Barbaros

そっと扉が開かれると、光が薄暗い部屋の中に射しこんだ。

扉にはひょっこりと小さな影がくっついている。

間違った隠れ方で体の大半を出しながら、チョッパーは中をうかがった。耳をパタパタと二回動かすと、かすかな寝息が聞き取れた。

寝ているのはひとり。

意を決したようにツバを飲み込むと、チョッパーは中に入った。

入ってしまうと、音を立てないように扉を閉めた。扉が閉じる最後の瞬間、カチリ、と確かな音がして、そのとたん、チョッパーは、ビクリ、と身を震わせた。そうして、おそるおそるベッドをうかがう。

大丈夫、起きてない。

チョッパーは息をついた。

部屋は薄暗い。

強すぎる陽射しが怪我人に障るからと窓にわざわざ薄い布を掛けたのはチョッパー自身だ。

ソロリ、ソロリ、と船医は寝ている男に近づいた。

緑の短髪も、体の位置も、前に見たときと変わっていない。

チョッパーはソロソロと手を伸ばして、眠る男の額に触った。

眠る男は硬い表情をしている。チョッパーが触れた途端、その眉根が寄せられて、チョッパーはビク、と手を引っ込めた。

しばらく固まったようにゾロを見ていたチョッパーは、泣きそうな顔をしながら入ってきたときと同じ繊細さで部屋を出た。入ったときと同じように両手を添えて、そっと音がしないように扉を閉めると、チョッパーは下を向いたまま深々とため息をついた。

「チョッパー」

声を掛けられ、びっくりして縮み上がると、声をかけたウソップのほうが驚いて、あわてていった。

「あ、あのな、チョッパー。みんなが話がある――っていうより、話がききたいっていったほうがいいな」

扉にひっつくように固まっていた小さな船医は、ぐっと頭を上げ、

「話すことなんてねぇぞ」

せいいっぱいの虚勢をはった声が裏返っている。

ウソップは困った顔をして、なだめるように言葉をつないだ。

「ゾロのことだよ。お前、隠してるつもりなのかも知れねぇけど、帰ってきてからずっとおかしかったからさ。みんな、気づいてるんだぜ。本当のこと、言ってくれよ――」

怯えた表情だった小さなトナカイががっくりと肩を落としたのをみて、ウソップは覚悟はしてるから、という言葉を飲み込んだ。

やっぱり、覚悟なんて全然できてなかった。

何も聞きたくねぇ。

しかし、心優しきうそつきは、ついてはいけないウソがあることも、知らなければならないホントがあることも分かっていたから、ポンポンとトナカイの肩を叩くと、クルーが集まる食堂にその背を導いた。

「連れてきた」

食堂にはゾロ以外の面子が雁首をそろえていた。

真正面に座っているのは、ナミだ。

「チョッパー。まずは座って」

言われるがままにチョッパーはナミの真正面の椅子によじのぼった。下を向いたままのチョッパーの横に、気遣わしげにウソップが座った。

船長のルフィは横に座っていて、その向かいがロビンだ。

サンジは不機嫌そうに壁に寄りかかっている。煙草を口にはくわえていたが、火はつけていなかった。

「あのね、チョッパー。ウソップにきいたかもしれないけど――」

「ゾロのことだ」

黙っていたルフィが急に口を挟み、ひとことだけ言うと、ぐい、と口をつぐんだ。

チラ、とルフィに視線を流しながら、ナミは思い出していた。

チョッパーがゾロを背負って船に駆け込んできたとき、ゾロは手足にまだ鉄の鎖をつけていた。引きちぎったか、斬ったのか、途中で壊れた鎖がジャラジャラとうるさかった。

その錠を針金一本で外したのはナミだった。

簡単な構造だったのに、手が震えてなかなか取れなかった。触れるゾロの手足が冷たいのが、ナミの手を震わせた。

「そう、ゾロのこと。ゾロの容態のこと。ちゃんと知りたいのよ、チョッパー」

覚悟を決めて問いを口にすると、たいして小さな船医は――

顔を上げて、目をぱちくりさせた。

「ゾロ?ゾロは大丈夫だぞ。眠ってるだけだ。いつも思うんだけど、あの回復力は異常だ。たぶん、寝飽きたら起きるよ。なんか、俺、医者として役に立ってるのかなぁっていっつも思う……」

