支倉未起隆 VS 空条承太郎(4部)
ROUND 1『モスクワの赤い壁』
1998年5月初旬 ベルリン某所
日はとっぷり暮れて通りには人がほとんどいなかった。二人の男がバス停にいるのを除いて。
一人はバス停をあらわす看板あたりに座り込んでいた。ジーンズに薄手のジャンパーというラフな格好をしている。もう一人はその横に立っていて、かっちりしたスーツを着込んでいる。終バスを待っている風にも見える。
「お前たちが欲しがっているもの、あれを持ち出すのは無理だ」
通りを眺めたままスーツ姿の男が誰に言うとも無しに言う。座り込んでいる男も顔を合わせずに答える。
「無理? それは困るな。どうにかして――」
「まぁ、聞け。あれは六月にベルリンを離れるんだ」
「ほぅ? ベルリンからどこへ?」
「モスクワを経由してサンクトペテルブルグへ」
「モスクワ、ねぇ。それは好都合だ。モスクワで奪うとしよう――いつモスクワに着くんです?」
「十五日」
「誰が持っていくんです?」
「ホイス。ドクトル・ホイス」
「なるほど、なるほど」
座っている男はそこで言葉を切ってちょっと考えてから思いついたかのように付け足した。
「ドクトル、あなたが同行してモスクワで奪って俺たちの組織に渡すってのはどうです?」
立っている男が即座に言った。
「冗談はやめてくれ。危ない橋は渡りたくない」
「……心配することはありませんよ。ちょっと言ってみただけですから」
スーツ姿のインテリ的風貌の男がそれを聞いて、ふぅ、と息をついた。
バスが近づいてきた。街灯に照らされて長い影がこちらに伸びている。二人の男は顔を合わせないままの奇妙な会話を続ける。
「あれがいったいお前たちにとって何の役に立つんだ?」
「人間に人間を超えた能力を付加することができる、ってとこかな」
「人間を超えた能力?」
「それ以上は訊かないほうがいいんじゃありませんか、ドクトル。危ない橋を渡りたくないってんなら」
「それもそうか」
「じゃあ、金は口座に振りこんでおきますから」
「そうしてくれ」
バスが止まる。
「Auf wiedersehen, Doktor」
ドクトルと呼ばれたほうのスーツ姿の男はそれに対して返事することもなくバスに乗り込んだ。バスの運転手はもう一人の座り込んでいる男が乗る気がないのを察して扉を閉じ、バスを発車させた。
座ったままの男はククッと忍び笑いを漏らした。
「しっかり危ない橋を渡っていらっしゃるのに気づいてないとみえる、あのドクトル」
それからすっくと立ちあがるとコキコキと首筋を回してひとりごちる。
「さあて、モスクワか。サンクトペテルブルグに持っていかれる前に奪わなくちゃな。なんせ、ヴォルゴグラードとはまったく逆方向だ」
1998年5月15日 日本 支倉家食卓
未起隆の〈父〉は医者である。なかなか陽気なところのある彼が食事中に「支倉常長ツアー」を宣言したのはどうやら息子を驚かせるつもりだったらしい。〈母〉はもう知っていたようで、二人でワクワクと息子の反応を見守っている。
対して未起隆の応えは
「支倉常長? 有名なの?」
だった。
二人がとたんにガックリしたものだから、悪いことしたかな、と未起隆は思った。
「その歳になって支倉常長を知らないのか! 聞いたこともない?」
「習わなかったよ」
未起隆の母ははぁ、とため息をついた。
「支倉常長という人はね、戦国時代の終わりに伊達正宗の命で使節としてヨーロッパに行ったの」
「それにちなんでスペインとローマに行くの?」
「そう。苗字が同じ偉人の軌跡をたどってみるっての、いいじゃない? 知的遊戯ってところね」
「彼はメキシコ経由してますよ。メキシコは行かないんですか?」
「そこまで真似する気はないわよ――って、知ってるんじゃない!」
「うん。いま、宇宙船に通信を入れて調べてもらったから」
「また、そんな馬鹿なこと言い出す! 親までからかって……旅行中はやめてよね、そういうこと。ただでさえお前は騒ぎを起こしやすいんだから」
「いやぁ、そんなに褒められると……」
「これのどこが褒めてるのよ!! ま、いいわ。それでね、メキシコは行かないけど、ロシアに行くわ」
「ロシア?」
「そう。お前の叔父さんが呼んでくれたんだ。ロシアに住んでる父さんの弟だ」
「そうだっけ」
