王者睡夢/薄闇の中の夢
置いていった男と置いていかれた女の儚い時間。
再び、こんなにも穏やかに相まみえることなど、なかったはずだった。
「久しぶりね」
情念の薄れた、乾いたものを纏った淡い笑みに乗せてキングは笑った。冷ややかなものは、そこにはない。意外なことに、彼はほっとしてさえいた。
「何を飲む?」
尋ねられ、彼はしばし思考をめぐらせた。
「ああ……。そうだな、マティーニを。スイートベルモットで」
辛口が好まれるようになるにつれ、マティーニにはドライベルモットが使われるようになっていた。それをあえて古式のスイートベルモットを指定する男に、彼女はいささか意外そうな目をした。
「甘いのがお好みだった?」
「いや?……君との間に苦さはいらない」
さらりと大層な台詞をはく。慣れているのか、うろたえもせず鷹揚に彼女は笑った。
「お上手だこと。あなたでもそんなことを言うのね」
マティーニのグラスを差し出す白い繊細な手をそっととらえる。アイスブルーの瞳を見上げ、彼はささやいた。
「私は諦めていないよ、ミス・キング」
「あなたのものにはなれないわ。……ミスター・ハワード」
「君が欲しい」
「おやめなさいな」
「私を選んでほしいのだ」
「駄目よ」
「ミス・キング……」
「私は誰も選ばない。誰にもつかない、そう決めたのよ、ミスター・ハワード」
穏やかにもとりつくしまなくキングは告げた。
「……一匹狼になる気か?」
暗に圧力をかけられてもいいのか、と言う男に、彼女はいっそ小気味よく微笑んだ。
「悪くないと思ってるわ。それに、私はただ狩りたてられるつもりはないの」
取るに足らぬ一撃であっても、必ずや相手も無傷ではいられなくしてみせる。涼やかな瞳に冷気が降りた。氷の矢が男を貫いていく。
「あなたの喉笛、噛み切れなくても……ね」
剣呑に響いたはずの言葉は、愛しむような甘さを持っていた。その年にそぐわぬほどの魔性を帯びた微笑に、吐息がかさなる。
つかんだ白い指先を軽く引き寄せ、その甲に恭しくくちづける。
「君の牙なら……受けてみたい」
白い顔を見上げ、陶然と彼はつぶやいた。にぶい光沢のある金の髪が、甘めの照明に調和していた。
こつこつ、とドアがノックされる音に、彼は目覚めた。毛布をどかし、軽く伸びをして入室を許す。
「──入れ」
「失礼します。よくおやすみになれましたか」
「まあまあだな。コーヒーを」
「はい」
コーヒーの用意をする秘書のきびきびとした動きを眺め、ギースは無造作に口を開いた。
「近いうちにまとまった時間を作りたいんだが」
「どれほど?」
「そうだな。イギリスへ行きたい」
「かしこまりました。三日以内にご用意いたします」
「任せたぞ」
「はい、ギース様」
スケジュール調整から移動手段の確保、道中の食事の手配に至るまで全てを腕利きの部下に任せてしまうと、ギースは葉巻を取り出した。それをくわえる時までには、秘書は火のついたライターを滑らかに差し出していた。
「供はビリーで宜しいですか」
「供?いらん」
「ギース様!何をおっしゃいます」
「いらんと言っているのだ」
「……せめてホッパーか私をお連れください」
「くどい」
短い言葉に怒気はなかったが、リッパーは深く頭を垂れた。ギースは短く目を伏せると紫煙をくゆらせた。その煙を吹いて散らす。
「……ふン。お前を連れていく。支度しておけ」
「はっ?……はい、かしこまりました」
再度リッパーは恭しく頭を垂れ、コーヒーをデスクに置いて退室した。ギースは葉巻を置き、コーヒーカップに手をかけた。
「感傷だな。……私も年を取ったということか」
ただの感傷だと繰り返し、コーヒーに口をつける。淡い吐息には、もはや苦いものは宿らなかった。
入り口に供を残し、一人昔と同じカウンターの席に座した男と視線を交わしあって彼女は微笑んだ。
「ずいぶん久しぶりのような気がするわ」