「ああ?じゃ、なにか?ありゃ寝てるだけなのか、あのクソ剣士は」

突然、背中だけの力で壁からはねあがると、くわえ煙草のサンジはそれを吹き飛ばしそうな勢いで声を上げた。

「うん、まあ、衰弱しているのは確かだから、本当は早いとこちゃんとしたものを食べた方がいいけど」

「なんだぁ。おめえがゾロのとこから出てくるたびに暗くしてるから、死んじゃうのかと思ったぞ」

と麦わらの船長が明るく笑うと、ナミもウソップも疲れたような顔をした。

「じゃ、チョッパー。お前がこないだから元気なかったのは、医者としての自信つーか、存在価値つーか、そっちのせいか?」

途端に、みるみるチョッパーの表情が暗くなり、食いしばった口元から(しぼ)り出すように、

「俺、俺、ひどいヤツなんだ」

ポロリ、と涙が一粒こぼれ落ちた。

沈黙が降りてから一拍おいて、人体実験でもしたのかしら、とロビンがいった。

 *  *

一日もあれば一周できそうな小さな島だった。

様子見と称して一回りしてきたナミとサンジ(だからサンジは御機嫌だ)を、待ちくたびれていたルフィがすっ飛んでむかえた。

「な、面白そうなもん、あったか?出ていいだろ?な?な?」

「そうねぇ」

もったいぶったようにナミは人差し指をあごに当てた。

「この島ね、海軍がいないんだって」

「なら、出ていいな!しゅっぱーつ!」

「待て」

飛び出そうとしたルフィの首根っこをナミが押さえた。

「だいたい、お前、海軍いようがいるまいが出てく時は出てくじゃねぇか」

小声でウソップが突っ込む。

「治安もそう悪くはなさそうだし、今日は皆で宿に泊まろうと思うの」

「そうか、そりゃ、いいな、じゃ、しゅっぱー……」

「だから、話を最後まで聞きなさいよ、あんたは!!」

またナミがルフィのシャツをひっつかむと、息がつまったルフィは、とりあえず、おとなしくなった。

「いい?ログポースは三日で溜まるから、それまでは自由行動よ。宿は目抜き通りにある『白クジラ』ってとこに取ったから。とりあえず、クジひいて船番の順番を……って、それはいっか。ウソップ、あんた、ルフィと一緒に行って宿まで連れてくるのよ」

「ええ?俺が?」

「最初に宿の場所だけ教えればいいから。その後は迷っても放っておきゃいいわ。いい、ルフィ、ちゃんと覚えるのよ。それから、騒ぎは起こさないでね。ウソップ、あんた、ちゃんと見張ってよね」

「無理だよ、ムリ。俺に止められるわけねぇだろ!!」

「しょうがないじゃない。サンジ君は食材買いに行ってもらわなきゃならないし、ゾロは船番だし――」

「決定かよ」

「反対してないからいいじゃない」

「そりゃ、おめぇ、サンジはおめぇに逆らうわけねぇとして、ゾロは寝てるから――」

「ちょうどいいじゃない。そうなると、後はあんまりいないでしょう?まさか、あんた、女の子のあたしやロビンにそんなことさせないわよね」

「お前らの方がつぇえじゃねぇか……」

「なんか言った?!」

言ってません、言ってません、とブルブルと横に首を振っているウソップを、わし、と伸びた腕がつかんだ

「行こうぜ、ウソップ!じゃ、後でな!」

「まて、ちょっと、待ってくれぇ〜!」

絶叫を上げながらウソップが遠ざかっていく。

「ウソップ、大丈夫かな……」

チョッパーがすごい勢いで小さくなっていく二人を見つめながらつぶやくと、

「大丈夫よ、あれで打たれ強いもの」

あっさり言い放った航海士を前に、チョッパーはウソップ、かわいそう、と今度は心の中でつぶやいた。

「それより、ねぇ、チョッパー、私と一緒に来ない?こんな小さな島なのに、けっこう大きな本屋があったの」

「え、本当か?」

たちまち、船医の頭の中からはかわいそうな狙撃手のことは消え去ってしまった。

「行く、行くよ、俺」

「よし、決まりね。ロビン、あんたも来ない?」

「私は後で行くわ。今は本よりも、あれを調べてみたいの」

す、と白い手が指すのは――

「あら、気づかなかった。塔?かしら。古そうね」

「ええ。ここからじゃ詳しくは分からないけど、数百年は前の様式だと思うの」

「へえ……じゃ、後で落ち合わない?ちょうど本屋もそっちの方だから」

「ええ、いいわ」

「じゃ、お昼に、そうね、目抜き通りの入り口に通りの名前を書いた大きな看板があったからそこで」

「ええ」

「サンジ君、買い物、よろしく〜」

「はい、ナミさん!!」

名残惜しそうにひらひらと両手を振った後、サンジはクルリとロビンのほうを向いた。

「ロビンちゃん、途中までエスコートしますよ」

「ありがとう。でも、いいわ。準備もあるし。それに、みんなで船をあけてしまってはまずいのではなくて?あなたが帰ってくるのを待ってからでも――」

「船番なら心配ないよ、ロビンちゃん。船番するために生まれてきたようなヤツがそこで寝てるから」

くい、とサンジが親指で指した先に大口を開けて寝こけている緑髪の剣士が居る。

寝てて番になるのかしら、と少し思う。

確かに、殺気には敏感なんでしょうけど。

他にも気がつかなければいけないことはいくらでもある、と思うのだが、他の乗組員(クルー)はそうは思わないらしい。

まあ、いいんでしょうね。

そこまで思って、フフ、と小さくロビンは笑った。

なるようになると思っていて、なったように旅を楽しむ年下の乗組員(クルー)たちにこのごろ感化されてきているのが、自分でも分かる。警戒し続けて渡り歩いてきたのに、この乗組員(クルー)たちにはまったく警戒心が起きない。

信用してねぇと言った剣士にさえも。

気分が自然と羽を伸ばすのはとても気持ちが良かった。

「そう。なら、準備したら私も降りるわ」

「エスコートは本当にいい?」

「ふふ、ありがとう。でも、いいわ。早く行ってらっしゃい」

少し残念そうに眉根をよせると、ひょい、と身軽くコックは船を下りて行った。そのすっきりした後姿を見送ってから船室に入った。調査に使えそうな道具をいくつかと、関係のありそうな本を手早く小ぶりの背負い袋に入れていると、甲板が騒がしくなった。

ギン、と金属のぶつかり合う音がする。

敵襲?

