道

打ち水を終えると、コウシロウは顔を上げた。

空はぬけるように青く、ぽっかりと白い雲が浮かんでいる。今日も暑くなりそうだった。

コウシロウが桶に柄杓を入れて玄関に戻ると、土間の方に人影が動いた。毎日まかないにくる隣に住む老婆だ。

「いい天気だね、先生」

「ええ」

コウシロウは穏やかに答えた。

「今日もうるさかろうね、ちびどもが」

「ああ――」

少し言葉を切ると、すぐにコウシロウは続けた。

「――今日は道場はお休みです」

「おや、そうなんですか」

に、と老婆の皺だらけの口元に笑みが浮かんだ。

「骨休めできますね」

「そうできればいいんですが……」

「ご予定でも」

「予定と言いますか……庭の雑草をむしってしまわないと」

「ちびどもにやらせたらええに」

「こないだやってもらったら、何もかも根こそぎなくなってしまいました」

木は残りましたがね、さすがに、と決まり悪げなコウシロウに、老婆がヒ、ヒ、ヒと笑いながらとんだ災難で、と言った。

「じゃあ、後で青物をいくつかうちの若いのに持ってこさせますよ」

「助かります」

しんなりした漬物をほっこりとしたご飯の上に乗せて食べる。みそ汁をすすると、だしと白味噌の合わさった旨みが口内に広がった。

簡素な朝餉を済ませると、コウシロウは(たすき)がけをして、庭に降りた。言った通り、草むしりをするつもりだ。

夏の草は、少し目を離したすきに驚くほど長くなる。強情なほどしっかりと根を生やした雑草は、ともすれば、ぶち、と音を立てて半ばで切れる。

根っこごと抜かないとまた長くなるのは分かっていたが、それもまた廻り合わせか、とコウシロウは敢えてそのままにした。

長い時間をかけて、同じ動作を繰り返す。

ぶち、ぶち。

ざっと半分ばかり終えたところで、コウシロウは立ち上がり、腰を伸ばした。腰をとんとん、と叩きながら、中天の太陽を見上げる。白い光が目を射るほどに眩しい。コウシロウは目を眇めた。

あとは午後にしようか。

縁側に上った時、(おとな)いの声がするのに気づいた。

そのままのかっこうでいそいそと玄関へ向かった。

「おや、これは、珍しい」

「久方ぶりですな」

玄関には、きちんとした身なりの男が包みを持って立っていた。年の頃はコウシロウと同じぐらい、腰には二刀をたばさんでいる。引き絞られた体つきを見るに、その刀はいまだ飾りではなさそうだった。

