怒りの日(三) - 変

気まぐれに晴れ上がった天は高く。

高い秋空に響き渡る鳥の声は物悲しく。

物悲しい鳥の声は風に舞う。

天籟(てんらい)は雲を引きちぎって吹き、落葉(らくよう)は乾いた音を立てて転がる。

今、この時に秋の物悲しさを覚えるのは、不安からだろうか。

同じ情景の中にあってビシはむしろ朗らかだ。上機嫌に古歌を唸りながらピシピシと鞭でロバを操っている。

ゲドはその後ろをついていく。

今は戦士の出立(いで)ちではない。土地の者の簡素な服装で、風除けの笠を目深にかぶり、腰には護身や野営に使う短刀だけを下げている。

ベセルの酒がたっぷり入った皮袋が二袋、ロバの左右にぶらさがっている。袋はロバの胴巻きに直接縫い付けられている。この辺りで液体を運ぶときにはよく使う物だった。背の部分には通常、野営に必要な毛布,火打石・食料等を積む。

気にくわなげにロバが時々鼻を鳴らした。

実は、側面、胴巻きの下になってゲドの愛刀が隠されている。柄の部分だけが外に出ているのだが、目立たぬ色の布が巻かれて、あたかも馬具の一部であるかのようにしてあった。

さぞ、歩きにくいことだろう、とゲドはロバに同情した。

他にも、ハルモニア兵からくすねた憲兵の制服や〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉の長套(マント)、偵察用の遠眼鏡など、見られるとまずいものが隠し積まれている。

小気味よく鞭を鳴らしてからビシが口を開いた。

「な、セグノ様はいつ着くかな」

「もうしばらくかかるだろう」

「あんたは速く着いたじゃないか」

「俺は辿り着くことだけを考えて早馬を乗り継ぎ乗り捨ててきたのだ。戦いに出る兵を動かすにはもっと時間が掛かる」

「でもさ、(エゥナーナ)の行軍の速さはすごい物だって、俺、聞いたぜ」

「今回はハルモニアから隠れての移動だ。〈攻め手〉の数だけの馬も用意できぬ。いくつもの小隊に分けて別々の道を来ねばなるまい。集まるには時間が掛かる」

「けど――」

言いさしてビシは言葉を止めた。そのまましばらくは黙っていたが、気を取り直して再び古歌を歌いだした。

ゲドにはそれがありがたかった。

攻め手が戻りさえすればなんとかなると純粋に信じているビシの希望を削り取っていくのが心苦しかったからだ。かと言って、安い希望で飾り付けた嘘をつけるゲドではなかった。

そういうところをセグノやレーフは不器用だと言う。

いつの間にか、意識が想念に落ち込んでいたのだろう。ビシが不意に声を掛けたとき、ゲドは一瞬身を震わせた。

「ほら、あれ。うまそうだな」

ビシが鞭で指す方を見上げると、深葡萄(こきえび)色の実が木立のそこここに彩を添え、風に揺れている。

「……ノゥトか」

ゲドは歩みを止め、揺れる木の実を見上げた。

稜線の向こうではあるが、エゥナーナ・イ・フォェルトの標高はだいたいこの辺りと同じぐらいだ。きっとゲドの家の庭でもノゥトが揺れている。

我が子を抱き、ノゥトを不安げに見上げるエムシントの姿が目に浮かんで、ゲドはつ、と道に目を落とした。

「採ろうか」

ゲドは何も言わなかった。

返事を待っていたビシはあきらめたようにため息をつき、ロバを止めると、黙って木に上りだした。

ポトリポトリと小さな木の実が降ってくるのを、ゲドは見つめ続けた。

エゥナーナ・イ・フォェルトは遠い。

そして、一歩ずつしか近づかない。

次の日も晴れていた。しかし、風は冷たい。

戦士と酒売りの間に会話はほとんど無かった。

もっとも、そろそろ道もつらい辺りに差しかかっている。急な上りというわけではない。標高ゆえの空気の薄さが身体に影響を及ぼしてくるのだ。

山育ちのゲドとビシはまだましなほうなのだろう。だが、山育ちだからこそ、行程を急ぐ愚は犯さない。学のあるなしでなく、ここで生きていく者なら誰もが知っている常識だ。水の中で息ができないように、気力でどうにかできるような現象ではないのだ。

