青年はわき目も振らずにペイラの待つ家へと向かった。
扉を開けると,昨日と同じく娘は家の中にいた。料理をしていたのだろう、娘はこちらに背を向けてナイフを動かしていた。その手を止めてペイラは振り返った。
「おかえり」
昨日と同じように娘が言うと、昨日と同じように青年は答えもせずに小袋を投げ寄越した。
袋に手を出す娘を青年はするどく見据えた。
「ペイラ」
「なに?」
ふわ、と笑みさえ浮かべそうな娘に浴びせられたのは、
「明日、俺は船に乗る」
ペイラの瞳が縮み、そして拡がった。
「船に乗るって、だって、兄さん、怪我、治ってないじゃないか。漁師の仕事も何も思い出さないじゃないか、それで何ができるって言うんだ!」
うんざりだとでも言いたげに、青年はかぶりを振った。
「思い出さねえのは俺じゃない、お前だ」
「何を言ってるんだい、私は――」
「俺は最初から言っている」
男は息継ぎをして、ひとつひとつゆっくりはっきり言葉をつないだ。
「いいか、俺はお前の兄貴じゃねえ、旅人だ。俺は漁師じゃねえ、剣士だ」
ひとつ言葉が吐かれるたびに娘は左右に首を振った。
「俺は他人の妄想に付き合うほど暇じゃねえ。俺は世界一の大剣豪になるために明日この港を出る。以上」
一、二度首を振りつつ口を開け閉めしてから、やっとのことで娘は乾いた声を絞り出した。
「だって……だって、ならなんで兄貴のフリしたのさ」
「してねえ。お前が俺の刀を持っていかなけりゃ、この家にだっていやしなかった」
「知らない、カタナなんて知らない」
「そうかもな。俺も刀を抱えたお前を見た時、朦朧としていたのは認める。だが、もういい。この家にはない」
「探したの」
「お前が答えなかったからだ。この問答も何度目だと思っている」
ペイラは黙り込んだ。
「剣士だって言ったね。カタナが無かったらダメなんだろう。カタナが無いうちはここから――」
狡猾な物を含んだ口調が青年の表情に険を加えていく。
「確かに、あれは俺の命の次に大事な物だ」
「なら――」
縋るような口調も視線もはねのけて、青年は言い切った。
「だがな、こんな所でいつまでも立ち止まっている訳にゃいかねえ。こんな腕で立ち止まっている訳にゃいかねえ。刀については先生に謝るしかねえが、そのために立ち止まるなら本末転倒だ」
娘は急に表情を消した。
「兄さん」
「違う」
「ここに居てよ」
「できねえ」
「この家でなくてもいいよ、この港には居てよ。そうだ、ラモンさんとこに置いてもらったらいい。きっと頼めば置いてくれる。しばらく経てばきっと思い出す。私のことも何もかも。そしたら元通り――」
「ありえねえ」
一瞬、黙り込んだ娘は、次の瞬間、わああああと人とも思えないような声を上げて叫び出した。
「死んじまえ、あんたなんか」
野菜を切っていたナイフを取りあげると、娘は何の
「満足か?」
ナイフは持ち上げられた右手に突き刺さっていた。
そこからは血が
青年は
食らいつきそうな視線は、あの、海賊を射貫いた視線と同じものだ。
娘は二、三歩後じさると、へなへなと座り込んだ。
青年はナイフを抜いて、傍らのテーブルの上に静かに置いた。
「飯と寝床には感謝するが、おれも稼いだ金は半分渡してたんだし、こんな茶番に付き合ってやったんだからチャラだぜ」
背を向けた青年の後ろから、声が聞こえた。
「カタナなんて――」
首だけで振り返ると、娘が燃えるような目付きで睨み上げていた。
「――そんな物、とっくの昔に捨てちまったよ。今頃海の底で錆びてるさ」
ふん、と鼻を鳴らすと青年はもう振り返らなかった。
「じゃあな」
