ホワイト・リターン

「白のリターンマッチ」ってことで…….

でもリターンマッチできたの誰だろう……(汗).

前回,満場一致(苦笑)でキングオブ可哀想の座に輝いたリョウサカですが……
今回もなんだか可哀想かもです(苦笑).でもまだマシかな.

二代目可哀想は……紅丸かな社かな…….社だろうなあ…….

そしてハゲが予想外に格好良くなってます.むう(汗).

……そして,時事ねた,ようやく懲りました(苦笑).

日に日に、春の気配が強くなる。

風は和らぎ、光は遠慮をやめていく。

そんな、新たな息吹に満ちた日に、そのイベントは用意されていた。

その名を、『ホワイト・デイ』という。

ロバートは赤いフェラーリの運転席でわずかにため息をついた。自業自得に近いとはいえ、助手席に乗せたリョウをちらりと見やる。

「……ユリちゃん乗っけてお買い物のハズやったのに……」

「やかましい」

両断される。ロバートは再びため息をついた。

リョウがバレンタインにキングから手作り(これは全くもって疑う余地のない事実であった)の弁当を貰ったそうなのだ。ラブリーなハート型のおにぎり弁当など持って帰ってきたというから、どれほど喜んでいるかと思えばその落ち込みようたるやすさまじく、朗らかにリョウの部屋を訪れたロバートは、何も言わず開けたドアをそのまま閉めてしまったのだった。

何があったのかは聞かずにおいてやったが、それをさしひくにしてもバレンタインにハート型のおにぎりとは、キングも判断に苦しむ代物をくれたものである。この上なく義理なような気もするが、この上なくリョウを見抜いていると言えなくもない。

そして、「貰ったからにはお返しよっ、3倍返しは基本中の基本だっチ」とのユリのお言葉を、やめておけばよかったものをロバートはまぜっ返してしまったのである。

「本命はクッキーでお断りはキャンデーやったっけ?いや、キャンデーが本命やったかな。地方によってちゃう言うからなー、本命はホワイトチョコでお断りがマシュマロ、キャンデーやと『お友達でいましょう』やとか。笑わしてもろたんが本命の相手にはせんべいっつう……」

ぺらぺらとしゃべり続けていたロバートは、ふと異常に気づいて沈黙した。だんだん泣きそうになっていたリョウが、混乱を極めたのか黒煙を上げてショートしている姿を幻視して、さすがに慌てる。

「おー!?リョウ、しゃんとせえ!火ィ吹いとるで!」

「……マシュマロとキャンデーとクッキーとラムネとせんべいとようかんと雷おこしが踊ってる……」

「なんや増えとるがな……」

しくしくしく、とやっている無敵の龍の姿を某忍者あたりが見たら、やっぱり涙など光らせながら光の早さで駆け去っていくのだろうか。妙なことを心配してやるロバートだった。

結局、むやみにパニックに陥らせた責任を取るかたちでリョウの『ほわいとでー』の買い物に付き合ってやることになってしまい、潔くも未練たらたらに助手席にリョウを座らせている次第であった。

「しゃあないなあ、ほんまにもう……」

「しょうがないのはどっちだ!」

「あれくらいでショートしとってどないするんや!お菓子の名前言うとっただけやろが!?今時ホワイトデーのお返しなんか下着送ったかてええ御時世やのに、お菓子でパニック起こしてどないするねん!?ほんっまにおまえときたら……」

追求の手を止めたのは、『下着(ランジェリー)』のワン・フレーズでリョウが耳まで真っ赤になったからであった。今時珍しい大和撫子である。

「……まあええわ。わいも一緒に見立ててやるさかい、心配せんとき」

「……うん」

ほう、とリョウはため息をついた。窓にひじをもたせるようにして視線を落とす。

「何、あげたら喜んでくれるだろう」

「そらおまえ、心さえこもっとれば何かて喜んでくれるんちゃうか、姐さんやったら……」

『おまえ』が『彼女』のために考え考え選んだものなら、縁日の200円の指輪かて一生モンの宝物になる。そう言ってやるのは簡単だが、それをリョウに納得させるとなったら気が遠くなるほどの手間がかかるのは自明の理であった。