奥に男を通すと、コウシロウは着衣を改めた。

「お待たせいたしました」

手に持った盆に茶碗が二つ。

「粗茶ですが」

「ご主人てづからとは、恐縮だ」

コウシロウは客と自分の前に茶を出すと、盆を横に置いた。

畳の間に茶の香りがほのかにのぼる。

「ソウゾウ殿は運が良い。いつもはこんなにうまく淹れられないのです」

「ふふ、剣の達人も家事では形無しとみえますな」

「達人などと、とんでもない」

目の前で両手を振ったコウシロウにソウゾウは人の悪い笑みを投げた。

「ご謙遜を。否定されるとあなたに負けた私の立場が無くなる」

そう言うと、ソウゾウは膝においていた右手をあげ、袖をまくって見せた。

「お覚えか?」

手首の当たりに白い古傷が二筋。

「残りましたか」

申し訳なさそうにコウシロウは表情を曇らせた。

「なんの、名誉の傷だと思っているのですよ、私は。貴殿に秘剣を打たせたのだから」

「秘剣、ですか……」

ソウゾウは茶をすすった。

「秘剣を継ぐ者は現れたのですか?」

「いえ、まだ」

ソウゾウは庭を見た。隅に木偶人形が突っ立っている。いつもは、道場に来る子供たちの相手になっている代物だ。

「もう、十年になりますか」

ぽつり、とソウゾウが呟いた。

「来月が来れば十一年になります」

(たい)らかな声でコウシロウは答えた。

「ご息女が健在であったなら、あるいは――」

「そうですね、あるいは」

コウシロウは自分の湯飲みを取り上げた。一口含むと、とろりとした後味が残った。

「やはり、うまくはいった……」

ごく小さな声で呟いたコウシロウを見て、ソウゾウは片眉を上げた。

「あの子はどうしました?」

「あの子?」

「あの緑の髪の」

「ああ、ゾロですか?」

「そうだ、そんな名だった。彼ならその技――」

「ああ、ゾロには無理です」

「無理、ですか」

驚いたようにソウゾウは目を見開いた。

「これは、私の眼鏡違いだったのかな」

今度はコウシロウの方が少し驚いたような顔をしたが、合点がいったのか、笑みを浮かべ、違うのです、と(かぶり)を振った。

「彼は剣技を教えてもらうようにできていないのですよ」

「そうですか?()かん気ではあったが、素直だったし、努力も惜しまなかったように思ったが」

コウシロウは困ったような顔をして、ぽりぽりと頬をかいた。

「師弟の礼をこそとっていましたが、剣技と言う意味では、ゾロは私の弟子ではないのですよ」

「弟子でない?」

「あの子がどう思っているかはともかく、少なくとも、私は思っていませんでした。なんせね、彼は最初から二刀流だった」

「そうなのですか?私はてっきり貴殿が奨めたのかと」

違うんですよ、といかにも面白そうにコウシロウは笑った。

「最初は、確かに刀に振り回されている風情でした。そのうち無理だと悟ったら基本からと思って放っておいたら、(さま)になるようになってしまった」

そこまで聞くと、ソウゾウも声を立てて笑った。

「どっちもどっちですな。強情に二刀を持ち続けた方も、呑気にそれを放っておいた方も」

「言って聞かせて聞くような子ではありませんでしたから」

思うに、と前おいてコウシロウは穏やかに続ける。

「彼はそこに存在する道を歩く人間ではないのです。道は彼の後ろにできる」

「天邪鬼ということですか?」

違います、とコウシロウは微笑した。

「道があることに気づかないんですよ」

く、く、と含み笑いしてソウゾウは頷いた。

「確かに、見事なほど道が分からない子でしたな」

「おや、ご存じでしたか?」

「ご存じも何も、ここを初めて訪れた時、たまたま道案内を頼んでえらい目に遭った」

「はは、それは知りませんでした」

「コウシロウ殿もえらい所に居を構えたものよ、と思ったものです。本当に、あの迷走ぶりには参った」

二人がひとしきり笑った後、コウシロウはふいにまじめな顔をして付け加えた。

「でも、着くべき所にはちゃんと着くのです」

ソウゾウは湯飲みを取り上げて残っていた茶を飲み干すと、どういう理屈になっているんでしょうな、と言った。

「分かりません、でも――」

コウシロウも自分の茶を飲み干した。

「あの子を見ていると、今、自分が確かに新たな剣の誕生を見ているという気にしばしばなったものです。おそらく、彼の剣技は彼一代限りの物でしょう」

「三刀流……」

「ええ。それでも――」

風はそよとも吹いていない。コウシロウもソウゾウもじっとりと汗をかいている。

「その行き着く先を私は見てみたいのです」

それを聞いて、重々しくソウゾウは頷いた。

「おっしゃるのを聞いていると、私も見たくなりますよ」

細めたソウゾウの眼光に鋭いものが宿った。その強い光はしばしその眸に(くゆ)っていたが、やがて、ふ、と立ち消えた。

「今、彼はどこに?」

「分かりません。偉大なる航路(グランドライン)に入ったのは確かなんですが」

「ほう?手紙でも?」

「いえ、賞金首になりました」

一瞬、惚けたような顔をした後で、ソウゾウは呵々と笑った。

「どこまでも意表をついてくれるものよ」

「ええ、本当に」

もう一服(いっぷく)いかがですか、と言うコウシロウに、いやいや、と手を振ってソウゾウは持っていた包みをコウシロウに渡した。

「実は今日はそれで一杯と思ってな」

包みを開くと、青青とした葉に包まれて、鱗を光らせた魚が二尾並んでいた。

「これはいい。刺し身にできますかね」

「温かくなっていませんか」

つい先に話し込んでしまった、とソウゾウは照れたように言った。

「まだ、大丈夫でしょう。井戸の水は冷たい」

コウシロウが立ち上がると、ソウゾウは何か手伝うことはありますかな、と申し出た。

「そうですね、では夕方までに庭の草むしりを」

茶目っ気たっぷりに言うコウシロウを見上げて、ソウゾウはしばし目をしばたいた。

「謹んでお引き受けいたしましょうぞ」

笑いながらコウシロウは勝手へと魚をさげに行った。

それから二人の剣士は襷がけをし、庭に降り立った。互いに持ち場を決めて身を屈める直前、コウシロウはふと陽炎が立ちのぼる囲いの向こうの道を遠く見遣った。人気(ひとけ)のない道は白く真っ直ぐに、す、と続いている。

「本当に今日は暑い」

一言漏らすと、コウシロウは草をむしり出した。

いつの間にかミンミンと蝉が(かまびす)しく鳴き込めていた。


道【みち】
  • ある地点と地点をつないで長く連なった帯状のもの。
  • 目的とする所へ至る経路。道すじ。
  • ある状態に至る道すじ。
  • 人のふみ行うべき道すじ。人としてのあり方や生き方。
  • ある専門的分野。方面。

平成十七年四月四日 初稿