メグレと無愛想な刑事

Maigret et L'inspecteur Malgracieux/ハヤカワポケットミステリ370/新庄 嘉章 訳

Amazon.co.jp - BOOKS

メグレと無愛想な刑事
ハヤカワポケットミステリ 370

別な話を読みかけてた途中だったんだけど,『メグレと無愛想な刑事』を手に入れてしまって,こらえきれずに先に読んでしまった.「無愛想な刑事」ときたらロニョンでしょう?このごろ,赤丸急上昇的にロニョンが気に入ってるんで.でも,読み始めてしばらくして後悔してしまった.なぜって,殺し屋スタンの結末が一部バレてら〜!うう,失敗.『殺し屋スタン』を読んでから読むべきだった.

入手したのは昭和32年9月30日発行の初版本.裏表紙に「江戸川亂歩監修 世界探偵小説全集」とある.ポケミスって江戸川乱歩の系統だったのかぁ.

読んでみてすぐに感じるのは文章の古さ.拗音も促音便も小さい文字になってない.しかし,それはいいんだ.許せないのは

ロニョンは無愛想な(マルグラシウ)刑事というあだながあまりにうつてつけだつたため,警部の申し出に返事ができなかつた.

などという文章である.私に言わせれば,これは日本語ではない.逐語的文章は学術書ぐらいでしか許されず,それだって正確さを期する上で必要だから逐語訳になるのであって,決して読みやすい文章ではない.ましてや小説でコレは無いだろう,と思うのだが如何なものか.

あと,気になるのは抄訳であるかのようにポンポン場面が飛ぶこと.原文からしてこうだったのかなぁ.

そういった不満は横に置くと,ロニョンファン(いるのか?)にはたまらない一編である.ちゅうか,メグレ,あんたが悪い!(笑)この話では間違いなく.自分の担当でもないのに首を突っ込みまくりなんだもん.

(前略)ロニョンは頭を振りながら,溜息をもらして,

「分かつておりました……」

「何が分かつたのかね」

「自分が手がける仕事ではないことが…….これから警部殿に最後の報告を書きます……」

この場面を読んでおもわず吹き出してしまった.検死するポール博士にも弾丸を鑑定するガスティーヌ・ルネットにも無愛想な(マルグラシウ)刑事として知られているロニョンは(有名だな,ロニョン)無能ではない.むしろ有能なのだ.メグレが首を突っ込まなくても事件は解決しただろう.だって,メグレの指示はほとんどの場合,ロニョンが既に手配しているのだから.首を突っ込みたくて仕方が無いメグレは,何かかにかとロニョンに気を使い,ロニョンはそのたびにがっかりしてしまい,メグレが慌てて取り繕う,という構図が可笑しくてならない.もう1つ好きな場面はここ.

(前略)メグレはロニョンが(中略)軍隊式のきちようめんな美しい書体で辞表を書き出しているのを見た.

この話を読んでからなら『メグレと幽霊』で「すわ,ロニョンに女が?!」という場面でみんなが信じられない思いを抱くことにすんなり納得できるだろう.…どうやって結婚したんだろう….

2001/8/23 読書開始 - 読了

霧の港のメグレ

Le Port des Brumes/河出書房新社版 メグレ警視シリーズ47/飯田 浩三 訳

Amazon.co.jp -

新・メグレ警視
霧の港

弾丸を頭に食らったものの一命を取り留めた記憶喪失の男がメグレを霧の濃い港にいざなう.

 他人がこうして風のように彼の生活に侵入してきて,何日か,何週間か,あるいは何ヶ月か手を焼かせ,やがてまた名も知らない群衆の中に消えてゆく.

目の前を人々が流れていき,メグレはそれをじっと眺めて,眺めつづけて理解するのだ.しかし,今回,男はメグレを霧の港に誘う役を終えると舞台を降りざるを得なくなってしまった.涙を二粒流して.もしかしたら記憶が戻ったのかもしれない,その瞬間に.

事件の裏には2人の男の争いがあった.法の手に委ねられないが正当な権利を持つ男(私にはそう思える)と,精錬潔白と言えない行いをしたと分かっているがために自力で相対せねばならない男が居るのだ.周囲を包むのは霧だ.天候としての霧と,男たちに関わった口をつぐむ人々による霧.

不穏な雰囲気が漂う中でメグレに呼ばれたリュカが快活に現れたときは救われた気がした.

今回,メグレもリュカも酷い目に遭ってるけど,リュカがへまをするのは珍しい.