ならば、と能力のために集中しようとしたとき、何かが海中に投げ込まれる音がした。襲撃は小規模だったようだ。

「さすがね」

静かになったので扉を開けると、つい、と剣士は視線をこちらに投げて、島についてたんだな、と言った。

「ええ。今は自由行動中。私も降りようとしていたのだけれど」

剣士は渋い顔をした。

「賞金稼ぎだろうな」

「そして、準備もしてきている」

ロビンは甲板に転がっている固まりを指さした。

「?」

「海楼石」

「……自由行動の組み合わせは?」

「船長さんと長鼻君。どこに行ったかは分からない。コックさんは一人で食材の買い出し。あとは船医さんと航海士さんが本屋に行くといっていたわ」

それを聞くと、何も言わずに剣士は船べりに手を掛けて飛び降りた。

「どこへ?」

「決まってる」

「本屋ね」

「船番、頼む」

「それはいいけれど……」

「なんだ?」

「場所、分かるの?」

「人の居る方だろ」

「……」

結局、船は放置して、二人で駆け出した。こういうとき,少人数なのは困る。

店が並ぶあたりが見えてくると、ゾロは言った。

「俺はナミとチョッパーを探す。お前はコック見つけてルフィたちと合流しろ。まだ海楼石があるとやっかいだ」

「妥当なところね」

一つうなずくと、ロビンは市場の方を目指した。

背中に視線を感じる。

さりげなく意識をそちらにやる。

ひとり……かしら。

育ち柄、人の気配には敏感な方だと思う。

人型になったチョッパーは何も気づいていないようで、嬉しそうに本を手に取っている。

「チョッパー、こっちの本はどう?」

にこやかに笑いかけながら、ナミは入り口近くに積まれた本を指さした。

「わあ、随分古い本だね!」

どうしようか。

だれかにつけられているなんて急に言ったら、根が正直なチョッパーのことだ、すぐに相手にばれてしまうだろう。

まいったわ。

ロビンとの待ち合わせにはまだまだ時間がある。

本屋にいたままの方がいいか、ばれてもいいから駆けだした方がいいのか。

ナミもチョッパーも賞金首ではない。

人混みにいればあまり手荒なまねはしてこないかも。手荒なまねをされたって、自分とチョッパーだけなら周囲を味方につけることができるはず。

「なあ、ナミ、なんか、さっきからやな感じの臭いがするんだ」

小声でチョッパーが言った。

「やな感じ?」

「うん。猟に使うような――」

チョッパーの言葉を最後まで聞かず、とっさに、その身体を押しのけた。

ナミとチョッパーとの間を何かが空を切っていき、パン、破裂音がした。

「煙幕?!」

「ナミ、ナミ、大丈夫か?」

「ええ。逃げるわよ、チョッパー!」

駆け出そうとするのを、チョッパーが止めた。

「何?」

「乗って。この方が速い」

完全にトナカイの姿になったチョッパーの言うままにその背に飛び乗ると、白煙を突き抜けてチョッパーは走り出した。

「どっちに行こう?」

「メリー号。ゾロがいるはず。だれか探すよりその方が確実」

「分った。しっかりつかまってて」

ときどき鳴るのは銃声だ。

「もう!こっちは飛び道具なんてないのに!」

それに、この分だと、追っ手の数はかなり多い。

()けられて、仲間を呼ばれたってとこ?

「あ!」

小さな悲鳴とともに、走り続けていたチョッパーの身体がガクッと沈んだ。

つかんでいた角が急に小さくなり、勢いのままにナミの身体は前へと投げ出された。地面にぶつかった衝撃を転がって殺すと、痛みを押さえて、無理矢理身を起こす。

「チョッパー!」

小さな身体が力なく横たわっている。手を伸ばそうとしたとき、威嚇のように銃声がして、弾が近くの地面をえぐった。

「く……」

いつの間にか、人々は建物の陰に隠れてしまって、いなくなっている。襲ってきた奴も姿を見せない。

どこにいるのか。

隙を窺おうにもこれじゃ……

突然、背後に風を感じた。

とっさに身をひねって攻撃をかわすと、天候棒(タクト)を構え、横たわるチョッパーを襲う男を力一杯殴りつける。うめいた男が倒れると、目の前には別な男がまたひとり、もう、チョッパーに剣を振り下ろすところだった。