「何いってんの、ロシア人の研究者と共同研究してるって前に言ったじゃない。今度、ヨーロッパに行くって言ったらちょっと足を伸ばして来てみないかって」
「モスクワに住んでるの?」
「違うわ、サンクト・ペテルブルグ」
「白夜の時期で、白夜祭っていうのがあるんだそうだぞ」
そこで未起隆の母親はうっとりと視線を遠くに向けた。
「綺麗なんでしょねぇ」
「白夜祭っていうのは6月下旬ですよね。学校は行かなくていいんですか?」
そこで父親はやれやれと首を振り、母親はきっと未起隆をにらみつけた。
「だいたい、あんたがここの生徒さんをからかって騒ぎを起こしたからこんな時期に転校する羽目になったんじゃない! だいたい、あんたはねぇ――」
くどくどと続けられる説教を聞きながら、どうやら学校には行かなくてもいいようだと未起隆は判断した。
そうだな、それなら〈叔父〉という人をいつどうやって洗脳するか考えておこう。
1998年6月13日 ベツリン発モスクワ行 車内
ガタン、と列車が停まるのを感じて目を覚ます。
朝……か。
ワルシャワ駅である。ベルリンを深夜に出発してもはや八時間あまりだ。
空条承太郎は起き上がり、洗面台へと向かう。冷たい水で顔を洗うといくぶんすっきりした。
自分の席に座ると、承太郎はベルリンでのスピードワゴン財団職員との会話を思い出した。
「整理させてくれ」
と承太郎は言った。
「ポルナレフは二方面について調べていた。ひとつはイタリア、ひとつはドイツ」
「ヘル・ポルナレフの調査はほとんどイタリアに偏っているようでしたが」
「でも、一人だけドイツ人と接触を持っている、それがドクトル・ホイス。そうだな?」
「ええ。といっても、もはや数年前のこと、ヘル・ポルナレフが接触を持った人物すべてが分かっているわけではありませんから、『一人だけ』とは言いきれませんが」
厳格なドイツ人らしく言葉に正確を期すように調査員は言う。
「それでそのホイスという医者を調べていたら、同僚に不審な動きをしている人物がいた、と」
「ええ。彼がとある不審人物と接触を持っていることが分かりました。さらに、彼らが定期的にバス停で人知れず会話を交わしていることも突き止めました。それでそこに隠しマイクをしこんだのです。そして、問題となるのがこの会話」
プレイヤーの再生ボタンを彼が押すと、ザーッという雑音と共に会話が流れ出す。会話の声は小さかったし、雑音も激しかったのでかなり聞き取りにくい。
承太郎は黙って耳を傾けた。調査員も息を潜めている。
「『人間に人間を超えた能力を付加することができる』、か……」
短い会話が終わり、調査員が停止ボタンを押すと、承太郎はひとこと呟いた。それを聞いて重々しく調査員が頷く。
「我々はこれがスタンドのことではないかと思っています。そして、運ばれるのが〈弓と矢〉ではないかと」
「分かった。そこからは俺がやろう」
その言葉を聞いて調査員は少し表情を曇らせた。
「十分お気を付けください。ヘル・ポルナレフはそう言って我々の前から姿を消したのですから」
自信過剰気味だがどことなく愛嬌のある友人を思い出して、承太郎の緑を帯びた瞳がほんの少し翳った。
「分かった、気をつけよう」
列車は動き出した。
承太郎は自分の荷物の中から論文だのノートだのを取り出した。
今回、ロシアに行くにあたってビザが必要になった。長期滞在しなければならないだろうと普通入出国ビザを入手しようとしたが、必要書類のうち、「ロシアの受け入れ機関が発行した招待状」というのを手に入れるあてがなかった。世界的組織SPW財団もロシアばかりは未踏の地だ。
そこで、承太郎は自分が教えを請うている教授を頼った。この教授が「やる気のある学生にはなるたけ便宜を図る」という主義の人物で、あっというまにPICES(北太平洋海洋科学機関)のつてで招待状を手に入れてくれた。教授には「ロシアで海洋生物を調べたい、できれば共同研究したい」と言ったのだ。
人のいい教授を騙したようで悪い。だから、できるだけのことはしようと思っている。
モスクワまでまだかなりある。
モスクワに着くまでに受入先の教授の最近の論文ぐらいは読みきれるだろう。
承太郎は手元の論文に没頭した。
1998年6月15日午前 モスクワ シェレメチェヴォII空港
支倉一家を空港で迎えたのは姿勢のいいやせぎすの人物だった。