多少つっかえても『あいらぶゆー、ぷりーずまりーみー』が言えるなら、ロバートが心配するほどのことはないのだが。リョウにそれを期待するほど、ロバートは夢想家ではなかった。

「……せやなー、下手にアクセサリーみたいなもの贈るよりは、後に残らないもののほうがええかもな。花とか、お菓子とかな」

「花かあ……。花なんてアジサイとヒマワリとチューリップくらいしか知らないよ、俺」

「何の為に花屋があるんや?イメージ伝えて、作ってもらえばええんや。例えばこう、何や……ユリちゃんやったら、『元気で明るい、それでいて可愛らしさのある』とかな?そしたら向こうはプロやさかいな、バッチリやで」

「イメージねえ……」

ああでもないこうでもない、とつぶやきはじめたリョウをそっとしておき、ハンドルをきる。地元の総合ショッピングセンターにフェラーリで乗り付けるすさまじさはロバートならではの荒業だった。

駐車スペースを探していた真っ赤なフェラーリのかたわらを、細身の人影が通過する。お互いはお互いに最低限の注意しか払わなかったから、自分たちの間に多少の面識があったことに気づかなかった。

余分な筋肉すらそぎ落とした、華奢にさえ見える細身。鍛えられたばねを内包しながら、それをあらわにせずにしなやかで優雅な身のこなしのみを使いこなすすべの冴え。鏡に向かって軽くウインクしてみてはうーん俺様ってば今日も絶好調、などとつぶやくその姿は……説明を必要としないであろう。

透明なフィルムと淡いピンクの和紙でラッピングされた、ピンク色の薔薇の花束を恭しく抱いて、紅丸は顔を上げた。真っすぐ前を見て歩きだす。

いい空だ。夏とも冬とも違う、どこか甘い色合いの青に白い雲が浮かんで、心を浮き立たせる。

結局薔薇の花束を選んだが、彼にしては随分無難かつありきたりな選択であった。何か甘いものでも、と思いもしたが、『ベジタリアンでも食べられるケーキ』というのは存在それ自体が怪しい。調べもしたが、生クリームにカスタードクリーム、ゼラチンに卵。これらを使わないケーキというのは、紅丸が知る限りでは無いのである。ゆえに、その存在は結構な確率で怪しかった。

シャーベットくらいなら食べられるのだろうが、みやげとしては少々季節に合わない。そうなると和菓子だが、それは『紅丸』のキャラクターと微妙に反発する。羊羹片手の二階堂紅丸、大福片手の二階堂紅丸、ういろう片手の二階堂紅丸。……うまいまずいは別としても、却下、であった。

「タークシー♪」

すらりと手を差し上げ、上機嫌で紅丸は車を止めた……。

足取り軽やかにエレベーターから降りる紅丸と、彼を見下ろす深いブルーの視線がすれ違う。ふと視線を振り向けると、『それ』は慇懃なまでの丁寧さで一礼し、入れ替わる形でエレベーターに吸い込まれて消えるところであった。

副音声で、声高に「鼻で笑われた」事を敏感に察知してしまったものの、報復措置を発動するタイミングを逸してしまったことも確実だった。

「……なんか、すごくムカついたんですけど今のはいったい何……」

いくら温和な紅丸様とはいえ、すれ違いざまにしかも男に「ふふん!」とやられて黙っていられる性格ではない。副音声ではあるから、物理的に鼓膜に刺激を与えられた訳ではないのだが、あからさまに「まだまだですね」と言われた気がして、紅丸は不快げに眉をひそめた。そのとたん、花束がばちばちと音を立てる。

