メグレと殺人者たち

Maigret et Son Mort/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ1/長島 良三 訳

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メグレと殺人者たち
(河出文庫)

久しぶりに読むメグレ第1弾.もっとも,読むのは初めてだ.

警察力というものを感じた.人数は力だ.次々と指令が発せられ,刑事たちが仕事に割り当てられて行く.

私を惹きつけずにいられなかったのはマリアだ.見つけられて尋問されている場面しかないのだが,このギラギラしく不敵な様は見上げたものだ.決して同情はできないけど.

題名の訳は「メグレと殺人者たち」だけど,原題の「maigret et son mort(メグレと彼の死体)」というのが1番ぴったりくる.なぜなら死体から生前の被害者の人と生りを探していく話でもあるから.

2001/6/14 読書開始 − 2001/6/15 読了

メグレ夫人のいない夜

Maigret en Meublé/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ21/佐宗 鈴夫 訳

原題は「家具付きアパルトマンのメグレ」.冒頭,いきなりジャンヴィエが負傷する.気がついてから妻に初めて会ったときに,ジャンビエがはらはらと涙をこぼす場面は心を打たれる.以前にも読んでいるはずなのだが,ジャンビエ負傷の報が強烈過ぎて,事件のほうはまったく覚えていなかった.(^_^;

メグレは父親のイメージだなと改めて思う.厳父であり慈父でもある.その眼差しは部下だけでなく,憐れな犯罪者にも向けられる.

以下は,好きな部分の引用.


子どもがいなくて息子が欲しくてたまらなかったメグレが,心配そうな眼をして,なぜ自分をながめているのか,彼にはわからなかったのだ.


「私たちは,あの子になんでもしてやりました,警視さん……」

そうだろう!そうだろう!メグレは誰を責めてもいなかった.それぞれができるだけのことはしているのだ.あいにく人間はたいしたことができない.


「おかしな人だ!」

他人の眼から見れば,人はいつでもおかしなものだ.


2001/6/17 読書開始 − 2001/6/18 読了

メグレ間違う

Maigret se Trompe/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ2/萩野 弘巳 訳

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メグレ間違う
(河出文庫)

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新・メグレ警視
メグレ間違う

メグレが何を間違えたのか最後まで読んでも分からなかった.(^_^;

メグレの捜査法というのは人を理解することだ.捜査を通して人を構築していくのだ.生前会うことがなかった被害者を.まだ会わぬ犯人を.尋問している人物の過去を.

圧巻はやはり第8章に描かれる最後の尋問だ.質問に答える人物のことは決して好きになれない.でも,その人の言う事も分かるのだ.

女というものはたえず自分が大切であると思いこみたがっています.(中略)このため彼女は,私の生活で重要な役割を演じているつもりになっているのです.(中略)彼女が献身だと思っていることは,一種の虚栄心,自分を特別なものと信じるための欲望にしか過ぎない.(中略)きっと,私が彼女に感謝すべき負い目があると想像しているのだろう.

「女というものは」と言っているが,むしろ「人というものは」だろう.誰かはいつも誰かの特別でありたがる.対象が広ければ名声になる.だが,名声ほどを求めずとも,誰かは誰かの特別でありたがる.それはきっと真実だ.

だが,言った本人は無感動・無関心な真実の伝道者というわけではなく,むしろ冷酷な皮肉屋なのだ.私には,わざと事が起こるようにしむけたように思われる.それは「事が起こる事」を望んでではなく,「自分の予想どおりに事が起こる事」を望んだのではないか.対するメグレの気持ちは以下の台詞に現れている.

「私はただ,彼女を殺した人物をかばおうとなさることを期待していたのです」

2001/6/19 読書開始 − 2001/6/24 読了

メグレと火曜の朝の訪問者

Les Scrupules de Maigret/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ3/谷亀 利一 訳

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メグレと火曜の朝の訪問者
(河出文庫)

この話というのは,罪の軽減を目論んだ人物と完全犯罪を目論んだ人物の駆け引きといえるだろうか.メグレがジゼール・マルトンに感じた反感を,私は感じない.ジゼールを良い人とは思えないにしても,反感は感じない.もっとも,なぜ「犯罪」という段階にまで至ってしまったのか自体が不可思議なんだけど.もっと穏便な解決が無かったのだろうか.

以下,好きな場面.