「やぁ、兄さん、ひさしぶり。義姉さんもお変わりなく」
「久しぶりだなぁ。元気でやってたか?」
「いたって。あれ、君は――」
「ああ、未起隆だよ、大きくなっただろう」
〈叔父〉さんは訝しげに未起隆を見つめた。
「おはようございます、叔父さん」
未起隆が礼儀正しく挨拶すると、〈叔父〉さんはポンとひとつ手をうった。
「ああ、未起隆君か。僕とあったときはこんなに小さかったのに。月日が流れるのは早いなぁ」
「なに年寄りくさいこと言ってるんだ」
兄弟はそこで仲良く笑った。
「さ、こっちです」
叔父さんは未起隆の母が持っていた大きなバッグを変わりに持って支倉一家を先導し出した。
「長旅で退屈だったでしょう」
「ほんとに。ロシアって遠いわ」
「あ、その車だ。いまトランクを開けるよ」
「ずいぶんと車が多いですね」
と未起隆が言うと叔父さんがちょっと難しい顔をしてみせた。
「ありゃほとんど白タクなんだよ。変なのにつかまってトラブルになったら大変だ。僕が迎えにきたのもそれが心配だったからなんだけど」
「わざわざサンクトペテルブルグから出てきてもらって悪かったな」
「いいんだ。モスクワに用事もあったから。今日、ドイツからのお客さんに会うんだ。だからちょっと飛ばすよ。はい、乗った乗った」
車がすべりだす。
「やっぱりモスクワは寒いわ。風邪ひきそう」
「前の滞在地がローマだったからなぁ」
「義姉さんが風邪引いたら兄さん、ちゃんと見てあげなくちゃ」
「なぁに言ってる、お前だって医者じゃないか」
「妻をいたわるのは夫の役目だよ」
「あ、見てみて!!さすがロシアねぇ。六月なのに雪が積もってるわ!」
「雪?ああ、違うよ、義姉さん。あれは綿毛。街路樹の綿毛なんだ」
そんな会話を交わしながら一時間弱、モスクワ市内に入る。
「けっこういろんな人種が入り混じってるんだな。日本人そっくりなヤツもたくさんいる」
「ん?あ、そうだね。中央アジア系の人たちだろう。彼らから見たら兄さんのほうが自分たちに似てるって言うよ、きっと」
「違いない」
「あ、ほら、あれが予約してあるホテル。インツーリスト・ホテル」
「え? あの立派なのが?素敵ねぇ。由緒正しい感じもする」
未起隆の母が喜んでいると叔父がハハハと笑った。
「残念でした。そっちはナツィオナーリ・ホテル。インツーリストはその隣の背の高いビルのほうだよ」
「あら、そうなの……」
口には出さなかったが、かなりがっかりしたのは間違いない。
大人しく流れゆく景色を眺めていた未起隆が口を開いた。
「あの赤い壁はなんですか?」
「あれが有名なクレムリン。モスクワに来たんならあそこは絶対見てかなくちゃ駄目だよ」
「でも、今日はもうだめ。わたし、クタクタ。ホテルでぐったりしてたいわ」
「チェックインしたらぐっすり寝てるといいよ。夕方になったら食事に迎えにこようと思ってるんだけど?」
「まかせるよ。私も今日は疲れた」
ホテルに着くと、宣言した通り、両親は部屋で寝入ってしまった。さほど疲れていない未起隆はおごるよと言う叔父の言葉に甘えて二階のビュッフェで軽く食事を取ることにした。
〈父〉と良く似た〈叔父〉は人当たりの良い陽気な人で話題も豊富、この人はいいひとだな、と未起隆は思った。
「おっと、そろそろ時間だな。さっきも言った通り、客と会わなくちゃならないからそろそろ出よう」
「はい、おごっていただき、ありがとうございました」
会計を済ませて別れるときになって、未起隆は訊いてみた。
「ホテルは勝手に入っていいんですか? お隣のホテル、見てみたいんですが」
「ロビーぐらいはいいさ。なんせ僕もそこでお客さんと会うんだから。じゃ、一緒に行こうか」
「いいんですか?」
「会って話をしてる間、邪魔しないんなら」
「はい、邪魔しません」
二人は連れ立ってインツーリスト・ホテルを出た。
1998年6月15日昼過ぎ モスクワ ベラルーシ駅
駅に到着して一度ホームに下ろした荷物を改めて持ちなおし、改札に向かって歩き始めようとしたとき、向こうから来た人物と目が合った。
スラリとした容姿、薄い色の頭髪、澄んだ青い目。いわゆる白系露人というやつだ。年は承太郎よりも五、六歳下とみた。
彼は目が会うとそのまま近づいてきて承太郎に声をかけた。
「空条承太郎さんですか?」