誰もが事件を覚悟している.(中略)出来事のサイクルが完結していない,鎖の輪がひとつ欠けている.(後略)


 たしかに,彼の態度はこだわりのない民主主義で,ウィストルアムの通りでは村民に声をかける.しかし,その民主主義は人を見下すもの,選挙向けのものだ!

グランメゾン氏はこういった,いわゆる上流の人らしい意識の持ち主である.それに加えて――むしろ冷酷だった.


 あまりに強烈な,それがためになにか人をおびえさせるような平和! 暖かなずっしりとした平和!

疑問:

2001/8/17 読書開始 − 2001/8/24 読了

サン・フォリアン寺院の首吊人

Le Pendu de Saint-Pholien/角川文庫/水谷 準 訳

グーテンベルク21

サン・フォリアン寺院の首吊り人

これはすごい!冒頭から謎また謎なのだ.こんな急展開は後期の話では(たぶん)見られないだろう.

メグレが茶目っ気を出して1人の不審な男をつけだしたのが始まりだったのだ.メグレもベルギー警察への贈り物にしてやろう,などと楽しい想像をしていたのだ.ところが,その尾行の果てに待っていたのは悲劇.そこから露(あらわ)になる謎.途切れることのない謎.

メグレの尾行相手ルイ・ジューネはメグレ物にはよく出てくる「あがいてもあがいても貧困から抜け出せない人」なのだと思っていた.憐憫の情さえ湧いていたのだ.というのは,ルイの周辺の人がそうだからだ.たとえば,奥さんの様子.「彼女もまた,勇気が置き去りにした人々と同じく,灰色の瞳,疲れた眼蓋の持主」であるけど「母のような優しさを帯び」ていたのだ.こんな人が心から心配する人なのだ,と勝手に納得したのだ.彼女の語る言葉によれば,のっぴきならない事情を隠してはいるもののルイは間違いなく彼女のことを愛しく思っていたことが分かる.それに,兄アルマンが語る子供の頃の話でも,ルイは物静かなまじめな様子なのだ.機械工をやっているアルマンは,もしかしたら弟は学者になっているかもしれないなどと想像して,ちょっとした日々の慰めにしていたんじゃないかと思う.

ところが,だ.ルイはむしろ熱に浮かされた人間だったのだ.若い頃に卒業するべき昏い戯れを見つめつづけて抜け出すことができなかったのだ.

この話の1つの糸はジョセフ・ヴァン・ダンムである.彼の見せ掛けの陽気さに神経質な不安が見え隠れしだし,最後にむっつりと不貞腐れた用心深さへと変貌を遂げるにつれ,捜査は進んでいく.たぶん,最後に現れる態度こそが彼の本当の姿だったのだ.長年,過去に苛まされ続けてきた彼の本性だったのだ.

やがて語られる過去の話.若い7人の学生たち.若い頃にありがちな,人間としての倫理を軽んじる思想.そういう思想を弄ぶことで自分が大人物になったような気になるものだ.でも,タブーというのはなるべくしてタブーになったことを手痛く思い知らされたのだ,彼らは.

結末へ向けて舞台は緊迫していく.今現在の生活を崩しかねない側とそれをさせまいとする側.今を守るためには新たな悪夢を生みかけないギリギリの線で真相が明かされていく.果たして,緊張が解けたとき,より安堵を覚えたのはどちらだったか?メグレ?それとも…?

ところで,この捜査,費用出るの?(笑)

2001/8/17 読書開始 − 2001/8/27 読了

怪盗レトン

Pietr-le-Letton/旺文社文庫/木村 庄三郎 訳

グーテンベルク21

怪盗レトン

読み始めて24作品目,ようやくメグレ物第1作『怪盗レトン』を読んだ.(拍手)

実は,この『怪盗レトン』という題名の持つ軽薄さ(怪盗という単語が,ね)に「駄作なんじゃないか?」という疑惑を抱いてそれほど食指はむいていなかった.でも,そうじゃないらしい,それどころか名作らしいと聞き及んで,読みたくて仕方がなくなってしまった.そこで,探して入手.実際,ハードボイルドっぽいところがあり不撓不屈のメグレの雄姿が拝める.後の作品になるとメグレは割と円満な人柄になってきて,犯罪者を見る眼にも優しさがあるのだが,この作品ではむしろ冷淡だ.そして.

こんなに鮮やかな怒りを見せるメグレを私は見たことがない.

こんなに鮮やかな悲しみを見せるメグレを私は見たことがない.