「うわ、やべやべやべ……!」

花束を包むフィルムが帯電して、青白い光までもを見せている。こんなものをプレゼントと称して贈ったら、普通の人間だったら触ったとたんに感電してしまう。かの女性に、そんなものを贈るわけにはいかない。なんとかして放電させないことには危険であった。適当なアースを探し、紅丸はあたりを見回した。

「……あっ♪」

いいものみっけ、とつぶやいて、紅丸はこつこつと靴音をさせながら『それ』に近づいていった。入り口付近の掃除に励んでいたその背中に、おもむろに花束の先を触れさせる。

「ぎゃあっ!?」

どばちむ、という盛大な炸裂音と悲鳴はどちらが先だったか。ぷしゅうう、と白煙を上げて伸びているそれに、軽やかなウインクと共に言葉をかける。

「Thank you!」

「……人が真面目に労働してりゃあ何しやがるっ、二階堂!!」

がばあ、と起き上がって叫ぶでっかい彼に、紅丸は憂いを帯びた微笑でもって応じた。

「こんな危険な花束、あの人に渡せないじゃない?その点あんただったら丈夫だしさ。そのダメージ、彼女が食うはずだったと思えば愛しく思えてこないか?七枷」

「……そりゃー、うちのマスターにこんな目見せるのは嫌だけどよ」

「だろ?あんたが食らってくれたおかげで、彼女は無傷。あんたがマスターを守ったんだよ、憎いねえこの色男」

「オウよこちとら喧嘩が強いうえに男前とくらあ!」

あっさり丸め込まれてくれるところが紅丸としても付き合いやすい。七枷社なる炎のアルバイターの事を、紅丸は嫌いでなかった。

「やっぱりよ、いくらバカ強いったってマスターは女の人なわけよ。腕も細けりゃ非力なのよあの人はっ」

「うんうんそうだね、はいはい」

かなり適当な相槌をうってやりながら、紅丸はイリュージョンのドアを押し開けた。目当ての金色の女性の他に、見覚えのある全身真っ黒い姿が視界に入った。

かつかつかつかつ、と無心でフィッシュアンドチップスをほおばり、京は『サービス』でつけてもらったコーヒーのマグを口元に運んだ。タダでつけさせたコーヒーだが、味はいい。本来なら一杯600円は取られそうな代物だった。

「……コーヒーも美味いじゃん。ランチメニューの導入はいいアイデアだと思うぜ、俺」

「ありがとうと言いたいとこだけど……注文するなり『紅丸につけといてね』って言った人の台詞だと思うと複雑だねえ」

キングは苦笑して、京の口元の食べかすを払ってやった。確実に子供扱いされているのだが、京はぐっとこらえた。

「しょうがねえだろ、金無いんだから……。ユキが待ってるホワイトデーだってのにわざわざ顔見せてやりに来たんだ、十分だろーよ」

めちゃくちゃな理屈である。が、京としては十二分以上サービスしたつもりでいるあたりが彼は結構無敵であった。

「素直に『奢ってくれ』って言えば食べさせてあげるのに」

「マジ?じゃ次から金無いときはそうするわ。……今回はー、今日はそれやったらさすがに悪いから大サービスな」

「それでベニーにつけ?ひどいことするね」

「俺はユキ以外の女にバレンタインのお返しなんかしねーの。出血大サービスだぜ、俺が金も無いのにわざわざ昼飯食いに来るなんてよ」

「それはどっちかと言ったら『たかりに来る』じゃないの?キョォ」

「……あー、もう、来ねえぞこの店!」

会話がだんだん漫才になっていく。ウエイトレスには笑われるわキングは楽しそうだわで受けは確かにいいのだが、京はなんだか釈然としなかった。

むすっと視線を転じ、真新しいひとつの花束に目を止める。花瓶に生けられたそれは、普段この店に飾られる花とは明らかに趣を違えていた。

花より緑の葉物を選び、飾ることの多い彼女の選定にしては珍しい、ピンクと白、黄色という淡い色合いで構成された『可愛らしい』と形容できる花束は、京の感覚に言わせればキングよりユキが持つほうがふさわしく思える。平常時において、ユキでないならどんな女が何を持っても興味など抱かない京だが、努めて公平に見た限りの判断ではキングにはよりゴージャスな花の方が似合うであろう。