道の傍の木々の種類も低いものに変わってきている。

植生の違いに考えが行ったとき、ゲドはオスカのことを想った。

戦士を望まぬ息子も周りの大人たちの張り詰めた雰囲気を感じているだろう。

いざ、というとき、彼も剣を取るだろう。

いや、もう、取っているかもしれない……

ゲドは一人、首を振った。

連れの後ろを歩いていてよかったと思った。

やがて、道はぐっと折れ、景色が開けた。はるか下方に川が流れ、向かいの山肌に三本の滝が見えた。ビシが当然のように昼食の準備を始めた。

ゲドはわずかに笑みを浮かべた。(エゥナーナ)が故郷に帰るときもここは格好の休息地だった。美しい景色はささやかな贅沢を提供してくれる。

干し肉をかじりながらビシが久しぶりに口を開いた。

「雪はまだだね」

「……」

稜線はまだ白くない。

雪もまた吉兆ではなかった。

雪は野営に向かない。向かないどころか、この辺りでの雪は命取りだ。したがって、ハルモニアが勝負を仕掛けるとしたら雪が降る前だ。

そして、今現在、周囲から孤立してしまったエゥナーナ・イ・フォェルトにとっても雪は味方ではない。

雪の季節まで耐えたからといって、ろくな冬支度もできていない村は苦境に立たされるだろう。

――まさに白魔、か。

訪れる前から雪は魔物であった。

ベセルから数日、尾根越えのころになると、木々は木と言うには躊躇(ためら)われる高さになる。

晴天は崩れ、薄鼠の雲が空を覆っている。振り返ると、くすんだ色の紅葉の森が広がっていた。

灰味がかったその景色が目に映ったとき、卒然、心萎えるのを感じた。

――嗚呼。

ゲドは訳もなく()いた胸のうちを露ほども漏らさなかった。

黙々と二人は歩いている。

池が見えてきた。

鷲たち(エゥナーナ)の水場である。

池は急斜面の底にあり、常人には辿りつけぬ。鷲たち(エゥナーナ)しか使わない訳がそこにある。

「ここで待っていろ」

ゲドはビシを呼び止め、水袋を背負って斜面を滑り降りた。

湖面が灰色の空を映していた。

ゲドが水を汲んでいると、上のほうから声が降ってきた。

「こんにちは、兵隊さん。ベセルに行くんですか?」

ビシの声だ。

妙に明るく声を張り上げているのは、間違いなく自分に報せるためだ。

ゲドは、地を這って枝を張り出している木の陰に寝そべった。

人がしゃべっているのは分かるが、内容までは聞こえない。

自分の愛刀がビシのロバに積んでいるのを思い出した。

気づかれたら。

――ハルモニア兵に相対するようなことをさせません。

そう言ったのはどこの誰だった。

ただただ、何もできずに地に伏せ、己の脈動を耳の後ろに感じていた。

やがて、人の声がしなくなった。

それでも、ゲドは地に伏せていた。

冷たい地面で身体が冷え切った頃、上から声がした。

「大丈夫だよ、見えなくなった」

胸の奥から息を吐き出した。

崖を上りきると、ビシは言った。

「ハルモニア兵だったけど、大丈夫だよ。酒を売りに行く途中でちょっと休んでるんだって言ったら行っちまった。――笑って、手を振って」

少しビシは言葉を切った。

「俺――」

しかし、言葉はそこで止まり、ビシは口をつぐんだ。

「すまなかった」

「え?」

唐突なゲドの謝罪がビシには心底分からないようだった。

「すまなかった」

再びゲドは言った。今度は呟きだった。

尾根を越え、湿地を抜けると、ボツボツと木々が再び木らしくなってきて、エゥナーナ・イ・フォェルトの二本柱が見え始める。いつもなら、帰還の歌を誰かが歌い、応歌が聞こえてくるのがこの辺りだ。