だが彼は,加熱した暖房機の熱気にぼうっとして,血のめぐりの悪いメグレを発見したのである.

「血のめぐりの悪いメグレ」に吹き出してしまった.


「ただ,なにかね……?」
「なにか,こう,ひどく女っぽいなにかがあって,妙に魅かれるんです.(後略)」
メグレの意味ありげな笑いに,ジャンヴィエは顔を真赤にした.

女房持ちだろうが,ジャンヴィエ!


はたしてどのくらいの潜在的な犯罪が,犯人の頭のなかでだけ周到に組み立てられた可能性のとしての犯罪が,永遠に犯されることなく朽ち果てるのだろうか?


「(前略)わたし,ハイヒールを履いていたのでちょっとつまずいたふりをして,あなたの腕に手をかけたの.(中略)あなたは,少しも気づかないような振りをするという,うまい手を考えついたわよ.(後略)」

若かりし頃のメグレ夫妻がカワイイ


ところで,捜査のためにラポワントがネグリジェを買いに行く羽目になるのだが,なかなかお店に入れなくて,景気付けのために一杯やってからやっと突入,ひどく恥ずかしい思いをして店から出てきていた.おつかれさま.(笑)

2001/6/25 読書開始 − 2001/6/28 読了

メグレと幽霊

Maigret et le Fantôme/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ5/佐宗 鈴夫 訳

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メグレと幽霊
(河出文庫)

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新・メグレ警視
メグレと幽霊

しまった,面白くて夜中に一気に読んでしまった!

この話を読むまでロニョン刑事のことを知らなかった.どうやら,この世の不幸を一心不乱に集めているらしい(日本語,変)ロニョンは警視庁勤務ではなく,メグレの直接の部下ではないのだが,メグレは彼のことを気に入っている.話はそのロニョンが撃たれたところから始まる.

ラポワントがその報を携えてやってきて,「昨夜,あることが起こりまして,警視(パトロン)が目をかけている人の身に,です……」と言うと,メグレはすぐに「ジャンヴィエか?」と訊く.メグレがいつも「お前(訳してあるからさだかでないが,vous でなく tuを使うということなのだろうか?)」と話しかけるのはジャンヴィエだけだそうだし,1番気にかけているのはジャンヴィエなんだろう.

ロニョンの奥さんは病気だそうで,最初は気の毒な人なんだろうかと思っていたのだが,単に不満で凝り固まっている人だと分かって嫌になってしまった.ロニョンのほうは好きだ.彼は寡黙に自分の仕事を(役割を,と言ったほうが良いだろうか)こなしていく人間なのだろう.司法警察に入り本庁勤務になりたいという野心はあるにせよ,野心が義務をうわまることはなさそうだ.不運な状況に陥りがちなのだが,それを自分に与えられた役割と割りきって黙々と役目をこなしていきそうな,そんな人のように思えた.いや,愚痴は言うだろうけど,結局のところは,そんなふうに行動する(羽目に陥る)んじゃないかと思えるのだ.この話では病院に入ったっきりだから確実ではないけど.ロニョンに協力していた若い娘は語る.

「(前略)彼は私に対して,一度も変な態度は見せませんでした.それに,とても親切だったんです.父親みたいでした……お礼だと言って,チョコレートやすみれの花束を持って来てくれたりもしたんです……」

いつものことながら,ラポワントは「警視(パトロン)のためなら,なんだってやります,やります,やります!」という態度が滲み出ていていじらしい.

ロニョンの撃たれた路上近くに住むノリス・ヨンケルは高圧的で,好きになれなかったのだけど,最後の方になると彼にとってそれは精一杯の自衛だったのだと分かって同情してしまった.

以下,好きな場面を.


パリからもモンマルトルからも完全に隠遁してしまい,向かいの家を眺め暮らしている,その年老いたリューマチ病みの人間嫌いに,メグレは会ってみたかったのだった.


「(前略)彼女は,機転をきかせて,大声で言ったんです.
《申しわけありません.ゴルゴンゾラ・チーズは売切れました.ロックフォール・チーズならございますが……似たようなものですよ……》」

 メグレが微笑む.

「きみはロックフォール・チーズを買ったのかい?」
「女房はゴルゴンゾラ・チーズしか食べないんだって,私も言ったんですよ(後略)」

買わされてたら面白かったな.と思うと同時に,どんなチーズなんだろうと想像が膨らんだ.どんなチーズなんだろう.