強いロシアなまりのある英語だった。黙って承太郎は頷く。
「すぐに分かりましたよ。日本人離れした体格、白い帽子に白いコートってね。教授の言っていた通りだ。あ、僕はアンドレイ・ユリエフ。ラブレンチェフ教授に言われて迎えに来ました」
ラブレンチェフ教授。承太郎のために招待状を取ってくれた人物だ。専門は大型海洋生物――特にクジラだ。
わざわざ迎えまでよこしてくれたらしい。
「こちらです」
快活な青年についていく。
青年の操るロシアなまりの英語は聞き取りにくかったが、歓迎の雰囲気はよく伝わっていた。承太郎はそれを快く思った。
彼らからすれば日本人の英語もかなり聞き取りにくいに違いない。そもそも英語が通じにくいロシアで英語で意思疎通できるだけありがたいと思わなくてはなるまい。
「お聞きになっていると思いますが、宿舎が空いてなくて今日だけはどこかにホテルを取ってもらわなくちゃならないんですけど、もう予約しました?」
「ああ」
「どこです?」
「ナツィオナーリ」
それを聞いて青年はヒューと口笛を吹いた。
「
「そうなのか?」
「知らなかったんですか?自分で取ったんでしょう?」
確かに予約したのは自分だが、それは彼が追っているドクトル・ホイスの滞在場所だったからだ。承太郎自身はホテルの格など気にしていなかった。
「いいなぁ。あんなところに泊まれるなんて」
「一日だけだ――その分なら場所は分かるんだね?」
「
なら、任せておけば大丈夫だな。
1998年6月15日14時 ナツィオナーリ・ホテル ロビー
ナツィオナーリ・ホテルは外観に違わず中も重厚で素晴らしかった。
階段はアール・デコ調。踊場にはステンドグラス。
出入りする人もそれなりの服装をしている。
未起隆は一通りホテル内を見物すると、ロビーの叔父の隣に座って大人しくしていた。
がっちりとしたアジア系の青年が、欧米系の青年と共に入ってきた。着古した白いコートと白い帽子はあんまりこの重厚なホテルに似合っていない。
「おかしいなぁ」
受付に向かう二人の青年を見ながらとうとう叔父が言った。
「もう二時だ。約束は一時だったんだが」
「現れませんね、お客さん」
「参ったなぁ。まだ他にも行かなくちゃならないところがあるんだが。何かあったのかな…しょうがない、一応、伝言を残して他を先に回ってくるとするか」
そう言い置くと、叔父さんは未起隆を待たせて受付に行った。二言、三言会話を交わし、受付に伝言のメモを渡すと戻ってくる。
二人は来たときと同じように連れ立ってホテルを出た。ホテルからちょっと離れた駐車場まで歩いていく。
「それじゃ、夕方、迎えにくるから」
車に乗り込むと叔父さんはそう言った。
「はい」
未起隆は車が走り去るのを丁重に見送った。
そのときだ。
「まて、待ってくれ!おい!ハゼクラ!」
ずんぐりむっくりした中年の男が大声をあげながら走ってきて未起隆はびっくりした。しかし、ほんの一瞬遅く、車はスピードをあげて走り去ってしまった。
「まったく、ちくしょう!それもこれも空港のやつらの不手際のせいだ!いや、バスのせいだ!いや、地下鉄も悪い!まったくロシアって国は!なんてこった!」
目の前であらんかぎりの交通機関に文句をたれている人物を未起隆はしげしげと観察した。薄いものの大きくてかさばる黒いアタッシュケースをひっさげてここまで走ってきたらしい。ゼイゼイ息を切らしている。
「あのう……」
「そういえば、君は誰だ?いま走っていったハゼクラと知り合いのようだが」
「はい、私も支倉です」
「ドクトル・ハゼクラの親類?」
「私は彼の甥ということになっています」
「観光で来たのかい?」
「はい。失礼ですが、あなたはどなたですか?」
「おっと、悪かった。私はヘルベルト・ホイス」
「ああ、ドクトル・ホイスですか。叔父はずっと待っていたんですよ」
「だろうなぁ。もう……二時だもんなぁ。あちこちで足止め食らって、挙句の果てにこんなでかいもんもって走ったのに。なんてついてないんだ!……待てよ、二時ィ?!」
「どうかしたんですか?」
「この後、会合に出なくちゃならないんだが、それが二時半からなんだ。まったく、なんてこった!もうほとんど時間がないじゃないか!」
「はぁ……」
「ハゼクラはもう来ないのか?」