とっさに自分の身体をトナカイの上に滑り込ませていた。

身を固くし、目をつぶる。

ザ……

刃風が。

一陣。

「立てるか」

聞き慣れた声。

不揃いに数人崩れる音。

「ゾロ……」

ナミは顔を上げ、ふ、と力を抜いた。

「遅い」

怒ったつもりだったのに、目の端に涙がにじみそうになった。

ああ?といつものように不機嫌そうに言ってから、

「立てるか?」

ともう一度問う。

それではじめて、ナミはゾロが刀を抜いたままなのに気づいた。

「私は大丈夫。でも、チョッパーが撃たれたらしくって急に……」

「大丈夫だ」

「え?」

「海楼石だ」

そっとチョッパーの身を抱き上げると、地面に奇妙な石があった。

「すぐには動けないだろ。俺が足止めする」

「まだ敵が?」

「ああ」

ゾロは短く答えると、黙り込んだ。

チョッパーを抱えると、ナミはゆっくり立ち上がる。

「いけ!」

剣士が言うなり、航海士は脇目もふらず走り出した。

ふぅ、とサンジは煙草の煙を吹き出した。

「で?」

甲板には人影が六人。

「あのクソ剣士は帰り道が分らなくなったわけだ」

「そうなのよねぇ。まったく、ロクなことしないんだから」

「いや、おめぇ、助けてもらっといてそりゃねえだろ」

「だってホントのことじゃない」

「なー、サンジー、それより肉〜」

ウソップはだるそうにしているチョッパーをあおぎながら、首を振った。

「チョッパー、大丈夫か〜」

「うん……」

ひっくり返っていたチョッパーはなんとか船縁に寄りかかって身を起こした。

「あのな、ゾロ、捕まっちゃったんじゃないかな」

「馬鹿だな〜、チョッパー。ゾロだぜ、ゾロ。あいつ捕まえるって、どんな化けもんだよ、そりゃ」

ウソップが言うと、チョッパーは真剣に仲間を見上げた。

「最初に本屋で俺が嗅いだ臭い、狩りに使う麻酔の臭いだったんだ」

「はは、でも、ちょっとやそっとじゃ当たんねぇぜ?」

ウソップのあげた乾いた笑いをロビンが静かに止めた。

「煙幕になるように打ち込んだら?流れてきた空気に包まれたらどうしようもない」

シン、とした船上に波の音が打ち寄せる。

そして、ゾロは帰ってこなかった。

次の日も。

その次の日も。

――乾いている。

薄暗い石壁が周りを囲み、手足を拘束されていた。

足の枷は短く、手首の鎖は長い。四肢がピンと張るほど短ければ、それに任せてもう少し楽に寝られたんじゃないか、と思う。変に鎖が長いせいで、眠りにつけば重みで前に頭が垂れる。起きてみると、逆さに吊られてでもいたみたいに、頭に血が上ってぼうっとしていた。

辺りが薄暗いのは、ここが牢だからだろう。

広さにして半畳ほど。

足元をチロチロと水が舐めている。ゆったりと寄せては返すところを見ると、それはおそらく海水だ。

腰のものは取り上げられていた。

失態だ。

ここに来てから、人影は見ていない。

しかし、視線はたまに感じるから、どこかに見張り穴はあるのだろう。

なんのつもりか、どうするつもりか、分らない。

最初は感じていた空腹も、今は遠い。

まあ、いい。

いつもゴーイングメリー号の甲板でしているように、目を閉じた。

唇はひび割れている。

そして。

――乾いている。

町は小さいのに、ゾロはなかなか見つからなかった。

「町ぐるみかな、とも思ったんだけどね……」

用心してルフィを連れて目抜き通りに赴いたナミが帰ってくるなり言った。

「謝られたわ」

「謝られた?なら、グルってことじゃ――」

「そんなんじゃなくて、『見捨てて逃げちゃってごめん』って感じ」

「ナミが凄んだらタダでメシ食えたぞ」

「そんなことしてないわよ。ちょっと涙ぐんで見せただけ」

「ゾロがつかまりゃメシがタダだ!」

ご満悦のルフィの腹はまんまるだ。

「違うだろーが、おめぇはよ。ちったぁ心配してやれよ」

ウソップがこづくと、コィン、と首をゆらしながら、心配なんかするか、ルフィが笑った。

「だってゾロなんだぞ」

「で、そっちは?」

ロビンとサンジの二人組に水を向ける。

「怪しそうなところはなかったわ。治安がいいというのは本当なのね」

「そうなんだよ、ナミさん。あの野郎のことだから、普通の家なんかじゃ隠しておくのもムリだろ?だから、それなりな頑丈な牢だとかそういうもんがないかって思ったんだけどさ」