今、聞こえてきたのは市場の(とよ)みだった。

二本柱は見えず、ハルモニア兵の陣を示す布囲とその前に設けられた仮設の市場で人々が動いていた。

ゲドは、注意深く風除け笠をかぶって、ビシの後ろから付いて市場へと入って行った。

もちろん、市と言っても、大きなものではない。近隣の、それこそエゥナーナ・イ・フォェルトに物を売りに来ていた人々が代わりにハルモニアに品物を売りつけているのだ。

今は、戦闘が行われていない。待機の兵たちが品物を物色している。窺うとハルモニア兵の顔には笑みすら見える。よほどに心の利いた将に率いられているのだろう。

笑みは糧食の余裕も示している。

「いつものように酒を売ってくれ」

「分かった」

「いつもはどこで?」

「あそこ。その(すみ)

指差したビシに頷いて、

「俺は陣の近くに寄ってみる。しばらくしたら戻る」

「了解」

これならば、とわずかに期待を抱きながら、ぶらぶらとそれとなくゲドは歩き出した。

ほどなくして、ゲドが戻ってくると、待ちきれなかったのだろう、すぐにビシが訊いてきた。

「どうだった?」

ゲドは首を振った。

市と陣との行き来は厳重で、一人一人顔を(あらた)められていた。

入り込めそうなら手に入れた軍服に着替えて入ってやろうと思っていたが。

――無理だ、これは。

「どうするんだい?」

ビシが小さく問いかけた。

「あの斜面に」

「森が三角に張り出してる所?」

「そうだ。あそこに居る。標を付けておく。酒を売り終わったら来い」

「了解」

「もし、ハルモニア兵に見られているようだったらそのまま帰れ」

「なんだよ、それ。それじゃここまで来た意味が――」

「俺の命令に――」

「……分かったよ」

ゲドはロバの背に積んだ荷袋から遠眼鏡だけを取り出した。

勝手知ったる道なき道を早足で駆け上がると、どうにか陣布の内が見えた。

立ち(のぼ)る煙は食事の準備であろう。幾筋にも立ち上る煙はゲドにとっては喜ばしい物ではなかった。

ゲドは、地面に簡単に見取り図を書いていった。各部隊を示す軍旗を一つ一つ確かめ、遠眼鏡で見える限りのおおよその兵の数を地面に記した。ひどく不完全なものだが、無いよりはましだ。

ゲドが淡々と作業を進めていると、ガサガサと茂みが揺れる音が近づいてきた。ゲドは腰の短刀に手を掛けた。

「何やってるんだい?」

ビシだった。

「ロバはどうした?」

「森に入る前に繋いできた。ゲドさんの残した印、道についてないもんだから」

「そうか」

「布陣?」

ビシはゲドの描いていた物を指差した。

「そうだ。覚えてくれ」

「うへぇ」

「無理か」

ビシはむっとした表情をするなり、黙って図と陣とを何度も見比べた。

そして。

「ゲドさん、なあ、あの旗」

「ああ」

一言(ひとこと)かえしたゲドは腕を組んで木に寄りかかり、彫像のように姿勢を崩さず、ややうつむき加減のまま視線だけをじっとその軍旗に注いでいた。

その軍旗(スタンダール)は、精鋭の印。

沈思する戦士を見ているうちにビシはだんだんゲドがこわくなってきた。それは、恐れではなく畏れである。

――この人はやっぱり〈戦場(いくさば)の鷲〉なんだ。

いっぱしの戦士になったつもりでついてきたビシは、口をつぐんでゲドが何か行動を起こすのをひたすら待った。

ゲドはやおら身を起こし、道になっていない茂みを来たとおりに戻った。ビシも何も言わずについていった。

ロバの居るところまで来ると、ゲドは己の剣を取り長套(マント)を着けた。

「ビシ、お前は急ぎクセスに行ってくれ。鷲たち(エゥナーナ)がベセルの憲兵に出くわす前になんとしてもセグノ様に会うんだ」

「会えったって、どうやって」

見つけておいた石を取り出し、ゲドは短刀を抜いた。右上から降りる線を一本刻み、その線が中心になるように鋸の刃のような印を刻む。

「クセスの東地区に〈最後の蛇〉という安宿がある。その主人にこれを見せて、セグノ様に会いたいと言え。あとは、その男の言うとおりにするんだ。セグノ様にこの有様を伝えてくれ」