読んですぐに「題名が間違いの元だ」と思った.というのは,レトンというのは詐欺団の首領だから.怪盗と言うとアルセーヌ・ルパンのイメージが強いので(私だけか?)変装したり神出鬼没だったり正体が分からなかったりという人物を予想していたんですが,もっと現実味を帯びた物でした.捕まったことがあるので顔は分かってる,今回の事件の中心はレトンの犯罪ではなくレトンに起きた犯罪なのだ.

この最初の事件でメグレと共に捜査にあたるのがトランスとデュフール.おお,この2人が最初からのメンバーだったのか!!(リュカもいちおう名前だけ出てる).でも,デュフール(この話では35歳)は後の『男の首』に出てくる人と同一人物とは思えない.というのは,むしろ滑稽だからだ.けっこうハードな展開をたどるなかで一種の清涼剤だった.どういう人かというと「もっとも簡単な事件を,ことさらに複雑にしてしまう妙な癖」があるのである.ただ,3ヶ国語を自由に話したので重宝がられている.また,張り込みや尾行などのこまかい,きちょうめんな仕事には他人を上回る根気の良さを発揮する.

トランスは第2のメグレと言うべき成長を遂げつつある30歳の刑事である(メグレはこのとき45歳).これも,後のトランスとは違う感じがする.トランスはメグレと一緒にずっと仕事をしてきたベテランとして描かれている.シムノンはのちに彼が探偵事務所を開いたシリーズを書いているが,愛情を持っていたんだろうな.ちなみに,『怪盗レトン』を読まないと『メグレの回想録』の一部は分からない.

トランスとデュフールの他におなじみの顔が1人いる.予審判事コメリオーである.彼はそれほどメグレを煩わせているように思えない.たぶん,メグレが説明をするというシチュエーションを作るために出てきた人物なのだと思う.

そうそう,メグレのストーブと戯れる(?)癖は第1作から描かれていて,自分のオフィスのストーブをかきまわし,とうとう火床の格子をこわしてしまった

事件が解決に向かう後半はル・レトンという人物の存在の不可思議さ・あやうさ・悲しさがメインだろう.彼がさいごに見たがった写真は,愛した女性の写真ではなかった.そこに彼の心の複雑さがある.憎んでもいいはずの人物を彼はさいごまで崇拝していたのだろう.

事件の最後,「ぼくのピストルは,服といっしょに,持って行かれてしまいました」とハンスが言い出した後の展開はメグレシリーズ屈指の名場面だと思う.メグレらしくないと言えばらしくない.しかし,この事件にはふさわしい.苦味を帯びた幕切れである.


 かれの動作は,おちついていた.というよりも,ひじょうにぐずぐずしてさえいた.(中略)彼の手は,相手の胸にさわるのを躊躇した.思いきってさわったとき,警部は凍りついてしまったようになった.

(中略)

 メグレの顔はやさしくなった.かれは泣かなかった.泣くことは,彼にとっては,生来,不可能なことにちがいなかった.(後略)

泣けない男が,1人苦汁を噛みしめ悲嘆を飲み込む.そして,怒りが不屈の活動を支える.


 ドアを出て行こうとするメグレを,課長は,もうすこしで呼びとめようとした.なぜか不安になったのだ.

 戦争ちゅう,課長の戦友たちは,出撃する前,やはり,こうした冷静さで,――異様な冷静さで,《オー・ルボワール》を告げた.

 そして,かれらは,ふたたび帰らなかったのだ!

アデューの意味を持ったオー・ルボワールだ.臨戦体制のメグレが課長に戦争を思いおこさせたに違いない.それほどメグレの怒りは苛烈だった.冷静なままなのに.


「こういうホテルも,だめになったわね.……あれを,ごらんなさいよ」

《あれ》とは,メグレのことであった.

この後も《あれ》扱いされるけど,それに続く一連のすねた(?)文章が好きだ.


2001/8/27 読書開始 − 読了

メグレと超高級ホテルの地階

Les Caves du 'Majestic'/光文社 EQ 1995年5月 第18巻3号 通巻第105号/長島 良三 訳

Amazon.co.jp - DVD

新・メグレ警視
ホテル・マジェスティックの
ワイン蔵

珍しく「犯人は誰だろう」と考えながら読んだ.「この情報を得られたはずの人は誰なのか?」「この手紙を出せたのは誰なのか?」「この操作ができたのは誰なのか?」とうんうん唸っていた.

被害者は過酸化水素で漂白されたブロンドの女性.どこの国でもh2o2は脱色に使われるものなのだなぁと変に感心した.いたんだよ,中学の頃.あと,理科の実験のとき,頭からH2O2かぶっちゃって,しばらく茶髪だったヤツもいた.