「薄暗い人間の来るところじゃないのね、そもそも。そして、旨みもないから海賊とも賞金稼ぎとも海軍とも無縁」

「手がかり無しかよ〜。おめえら何してたんだよ」

ウソップが言うと、

「あんだと?ならてめえが一人で行ってマリモヘッドから抜け落ちた人外色の髪の毛でも見つけてこい!蹴るぞ!」

「もう……蹴ってんじゃ……ねぇかよ……」

甲板にめりこんだウソップの周りで医〜者〜と叫びながら動揺したチョッパーがウロチョロしている。

騒ぎを無視してナミがロビンに疑問を投げた。

「でも、あんた、賞金稼ぎだって言ってなかった?」

「言ったのは剣士さんだったけど、私もそうだと思うわ」

「ついさっき、賞金稼ぎとは無縁だって言ったじゃねえか」

復活したウソップが口をはさむと、黒髪の考古学者は静かに頷いた。

「そう――この町の住人自体はね」

「どういうことだ?」

微妙に話から脱落しそうになっているルフィが首をひねっている。

「海楼石準備して、しかも、船から離れた賞金首じゃないナミさんを襲ったんだ――」

俺もいたぞ、というチョッパーの小声はもちろんサンジの耳には入らない。

「――追ってきたんだよ、俺たちを」

「あるいは先回りしたのかもしれない」

「そっか、ログポースの指し示す次の島が分っていて、その島のエターナルポースさえあれば……」

「じゃあよ〜、なんでこっちに取引とかそういう話を持ってこないんだよ。『人質を帰してほしくば』とかなんとか」

「六千万ベリーで満足したのかも」

会話がとぎれた。

「……俺のせいだ。ちゃんと見てたら、海楼石なんて避けられたのに……」

赤い帽子を目深にかぶって、チョッパーは下を向いた。

「――大丈夫だ」

ポン、とルフィがチョッパーの肩に手を置いた。

「でも……」

「そいつら捕まえたのゾロなんだぞ。斬られておしまいだ」

「――なんなのよ、あんたのその根拠のない自信は」

にっかり笑っているルフィに文句をいいながらも、なぜか笑いが浮かぶ。

「別にまったく手がかりがないというわけでもないの」

ロビンもわずかに笑みを浮かべながら、話をつないだ。

「それを早く言えよ」

「簡単な話。ここしばらく、港を出た船はない」

「まだ、この島にいるってことね?」

「賞金を得るには海軍支部のあるとこにいかなきゃならねえから、必ず船は出る」

サンジが煙草に火を点けながら言うと、ロビンは頷きつつ、

「それから、住民でないなら、急に隠れ家は作れない」

「でも、それらしい建物はないんでしょ?」

「急に住人が変ったって家も都合のいい空き家もね」

「じゃあ――」

「私たちが調べたのは町だけなの。人の住む」

「あ……」

さ、とナミの頭が上がった。

「そう。可能性はあると思わない?」

視線の先に古い石造りの塔があった。

ふと、目が覚める。

壁の中に立ちこめた湿気た空気が気怠(けだる)い。

高窓の鉄格子から差し込む光は白い。

日は高い。

格子から差し込んでいた光を見つめいていたとき、急に視界が暗くなった。

別に、日が翳ったわけではない。

頬に当たる日の光は変わらない。

己の視界が狭まっただけだ。

見上げていた(こうべ)を垂れると、両の手を拘束する鎖がジャリ、と鳴った。

――血が、足りねぇ。

別に斬られたわけでもないのに。

そんなことを思いながら、また、目を閉じた。

目をキラキラさせながら麦わら帽を手で押さえ、草むらの中をじっとうかがう。長い足のバッタが草の上に乗っている。そーっと手を伸ばして――

「何やってんだ、てめーは」

「あ!」

ぴょん、と大きく跳ねると、緑の虫は元気よく跳ねていってしまった。

「逃げたじゃねーかよー」

「何しに、来たか、わかってんのか、おめーは」

言葉を切るたびにサンジは遠慮なくかかとを落とした。

「ゾロ探しだろ」

「わかってんなら、大人しくナミさんやロビンちゃんがおいでになるのを待てねーのか」

「だって、トノサマだぞ?」

サンジが青筋を立てかけたとき、細い道をウソップとチョッパーが駆けてきた。

「明日だ、定期船が出るのは!」

「きっと、その船で連れてく気だ!」

息を切らしながら二人が咳き込むように言った。

「そう。じゃ、今日中に何とかしたいわね」

「あ、ナミさん、ロビンちゃん、お帰り〜」

両腕を広げて目からハートを飛ばしているサンジはいつものごとく無視して、ナミが言った。

「ビンゴだったわ」

「じゃ、ゾロがいたんだな」

「見たわけじゃないけれど」

「剣士を一人捕まえたって見張りっぽいのがしゃべったわ」

「よくしゃべったな、おい」

「穏便にはしたつもりなのだけれど」

いつものごとく冷静なロビンの台詞を聞き、ウソップは心の中で合掌した。

「出入りの足跡を見る限り、数は多いわ。手練れがいるかどうかは分らない」

「ま、いいや。全部まとめてぶっつぶす!」

あんたねぇ、とナミがルフィの額を揃えた指先でこづいた。

「ゾロがどういう状況かも分かんないのよ?」

う〜ん、と数秒だけ頭をひねり、クル、と元に戻すと、ルフィは言った。

「全員ぶっつぶせばともかく親玉は出てくるだろ?」

「ゾロを盾に取られるかもしれない、て言ってるの!!」

いいざまだな、とつぶやいたサンジの横顔は不機嫌そうだった。

「……船長さんの案、悪くないかもしれないわ」

「何か考えが?」

「いい案じゃないけれど。ともかく、こっちには剣士さんがどこに捕まっているか探る時間がない――」

「そうね、今日中にケリはつけたい」

「だから、正面切って仕掛けて、その間に――」

「別働隊が探すわけですか。でも、どこを?」

「当たりをつけた場所と相手が導く場所」

音が、聞こえなくなった。

かわりに別なものが聞こえる。

いや……聴覚が別な感覚に摩り替わっている。

気配が――呼吸が――聞こえる。

目を開ける。

見えている。

だが。

世界が異質なように思えた。

――呼吸が、五月蠅い。

わずかに紫がかった美しい刀身を眺めてから、ガリは目を上げた。子分たちは、もうすぐ大金が入るという期待で上機嫌だ。

「いよいよ明日だな、ガリ」

フーレが声を掛けてきた。

「天気が良けりゃな」

「心配性だなあ。こんなに晴れてるんだぞ。予定通りさ。船は出る」

「たぶんな」

「できれば、あの間抜けそうな船長も捕まえたかったな」

いいながら、フーレは壁に貼った手配書をパンパンと叩いた。

「欲はかかないがいいさ」

「ホント、昔から慎重だね、お前は」

「そのおかげでやっていけるんだぜ、この稼業」

「ヘイヘイ。そうでござんした」

おどけたようにフーレは諸手をあげた。

「それで、どうしてる、海賊狩りは」

「捕まってからずっと寝てる。飲まず食わずだ、死んじまったかもな。心配なら誰か見に行かせるか?」

「ああ」

フーレはそれを聞いて、ちょっと肩をすくめると、近くにいた男に牢を見に行くように命じた。加えて、ガリも言った。

「気をつけろ。あれで六千万の賞金首だ」

「へい」

様子見は出したが、実際のところ、ガリにとっては生きていようが死んでいようがどうでも良かった。

賞金首は生死不問(デッドオアアライブ)だ。ただ、生きていて、十分弱っているなら一億も釣れるかな、と思っただけだ。フーレにはああ言ったが、大所帯になってくるにつれ、大物を狙える代わりに必要な金も増える。

