刃

はあはあ、はあはあ。

吐く息は空気に白い。

素足が蹴る地面も白い。

小屋を走り出た最初から、足の感覚など無かった。冷たいとか、痛いとか、もしかしたら意識の外で感じていたかも知れなかったが、それよりもずっと、息苦しかったのだ、最初から。

はあはあ。

盗む気はなかった。

盗んだに等しい振る舞いの後でさえ、盗んだ気は、なかった。

ただ、どうしても知りたかった。

一子相伝の秘事が外から取った弟子に伝えられることなど無いと知っていた。それは、納得していた。わきまえてもいた。

ただ。

焼き入れを前に、人がいなくなったのだ。

手を突っ込んで水温を測っていた師が立ち上がり、熱した玉鋼(たまはがね)弟弟子(おとうとでし)が見ていたあの瞬間、水の前に己しかいなかったのだ。

四角い()れ物の中の波立たない水に、ふいごから漏れる橙の明かりと、それを横切る人影とが映った。薄暗い作業場の中で、閉ざされた水はとても鬱屈したもののように思われた。

長い時間だったわけではない。

ふと気づくと、自分の手が手首まで水の中に入り、その回りに波紋がたっていた。

目を上げると、弟弟子と目が合った。弟弟子であり、師の長子であり、正当な秘伝の継承者。

もし仮に、相手が声を上げたならば、きっと、自分はその場で己の罪を認めただろう。

だが、あのおとなしい弟弟子は、少し驚いたように目を見開いて――

瞬間、彼は走り出たのだった。

薄暗い作業場の中で小屋から、さらに暗い雪夜の森へ。

水に浸した己の腕を抱えたまま、ものも言わずに駆け出したのだ。

雪の上を足跡をつけながら走り、切れるような冷水の小川の中をよたよたと歩いて、顎は上がりきり、手は宙を泳ぐように頼りない動きをしているのに、まだ止まらない。いや、止まれなかった。

はあはあはあ。

荒い息に交じって、後ろから人の話し声が聞こえてきた。暗い森の中を弱々しい明かりがちろちろと見え隠れしている。

とっさに、雪の上に突っ伏した。

己の腕を宝か何かのように後生大事に抱え込み、堅く目をつぶって、息も止まれとばかりに歯を食いしばる。バクバクと心臓だけが血ののぼった耳に響く。じん、と冷えが体を覆う。

話し声が近づき、ウロウロと辺りを(めぐ)る。

その時になってやっと。

――俺は盗っ人になったのだ……

罪が胸の内を握り潰す。

人の声は確かに自分を捜していた。怒声が交じる。罵声も交じる。

さんざん辺りを踏み(しだ)いていた人々は、とうとう過ぎ去って、行ってしまった。

そうして一人残されてしまうと、そのまま、雪に倒れ臥したままの姿勢で熱い熱い涙を流した。食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れた。

師は許してはくれまい。一門の者は地の果てまで追って来るだろう。

抱え込んだこの腕は、秘事を知ってしまった。

焼き入れの水温を知ったこの腕を、よもや彼らはそのままにしておくまい。切り落とされても仕方がない。

日々、刀を打つための修行が延々と続くことにこの朝まで不満はなかった。いや、今だって、不満は無いのだ。

しかし、己は自らその日々を(なげう)ったのだ。もう、戻れない。

流す涙は悔恨であり、絶望だった。

なのに、あの温度を忘れないように腕を抱える自分があさましくてあさましくて仕方がなかった。

かつての一番弟子は見る影も無く痩せさらばえていた。

麓の村人の話では、ほぼ物乞いまがいの生活だったという。よほど困窮していたのだろう。

あれから数年が経っている。あの日も、こんな冬の日だった。

そういえば、ここは自分の作業場に似ている。

雪が覆う土地柄も、粗末な造りも。

夜だというのに、痩せた男はその作業場にいて、壁に背を預けて冷たい()き出しの地面に座り込んでいた。明かりを差し入れると、その目がゆるゆると持ち上がって、己を見た。しかし、動く気配はない。動く力がないのかもしれない。

ついてきた弟子たちに静かにしているように言い、松明を持って男の正面にゆっくり立った。

と……

明かりにキラリと光った物が在った。それは――

「これは、お前が……?」

鉄の刃がただ一振り、ぽつんと冷気に身をさらしていた。拵えはない。ただ、刃だけが。

かつての弟子はゆっくりと頷いた。その瞳は、昔の通り、素朴でひたむきなままだった。

その眸を一度閉じ、再び開くと、腕がゆるゆると持ち上がった。自分に向けて、差し出すように……

「てぇのが俺の聞いたこいつの由来さ」

「で、その刀匠はどうなったんだ?」

「さあな。ただ、後で述懐しているところによると、こうだ。『生涯に何本も刀を打ったが、その一振りほど己の生と覚悟が込められた物はない』ってな」

「なんだ、その後にも刀打ってるのか。俺はてっきり――」

「腕でも切られたってか?」

「ああ」

くっくっく、と笑いを漏らすと、老人は手の内の煙管をかつんと盆に打ち付けた。

「でも、なんでそんな話を今、俺に?」

「くれてやるってのさ、一店の主になった祝いに」

「ええ!?本当に?!」

「二言はない。大事にしろよ」

「そりゃもちろん」

「だがな――」

急に真面目な調子になる。

「――手放し時を忘れるな」

「はあ?」

細かく霧を吹いたような滑らかな刀身も、流々(るる)とした刃紋も、とてもとても手放したくなるような代物ではない。

「お前に運があれば、こいつを持つに相応しい剣士がお前の前に現れる。その時は躊躇うな。刀ってのは使ってこそのもんだし、武器屋ってのは人を見る目もなくちゃなんねえもんだ。見る目があれば、自然と渡したくなるもんさ。努々(ゆめゆめ)忘れるなよ、一本松」

「相応しい剣士ねえ……」

これを他人に渡したくなる時がくるとは思えねえ、と内心思ったが、先人に敬意を表して頷くと、一本松はこれ以上ないぐらいの繊細さでその刀身を黒塗りの鞘に納めた。

平成十七年九月九日 初稿


刃【やいば】
  • 焼き入れをして硬化させた刃。また、刃の表面に見える波形の模様。
  • 刀剣など刃のついたものの総称。


和道一文字や三代鬼鉄と違って,雪走はエピソードがなくて可哀相だ,と思ったんです.

拵えが一番かっこいいのは雪走だ世ね.