京の視線に気づいて、キングが短い説明を加える。

「ああ、それ?いただいたのよ」

「そうだろうな。あんたが買ってくるやつとは毛色違うもんな」

「似合わない?」

「そこまで言わねえけどさ……ちょっと『カワイイ』んじゃねえの?あんただったらもっと派手こい花のほうが似合いそうだけど」

下手をしたらいやみだが、京が言う限りにおいてこれはいやみではなかった。それはキングもよく知っていたし、京自身『いやみ』と受け取られる発言をしたとは露ほどもわかっていない。

「そうねえ……でもちょっと嬉しかったの、こういう可愛いプレゼントがいただけるなんて思ってなかったから。スイートピーの花束なんて、もらったことないんだもの」

うさぎのぬいぐるみももらったの、と言ってやはりピンク色をしたぬいぐるみを抱きしめ、嬉しそうにしているキングから、京はなんとなく『女の子』を見てほほえましい気持ちになった。

ドアが開くからんという音にキングが振り返る。つられてドアの方を見やり、京はあちゃあ、と思った。思わず腰がひける。

「いらっしゃいませ……あら、ベニー」

「う。……じゃあ俺はこれで」

すちゃ、と手をあげて腰を浮かせかけ、しかし京は不審そうに眉を寄せた。紅丸のグリーンがかった青い瞳が怖いくらいの真剣さで見すえているのは、京はもちろんキングでもなかった。スイートピーの可愛らしい花束を親の仇のように見つめたまま、紅丸はまっすぐ歩いてくる。

「どうしたの?ベニー」

「……さっきそこで牧師さんに会ったんだけど、これ、あの人に?」

彼が努めて平静さを保とうとしているのがわかる。キングが不思議そうに頷くと、紅丸は京の耳にのみ届く程度の小声でつぶやいた。

「……さっきのはこれか!ちくしょう、やられた……!」

「紅丸……?」

心なしか青ざめてさえいた紅丸は、一息に表情を和ませてキングのほうを振り向いた。春色の、淡いピンクの花束をそっと差し出す。

「先月は、チョコレートありがとう。嬉しかったよ。……これ、お礼」

「くれるの?ありがとう、ベニー……ねえ、どうかしたの?」

「何でもないよ、じゃあ俺今日はこれで帰るね!」

いつものように綺麗に笑っているくせに、妙に思い詰めたような顔をしてきっぱりと踵を返し、速足で店を出ていく。紅丸の様子が普段と違うことに気づいて、京は今度こそ席を立った。

「おい、紅丸!……悪りィ、今度必ずアイツに払わせるから」

キングの心配そうな顔に同様の表情で返し、京は友人を追って店を出た。

遠慮のない速足でどんどん歩いていく紅丸を追いかけ、斜め背後から呼びかける。

「紅丸!おい!何だよ、どうしたんだよ?ねーちゃん心配してたじゃ……おい!?」

肩に手をやり顔を覗き込んで京はぎくりとし、次の瞬間後悔すると同時にうろたえた。

紅丸の頬に、涙が光っていた。

「見るな、馬鹿野郎……」

ぐい、と強引に涙を拭って、紅丸は低く舌打ちした。無言になってしまった京に吐き出すように告げる。

「負けた、って思っちゃったんだよ。スイートピーの花束とぬいぐるみなんて考えつかなかった……考えもしなかった。ちくしょう、俺の負けだよ……悔しい、クソっ……!」

敗北感よりも、パターンどおりの思考しか持たなかった自分に対する怒りが紅丸の中に渦巻いているのを理解する。

「ちくしょおぉッ!」

止める間などなかった。紅丸の足が床を蹴った。辛うじて、京は咄嗟に目をかばうことに成功した。

「雷光拳!!」

「何───!?」

エレベーターホールでwelcomeマットをはたいていた善良なアルバイター氏の背後から、MAX雷光拳に輪をかけて巨大な光球が襲いかかった。八つ当たりを全段ヒットで炸裂させてもまだ肩を震わせていた紅丸は、完全に失神している社に目もくれず、外の階段に続くドアを乱暴に押し開けた。がんがんがん、と足音を響かせながら降りていく。