娘は閉じた扉を座り込んだままいつまでも睨みつけていた。
明かりを落としてベッドに入ろうとした時、ドンドンと扉が叩かれた。
急患か、と呟くとラモンはベッドをあきらめ、寝間着のまま玄関に向かった。目隠しをずらして覗き穴から外を窺うと、こないだの嵐で流れ着いた男が立っていた。
「今、開ける」
頑丈な掛け金を外すと、男は憮然とした表情で立っている。
「まったく、どうしたってんだ、熱か?吐き気か?」
ラモンの鼻先に男はぬっと腕を突き出した。
「怪我だ」
「またか。まったく、ろくなことしねえ奴だ」
「うるせえな。医者だろ?黙って診ろよ」
軽くため息をつくと、ラモンは青年を通した。仏頂面の青年を腰掛けさせると、傷口を何度か布で拭ってからしげしげと視た。
「安心しろ。腱は切れてない」
「当たり前だ。腕なんてやれるか」
「わざとか?器用な真似しやがって」
アルコールを布に染ませてやや強くこすってやると、青年は少し顔を歪ませた。
「医者なんていらないんじゃなかったのか?」
包帯を巻きながら意地悪く言ってやると、ああ、いらねえと答えが返ってきた。
「包帯が欲しかったんだ」
「包帯なんてペイラに頼みゃいいじゃないか」
「そのペイラにやられたんだよ、こいつは」
「何?」
ラモンは包帯を巻く手を止めて気色ばんだ。
「おまえ、まさか、ペイラに手を出したんじゃ」
「出すか!」
ムキになって青年は言い返した。
「明日出てくって言ってやったんだ。最後にもう一度俺はあいつの兄貴じゃないって言い聞かせたんだ。そしたら、ナイフ持ち出してきやがった。手なんざ、出してもいねえし上げてもいねえ」
「……そう、か」
ふたたび包帯を巻き巻き、ラモンは声を落として訊いた。
「納得してたか?」
「知らねえ。俺の知ったこっちゃねえ。だいたい、なんであんな気の強い女があんなことになったんだ」
「そりゃ、私だって分からない。でもな、時に人は弱くなる。自分に
「耐えられる」
「そうは言うがな――」
「だって、人はみんな死ぬじゃねえか。でも、みんな生きてるじゃねえか」
「そりゃ、まあ……」
「だいたい、死人に替えなんてきかねえ」
「……」
包帯を巻き終わるとラモンが言った。
「明日出てくって言ったな。今夜の宿はあるのか」
「これから探す。なんせ、血をだらだら流したままじゃ断られるがおちだったからな」
「いい。泊まっていけ」
少し目を見開いてから青年は頷いた。
「世話になる」
翌朝もよく晴れていて青年の旅立ちを妨げる物など何一つない日和だった。
ラモンの作った朝食は悪くない味だった。
荷物らしい荷物を持たない青年が身軽く出て行こうとするのをラモンは呼び止めた。
「それで、刀は?」
「見つからなかった。ペイラは海に沈めたと言ってたが、海ならもうあちこち潜ってみた。それで見つからないんだ、仕方がねえ」
「丸腰でいいのか」
「どっちにしろ、この町の店にゃ剣はあっても刀はないみたいだからな。もっとでかい町で探すさ」
だいたい、俺はあんたも疑ってたんだぜ、と意地悪く言ってくるのに向かって、ラモンは静かに首を振った。
「私は知らんよ、あいにくな」
ラモンはそう言うと、琥珀色の液体の入った瓶を渡した。
「餞別だ」
「餞別?」
青年は怪訝な顔をした。
「――なあ、ペイラのこと、許してやっちゃくれねえか。両親が火事で死んだのが数カ月前、その時の怪我で弟が死んだのが
「可哀想?」
片眉を上げると、青年は鼻を鳴らした。
「そんなことが他人の道行きを妨げる理由になるか」
「まあ、お前さんの言うことも正論だよ。……だから、その酒付きだ。許してやってくれ」