とはいえ、無理はしない、それがガリのモットーである。

実際のところ、今回は幸運だった。もっと手がかかるかと思ったら、思いがけなく六千万が転がり込んだ。

その上、そいつが持つ刀がなかなかのもので、どれも高く売れそうだった。

ガリは眺めていた紫の刀身を緋色の鞘に納めた。一目見たときから、その寒々とした刀身がガリを惹きつけて放さない。他の二振りもいい刀だが、これは。これは別格だ……

ずっと、己を呼ぶ〈声〉がする。

(うるさ)い。

それに混じって近づいてくる呼吸。

ここに来て初めてまともに近づいてくる人の気配を感じた。

「死んだかな」

近いはずの声は遠くからのもののように思える。聴覚が摩耗している。それよりもずっと(うるさ)いものが――

ガチャガチャと格子を開ける音がした。

生物の体温が近づいてくるのを感じる。

己に触れようとする生物――人――腕……

急に意識を鋭角にとりまとめて、その喉笛に食らいついた。

「……が……が」

喉に噛み付かれ、まともに声も上げられない男の腕が、必死に何かをまさぐっている。ゾロは顎に力を篭めた。腰をまさぐっていた腕は、おそらく、(サーベル)を抜こうとしたのだろう。しばらく、むなしく空を切った後、手が上がって、闇雲にゾロの首を締め上げてきた。

首の筋肉が盛り上がる。

爪がガリガリと首をひっかく。

抵抗をよそに、上顎と下顎とを、無理やり合わせた。

「ぐ……ぁ」

突然、抵抗がなくなった。

ゾロは顎だけで崩れそうな男の身体を支えた。

鉄の味のする液体が口に広がった。

渇きのままに、それを啜る。

不味かった。

ひどく、不味かった。

しばらく、その体勢で静止していたゾロは、頭で男の身体を壁に押し付けた。うまいこと立たせた体勢にすると、腰の柄が見える。

少しずつ、少しずつ、柄に近づくように、頭で身体を壁に押さえつけながら喰らいつく位置を変え、男の身体を押し上げる。辛抱強くその作業を続けると、とうとう、ゾロは口で(サーベル)を引き抜いた。

口を放した途端、名も知らぬ男の体が崩れた。

ゾロはそれには眼もくれなかった。口に(くわ)えた(サーベル)が、す、と空中に止まる。と、ザッと空を切った刃が足の枷を打った。鉄の枷はひしゃげたが、斬れはしなかった。