捜査を進める中で,酷く態度が強硬な英国人女性家庭教師が出てきますが,言いたいだけ言った挙句に踵を返した彼女に対して,メグレが微笑んでいる場面がある.私はすごくメグレらしいなぁと思うんだが,どうだろう.強気な態度を取る女性に対してメグレは往々にしてこういった態度を取る.「何がそうさせているのか」にすごく興味を持つからかもしれない.そういえば,メグレってこんなに英語ができない人だったっけ?それなりにしゃべれたような気がするんだけど,何を言われても「you we you we we well」ってな具合に聞こえると告白しているのだ.

仏語と英語がぶつかって互いに話が分からないところも面白いんだけど,他にもところどころにクスリと笑わせられるところがある.たとえば,リュカがメグレに電話で捜査状況を報告していて(ジャンヴィエが)彼女はアメリカでは家庭教師ではなくギャングであったにちがいないと,言い張っています……と言うところ,それから新聞記事の写真のこと(私は,外で本を読んでいたにもかかわらず,吹き出してしまった),トランスの報告書の赤インクのアンダーライン,メグレが刑事部屋に行ってどなりつけるところ(まるで,中学校かなんかの手を焼かせるクラスを思い出させる).

ミミは結局のところ不幸だったのではないだろうか.アメリカ人の富豪オズワルド・クラークの側も,貧しいプロスペル・ドンジュの側にも彼らなりにパートナーがいるのに,どちらにも所属できていなかったから.もちろん,自分で招いた事態だとは思うのだが,クラークもドンジュもミミ無しで,彼らなりに幸せそうだったのでなんだか可哀想になってしまったのだ.

シャルロットが大喜びして子供を育ててくれることは間違いないのです……というプロスペルの台詞はメグレの心に深く浸透したのではないか.というのは,子供が居ないことがメグレ夫人の悲しみであり,シャルロットは子供のできない体だったから.

メグレがわざと自分をぶん殴らせて事を運ぶ場面があるんだけど,策士だなぁとニヤニヤしてしまった.


(前略)その言葉どおり,この女はどこかの街角でメグレを待ち伏せ,自動拳銃の弾丸がなくなるまで撃ちつづけるだろう.

こういう分かりやすい激しさを持った人は好きだ.


「(前略)……わたしが有罪であることを,あの人は確信してます……書記にわたしの両手を見させながら,これが絞殺者の手だと断言さえするんです……」

ヤな判事だな,おい.判事がそれでいいんか.前から思ってたんだけど,フランスでは捜査段階から判事ってのは首を突っ込むものなのかい?


「(前略)人生ってなんて奇妙なんでしょうね,そう思いませんか……もしミミ以外のどちらか一人を選んでいたら……いや,そんなことはありえない!もちろん,わたしが惚れたのはミミです……(後略)」

分かっていてもどうしようもない,それが感情.自分に惚れてくれるわけがないと分かっていながら,どこかで,相手も自分を選んでくれるんじゃないだろうかと思ってしまう.


「どうだ!もちろん,これは合法的ではないが,きさまのような人間にはいい薬だ.明日,予審判事がきさまを丁重に尋問するだろうし,誰もがきさまにたいして慇懃な態度を取るだろう.それというのも,きさまは法廷の立役者になるからだ……ところで,判事たちは立役者にはいつでも弱い.(後略)」

犯人をぶん殴っているメグレって初めてだな.(捕まえるときなどはともかく,おとなしく座っている人間を殴るのは)


補足

パーコレーター

フランスで発明されたコーヒーを煎れるためのポットみたいなものらしい.中にコーヒーを入れるバスケットがあって,水を入れて火にかける.(uccのサイト参照)私は知らなかったので,「パーコレート?」と思ってしまい,少し怯えた.

ファランドール

プロヴァンスの民族舞踊だったのか.ビゼーの『アルルの女』第2組曲のアレしか知らなかったもんだから(ドーソードーーレミーレミードソーってやつ).1つ賢くなった.

2001/9/1 読書開始 − 2001/9/2 読了

メグレ罠を張る

Maigret Tend un Piège/ハヤカワ・ミステリ文庫 hm(16)-1/峯岸 久 訳

Amazon.co.jp - BOOKS

メグレ罠を張る
ハヤカワ・ミステリ文庫

Amazon.co.jp - DVD

新・メグレ警視
パリ連続殺人事件

私はしばしばメグレ物を読んでいて「警察機構の大きさ」をちゃんと感じることがある.それはメグレの「われわれはどんな小さな可能性でも検討せぬままにほうっておく権利は持っていないのです」という台詞にも表れているように,警察はありとあらゆる細かいことを調べる.しばしば推理小説ではそういったことが無視されるので(もちろん,それで面白ければかまわないと私は思うけど),ちょっと変わっていると思う.