「私は人間を収集してますよ……」
「あなたのコレクションでは,私はどの項目に分類されるんですかな……おそらく,ばか者の項目でしょう?(後略)」


最後に.ロニョンさん,新聞に写真が載ってよかったね.メグレの計らいだろう.

2001/6/30 読書開始 − 読了

メグレの途中下車

Maigret a Peur/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ4/榊原 晃三 訳

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新・メグレ警視
メグレの途中下車

原題は「メグレ恐れを抱く」とでも訳すのかな.確かに私も怯えた.超常現象的恐れでなく,サスペンス的恐れでもなく,社会が怖い.事件の置きた田舎町を包む,階層間の憎しみが恐ろしいのだ.捜査する側も,周囲の無言の圧力に怯えるように動き,苦い思いをしてしまう.最後のメグレとメグレ夫人の会話が無かったら救いようがなかったように思う.全編に漂う重苦しい雰囲気を表現する文章は印象に残る物が多い.以下,いくつか引用.


メグレはむしろ悲しかった,過去の一部が立ち去っていくのを見るたびに悲しくなるように.

かつては懐かしく感じていたものが時を経て自分を拒絶するように思われるときの悲しみ――いや,むしろ,すんなり入りこめなくなっている自分が悲しいという感情には覚えがある.


(前略)メグレは自分に対する共感の色を読みとった.どうやらみんなは彼をはげましたがっているようだった.

メグレって庶民に信頼があるんだなぁと分かる一節.「みんながはげましたがっている」という部分にコミカルな印象を私は受ける.


「あなたが最後には事件を担当なさることは,ちゃんとわかってました.ただ,予定より5,6時間早く……」
「この次は,予定より早くするな」


暖炉の上には,オルフェーヴル河岸(パリ警視庁があるところ)のメグレの部屋にあるのと同じ黒大理石の時計がおいてあった.当局は昔,これと同じ時計を何百何千と注文したにちがいない.やっぱりこの時計も,メグレのところにあるのとまったく同じように十二分遅れているのだろうか?


「何を考えてるの?」と彼女がたずねた.
「あんたは彼を本気で愛していると思う」

ルイーズがなぜ暴力を振るわれてもアランを想っていられるのか,私にはよく分からない.でも,確かにルイーズはアランのことを想っている.


なぜメグレは,年老いてもなお自分の役を演じつづけようとして,お客たちに既に半分死んでいると気付かれはしないかとおびえながら生きている俳優を想像したのだろう?


彼はただしゃべるためにしゃべっていた.それぞれの言葉は意味を持つ必要がなかった.彼は空虚な客間を埋めなければならなかったのだ.


「(前略)クルソン家のものたちは,かつては父を必要としたということで,父をぜったいにゆるさなかったんです,わかりますか?(中略)父が死ぬまで,この土地のクルソンのものたちはみんな,自分たちが父の金がなければ生きていけないことで父をうらむでしょう.」

斜陽した者たちの鬱屈した心理.彼らは自分が悪いなどと毛ほども思っていないにちがいない.


「ご親切に.」
「何が?」
「何も.」


土地を耕すことを好まず,自分もその出である百姓を軽蔑しきっているのと同じほど金持ちたちに憎悪を抱いている小作人のせがれという印象を彼はあたえた.

鬱屈はどの階層にも存在する.


彼はルイーズを《ぼくのかわいい女(ひと)》と呼んでいた.
ときには《ぼくだけのかわいそうな女(ひと)》と呼んでいた.


「彼は死んでいない.」とシャボがつづけた.
「知っている.」
「どうして知っているんだ?」
「ああいう人間は自殺しないからだ.」

卑屈に生きている人間.身を屈めて,彼は生き続ける.癇癪を起こしてみせることはできても,回りには注意を払ってもらえない.彼には本当の意味では何もできない.