「おい、紅っ……すまねえ、下ついたら警備員に上で倒れてる人がいるって言っとくからカンベンな」

さしあたってでっかい体を「ふん!」の掛け声ひとつで綺麗に磨かれた廊下の端にぶん投げてやる。心なしかニブい音がしたような気がしたが、それは空耳だと決定を下す。

「紅丸、待てよ!待てつってんだろオイ!」

改めて紅丸を追って外に飛び出し、階段を駆け降りていく京の声と足音が、最新の防音処理を施されたドアが閉まることで室内から完全に遮断される。逆もまたしかりであったから、新たな人間を乗せたエレベーターが涼やかなベル音とともに到着したことに、京は気づかないままだった。

短い、気掛かりな夢から覚めて、社ははっとした。

「やべ、掃除……!」

第一声からして、全く彼は労働者の鑑であった。

「……起きたか」

「アレ、俺なんでこんなとこで寝てんだ……って、八神ィ!?……ここで会ったが百年目、今までの借り全部まとめて返してや……」

社のせっかくの口上は、彼の顔のすぐ横の壁に、旧知の相手がその大きな手をばん!と音を立てて叩きつけた事で断ち切られた。

「久しぶりだな七枷。一つ聞いてやろう。なぜここにいる!?」

真っ赤な髪の下からのぞく剣呑な視線は変わっていない、どころか明確な殺意に似たものすら漂わせている。精確かつ卓絶したベーステク、徹底した無関心さと無感動さに加えて真冬の月を思わせる冷えた美貌で鳴らした『COOL FLAME』の“精密機械”『IORI』が怒りをあらわにしているのだ。

「……おまえこそ何でこんなラヴリーな店に来てんだよ。“アンドロイド”八神庵が……」

皮肉ってやると、ひュ、と拳が飛んだ。それを防ぎ、社は赤い髪の下で苛立ちを隠してもいないかつてのバンド仲間を興味深そうに眺めた。

「その名で呼ぶな!そんなことを許した覚えはない」

庵の背後で、ぼっ、と音を立てて青白いオーラが燃え上がったように社は思った。これ以上触れていたら『燃え移る』……『燃やされる』。そう理性によらず悟り、受け止めていた庵の拳を払いのける。

「悪かったよ。……俺はただの善良なバイト君だよ、ここ給料いいんでな」

待遇もいいんだよなあこれがまた、と続ける社のしみじみ口調に感銘を受けたのかどうかは知れないが、庵は社に興味を失った様子で立ち上がった。

「八神!音楽はやめてねえんだろ?」

庵の背にある見覚えのあるギターケースに気づいて、社は呼びかけた。庵はもはや社に気付きもしないように歩き出した。

「例のとこで、例のごとくやってっからよ。気ィ向いたら顔出せよな」

ひらひらと手を振ってやる社をちらりと振り向き、しかしそれ以上の反応は見せずに歩み去る背の高い後ろ姿が見えなくなってから、社はくっくっと笑った。

「あの『IORI』がねえ……あんな顔するようになるとはねえ。お兄さんは嬉しいぜ」

感覚も感情も捨ててしまったかのような低温の眼差しで、どこか血の通わない、冷えて凶暴な音をベースに奏でさせていたかつての彼が変化したであろうことを察して、彼は嬉しそうに短く口笛など吹いた。