「分かった」

おとなしくうなずいたビシはふと尋ねた。

「ゲドさんは?」

「俺はエゥナーナ・イ・フォェルトに入る」

それは、決して、有能な戦士としての判断ではなかった。

しかし、ビシは気づかない。

気づかないから止めもしない。

ゲドには都合が良かった。

セグノは簡素なテーブルの前に座り、沈思している。

それを見ながらレーフは部屋の入り口の傍に陣取り、背中を壁に預け、腕組みをした格好のまま黙って待っている。

いまのところ、クセスまで辿り着いたと判明した鷲は半数だ。皆が皆、自分がこれと定めた宿に身を隠している。

レーフは五人を引き連れ、セグノより先にこの宿に着いた。自分が誰よりも早くクセスに辿り着いたようだと知ると、すぐに部下四人を隣国との国境へ遣った。関を開けぬものか探ってくるよう命じたのだ。

囲まれてしまった街というものは、敵を殲滅できるか援軍が来るという望みが無い限り未来が無い。ことに、敵でないはずの自国の強大な中央軍に囲まれてしまった場合は、何をか謂わん、である。エゥナーナ・イ・フォェルトの身の振りようは、敵の数と、本気の度合い、周りの村々の動向など、様々な要素に左右される。

今は何よりも情報が欲しかった。

クセスの街の人々は、ほぼ何も知らないようだった。身分の低い者は不安を口にしていた。身分の高い者はそもそもエゥナーナ・イ・フォェルトことなど眼中に無い。

くそいまいましい。

無意識に口元を歪めたレーフは、扉をノックする音で我に返った。

細く扉を開け外の者と言葉を交わすと、レーフはセグノのほうを振り向いた。

「何だ」

「セグノ様に会いたいという者がいるそうです」

「誰だ」

「ビシ、と名乗っているそうです。たしか、ベセルの――」

「ビシか。ここで聞くとは妙な名だな」

(エゥナーネン)の略紋と思われる文様の刻まれた石を持っているそうです」

「略紋。誰かな」

「いかがいたしますか。私が会いましょうか」

「いや、私が行こう」

「でも、おやっさん――」

ニヤリ、とセグノは口髭を持ち上げて笑ってみせた。

「本当にビシなら私でなくては口を利くまい。あんなに強情な奴も珍しい」

レーフは首を振った。

「まったくね。そう言うんじゃないかと思ってましたよ」

「そう言うな」

「分かりました。部屋を用意しましょう。ナシェレを連れて行ってください。護衛には適任でしょう。俺も上で話を聞きます」

心配性だな、と笑ってみせたセグノが真剣な表情になった。

「私に万が一のことがあったら、お前に指揮を任せる。本来ならトアの役目だが、連絡を取れそうに無いからな」

通常、攻め手の長と二の長は〈(しょう)〉と〈(ろう)〉に分かれ、同時には出撃しない。

(ろう)〉は一応、守り手を助ける守護部隊ということになっているが、事実上、非番のことだった。(こと)(ここ)に至っては、非番などとは言っていられまい。今頃、エゥナーナ・イ・フォェルに閉じ込められた二の長も、休む間もなく動いていることだろう。

当然、二の長のトアにセグノの代理は務まらない。

レーフが肩をすくめて同意を示して見せると、セグノはその肩をポンポンと叩き、軽く手を振って出て行った。

陽の光が頬に当たる感触でゲドは目覚めた。声も無く伸びをすると、冷たい外気が胸の中に入ってくる。

ゆっくり立ち上がり、寒さにこわばった身体を両手でこする。地面からの冷気を防ぐために敷いていた長套(マント)は、じっとりと湿り気を帯びていた。

ビシと別れたときには多少の無理をしてもエゥナーナ・イ・フォェルトに入ってしまうつもりだった。しかし、あてにしていた間道にさほど時間が経っていない足跡を見つけ、計画を変えざるを得なかった。