2001/6/29 読書開始 − 2001/6/30 読了

メグレと運河の殺人

Le Charretier de <<La Providence>>/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ45/田中 梓 訳

しばらく後期の作品が続いたので,初期の頃のものが読みたくなった.そして,現在,図書館に所蔵している物で1番古い作品がコレだった.中学の頃読んだ『男の首』や『黄色い犬』の雰囲気があった.そうだなぁ,事件が次々と展開していくということ,何がどんな風に起こったのか,により焦点があるところが初期の作風なのかな.というよりも,初期の作風はいわゆる推理小説っぽい部分が大きい.いや,言い換えよう.初期の作品は「味わい深い人間関係の機微を含んだ推理小説」と言うに相応しく,この人間関係の深さがシムノンの味だった.やがて,それが顕著になって行き,さながら文学作品のような小説,より「物語」じみた作品へと変貌して行ったのだろう.

それとも,後期の作品ほど温かみが増していったと言うべきだろうか?(私は初期の作品にはむしろ暗さや怖さを感じる)

懐かしい雰囲気を味わったように思う.

メグレの捜査方法は関係する人々の性質・社会を理解して行くことだと感じていたが,それがはっきりと文章で書かれている.

自らの中にまわりの雰囲気を浸透させ,自らの知悉する世界とはあまりに異なった運河の世界というものを理解することに余念がなかった.

メグレが死ぬほど自転車こいでるのも今となっては(自分の年が気になる年齢になったメグレをしばらく読んでいたから)新鮮である.

作中,「指紋を電送写真でパリまで送らせた」という文が出てくるけど,「電送写真」ってなんなのかなぁ.一瞬,FAXみたいなものを想像してしまったけど,これって書かれたの1930年代だよなぁ.

気になったことは訳が古いこと.しょうがないとはいえ.文脈的に意味はわかるけど,いまどき「だんつく」なんて言わないだろうなぁと思った.


「(前略)かなり興味深い話が聞けたのです……警視,お手伝いしましょうか?……」

 事実,そのときのメグレは,尻のところに垂れさがったズボン吊りをつかまえようとして,無益な努力をしているところだった.


 メグレは無意識の裡に片手を突き出した.同じく無意識的な動作で,リュカがポケットから煙草の箱を取りだし,メグレに渡した.

リュカとメグレの付き合いの長さを感じられてなんとも言えず好きな場面.この話に出てくるレギュラーメンバーはリュカだけのようだ.リュカが最古参の部下なのかな.

補足:

『怪盗レトン』にトランス,『死んだギャレ氏』にムルスが出てきている(ムルスは厳密に言えば直属の部下ではないが).リュカは『怪盗レトン』では名前だけ『サン・フォリアン寺院の首吊人』ではちょい役で,メグレと組んでの仕事はこれが初めて(注:あくまでも小説になっている事件について言えば)である.


 そして,今度はメグレが微笑する番だった.にわかの相棒がアメリカの探偵映画の追跡場面そっくりのポーズをとっているからだった.

"アメリカの探偵物"というのは,英国の推理小説でもしばしば引き合いに出されていて面白い.


 泣いてはいなかったが,声の中に涙があった.


 魅力的な女性だったでしょう…….だが,それはヒロインと同義語ではありません.

(中略)

 魅力的な人間の最初の動きは,いつも善意に満ちている,いや劇的でさえあります…….彼らはみな善意のかたまりなのです…….

 ただ,彼女には怯懦の心があり,妥協心があり,どうしようもない欲望があり,それゆえはなやかな生活のほうがより強烈に心を占めました……

悪気は無いのだ.その時点では彼らは本心から誠心誠意の行動をしているつもりなのだ.しかし,持続力は無い.悪い事に,「誠心誠意」には本来,持続力が必要なのだ.


「……なぜなら,係累のない人間には……過去やかつての人格とのすべてのつながりを断ち切ってしまった人間には……何かにすがりつく必要があるからです!(後略)」


2001/6/30 読書開始 − 2001/7/2 読了

メグレと口の固い証人たち

Maigret et les Témoins Récalcitrants/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ6/長島 良三 訳

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メグレと口の固い証人たち
(河出文庫)

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新・メグレ警視
メグレと口の固い証人たち

証人たちの口の固いのには訳がある.しかし,その訳が違う人間が1人だけ居る.たとえ,幸せな生活を送れなかった家庭でも,哀れみや同情は芽生えるものなのだ,と思う.

メグレ物を読んでいるとたびたび出てくる「電話用コイン」ってどんなものなのだろう.

この物語に出てくる人物でいちばん好きなのはヴェロニック・ラショームである.兄が死んだという報せを受けたときの「わたし,泣かなくてごめんなさい.たぶん泣かなくてはいけないのでしょうが,涙が出ないのです.」という言葉で,彼女が正直であることが分かるし,それと同時に,決して冷たい人ではないのが分かる.それと,失恋に気づいたときの様子.