「夕方には来るはずです、隣に泊まってる私の〈家族〉を夕食に連れ出してくれると言っていました」
「夕方か……ふぅむ。君、悪いんだけど、これを預かってハゼクラに渡してくれないか?」
ドクトル・ホイスは持っていたアタッシュケースを眼の高さあたりまで持ち上げてみせた。アタッシュケースとホイスとを見比べながら未起隆は言った。
「いいですよ」
「いいかい、盗まれたりするとまずいから、肌身離さず持っていてくれよ。近頃のロシアは治安が悪いそうだから。下手なホテルだと部屋にまで泥棒が来るんだそうだ」
「はい」
「分かっちゃいると思うが、絶対に他の人に中身を見せるなよ……もっとも、鍵はハゼクラと私しか持っていないが」
「はい、分かりました」
「それから、伝言も頼む。内容を検討するのは二〇日にサンクトペテルブルグで会ったときにしよう、それまでによく調べて見解をまとめておいてくれ、と言ってくれ。……あ、いやいや、手紙に書いておくとしよう」
そう言うとドクトル・ホイスは上着の内ポケットから手帳を取り出し、さらさらと文字を書き付けるとビリッと盛大な音を立てて破り取り、それを未起隆に渡した。
「いいかい、くれぐれも頼んだよ!」
ドクトル・ホイスはまた慌しく走り去っていった。
「疾風のような人ですね」
渡された黒いアタッシュケースと手紙とを持って未起隆は独り言を言った。
この様子をつぶさに観察していた人物がいた。
あのアタッシュケース……もしかしたら……
手に持っている写真に目を落とす。写っているのは――ドクトル・ヘルベルト・ホイス。
1998年6月15日14時半 クレムリン
夕方まで時間がある。
何をしようか、と思った未起隆だったが、すぐに思いついた。
あの赤い壁に行ってみましょう。モスクワに来たなら絶対に行かなくちゃだめだと叔父さんも言ったことだし。
ホテルからクレムリンはすぐ近くだ。迷いようもない。
未起隆は望楼の中でもひときわ大きな塔を目指して歩いていった。入り口近くで親切そうな人がチケットみたいなものを売りに来た。けれど、ちょっと会話を交わして未起隆がお金を持っていそうにないことに気づくとどこかへ行ってしまった。
なんだったのかな、と思いながら歩いていく。入ろうとして未起隆はちょっと困った。
どうやら持ち物検査があるようなのだ。
でも、誰にも中を見せるなって言っていましたね、あの人。
それに鍵もないので見せることができないのも事実だ。
未起隆はちょっと考えたが、すぐに思いついてニッコリした。
肌身離すな、ってあの人も言ってたじゃありませんか。
「はい、次…手ぶらか」
「
ちょっと上着を取ってみせろと言われたぐらいでたいして注意を引くこともなく、未起隆は中に入ってしまった。
ただ。
もし、誰か――たとえば未起隆の『両親』が今の未起隆を見たら、きっと自分の息子とは気づかなかったろう。なぜなら未起隆はいま、太っているからだ。
くぐりぬけた赤い壁と右手に見える白い建物のすきまに何気なく入っていき、奥の行き止まりまで行ってから未起隆は変身を解いた。
体の中に物を取り込んでいるのも楽じゃないですね。
未起隆は元の姿に戻った。手にはアタッシュケースがあった。
さて、ゆっくり中を見物しましょう。
振りかえった未起隆は誰かが通路の入り口に立ってこちらを見ているのに気づいた。彼は未起隆をじっと見ている。ずいぶんと背が高く、背が低いわけではない未起隆を見下ろす視線になっている。
未起隆はノンビリそちらに近づいていった。
男は白い帽子に白いコートを着ている。
どこかで見たような気がするな……とりあえず、挨拶しなくてはいけないな。「こんにちは」はロシア語でなんと言いましたっけ?
「
言ってみたが、相手に反応はない。
うーん。そうか、初対面だから挨拶が違うんですね。えーと、「はじめまして」は……
「
それでも相手はじっと未起隆を眺めているばかりだ。未起隆は何か怒らせることでもしただろうか、と考えながら言ってみた。
「
そこまで言った時、相手がやっと口を開いた。
「君は日本人じゃないのか?」
それは明瞭な日本語だった。
未起隆はやっと合点がいってすっきりした。
「ああ、なるほど。ロシアの方じゃなかったんですね」
そしてニッコリと人懐っこい笑みを浮かべると
「私は宇宙人です」
と答えた。
奇妙な沈黙が流れた……