酒か、と言うと青年は瓶の口を開けた。芳醇な香りがふわりと広がる。青年は瓶に口をつけて一口あおった。
「うまいな」
「だろう?取っておきだったんだ」
ラモンは少し目を細めた。
「ペイラは娘みたいなもんだから、どうしても甘くしたくなるし、ついあんたにも無理言った。だから、まあ、俺の詫びも一緒だ」
「ふうん」
「ま、許しておけよ」
に、と青年は口の端だけで笑った。
「許してやらなきゃならねえ事なんざ、もう残っちゃいねえさ」
「……ありがとう。――あんた、そういや本当の名前を聞いてなかったな」
「ロロノア・ゾロ」
「なんだって?」
ポカン、と口を開けて、ラモンはゾロを見た。
「海賊狩り……の?」
「俺が名乗ったんじゃねえよ、それは」
ゾロは嫌そうに鼻にしわを寄せた。
「そりゃ、あんた、その……だって……いや、納得できるかな」
首を振り振りラモンはしみじみと言った。
「……最初に聞いてなくて良かったよ」
そうして、ゾロは波止場に停泊する船上の人になっている。
客船は大きく、この小さく平和な港からの乗客もそれなりには多かった。急ピッチで進められた補給作業は終わり、嵐による遅れを取り戻すため、じきに出発するだろう。
甲板に所在無くたっていると、人足たちと口入れ屋のおやじが仕事の手を止めて声を掛けにきた。
「残念だよ、あんた、力だけは馬鹿みたいにあったからな」
「『だけ』と『馬鹿』は余計だ」
「へ、へ、へ。まあ、元気でな」
「ああ」
男たちがぞろぞろと降りて行くと、間もなく出港の銅鑼が鳴った。
船は巨体をゆっくり、ゆっくりと動かし出した。
と……。
見送りの人々を割って、無理矢理最前列に出た者がいる。
ペイラだ。
眉をひそめて見ていると、女は船の上のゾロに向かってなにやら投げつけてきた。
とっさに手を出すと、それはずしりと重い小袋で、じゃらじゃらいっているところをみると、どうやら硬貨だ。
怪訝な顔を女に向けると、ペイラはゾロに向かって叫んだ。
「他人の稼いだ金なんか、いらないんだよ!」
それから、長い棒のようなものを、まるで槍投げのように構え……投げた。
その棒のような物が船に届く前に海に落ちかけたので、ゾロはあわてて手を出した。
それは白鞘の――
「そんな物、一銭にもなりゃしないんだよ!引き取ってけ!」
女は真っ赤になって叫び続ける。
「それで、悪名でも汚名でも轟かせてみやがれ!ここに、この辺鄙な港に、その名を届かせてみせやがれ!必ず、世界一の剣豪になってみせやがれ!それでそれで……野垂れ死んじまえ――」
言葉を切り、息を吸い込むと、絶叫した。
「――ロロノア・ゾロ!」
女は叫ぶだけ叫ぶと、肩でぜいぜい息をついた。
「くっくっく」
ゾロは声を立てて笑い出した。
「はっはっはっはっは」
背中を折り、腹を抱えて笑うゾロを、他の船客は遠巻きにしている。それは、血に飢えた海賊狩りの名前のせいかもしれないし、単純に笑い続けるゾロが異様だったからかもしれない。
それでもゾロは笑い続けた。
船がすっかり桟橋から離れてしまうまで笑い続け、離れてからもしばらく笑っていた。
笑いを納めながら顔を上げると、小さくなる女の側に医者が寄ってきて、肩に手を置くのが見えた。
- 祝【ほ・ぐ】
-
- よい結果があるように、祝いの言葉を述べる。
- 悪い結果になるように呪詞をのべて神意を伺う。
平成十七年二月二日 初稿
ゾロは本質的には優しいと思う.でも,自ら踏み出さない人には優しい人じゃないと思う.
あと,巷で言われるほどには刀に執着していないと思う.常識的な範囲で盗られないと思えば触らせるし,貸してもくれる.
ちゅうか,刀は消耗品です.