「……っと、掃除掃除……」

立ち上がり、ひとつ伸びをして、社は壁に立て掛けておいたモップを手に取った。

コーヒーの香りのする沈黙。庵は妙に不機嫌に指を組み替え組み替えし、出されたカップに視線を落としたまま無言でいた。

「……紅茶のほうが良かった?」

「違う。……そうじゃない」

尋ねるキングに即座に返し、そうじゃない、ともう一度つぶやいて、ウェッジウッドの『ドルフィンホワイト』に手をかける。白い地に青みがかったグレイで、レースのような縁取りや貝殻やドルフィンが描かれ、エッジはゴールドが飾っている。目に優しい色合いの割には、柄の主張ははっきりしている。

「……何で、あんなのをバイトに入れた」

押し殺すような声で尋ねると、キングは困ったように首をかしげた。

「あんなのって……ヤシロのこと?力仕事を頼める人が欲しかったのよ。よく働いてくれるし」

「何で俺を呼ばない!?」

真面目な顔で言われてしまい、キングはますます困惑した。現実問題として庵にあまりにも愛想がないため、客商売に携わって欲しくないだけの話なのである。慣れてくればこれで結構可愛い所もあるし、彼女自身がその鉄面皮からなにがしかの表情を引き出すプロセスに楽しみを見いだしてもいるのだが、自分の店の従業員にこんな怖い兄さんがいるとなると話は別であった。

「……そんな顔しないで。お願い」

表情としては『腹を立てている』というより『拗ねている』に近いのだろうが、ぱったりねかせて小さくふるえている耳を幻視して、彼女は深くため息をついた。泣き出しそうに見えるのは気のせいだろうか。

「忙しくなるシーズンには、お手伝いしてもらおうかな。人がどれだけいても困る時期、ってのがあるからね。……その時は一番最初に頼むよ」

カウンターの中から右手を差し伸べて、端正な頬のラインをそっとなぞる。あやすように優しく頬を撫でる白い手をとって、薬指の付け根あたりにそっと唇を押しあてて、温もりを感じとるようにしながら甘えるように軽く舌をはわせる。

短くはあったが確かに止まっていた時間は、ウエイトレスの声を合図としたかのように再度流れ出した。

「マスター!明日のご予約のお客様からお電話です!」

「ああ、今行くよ……ごめん、ヨオリ」

「いや……俺もそろそろ失礼する」

握っていた手を離してやり、スツールから立ち上がると、庵はどこに持っていたのか小さな箱を引き出すと放ってよこした。それがキングの手の中に収まるのを確認して、すっと指さして言う。

「右の薬指でいい。してろ。……向きはわかってるな、間違えるなよ」

「向き?」

「……フン!」

問い返しには答えることをせず、踵を返して歩み去る赤い髪の後ろ姿を見送ってやってから、キングはウエイトレスから受話器を受け取った。

「お待たせ、ありがとうね……お待たせしました。ああ、明日のパーティは舞が幹事なんだっけね。何か変更?……二人増えた?わかった、了解。……お金?心配しないでいいよ、本当に。私からも『サウスタウンの英雄』にお祝いさせて」

翌15日にバースデーを迎える『サウスタウンの英雄』ことテリー・ボガード。その彼のバースデー・パーティ会場として指名を受けたのは、彼女にとって誇りでもあり純粋な喜びでもあった。

コードレスの受話器を肩にはさんで、いくつかの事項をメモに書き付けていく。やがて会話がささやかな雑談に変わると、彼女はずっと手の中にあった小箱を開けてみた。

そこには、銀の台にグリーンの色石でハートを象った、特徴的なデザインのリングがあった。

冠をかぶったハートを両手が包みこむというデザインは、アイルランド発祥の『クラダリング』独特のものだった。そしてそのハートが中を向いていれば「恋人有り」、外を向いていれば「募集中」のサインだといわれている。