足跡は二種類。ひとつはエゥナーナ・イ・フォェルトからのもので、いまひとつはゲドの来た方からだった。二つの足跡はある一点で溜まり、何度も入り混じっている。

ここで何者かが落ち合っている。それが誰であれ、今この時期にこのような間道で合うからにはいずれ此度(こたび)の戦に関わる者であろう。

ゲドは間道の脇の茂みに身を隠し、待った。

待つことが正しい選択かは分からなかったが、糧食の続く限り待つつもりだった。もっとも、ビシが置いていった食料はそもそもが多いものでなく、既に残り少ない。

――今日辺りが限度か。

ゲドは高くなった太陽に目を眇め、声に出さずに独りごちた。

その目をはたと間道の方に向ける。

気のせいではない、足音がする。が、それが止まった。

ゲドは眉を寄せた。少し考え、風の具合をみた。それから、音もなくそろそろと場所を変え、再び待った。

待つことしばし、思ったとおり、逆の方向から足音がやってきた。

「抜け出せたか」

「ぬかりはない。それに、いまや〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉に旅商人を見張る余裕もない」

双方ともに(ただ)しくハルモニアの言葉だった。

ゲドは身じろぎもせず風が乗せて来る声を聞いた。

「中はどんな様子だ」

「疲労激しく、食料は乏しく。満身創痍とはこういうことを言うのだろうな」

奇妙だ、とゲドは思った。将と間者、上司と部下という関係のしゃべり方ではない。また、僚友という感じでもない。

「まだ見つからぬのか?」

「場所は分かっている。しかし、入り込む手段が無い」

「入り込む手段?」

「標的が潜む石室の入り口は〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉でなければ開けられぬ。符呪で閉ざされていてな」

「これは異なことを。その類はお手の物だろうに」

「何とでも言え。血脈のみを鍵とする符呪は原始的なだけに使い勝手が悪いが一番強固なのだ」

会話が少し途切れた。

「もう、待てぬ。そろそろ雪になる。いかに〈鷲〉が衰えていようとも、取り巻いたままの我が軍では雪を越せぬ」

「どうする気だ?」

「全軍動かす。そうすれば出てこざるを得まい」

「だろうな」

「そのときこそ失敗は許さん」

「ふふ、信用などしておらぬくせに、軍を丸ごと囮にするか。大した将だ」

(いら)えはなかった。

これ見よがしのため息を残して足音がひとつ遠ざかっていった。

「……貴様らの無能のせいだろう。誰が好きで子飼いの兵を囮にしたいものか!」

吐き捨てる声がして、またひとつ人の気配が遠のいて行った。

ゲドは、茂みに身を隠したまま将らしき男の言葉を反芻した。

「もう、待てぬ、か」

俺も待てぬ、とゲドは思った。

この宿はなんだって〈最後の蛇〉なんて名前なんだろう。

ビシはそんなことを考えている。

宿の主人は引っ込んだきりなかなか出てこない。

ビシはイライラと握り締めていた小石をいじくりまわしていた。貸せと言われたのを突っぱねたのだ。

セグノに会うまで絶対に放してなるものか。

宿の主人が消えたアルコーブのカーテンがめくりあがった。ビシはすぐにそっちを見た。

「お会いになるそうだ」

言いながら、男が手招きをした。

ビシは男の背中をにらみながらついていった。廊下はなかなか終わらない。小石を握る手に力が入る。

男が立ち止まった。

長い、と思った廊下が果たして本当に長かったのかどうかビシには分からなくなっていた。

こっちだ、と指し示された扉の前に立つ。開けるにはどうしても男に背を向けることになる。

「開けてくれよ」

ビシが言うと、思いがけなく男に笑みが浮かんだ。測りかねて、ビシはさっと顔を紅潮させた。

ビシの父親ぐらいの年の男が、恭しくと言える丁寧さでビシのために扉を開けた。扉の開き具合が大きくなるにつれ、息苦しくなるのを感じた。

開ききった先、真正面の席についている、(エゥナーネン)