この作品ではその警察組織をフルに生かした大々的規模の罠が巡らされる.その全貌を知っているのは仕掛け人のメグレと協力する数人の刑事たちだけで,他の刑事たちはかなりの数が動員されているのに,受けた命令の持つ本当の意味を知らされていない.かなり用心深く仕掛けられた罠がしずしずと準備を整えている様子,それがうまくいくかどうか保証の無いだけに内心消耗するメグレ,それらが全て静かな緊迫感を与えていく.

彼には部下たちの前で信念を失ったりする権利はなかったのだ.

事件はモンマルトルで起きた5件の連続婦女殺人事件だ.モンマルトル,と言うとどうしても外せないのが――そう,ロニョンである.常ならず陽気な(!)ロニョンを拝めるのもこの話の魅力である(断言).もちろん,「彼にしては」の注釈がつく程度の陽気さなのであるが.麦藁帽子に真っ赤なネクタイをしている,それだけで記者たちの話の種になる男がいるだろうか(笑).「麦藁帽子」って書いてあるけど,どんなもののことを指しているんだろう.どうも,セミを取りに行くスタイルしか思い浮かばない.そういえば,ロニョンって自分が「無愛想な」刑事と呼び習わされているのに気づいているんだろうか.……気づいてそうだな.気づいてて内心いじけてそうだな.メグレはロニョンのことをヴィユー(=おやじさん,ぐらいの意味か?)と呼ぶけれど,ロニョンっていくつぐらいなんだろうか.

ロニョンだけでなくコメリオウもコメリオウらしく現れている.主だった部下(リュカ・ジャンビエ・ラポワント・トランス)やおなじみの人々(パルドンやムルス――ムールになってるけど,ムルスのことだと思う)も勢ぞろいしているから,メグレ入門編にいいかもしれんな.

シムノンは「医師」という職業に対して格別な思いを抱いていたのだろうか,と思わせる文章がある.メグレと会話をした医師たちがしばしば「あなたは医者になろうとしたことがおありなんじゃありませんか?」と言った,という部分だ.「医師」は人を見抜けなければならない,良医は人を見抜くのだ,と思っていたんではないだろうか.

この話に出てくる重要な医者はティソオという精神科医で,計画を後押ししたのは,ティソオとの会話である.おそらく,この会話が無くてもメグレは罠を張っていただろうと私は思うが,自分のやろうとしていることの規模の大きさ・重大さゆえに,この専門家の話が大きなきっかけになったのだと思う.メグレがティソオのことを気に入ったように,私もこの医者のことが好きだ.自分が専門である分野のことに対しても断言はしない,そういった「知」に対するもしくは「人の心」に対する慎ましさが好きなのだ.でも,メグレがティソオを気に入ったのは何よりも「私はカンタル県の百姓の伜です.私の父は八十八で,いまも元気で自分の農場に住んでいますよ」と「自分の学問的称号より自慢」げに言ったことじゃないだろうか.

さて,罠の網に犯人の片鱗が残った,その瞬間からメグレは犯人像に思いを巡らせだす.メグレ流の思考が動き出したのだ.やがて,そのイメージは捜査と共に具体的な形(=1人の人物)を帯びてくる.それから,尋問.「何をやったか」よりも「どういう人生を歩んできたか」を探る,メグレ独特の尋問だ.

事件関係者で唯一メグレが憐れみを感じたとしたら,それはマルセルの父親ではなかっただろうか?(厳密には事件関係者とは言えないが) 彼は肉屋であったばっかりに,妻からも息子からも蔑まれていただろう.それも,実に勝手な理由で.

捜査がある程度まで来ると「捜査の対象になっている人物と同化しようと努める」のがメグレのやり方で,これはかなり疲れてしまう作業らしい.いままでそんなことを考えたこともなかった.メグレはいつも興味を持ってその作業をしていると思ったからだ.でも,こんな仕事なんだから「興味を持って」で済むときばかりではないのはよく考えればあたりまえだ.今回がその例で,メグレはかなりぐったりしている.相手を「把握する」ための作業だけれども,とうてい「理解してやる」気にはなれなかった(だからこそメグレは正常と言えるのだが).だから,事件が終わるなり,さっさと犯罪者の精神と離れてしまいたい,洗い流してしまいたい,日常に戻りたい,と思ったようだ.