「……向き、ねえ?」

あの無口で無愛想な男が、どんな顔をして買ってきたのか。二・三度瞬いて、思わずくすくすと笑ってしまった彼女だったが、受話器の向こうで不思議そうな声を出した舞に何でもないよと言いながら右手の薬指にそれをはめる。サイズはぴったり合っていた。

受話器を置いて、キングは手の甲がわからリングに軽くくちづけた。

ハートは、手のひらがわにくるようにはめられていた。

「久しぶりだな。Happyかい?」

「まあまあね。あなたも元気そうで良かったわ」

夕暮れ過ぎて、甘めの照明が照らして来る中、色の濃いサングラスを直して禿頭の男が笑う。ギムレットを出してくれた女の白い手をとって、綺麗な爪の先に軽くキスする。

「今晩あたりどうよ、baby?空いてねえかい」

「あらごめんなさい、定時に帰るって弟に言っちゃったの」

優雅な笑顔でしれっと言い返すキングに、Mr.BIGは肩をすくめてみせた。既に恒例の決まり文句か挨拶と化しているやりとりは、男にとって不快なものではなかった。

「弟君は元気でやってるかい」

「おかげさまでね。大きな病気も怪我もなくて、元気よ」

「そりゃ良かったじゃねえか。……こいつが無駄にならねえってもんだ」

BIGは上着の内ポケットから封筒を取り出し、ひらひらとさせてみせた。その封筒に熱くくちづけて、ひょいと差し出す。

「一週間ばかり、弟君連れてカンガルーでも見に行ってこいや。コアラは抱いたことあるかい」

「……ううん、まだ」

「じゃあ、ちょうどいい。あそこはいい国だぜ、年中過ごしやすいしな。メシは多少大味だが、最近はそうでもねえ。……春休暇とってこいよ、俺が許すぜ」

そう。一応、イリュージョンの背後にはMr.BIGという『ボス』が控えているのである。勿論名前などどこにも出ないし、どの書類を見ても店主・キングとまでしか書かれてはいないが、『万一』のことがこの店ならびに店長の身の上に起こった時、『ボス』はトラブルの元凶となったものを、どんな手段を用いてでも痕跡ひとつ残さずにきれいさっぱり消し去るであろう。

この男がそれを可能にするだけの能力と行動力を持っていることは、キングも良く了解していた。だから努めてトラブルは起こさないようにしてきたし、何か起こっても絶対にこの男の耳には入れないようにしてきた。トラブルの原因となった人なり物なりを、それこそ根こそぎ『消滅』させるくらいのことは、この陽気なハゲ頭は平然と実行して悪びれることなど決してないのであろうから。

普段はいいボスなのだ。基本的に気さくで陽気で親切で、気配りをよくしてくれる。そのぶん、この男の不興を買ったらその場で『処分』さえされかねない。それが『事実』であることも、彼女は知っていた。

春休暇の許可は確かにありがたい。ジャンをどこかに連れていってやりたいものだ、と思っていたのも確かだったから、彼女にその申し出を謝絶する理由はなかった。これを謝辞したところで、この男の怒りを買うようなこともないのだろうが。

「イエス、ボス。それじゃあ、ありがたく春休みをいただいてきますわ。……でも、もらっちゃっていいの?」

「いいともよ。チョコレート、美味かったからな。ほんのお返しだ」

サングラスの向こうでニッと笑う男に、恭しく頭を下げる。貴婦人のような彼女の仕草に、Mr.BIGは満足そうに鷹揚に頷いたのだった。

「そう、その笑った顔が見たかったんだ、my baby」

シャワーを済ませ、戻ってきた姉に紅茶を濾れてやりながら、少年は興味深そうに頷いた。

「へええ……ねえさんのボスが、わざわざ?旅行でも行ってこいって?優しいんだねえ」

「……そうね、優しいボスで良かったわ。優しくないよりずっといいわよね」

キングはパールピンクのつややかな唇に指を添え、品よくため息をついた。ジャンは本物の『コアラ』に触れるというので嬉しそうである。そんな弟を見ているのは、彼女にとっても喜ばしいことだった。