不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ゾロはその動作を何度か繰り返した。

カン、カン、と何度も音がした。

音で誰かが来てもおかしくはない。

だが、ゾロは無頓着に(くわ)えた剣を振り続けた。

何度目かで片足が開放され、しばらくして、両足が自由になった。

ゾロは口に剣を銜えたまま、両手で鎖を握り、吊り輪の要領で両足を上げると、そのままぐっと身を起こして、腕を拘束する鎖の伸びる壁の止め具の上に乗った。

狭い壁に足と首の後ろとで突っ張るように身を支えると、口に銜えていた(サーベル)を手に移して、剣を振るった。

足のときよりいくばくか早く、手の鎖が切れた。

ザッ、と海水の張る床に飛び降りる。

使い慣れない(サーベル)に眼をやると、ぞんざいな造りの(なまく)らは刃こぼれしていた。

ゾロは無造作に歩き出した。

長い手首の鎖が動かない男の横をずるずると横切って行った。

――呼び声がひどく(うるさ)い。

天井がミシミシいって砂のようなものが落ちてくる。

上からはときどきすごい振動が聞こえる。

「派手にやってるわね」

「そりゃ、ルフィとサンジとロビンじゃな――ッ?!」

長い鼻をかすめて拳ほどの石がはずれて落ちてきた。

「派手すぎだぜ、あいつら俺たち殺す気か!」

「少なくともルフィはなんにも考えてない!」

ナミとウソップは言い合いながら走った。

ロビンが建築様式から当たりをつけたのは地下にあるという水牢。

「たぶん、地形が変わって地盤が上がってしまったのね。高さから考えると、水牢としては機能していないから、溺れ死ぬことはないと思うわ」

とのありがたい言葉を頼りに、地下への階段を駆け下りた。

さほどかからないうちに、牢に使っていたと思われる鉄格子が並ぶ通路に出た。

空の牢は――

「なんか、かえって気味悪いよな」

「口に出さないでよ!」

見張りの一人もいるかと思ったが、今のところ、飛び出してくる人影はない。

「ストップ、スト〜ップ!!」

「え?何?」

突き当たりのひときわ採光の悪い格子の向こうをウソップが指さした。

「人が倒れてる……」

その手が震えてる。

互いに前を譲り合いながら渋々進む。

知らない男だった。

二人しておそるおそる男の身体をひっくり返す。

カッと苦悶に見開いた目を真正面から見てしまい、思わず、二人で大声を上げてダッシュで逃げた。

「見、見たか……」

「のののの、喉が噛み切られてた!」

「猛獣だ、小山ほどある猛獣がいるんだ!」

「怖いこと言わないでよ!」

ナミは力任せにウソップを殴りつけた。声も出せずに頭のコブを押さえているウソップを尻目に、ナミは石天井を見上げた。

「当たりをつけた場所じゃなかったわ、チョッパー」

上からまたコツンと小石が落ちた。

慌てて二人で今来た通路を逆にたどった。

剣を持った男が一人立っている。

周りには呻き声を上げる人間が何人も転がっている。

男は何かに耳を傾けている。

それから、ゆったりと歩く。

大きな長持の前で立ち止まり、蓋を開ける。

二振りの長刀。

白い鞘の刀を押し戴き、黒い鞘の刀を鷲づかむ。

ヒタ、とそこで上を見据えると、男は静かに抜刀し、そのまま歩き出した。

黒手ぬぐいを頭に巻いた男が側を通りかかると、転がっていた男がヒッと小さく悲鳴を上げて、身を縮めた。

その男の上を声のような声でないような低い声が落ちていく。

――(うるさ)い……

床に転がった男はただガタガタと震えていた。

サンジは勢いよくかかとをおろした。

いつものように、妙な手応えだった。

「いってぇ〜何すんだよ!」

「痛くねぇだろ、このクソゴムが!加減しろ、つってんだ!床が崩れてナミさんがお怪我なさったらどうするんだ、ああ?!」

「すびばぜん……」

もめている二人の傍にロビンもやってきた。

「手応え、ないわね」

「そうですね」

サンジはポケットから煙草を一本出して口に加えると、慣れた手つきで火を点けた。

広い入り口の大部屋は蹴られたり殴られたりした男たちがあちこちに転がっている。

「正面切って来ないし、追加請求もないからこんなもんかとは思ってましたがね」

ホント、手ばかりわずらわせやがって、勝手に帰ってこいってんだ、帰巣本能はねえのか、あいつは、とコックはブツブツと小さく続けた。

「ちょっと、あんたたち、加減てもんがあるでしょ!」

「あ、ナミさん!」

不機嫌な調子をサラリと退けて、サンジが喜んで手を振った。

「牢はあって?」

「あったけど、いなかった」

「訊いてくれよ、猛獣がいるんだ、ここは――」

「本当か!」

「目を輝かせるな、あんたは!」

ガバ、と身を起こしたルフィにすかさずナミが突っ込んだ。

「船医さんのほうだといいんだけど」

「チョッパー、大丈夫かな……」

心配そうに見上げるウソップを座り込んだままのルフィが見上げ、

「だいじょう〜ぶ、あいつ、自分で行く、って言ったんだ」

やるときはやる!

「だから、猛獣探しに行こうぜ!!」

違うでしょ、あんたは!の叫びとともに、怒りの鉄拳が炸裂した。

正確に言って、ガリには何が起きたか分からなかった。手にした刀を抜く暇もあらばこそ。

袈裟懸けに斬られた。

紫がかった刀身がガリの手から落ちて、カラン、と音を立てた。床で光る刀身がそれでも美しい。

妖刀の伝説にまた一人の死が加わった。

黒手ぬぐいの男はす、と身をかがめてその手に妖刀を握る。

――こいつか……

呼ばわる声が一番高かった。

その手に取り戻してさえ、まだ。打ち震える刀は治まりたがらない。

いや……

治まりたがらないのは本当に刀だろうか?

ロビンの目配せにしたがって、逃げていく賞金稼ぎの一人を夢中で追った。

けっこうな覚悟で走り出したのに、敵に襲われたのは、最初の一部屋、二部屋だけだった。

なぜなら、途中の部屋から敵とおぼしき連中はことごとくすでに転がっていたからだ。

受けているのは、刀傷。

すごい。

きっとゾロの仕業だ。

助けなんて要らなかったんだ。

「すごいなぁ、ゾロは」

口に出して言うと、なんだかワクワクした。

じゃあ、俺はゾロを迎えに行けばいいだけだ。

助けるつもりで走りこんだから、なんだか残念な気もしたけれど、それよりも、こんな強い剣士と仲間なんだという嬉しさの方が大きかった。

チョッパーが追いかけていた男は途中で見失ってしまったけれど、その時には塔のてっぺんへと進む階段を見つけていたし、何より、賞金稼ぎたちが倒れている部屋の通りに進んでいけば、それでゾロと合流できるはずだ。

上へ、上へと進んで行くと、塔の頂上と思しき部屋の扉の前に出た。

物音はしない。

少しドキドキしながら、扉を開けた。

キィ、と軋んだ音がした。

窓から入った光が、部屋の半分だけを照らしている。

部屋の奥は、暗い。

動く者は、ない。

部屋の奥に、人影が、ひとつ。

だんだん眼が慣れてくると、輪郭がはっきりとしてきた。

刀を三本。右手に一本、左手に、一本、口に一本。

そして。

金の双眸が(じっ)とトナカイを見ていた。

チョッパーはたたらを踏んで立ちすくんだ。

三本刀の剣士は無言でこちらに歩いてくる。

最初に瞳が金色に思えたのは一瞬だけで、見直せば、普段通りだった。

ゾロなのは見れば判る。

でも、チョッパーのトナカイの部分が警告を発している。

――近づくな……

ゾロは近づいてくる。

相変わらず無言だ。

チョッパーは思わず、一歩、二歩と退いていた。

――〈コレ〉は危ない……

ゾロは部屋の窓から下をのぞいた。

下の喧噪も収束しつつある。

ひときわ大きな音がして、土煙が上がると、そこで急に静かになった。

それを見届けると、やけに緩慢に剣士は納刀した。

黒い鞘に、白い鞘に――

赤い鞘に刀を納める動きがひどく遅かった。

チョッパーは声を掛けようと思った。

ただ、一言、ゾロ、と声を掛けさえすれば。

しかし、

――逃げろ、逃げろ、逃げろ!