 自分でも気づかないうちに,突然眼から涙が流れ出ていたが,彼女は顔をそむけようともしなかった.

自分は気が強い,大丈夫,平気ということを見せたいのに,涙が出てしまう彼女にひどく親近感を覚える.


(前略)今朝のような嫌な雨の中を,無声映画と同じ黒と白のパリを横切って行くこともなくなるのだ.


ラポワントは今年中でいちばん大きな虹鱒か,かますを釣ったかのように勝ち誇っていた.

ラポワントっていつも一生懸命仕事をしてるなぁと思う.いつもやる気満々.


 メグレはリュカも電話に呼び出すことができただろう.だが,刑事たちの一人が必要なときには,彼はいつでも椅子から立ち上がり,刑事部屋との境のドアを開けに行った.それは刑事たちを監視するためではなくて,いわば刑事部屋の様子を知るためだった.

私がメグレを好きな理由というのは,こういうところだ.部下の事を常に気にかけていて,事件ともなると自ら関係者にあたって理解しようとする.だからこそ,部下はメグレの事が好きなのだし,彼の命とあれば喜んで従うのだろう.


 白い部屋着からはみ出してしまっている大きな乳房はそれ自身生命をもち,気分次第で身震いしているようだった.メグレにはそれを淫らというよりも,陽気で,人のいい乳房と呼びたい気持だろう.


「(前略)なによりもわたしがおどろいたのは,強盗が怖気づかなかったことです.それとも強盗は酔っていたか,昼間あの家を見なかったのでしょう.」

このコメントは被害者の家をよく表している.なにかしら,澱んだ物が家を漂っているのだ.いや,「漂っている」という表現さえ動的に過ぎる.停滞しているのだ.止まった空気の中を空気をかき混ぜないように家族が暮らしているのだ.


 (前略)アンジェロにかかると,すべてが規則通りに行われる.メグレは自分のオフィスを,習慣を,適当なときにビールやコーヒーと一緒にサンドイッチをもってこさせたり,部下の一人に代わってもらい,彼がもう一度初めから無邪気に尋問をやりはじめるといったような,ちょっとした癖をあきらめたのだが,そこに郷愁がないわけではなかった.

「部下が無邪気に尋問をやりなおす」ってのは,端から見れば笑いを誘うが,当事者だったらムチャムチャ嫌だ.


「判事さん,わたしはもう必要ないと思いますが?」

 (中略)

 尋問が司法警察局で行われていたら,違った様相を呈していただろうか?

 (中略)

 彼女の夫は規則通りに死んだ.


2001/7/3 読書開始 − 2001/7/6 読了

男の首

La Tête d'un Homme/東京創元社 世界名作推理小説体系3/宮崎 嶺雄 訳

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男の首,黄色い犬
(創元推理文庫 139-1)

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新・メグレ警視
男の首

この作品こそ,私が最初に読んだメグレ作品である.そして,いまだに最高のメグレ作品である.

事件の真犯人を探し出すためにメグレが地位をかけて博打を打つプロットが,途中からコロンボ物のように(と言っても,こっちのほうが何十年も先だけど)犯人を追い詰めていく話になる.

だが,そういった展開の仕方なんかより,なんと言っても,犯人の造詣に尽きる.彼はある程度の知性は持っているが,挫折者であり,社会に対する悪意を徐々に徐々に溜め込んでいって,ついにそれを吐き出してしまったのだ.だが,その皮肉な嗤いは自分にこそ向けられていて,成功者になりえなかった自分が嫌いであるがゆえに,より弱き者・自分が手玉に取れるものを痛烈に苛め抜いてしまう.誇りはある.高すぎるほどのプライドとそれに見合わない自分の地位とに苛立ちを感じているのだ.世間を馬鹿にしているくせに,世間に認められたくて仕方がない.賞賛がほしくて仕方がないのだ.この人物に同情はしないし,同情してはいけないし,同情に値する人間でもない.でも,誰でも多かれ少なかれこういう感覚を持っていると思う.だからこそ胸がチクリとするのだろう.