「セグノ様!」

突然、ビシは自分が不安だったことに気づいた。疑いを抱いていたことに気づいた。そして、恥じた。

こうやってセグノに会って話を聞いてもらえるまで、ずっと張り詰めていた。

ゲドが自分を騙したのじゃないかとか、宿の主人が自分を騙すつもりなんじゃないかとか、セグノが誰も彼も騙してもうとっくの昔にエゥナーナ・イ・フォェルトに帰っているんじゃないかとか、ともかく何もかもが心もとなく思われたのだ。

なのに、蒼い顔をして一心にクセスまで踏破したのは、ひとえに自分に謝ったゲドの声が頭の中をぐるぐる回っていたからだ。

奇妙なことに、ビシの頭に残っていたのは、分かれるときに頼むと言ったゲドの言葉ではなく、その少し前、山道でハルモニア兵と出くわした後でなぜか謝ったゲドの姿だった。

あんな表情ですまないと謝るあの(エゥナーネン)が自分を騙しているとは思えなかった。

理屈でなく、本能のようなものでビシは信じたのだった。

「驚いたぞ、ビシ。どうやってここを知った。いや、まずは略紋の入った小石とやらを見せてくれ」

〈略紋〉の意味するところは分からなかったが、ビシは握っていた手を開いた。ずっと握っていたせいでほんのり温かみを帯びているのがひどく恥ずかしかったが、ビシは差し出されたセグノの手のひらに小石を載せた。

セグノは、それをじっくりと眺めると、横にいた人物に示して見せた。

そのしぐさでようやくビシはもう一人の人物に気づいた。

返し刃の(アシェ)ナシェレだ。

ビシはブルッと身震いをした。

言葉を交わしたことはなかったが、返し刃の(アシェ)双名(ふたつな)されたその(エゥナーネン)のことはビシも知っていた。「その剣、苛烈にして怜悧」と称された攻め手一の剣士だ。

「ビシ、これを誰にもらった?」

セグノに訊かれてビシははたと我に返った。

「ゲドさんです」

とたんに、セグノは背もたれにゆったりと背を預け、満足そうに頷いた。確認するようにセグノの視線が横の(エゥナーネン)に移動するのに合わせて、ビシもナシェレを見上げてみると、戦士がしっかり頷くところだった。

ほう、と息をついてから、突然、ビシはしゃべりだした。言葉がせきを切ったようにあふれ出てきて止まらない。

「ハルモニアがエゥナーナ・イ・フォェルトを囲んでるんだ、ベセルにも他の村にも来てる。ちょっと前にゲドさんがベセルに辿り着いて、ゲドさん、ハルモニアに追いかけられたって言ってた、ここから、クセスからベセルまで、馬が殺されてしまったって。それから一緒にエゥナーナ・イ・フォェルトに行くことになって、ヤツらの作った市まで一緒に行って、ゲドさんはハルモニアの軍隊を見張ってて、俺、覚えろって言われたから布陣を覚えて、書くなって言われたから書いてないけど、なんか書くもの無いですか?」

ふと気づいて言葉を切ると、セグノが笑みを浮かべていた。横に立っている(エゥナーネン)も小さく笑みを浮かべていた。

「ナシェレ、何か書くものを持ってくるよう頼んでくれ。さて、ビシ、落ち着いて最初から話してくれ。今度は私が質問を挟めるようにゆっくりな」

足元には男が倒れている。

ゲドは血に濡れた愛刀を倒れている男の服でぬぐった。それから、男の首に突き刺した短刀を引き抜くと、それも奇麗にぬぐい、腰帯に挿した。

男は旅商人の姿をしていたが、あんなところであんな会話をするからにはただの商人ではない。

黙ったまま、男の懐や持ち物を丁寧に調べていたゲドの目が、最後に、男が握っている奇妙なものの上で止まった。

抜刀して肉薄したゲドの気配に気づくなり、男が手に取ったのがそれだった。

定かには分からなかったが、武器だと察したゲドは引っさげた剣はそのままに、腰の短刀を左手で投げつけた。牽制に投げた短剣を咄嗟に手で防いだ男の、その手もろとも真正面から斬った。刺さっている短刀を引き抜き、さらに首筋に留めの一撃を加えても、男は手に持ったその物体を力の抜けていく手で持ち上げようとしていた。