「コアラもカンガルーも、図鑑ぐらいでしか見たことないもんねえ?どんな声で鳴いたりするのかな」

「そうねえ、そういえばコアラって鳴くのかしらねえ」

ほのぼのとした会話を繰り広げつつ、ティー・カップを口元に運ぶ。ちなみに本日のティー・カップはロイヤルドルトンの『ヨークシャーローズ』であった。白地にクリーム色で大輪の薔薇が描かれた、上品で清楚な雰囲気のあるカップである。丸っこいフォルムが愛らしい。

「はい、これ、お茶菓子。もらったんだ」

「もらった?誰か来たの?」

がらがら、と菓子皿にあけたそれをテーブルに置いてやる。香ばしいソイソースとシーウィードの独特の香りが、日本を感じさせる。

「うん、リョウさんが。ねえさんに渡してくれ、って」

「リョウが?一人で?」

「そうみたいだったけど……ユリおねえちゃんもロバートさんもいなかったみたい」

「へえ……。うん、美味しいわ、これ。ジャンも食べるでしょ?ライスクラッカーっていうのもいいわねえ、歯ごたえがしっかりしてて楽しいわ」

『のりまきあられ』は彼女の生活範囲に縁が深くなかったから、いわゆる『ライスクラッカー』、せんべいと『あられ』の区別は彼女には不可能だった。そして、この際それはたいした問題でもなかった。

「じゃ、ぼくも食べようかな……美味しそう」

いただきまあす、と宣言してあられを口に入れる。嵐のような一日の後の、至って平穏なティータイムであった。

袋からひとつかみ取り出したあられを口にほうり込み、ロバートは複雑な面持ちでそれらを咀嚼した。ぼりぼり言わせながら、ため息交じりにつぶやく。

「……そらー、わいかてここのあられ好きやねんけどな。ウマイと思うねんけどな、わいかてな」

「そうだよねえ……ユリもそう思うっチ、確かに美味しいっチよ、だけどホワイトデーにあられって……」

同じく、あられをつまみながらユリが言う。片手には緑茶の入った湯飲み付きである。

「……そんなに変かなあ?」

「「変だよ」」

首をひねりつつ言うリョウに、二人の返答がきれいにハモる。

「ほんまにわいはあきれたで。さんざ迷うたあげくにあられかいな……」

「そうかなあ、そんなに変かなあ……」

「変や。絶対変や」

そうかなあ、とまだ首をひねっているリョウを後目に、ユリとロバートは顔を見合わせて深くため息をついたのだった。

「……あたし、後でキングさんに電話しとく」

「そうしたってや、ユリちゃん……」

「なんだよ二人とも……そんなあきれかえったような顔してさ」

「あきれてるのよッ!」

「この、ぼけ!もう知らんわ!」

「……茶、飲む?」

 反省したのかどうかは知らないが、何やら神妙な顔をして急須を手に取ったリョウのリアクションに、妹と親友は腰が抜けそうになったのだった……。

Author's Note

アップは1998.3.14です.

死にそうになりながらホワイトデーでした(苦笑).何故か時間が無く,直前になっても庵があまりにわんわんな為,あやうく「全没!?」の憂き目に遭いかけましたが,バレンタインねたより登場キャラ増えてます(涙).

そして二代目キングオブ可哀想はかなり満場一致でやっしろくんに決定しました.初代キングオブ可哀想は今回妙な味わいを見せてくれましたです(笑).僕的にはおいしさ総取りな牧師様がお気に入りです.

クラダリングのエピソード,これが書きたかったんですよ.しかし,「右手でいい」って言ってしまうところが庵って……奥ゆかしいんだか弱気なんだか.

キングがうさぎのぬいぐるみ抱いて喜んでるとこなんか自分でも好きなんですけど,かわいいキングってどうも牧師絡みのシーンが多いなあ…….やっぱり趣味かなあ…….