今回,「理解したくない」と思ったのは最後の殺人だろう.2人の争いの犠牲になった人たちが何人もいる.そのことに戦慄を覚えただろう.

「洋服の色は青でした」

そう女が語ったとき,事件は終わる.実は奇妙な告白なのだ,これは.この台詞を言いさえしなければ,皆が釈放されたかもしれないのだ.なのに,女は勝ち誇らずにいられなかったのだ.そして,勝ち誇った相手というのが警察でも被害者でもなく,ただ1人,ただ1人の敵対者に対してなのだ.勝ちほこり満足している彼女に,自分の抱いているもの・表現したものが愛情ではなくてエゴイズムであることが分かっていただろうか.おそらく,分かっていない.たぶん,分からないまま同じ証言を裁判でも繰り返すだろう.勝ち誇ったままで.


彼女は,メグレがこっそり,まるで腕白小僧のころのように夢中でやっていることを見て見ぬふりをした.降る雨がいかにも爽やかに,いかにもおいしそうな風情だったので,彼はときおり舌をつき出してはそれを数滴受け止めていたのである.

こういうメグレは珍しい.いや,パイプに対する愛情にもこういった子供じみたところがあるかな.見守っているメグレ夫人も,こういうところは好きなんじゃないかな.


疑問:

訳が古いからだろうけど,メグレが書類に「花押して」という文章があって,私を喜ばせた(笑).ちょっと気になるのはリュカに対してジャンビエもラポワントもタメ口なとこかな.上下関係緩やかなのかも知れんけど,私は気になる.日本語は難しい.

2001/9/5 読書開始 − 2001/9/9 読了

メグレと死体刑事

L'inspecteur Cadavre/読売新聞社 フランス長編ミステリー傑作集(3)/長島 良三 訳

Amazon.co.jp - BOOKS

メグレと死体刑事
フランス長編ミステリー
傑作集(3)

Amazon.co.jp - DVD

新・メグレ警視
メグレと死体刑事

『死体刑事』という題名を見て,最初は警官殺しの話かと思った.捜査中の刑事が殺されて,彼の思考を手繰ることに――という筋を予想していたわけだ.ところが,これは渾名だったのだ.「無愛想な刑事」のように.

《死体》刑事ランスペクトゥル・カダーヴル氏は本名をジュスタン・カーヴルという「元」刑事である.こんな苗字でかつ陰気な性格だったので死体カダーヴルなどと呼ばれるようになってしまった.「メグレが警察に入って知りえたうちでいちばん怜悧な頭脳の持主」なのであるが,あまりに「いい」性格をしているせいでメグレをして「おれはおまえを好かんよ,カーヴル……おれはおまえを憐れむが,しかし好かん……」と言わしめている(どんな「いい」性格かはぜひ読んでみてほしい).訳者あとがきにて長島氏が「《死体》カダーヴル元刑事であるが,無愛想なロニョン刑事と比肩すべきユニークなキャラクターだ.シムノンはこの《死体》元刑事をどうして他の作品にもどしどし使わなかったのだろうか? 使っていればきっと,ロニョン刑事のように人気のある脇役になっていたであろうに」と書いている.たしかに,これと言ってライバルのいないメグレを煩わせる面白い展開になっていただろうと思う.死体刑事ランスペクトゥル・カダーヴル無愛想な刑事ランスペクトゥル・マルグラシオの対決とか.いや,対決させてどーする,とは思うんだけど,お互いに相手のことを物凄く嫌いそうで,陰湿な戦いが繰り広げられそうだなぁと思うと,見てみたくて仕方がない.

ま,それはおいといて.

この話の何が気に入ってるかというと,話の流れ方の緩急がすごくはっきりしているところである.プレジョン予審判事の部屋でうらやましそうにランプシェードを眺めながら上の空で話を聞いていたメグレは,控え目な判事の頼みごとのおかげで事件に巻き込まれた.それがまた冒頭ではまったく冴えない.カーヴルにことごとく先回りされるし,助けを呼んだはずの人物はメグレに捜査して欲しくなさそうで,メグレはひどく情けない気分に陥ってしまう.もっとも,これはこの事件が公式な捜査でなかったせいもある.周り中が事を荒立てなくなさそうだということをメグレが感じていたせいもある.メグレの上を行くことでせせら笑うカーヴルだけでなく,田舎町の人々全部が「おたがいのところにメグレをボールのように投げ返している」状態なのだ.

やがて,メグレに協力する若者ルイを捕まえて捜査がやっと進みだす.ゆっくりと.そして,カーヴルに「これはこれは! 同僚のカーヴル君じゃないか! こんなところで何をしているんだい?」と叫んだところから逆襲が始まるのだ.(待ってました,パトロン!)

