いくさば)の鷲〉を攻めるんだ?」

「だからセグノ様の隊が何かやらかしたと言いたいのか?それはないよ、ビシ。どう考えてもハルモニアの動きは計画的だ。先に攻め手を引き離しておいて時を稼ぎ、その間に大部隊に難所を渡らせてるんだから」

「ええ、その通りです、エクト殿」

「じゃあ、なんだって」

ゲドはまぶたを閉じて、ためらいながら言葉を紡ぎだした。

「妬みのようなものだ、と思う」

「妬み?」

「クリスタルバレーに行ったことは?」

「ないよ。当然だろ」

「そうだったな」

「どんなところなのですか?」

「綺麗なところです。静かで、平和で――」

「いい所なんですね」

エクトの言葉にゲドはいわく言いがたい表情を浮かべた。そして小さく言った。

「綺麗過ぎるように私は思います」

曖昧な何かをどうにか言い表そうと、ゲドはゆっくり言葉を選んだ。

「クリスタルバレーは秩序正しくくっきりと社会が分かれています。ハルモニアという国はクリスタルバレーに住む貴族――〈統治者〉に位置する人々のためにすべてが動いているのです。彼らにとって、所詮、私たちは――〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉は――兵士でしかありません。我らの名誉、我らの名声は彼らにとって泥臭いものでしかないのです」

「でも、俺は鷲たちを尊敬してる。俺だけじゃない、この辺の村の人たちはたいていそうだ。だろ?」

ゲドは苦笑を浮かべたのみで何も言わなかった。

「それに、奴ら〈鷲〉を下に見てるってことだろ?なら、それがどうして『妬み』になるんだよ?」

「説明しにくい。ただ、俺の受けた印象だ。きっと、クリスタルバレーが静か過ぎるせいだと思う。そして、その平穏が不穏の上にかぶせたものだからだと思う」

「分からないよ」

「ああ、俺も分からない」

とうとう、説明を諦めたゲドにエクトが言った。

「しかしね、どうも分からない。ゲドさんのおっしゃる妬みのような物が根底にあるとして。だからと言って、なぜエゥナーナ・イ・フォェルトが襲撃されるのですか。そういった負の感情はたしかに(いさか)いの元です。ですが、宿屋をやってる私でも分かる。いや、商売人だからこそ思うのかもしれませんが、(いくさ)ってのは金のかかる代物です。〈鷲たち(エゥナーナ)〉が円の神殿に従っているのなら何も事を荒立てなくてもいいでしょう」

「……」

ゲドはついと目をそらした。思い当たることはあった。しかし、それは〈(エゥナーネン)〉でない者に明かせる話ではなかった。また、明かそうにもゲドたちですら正確なところは知らされていなかった。

つまり。

――姿を現さぬ守り手の長が鍵だ。

と、ゲドは睨んでいる。

「いずれにせよ、エゥナーナ・イ・フォェルトに行って、偵察する必要があります」

「待ってました!」

とたんに跳ね上がって歓声を上げたビシにゲドとエクトの視線が揃った。

「なあ、ゲドさん、俺も連れてってくれよ。役に立つって、絶対」

「ビシ、ゲドさんを困らせるな」

ゲドはビシを上から下まで二度も三度も見直した。

「頼むよ。何もしないでいるなんてもう嫌だ。俺、〈鷲たち(エゥナーナ)〉の力になりたいんだ。セグノ様の役に立ちたいんだ」

「では訊こう」

「なんだい?」

「ここからエゥナーナ・イ・フォエルトまで道は閉ざされているのか?」

質問を試験だと受け止め、ビシは慎重に答えた。

「いや。エゥナーナ・イ・フォエルトの手前にハルモニアの陣があって、そこの近くまでは行けるんだ。陣の中には入れないけど、市場みたいな場所が作られてて、そこで物を売っていいことになってる」

俺もちょっと売りに行った、とビシはバツが悪そうに付け加えた。

しょうがないことだった。相手を選べるほど暮らしは楽でない。ことに〈戦場(いくさば)の鷲〉が客から外れてしまっている今は。

ビシは期待を込めてゲドの返事を待っている。ゲドはビシの話を静かに咀嚼した。

「俺の指示に必ず従うか?」

「従います!」

勢い込んだ台詞はほとんど滑稽だったが、ビシ自身はこれ以上ないくらいに真剣だった。

慌てたのはエクトだ。

「ゲドさん!」

「黙ってくれよ。ゲドさん、いいって言ってるじゃないか」

「でもな、ビシ――」

エクトを無視してゲドは口を開いた。

「ビシ」

「なんだい、ゲドさん」

「この村にある兵舎に近づけるんだな?」

「ああ。兵舎って言っても、空き家に勝手に奴らがもぐりこんだだけなんだ」

「ハルモニア兵の制服を手に入れてくれ」

「合点承知」

喜び勇んで出入りの蓋を開け、下へ飛び降りたビシにゲドが声を投げた。

「明日でいい。いつも通り酒を売りに行った時で」

「ええ?!だって、急ぐんじゃないのかい?」

「俺に従うといったな?」

「……分かったよ」

エクトは目を白黒させながらやりとりを聞いていたのだが、やっと気を取り直して、ビシに言った。

「ビシ、愛想振りまくんじゃないぞ」

「なんだよそれ」

「無愛想なお前が愛想なんぞ振りまいたら怪しまれる」

膨れっ面をしたビシにエクトが

「そうそう、その顔だよ」

ビシはエクトに向かって脅すような仕草をしてみせてから言った。

「そろそろ帰るよ、俺。親父に怪しまれるしな」

「ああ」

ビシが視界から消えてしまうと、エクトは蓋を下ろして静かにゲドを振り返った。

「ゲドさん」

エクトは居住まいを正した。

「ビシに危険なことはさせないでください」

「私を匿っていることが既に危険です。エクト殿、あなたも」

「そりゃあそうなんだが」

目をそらし、続ける。

「あの子はたった一人の跡取りなんですよ。本当はもう一人いるはずだったんですが、生まれてすぐに死んでしまって。それからは母親も父親もあいつを大事にしすぎるぐらい大事にしてて。もしビシに何かあったら――だから、ね」

ゲドは重々しく頷いた。

「無論、ハルモニア兵に相対するようなことをさせません。それに――」

「それに?」

「深入りさせた素人の失策を繕えるほどの余裕が私にはありません」

ゲドの口調は落ち着いていたが、エクトははっとなって黙り込んだ。

自分たちは所詮、勝手に首を突っ込んだ第三者だ。勝手に手を出しておいて配慮してくれと頼める義理はなかったのだ。

ビシを止めるとしたらそれはエクトの役割であってゲドの役割ではない。

こんなふうに、自分たちは今のいままで〈戦場(いくさば)の鷲(エゥナーナ・イ・フォエルト)〉に甘えてきたのではないだろうか?

エクトは考え込んでしまった。そして、なんとしても現状を打破してほしいと切に願った。

〈攻め手〉が戻ってくれば。セグノ様が戻ってくれば、あるいは。

あるいは――

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