ゲドは、注意深く、それを手にとってみた。

握りの付いた鉄の筒、にしか見えなかった。さほど大きなものではない。鉄の筒は細長く、長さはゲドの短刀ぐらいだった。

しばらく、筒を覗き込んだり、動く部分を小さく動かしたりしていたが、とうとう、ゲドはそれがなんだか解明するのをあきらめて、とりあえず、短刀の横に挿して立ち上がった。

木々に覆われがちで歩きにくい間道をゲドは急いだ。

もう故郷までの道を遮るものはなかった。

村にたどりつき、茂みから様子を窺って、人がいないのを確かめる。それから、小高くなっている間道の茂みから村の外周にあたる道に、手足を使っておりていく。

手掛かり足掛かりにした低木はゲドの体重でたわんでは揺れた。

「ゲド……!」

横手から声がかかり、ゲドははっとなった。

姿を現していたのは、帯刀した村人だ。

「誰か!ゲドが来た!」

叫びに呼応して足音がバラバラとやってくる。

ゲドは覚悟を決めて残りの高さを飛び降り、人々が自分の元に集まってくるのを静かに待った。

囁きが集まりつつある者たちに伝播する。

攻め手が、来る、と。

セグノは部屋に戻ると、開口一番、

「聞いていたな?」

「ええ。ゲドの奴、無事だったんですね」

セグノが命じゲドが(うべな)ったその瞬間から、レーフは心のどこかで諦めていたのだ。

俺らしくも無い。あいつはあれで叩いても伸ばしても死ぬような奴じゃない。

「馬鹿な話だって言わないでくださいよ、おやっさん。でも、ゲドが無事だと知った瞬間、俺は女房と娘も無事だと信じる気になった」

セグノはそれを聞いて目を細めた。

人はレーフを楽天家と言うだろう。しかし、この伸び上がるような思考の上昇は周りを感化し、高揚させる。レーフのそこをセグノは買っている。

「それはそれとして。事態は芳しくない」

セグノはビシに書かせた大まかな見取りを机の上に放り出した。しげしげと眺めてから、レーフが口を開く。

「大所帯だな。本気ですね、奴ら」

「そのようだ。残念だが取れる道は少ない」

キラリと目を光らせセグノは問うた。

「お前ならどうする」

「他の村を巻き込めそうにない今の情勢では、エゥナーナ・イ・フォェルトを放棄するしかありません」

その点、二人とも経験が長いだけに、現実的だった。

「……説得は難しいだろうな」

「エゥナーナ・イ・フォェルトに立てこもって徹底抗戦が一番〈戦場の鷲〉らしいんでしょうが、俺は生き残って生き残って生き残ってハルモニアにたてつく道を選びたい」

「今を戦うのも苦しいが、後まで戦い続けるのも苦しいぞ」

「他人に強いるつもりはあるませんよ。白状すれば、俺は家族と友人にまた会いたいだけですから」

レーフが静かに浮かべて見せた悪戯っぽい表情がわずかに空気を軽くした。

一方。

話が終わった後、ビシはすぐに〈最後の蛇〉を離れた。二度と近づかないよう言われている。

不満に思ったが、仕方がない。もう、ただの酒造り息子に出る幕はないのだと言いきかせてはみるものの、やはり寂しかった。

セグノのくれた硬貨を手に別な宿に行った。くたくただった。いつもなら雑魚寝の大部屋にするのだが、奮発して小部屋を取った。

靴を脱いで堅いベッドに仰向けになると、出すつもりなどなかったのに深い深いため息が出た。

ようやく、肩の荷が下りた、と思った。

後はセグノ様がなんとかする、と安心した。

安心のあまり、ビシは言わなかったことがあった。

否、言いにくかったのだ。

そして、セグノに会えたのだから、言わなくていいと自分に言い聞かせてしまった。

その点、ゲドはビシという青年の〈戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)〉への憧れの強さと、それに対して疑いを持ったことに対する恥の意識を見誤っていた。

ビシが言わなかったのは、ハルモニア軍が高らかに掲げていた精鋭の旗のことだ。

それは、まごうことなき鷲の軍旗(スタンダール)、もっと言えばセグノの隊だけが掲げる攻め手の旗隊の(しるべ)だったのだ。

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