話の縦糸は事件なのだろうが,それよりも横糸たる死体刑事ランスペクトゥル・カダーヴルのほうが大きなウェイトを占めている.実際,事件関係者そっちのけでメグレが意地を張って捜査をしつづけたのはひとえにカーヴルの鼻を明かしたかったからである.

事件の顛末には釈然としない.いちばん重く罰したい人間が罪にならないから,公式捜査でなかったのをいいことに,メグレは法の正義を行使しなかったのだろう.でも,結局のところ苦味を帯びた結末で,賛否分かれると思う.

非難はできないと思いはするものの,残念ながらこの話のメグレはあんまり好きじゃない.嫌いにもならないけど.「がっかり」する,というのが一番あった表現かな.でも,そんなメグレをメグレ自身がいちばん苛立っていそうだと思う.


少人数の過激派がいくら騒ぎ回っても,沈黙には克てない.


「あなたはいろいろと思いを凝らしているんだね?」

それにたいしてメグレは恐ろしくきまじめな顔をして答えた.

「私は考えたことなんかない」

ただ,事象がメグレの中をいっぱいにしてしまう.この状態のメグレのことをリュカは「スポンジのように」「膨れてしまう」と言っているそうだ.


このときだけ,この事件にかかわって以来初めて,彼は司法警察局内で言われているメグレを,部下の刑事たちが真似したがっている偉大なメグレを演じたのだ.

逆にいえば,彼はこの事件で「偉大なメグレ」を演じる気になかなかなれなかったのだ.


「(前略)いつでもあんたのせいじゃないんだ.……結局のところ,あんたは否定的な人間なんだな……あんたは何事をも本気でしたことが一度もない」

あー,耳の痛い台詞だなぁ(苦笑).


2001/9/14 読書開始 − 読了

児童聖歌隊員の証言

Le Témoignage de L'enfant de Chchœur/ハヤカワポケットミステリ370『メグレと無愛想な刑事』収録/新庄 嘉章 訳

Amazon.co.jp - BOOKS

メグレと無愛想な刑事
ハヤカワポケットミステリ 370

Amazon.co.jp - DVD

新・メグレ警視
聖歌隊少年の証言

「早朝,死体と走っていく男を見た」という少年の証言は刑事たちにまともには扱われなかった.メグレは…? というお話.

主な証言は3つ.そのうち,完全に中立と思われる証言は1つだけ.後の2つは真っ向からぶつかっている.風邪を引いてうつらうつらしながらも,メグレは「何がウソか」「言われていない部分はなにか」を推理する.――ので,推理しながら読みましょう.私にはできなかったけど(笑).

メグレは巡邏班を再編成するために田舎町に半年派遣されていて,そのときに起こった事件のようです.だから,出てくる刑事もおなじみの部下たちではなく,ベソン,チベルジュ,ヴァランという名前です.

子供は1人だけしか出てこないんだけど,熱を出してメグレ夫人の言うことも聞かずにパイプをすいたがるメグレも,意固地な元判事の老人も子供じみています.

老人というものは子供のようにすねるものではないだろうか? また老人というものはよく子供つぽい片意地を張ることがあるのではないだろうか?

メグレシリーズにはこんな人がたびたび出てくる気がします.

メグレが考えながら自分で「どうだ」(「ヴァラ」なのかな?)と繰り返すところや,自転車引換券をつくってやるところが好きです.

メグレ夫妻が「メグレ」「メグレ夫人」と呼び合うのは1度冗談でそう呼び合って以来の決まりごとだそうです.この夫婦,素敵だよね.

2001/9/15 読書開始 - 読了

死んだギャレ氏

M. Gallet, Décédé/創元推理文庫/宗 左近 訳

読んだ後,どうしても以下の一節が頭から長いこと離れなかった.

ただ,あの男の右頬だけが朱に染まりました…….血があふれ出たんです…….それでもあの男は,まるで何ごとかを待ちもうけてでもいるかのように,依然として一点を見つめたままつっ立っていたんです…….

そのとき,ギャレの胸に去来したものは何だったろうか.彼は一生懸命生きた.自分のやれることはやった.せいいっぱいのことはしたのに,いつも彼に運命は微笑んでくれなかった.だから,いつも自分の面倒は自分でみなければならなかった.ギャレは「無気力なだけで何ごとかが起こる事を待ち望んでいる」だけの人間では決してなかった.手段はどうあれ,ちゃんと自分で稼ぎを工面した.なのに…

そんなことが頭の中を周っていた.そして,メグレが想像したように人のいないところでは夫人が泣いていてくれればいいと思った.