足が震えている。

逃げろと頭が言っている。

でも、それもできない。

チョッパーの目の前で、ゾロは頭の黒手ぬぐいを取ろうとしていた。なぜか、その簡単な動作に時間がかかっていた。

やっとのことで、ハラリとその黒い布が落ちると――

突然、糸の切られた操り人形のようにグシャと剣士がくずおれた。

 *  *

「それで、俺、ずっと怖くって、怖くって。背中にゾロを乗せてるのに、振り落として逃げ出したかったんだ」

涙ながらに船医は訴える。

「それで、みんなが見えてきて、サンジがこっちみて、『なにやってんだ、このアホ剣士』って怒鳴ったときが一番怖かった」

「俺?俺が?だって、お前に怒ったわけじゃねぇんだぜ?」

それに、正確に言えば、ゾロに対しても怒ったわけではなかっただろう。本人は否定するだろうが、ただ、心配を怒りの態度でごまかして見せただけだ。きょとんと、サンジは眼を丸くした。

「うん、分かってる。でも、その時、なんか――上手く言えないけど――ゾロの気配が濃くなって……だめだ、って思った。自分に向けられた尖った気配に反応するんだ、無意識に、きっと。だから、サンジにはすぐに料理の準備を頼んで――」

そういえば、そうだった。サンジの顔を見るなり、チョッパーが「液体で栄養があるものを作れ」と難しい注文を出したので、とたんに、衰弱が激しいのだと気づいた。それと同時に、餓えの記憶が襲って、空恐ろしくなったのだった。

「何かの拍子にゾロが反応するのが怖くって、みんなを近づけたくなかったんだ。それでも、俺、ゾロを診るのが怖かったんだ。――患者が怖いから診たくないなんて医者として最低だ。仲間が怖くて振り落として見捨てていきたいなんて、俺、俺、ひどいヤツだ!!」

ずっと腹に収めていたことをぶちまけたチョッパーをそっとナミがなでた。

「でも、ちゃんとここに連れ帰ってきたじゃない」

「それに、ちゃんと診てもいる」

「チョッパー、もっと威張っていいぞ。お前は勇敢だ!」

船医が顔を上げると、乗組員(クルー)が笑いかけていた。

「よし、みんなでゾロ見舞いだ!」

ルフィが宣言する。

「ああ?」

「だって、見てみてぇじゃねぇか」

「見てえだけかよ!」

「そういう奴だよ、お前はよ」

「勝手にしてちょうだい」

ヒラヒラとナミが手を振り、ロビンがフフ、と小さく笑った。

不意に目が覚めた。

見慣れた景色だ。

板張りの船室。

円い窓。

慣れた気配。

ゾロは緊張を解いた。

そうしてみて初めて緊張していたのに気づいて苦笑する。

珍しくベッドに横たわっている。

立ち上がると頭がクラクラした。

――腹、減った。

見回すと、近くに愛刀が三本、揃えて置いてあった。

一本ずつ腰の定位置に差していく。

急に扉の外が騒がしくなった。

かと思うと、すぐに静かになった。

そろり、と扉が開き、船医が身体の大半をだしながらこちらをうかがって、驚いたように固まった。

怖がってないか?

「どうした?」

声を掛けてやると、急にその目が潤んだ。

「ゾロ!」

飛びついてきたので、あわててその身を抱きかかえる。

船医はわあわあ泣きながら、ゾロだ、ゾロだ、と繰り返している。

何とも飲み込めず、後からついてきた野郎どもに

「どうしたんだ?」

と訊くと、先頭にいたルフィはあきらかにがっかりした様子で、

「つまんねぇ」

「ああ?」

「なんだ、普通じゃねえかよ」

おどかすなよ、チョッパーと長ッ鼻の狙撃手が言い、子供泣かすな、それでなくても人相悪いんだからてめえは、とコックが訳の分らないことを言った。

カチンと来たが、腹が空いていたので言い返すのはやめておいた。

暑くないのかと思うほどいっぱいに日の光を浴びて、剣士は甲板で寝こけている。

「まだ怖いのか?」

小さなトナカイがぞれをじっと見つめているので、ウソップが声をかけてやると、チョッパーはフルフルと首を振った。

「俺、何であんなに怖かったんだろ」

「まあ、怒ったゾロは怖いからな」

敵じゃないから平気でいられるだけでさ、とウソップが言うと、そうか、とチョッパーはつぶやいた。

「あっちで釣りしようぜ。今日の餌はすごいんだ。なんてったって、ウソップ特製練り餌スペシャル、これに食いつかねぇ魚はいねぇ!」

「ほんとうか!」

キラキラと瞳を輝かせると、チョッパーはトテトテと歩き出したウソップの後を追いかけた。

でも、と、ちょっとだけ立ち止まって、眠る剣士を振り返る。

やっぱり気のせいだったのかなぁ。

確かに怒ったゾロは怖いけど、〈あれ〉はそんな感じじゃなかった。

ぜんぜん、言葉が通じないような。

人の言葉も動物の言葉も操れる自分にさえも通じないような。

そんな感じだったのに。

今、見ているゾロはひどく平和で暢気そうだ。

「おーい、チョッパー」

「いま行くよ」

慌てて船医が駆け出すと、後尾甲板にはゾロだけになった。

その髪を、凪いだ風がそよそよと揺らしていた。

平成十六年十一月十日 初稿

平成十七年十一月二七日 第二稿


2004年開催の「魔獣聖誕祭2」(主催:ロウさん『大剣豪時代』)に参加させてもらったものの加筆修正版です.

今年(2005年)も参加したかったけど,「魔獣」なゾロは私には難しかった.私の中ではゾロはあんまり「魔獣」のイメージがなくて,最初っから大口開けてゲラゲラ笑っているあんちゃんなんですよ.なんせ,「魔獣」と呼ばれていたことに気づいてなかったぐらいですから.

この話は頑張ってひねり出したけど,ちゃんと魔獣になってるかな?

概ね書き上がって,さて題名をどうしようという時,「言葉の通じない人」という意味の言葉を考えていて,ふと浮かんだのが昔々高校の世界史で習った「バルバロイ」という単語でした.それで、調べたらバルバロイは複数形だったので,単数形に直しました.