ch.1.『ホッパー』
ビリーはしこたま機嫌が悪かった。
昨今、挑戦者たちのレベルアップには目を見張るものがあり、彼の敗北自体はそう珍しいものではなくなってきていた。だが、本日の敗北は意味が違った。
相手は某ムエタイチャンプだったのである。
「あのパンツ、次会ったらコロス」
よほどの負け方を喫したらしい。物騒な台詞を吐く顔に、体温を感じさせる要素は全くなかった。
だから、地下駐車場に彼を出迎えたホッパーの、いつもと変わらぬ笑い顔が異様なほどしゃくに触ったのは、本当に『間が悪かった』としか言えなかったのだ。
「お帰りなさい、お疲れ様でした、兄貴……」
ホッパーは、ビリーが勝って帰ってくればもっと嬉しそうな顔をして出迎える。ホッパーにしてみればナーバスになっているビリーへのせめてもの気遣いだったし、それを彼も十分承知していた。だが、今のビリーは衝動的な怒りを押さえることができなかった。
ホッパーのネクタイの結び目を鷲掴みにし、サングラス越しにねめつける。低い、剣呑な声が流れ出た。
「何笑ってんだ、てめえ……」
「へ!?……や、やだなあ、兄貴……俺はいつもこんな顔……」
落ち着いてくださいよ、と言いたげな声がビリーをなだめようとする。だが、噴き上がる時を待つマグマを目前にさせられたような恐怖が、ホッパーの表情をひきつらせた。
「やめて……やめてくださいよ、兄貴……怖いですよ……」
一発ぶん殴られて終わりだった普段の八つ当たりとは意味が違う。『歩く凶器』ビリー・カーンのむき出しの怒りを叩きつけられて、ホッパーは本気でおびえていた。
「やめて……兄貴……やめて……」
震える声が許しを乞う。涙も出ないらしいホッパーの様子に八つ当たりの愚かさを感じつつも、ネクタイを掴んだままの手のやり場に困る。ビリーは小さく舌打ちをした。
「!」
ぎりぎりまで察知できなかった。ホッパーの体を突き飛ばし、棍を構えながら距離をとる。
ホッパーの手が銃を構えていた。
「てめえ……抜きやがったな!?」
全身を臨戦態勢に入らせる。ホッパーの銃の腕前にはビリーも一目置いていた。よもやその銃口が自分に向くことがあるとは思わなかったが、実際に向いている以上一瞬でも気は抜けなかった。
「これが反応するなんて……兄貴……本気で俺のこと殺そうとしたの……?」
壁に体を預け、ホッパーは銃を構えていた。照準はぴたりとビリーに合わせられていたが、膝も腕も熱病患者のように震えている。
茫然とした声の問いかけに尋常ならざるものを感じ、ビリーは説得を諦めた。
当たるはずがねえ。
距離は確かにホッパーの射程内だが、あれほど震えていて弾が当たる訳がない。念のため左右に振ってやって、銃を叩き落としてしまえば、一般人のホッパーを押さえ込むのも気絶させるのもたやすい。
「悪く思うな、ホッパー!」
ビリーの足がコンクリートの床を蹴った。丁寧にフェイントのステップを刻み、棍を繰り出す。
サングラスの向こうの傷ついた瞳にビリーが映る。震えるつぶやきが宙に浮かんだ。
「俺を……殺すの……?」
ゆらゆらと照準を定めていた銃身が動きを止めた。それはこの上ない精確さでビリーの額を見つめていた。
「な……」
間に合わない。
ホッパーの指が引き金を引く。
「ビリー!」
リッパーの声が聞こえた。