この作品はメグレ物第2作である.ムルスの初登場である(モエルスになってるけど,ムルスだと思う).ファーストネームはジョゼフ.フランドルの出身で,メグレも舌を巻くワーカホリックである.なぜか知らないけど,生命保険にも詳しい(ようだ).初登場作にして災難に遭っている.にもかかわらず,すぐに復帰して仕事を継続してメグレをあきれさせた(メグレは「やめとけよ」と言ったのだが,ムルスは「急ぎの仕事だって,ご自分でおっしゃったじゃないですか」と取り合わなかった).このように着々と仕事を進めていく人には敬意を表する.

私は珍しく考え考え読んでいて,ギャレに死をもたらした人物が誰かは分かった.メグレほど緻密な推理を構築したわけではなくて,ギャレの死が必要だったのは誰か,を考えたらたどり着いたのである.ただ,最後の最後,ギャレとド・サンチエールの関係が分かったのはメグレが事件を再現して見せ始めたときだった.

王党派なんて出て来るんだなぁと驚いて,王政はいつ終わったんだろうと調べたら,どう考えても1848年ルイ=フィリップの退位でブルボン朝は終わっている.分からん.そんなに王政復古の考え方が続くものなんだろうか.うーん.


「(前略)いずれにせよ,あの男の死因は肝臓病じゃありませんよ!」(中略)「肝臓病で顔半分がなくなりゃしません(後略)」


 もっとはっきりいえば,サン・ファルジョーの墓地の大して金はかかってはいないが,いい趣味の,品のいい墓石の下には死体が一つ眠ってるだけなんだ.

メグレが憤りを感じる相手はしばしば法の手を逃れている.それがやりきれないときもあるだろう.(しかし,サンチレールにどうして法律上の権利があるのだろう.フランスの法律はよく分からん)そういえば,第1作がああで第2作がこうで第3作も――警部としていいんだろうか(笑).


2001/9/16 読書開始 − 2001/9/20 読了

世界一ねばった客

Le Client le Plus Obstiné du Monde/ハヤカワポケットミステリ370『メグレと無愛想な刑事』収録/新庄 嘉章 訳

Amazon.co.jp - BOOKS

メグレと無愛想な刑事
ハヤカワポケットミステリ 370

Amazon.co.jp - BOOKS

クイーンの定員―
傑作短編で読むミステリー史〈4〉
光文社文庫 ク1-6

題名が気に入っている話その1.ちょっぴり謎めいた結末の一編である.

ジャンビエの義理の弟のジョゼフが出てきます.細かく言うと,ジョゼフはジャンビエの奥さんの妹のだんなさんです.そもそも,メグレ物に良く出てくるド・フィーヌのボーイをやっていた縁でそこによく出入りするジャンビエと知り合いになり,その奥さんの妹と出会って結婚した,というわけらしい.ジョゼフはのちに自分の店『カフェ・デ・ミニステール』を持つのだが,ある朝,その店にこれといって特徴の無いおとなしい感じの客が現れる.

この客に対するジョゼフの心の動き(いらだち→不信→怖れ)が順番に描かれていくと,閉店になってやっと客が出て行った後,発砲音がしてからのジョゼフの行動がいちいち頷ける.証言者としてジョゼフが「馬鹿な話だとお思いでしょうが」と言いながら

(前略)私は自分の生涯で今までにあんな感動を受けたことは一度もありませんでした.

 それはあの人ではなかったのです!

と述べたときに,「いや,分かるよ」と思っている自分がいた.

人一人死んでるんだけど,行く先々でジャンビエと共に一杯ひっかけながら捜査するメグレは始終良い心持だし,「そうですわ」と答える女性が爽やかでさえあって,なんだか楽しげな読後感だった.


「あの人の眼が《心の中に》向いていたから……」


(前略)「最悪の悲惨事でさえ,大ていの人間の場合,食べ物を味わう妨げにはならないのだ……(中略)

『ひと口だって食べられないわ』と未亡人が断言する.

(中略)おしまいに家族の者がみんなテーブルについて,死者をひとり置きざりにする.そして,二,三分たつと,みんなががつがつ食べているのだ.シチュウの味がうすいというので,塩と胡椒をくれというのは,未亡人なのさ…….(後略)」

まあ,そういったもんでしょう.人ひとり死んだからといって生きてる者は生きることをやめはしないんだから.


疑問:

2001/9/19 読書開始 - 読了