メグレも犯人の心情を理解したのだろう.理解するというより,まるで彼自身が染みとおってしまったかのような心持になっているのだと思う.心を同じうする気持ち.決して同情ではなく.だからこそ,彼がある意味で高潔であることを何度も言うし,絞首台でつまずいてしまった彼を見て,この段階に来てまで運命は彼に成功を許さないのか,と思っただろうと思う.だから,メグレはそのあと家に帰る気になれず,オフィスに行ってまるで怒ってるみたいにストーブの火を掻き立てたのだろう.(なんて深い幕切れだろう.劇的ではないのに,心から離れない)

クロスビーが重大な決断をする場面,これがまた印象深い.出揃った4つの1に彼は運命を感じてしまったのだろう.この時,すでに彼は追い詰められているのかもしれない.

そして,メグレに「一番の被害者」と言われたウルタン.彼の落胆はおそらく母親に信じてもらえなかったときに極まったのだろう.もし,彼がラデックに出会えたとしても,私には暴力をふるっていたとは考えられない.メグレの言うように,彼に会いに行ったのは「今でもくちをきける唯一の人間だったから」だと思う.会っていたとしても何も言えなかっただろうし,何を言っていいかもわからなかっただろうけど.

この作品がジャンビエの初登場なのかなぁ.25歳.うーむ,若い.「司法警察の最年少職員」と書かれている.若いだけに,とんでもないことをしてたりする.というのは,見張っている相手と酒盛りして(ジャンビエは酒に強いほうじゃないらしい)しまって役に立たなくなってる.いいのか,ジャンビエ!!(笑)もっとも,これは相手のほうが一枚上手なんだからしょうがないといえばしょうがないかな.

ジャンビエは飲みすぎにしても,メグレ物を読んでると,みんな平気で勤務中にアルコールを飲みますね.そういうもんなのだろうか.もうひとつ,この作品にも出てきますが,呼子があるのかしらん.私はどうも呼子というと捕物帖の方に意識が傾いてしまう.

好きな場面はジョゼフ・ウルタンに逃げられちゃった後の場面.リュカとメグレが虚しい事情聴取を終えて酒場の隅でぐったりしていると,そこへ駄目元でウルタンの後を追ったジャンビエが泥だらけになって帰ってくる.この3人の落胆してる場面がなんだかとても好きなのです.特に大将(=メグレ)の意気消沈ぶりを見て鼻をすすって顔をそむけるジャンビエが.

もう1つ好きな場面は,メグレがラデックに向かって「なあ,おい,坊や……」と言う場面.これは事実上,宣戦布告であり,ジャンビエとともにメグレ復活に嬉しくなってしまう.

ウルタン逃走の場面で負傷したデュフールという刑事は伊達男のようなんですが,いい人なんですね.彼をメグレが見舞う場面がいい.

メグレはまるで身の置きどころもない人間といった様子で,部屋の中をぐるぐる歩き廻った.とうとう彼は,口の中で呟くように言った――

「おれを恨んでるかい……?」

(中略)

「この人があなた様をお恨みするなんて…….今朝からもう,あなた様がどうしてお切り抜けになるおつもりだろうって,そればかり申してますわ…….(後略)」

ここでは,メグレ自身の人柄も表れていると思う.いつも部下に対する配慮を忘れない.そりゃ,彼は上司であり,命令する立場であるが,命令がもたらすかもしれない不幸についても忘れない.

私が読んだ本は祖父の蔵書で昭和35年が初版.ということは,訳はそれ以前なわけで,「審か(つまびらか)」を漢字にしているところや,「三日月パン」(たぶん,クロワッサンだろう)という単語,「《ローズ》二丁,二丁通し……!」というまるで寿司屋か居酒屋のような注文の訳し方に古さを感じます.でも,「パトロン」を「大将」って訳してあるのはすこぶる気に入ってるんだ,実は.

再読をはじめるまで「ムルス」という鑑識職員を知らなかったんですが,この作品にも出てきてました.ただし「メルス」と訳されていた.どおりで聞き覚えがないはずだ.そのメルス,筆相学などという怪しげなものについて嬉しそうに語り入っちゃって,メグレが思わず微笑してしまうと,どぎまぎして慌てて自己弁護をしてます.こういうところもメグレと職員の関係が父と子みたいに思える理由なんだよなぁ.ほんと,部下のうち何人かは「懐いちゃってる」ように見えます.ムルスも鑑識課の中では「メグレの崇拝者」として知られているようです.