「そうだな。……君は変わらない。相変わらず……美しい」
「あなたもね。相変わらず、女を喜ばせるのがお上手だわ」
耳に快い、深く響く声が紡いだ“beautiful”という単語は、ありふれた賛辞でありながら無上に美しい発音で生み出されていた。
「君の二年は、私にとっては十五年だった。……少し、悔しい。君と同じ時間を持てたときは短すぎた」
「また置いていかれてしまったのね、私」
寂しそうに彼女は微笑う。ギースは傍らの花籠から一輪の白い薔薇を抜き出し、花弁に軽くくちづけて差し出した。
「何度でも帰ってこよう。私が何と呼ばれているかご存じかね?体が朽ちても地獄からでも舞い戻った男、不死身のナイトメア。言われたい放題だ」
笑ってみせると、それを承けてキングも小さく笑った。
薔薇を受け取り、女はそっと花びらに唇を寄せた。白い花に淡いピンクのくちづけを残し、それを男の胸元に飾ってやる。
「私はここで待っているわ。ずっと」
「何度でも帰ってくる。あの時には戻れなくても」
胸にのばされた繊細な手に、自分のそれを重ねてとらえる。蒼い瞳を見上げてささやき、貴婦人にするような丁重さでその甲に接吻してやる。王者の風格漂う優雅な所作であった。
「それでも、あなたは……私のものになってはくれない」
「君も私のものにはなってくれない。……私には数千人の社員がいるのでね。理由にならないかもしれないが」
つぶやきに返された男の言葉に、彼女は小さく首を振った。
「忘れてちょうだい。愚かなことを言ったわね」
「傷つけるつもりはなかった。許してほしい」
その言葉にわずかな痛みを感じた男が言うと、彼女は唇に微かな笑みを浮かべた。蒼氷色の瞳に涙はなかった。ただ控えめな微笑だけが彼女をいろどっていた。
「ちゃんとわかっているのよ。あなたはたかが女一人を傷つけて楽しむような人じゃないもの」
「……すまない」
短く謝すると、女は静かに首を振った。
「……私が君を忘れることはない。君に誓おう」
宣誓の言葉に、彼女は目を瞠った。
目を伏せ、呼吸を整えるように笑おうとしてついにかなわない。
伏せられた目の端からひとしずくの涙がこぼれた。
「女を喜ばせるのが、ほんとうにお上手ね……。嬉しいわ。ミスター・ハワード」
帰路、リムジンの車内でギースはゆったりと目を伏せていた。そのままの状態で、対角線に座する部下に呼びかける。
「リッパー。彼女と彼女に属するものに、私の手の内にあるものが不利益を与えることは起こさせるな」
「はっ?」
「金でも
なお問いを発しようとして、リッパーはあきらめた。ギースの望みならばそれを実現可能にするのが彼の職務だったが、ギース自身が実現することを望まないと望むことを現実化させるのは彼の職務に含まれていなかった。
ギースが制止しなければ、リッパーは彼女を取り入れるべくあらゆる試算を実行に移しただろう。だが主がそれを望まぬと言明した以上、成功可能性が99%以上になるまで練り上げられた完璧なプランが実行されることなく水泡に帰してもやむを得なかった。そうなったからと言って、リッパーがギースに不服を申し立てることなどなかった。ギースの望みの完璧な実現こそが、リッパーの望みであり仕事であるのだから。
「はい、ギース様。お望みのままに」
恭しい諒解のサインにもはや答えることはせず、ギースは防弾ガラス張りの窓から視線を流した。いつの間にか降り出した雨が、景色を洗っていた。
「美しいな。この街は」
眩しいイルミネーションが街を彩っていた。
「この街が美しいのは、雨が似合うからかもしれんな。……涙を隠しているからかもしれん」
ギース・ハワードらしからぬポエティックな発言だったが、秘書は丁重に頭を垂れた。
「手に入らないというのも、たまにはいい」
得ることがかなわなかった、その不快さえ愛しむようにギースはつぶやいた。
雨脚は強まりもせず、弱くもならずに続いていた。