2001/7/17 読書開始 − 2001/7/18 読了

モンマルトルのメグレ

Maigret au "Picratt's"/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ7/矢野 浩三郎 訳

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モンマルトルのメグレ
(河出文庫)

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新・メグレ警視
モンマルトルのメグレ

本当は,『男の首』を読んだ後,『黄色い犬』を読もうと思っていたのだけれど,図書館が休みになる前にと借りてきた中にこの『モンマルトルのメグレ』があって,そうなるともう,待ちきれなくてこっちを先に読んでしまった.というのは,以前,見たことのあるマイケル・ガンボン主演のメグレシリーズで唯一覚えている話がこれだからなのだ.私はTV見ながらラポワントといっしょに泣いたよ(笑いたくば笑え).たいへん,思い入れが強い.

『男の首』を読んでからいきなりこれを読むと月日がいつの間に経ったんだ〜!!と感じる.若手がジャンビエからラポワントに移っているのだ.

この事件にもロニョンが出てきていた.TVにはいなかったので,まったく知らなかった.この人は無口でいながら腹の中でいろいろと考えているようだ.こんな具合.

《やれやれ,こうなる運命だったのか!》

 こうなる運命とは,(中略)この街で事件がおこり,ロニョンが現場に派遣されると,決まってメグレ御大が乗りだしてきて,彼から事件を取りあげてしまう,という意味である.

実際,事実なんだからしょうがない.この作品でも,もう1件取り上げられてしまっている.その上,最後には存在を忘れられてしまって(ひでえ!)任務を解かれるのを忘れ去られてしまったために,いつまでも寒空の下で震えている羽目になっている.とまぁ,自分の不幸を腹の中で嘆きつづけている無口な刑事が嫌いにならないわけはひとえに彼が職務に対してまじめだからだろう.自分の手柄にならないと分かっていても新事実を探り出してメグレに報せているのだ(もっとも,自分の知りえた全てを語ったわけではないけれど).だからこそメグレはロニョンのことが気に入ってるのだろう.そのロニョンについて書かれている部分で最も好きな文章はコレ.

いちど訊いただけで,ロニョンがこれだけのことをいっきに喋るなどというのは,まさに驚きであった.

よっぽど無口なんだね,ロニョン.

被害者のアルレットは不幸な境遇なのだけど,自分では決して「不幸だ」なんて認めたくなかったのだろう.彼女自身の言葉,

不幸を背負ってるような人間って,大嫌いさ.特に女は厭よ.そういうのに限って,自分の不幸を他人に押し売りするんだから.

でも,ラポワントも感じ取ったように,今の境遇が厭でしょうがなくなってしまう時があったに違いない.いや,それとも,ラポワントに会ったから,不幸と認めないことで受け入れていた境遇の惨めさに気づかされ,抜け出したくなったのだろうか?

アルレットを本当に不幸にしたのは,周りの人間だったに違いない.特に,アルレットを確認しにきた叔母のような「わたしは不道徳というものには関わりたくありませんの」という類の「立派な」人々からの決め付けを含んだ視線だったに違いない.

この事件でトランスがゲイの男を尋問する羽目になってげんなりしているが,(メグレのように)微笑をうかべつつ同情した.そりゃ,やだろう.殴りつけたら「いやな人ね!」とか言いながら喜ぶんだもん(笑).


 (前略)哀れな伯爵は妻をあまりに愛していたがために,彼女のあらゆる気紛れをも許し,自分のためにはせめて小さな場所だけを残して欲しいと,身を貶めて哀願しなければならなかった.

 もし夫の愛がそれほどでなかったら,夫人はもっと自制したはずだろう.(後略)


 メグレは刹那,ラポワントが失神するのではないかと思って,彼の肩に手をかけた.

(中略)

 笑っていいのか泣いていいのか判断がつかないといった,ラポワントの少年のような表情を見ると,なんとなくおかしかった.

この場面はtvの方でも覚えてるなぁ.ラポワントのショックが伝わってきてなんとも言えなかった.たとえ相手が憎くとも重い行為だと思うし,それがよく出ていると思う.


(前略)「こんなつもりじゃ……バカげてることはわかってます.でも私は……彼女を愛していたんです.」

この話はラポワントに尽きるなぁというところで締め.


2001/7/19 読書開始 − 読了