裂的回夢/ナイフの見る夢


ぐるぐる回る夢のまた夢。

稲妻のように閃き続けるそれは美しい悪夢。


夜の街中を彼は走っていた。入り組んだ、迷路のような小道を選び、駆け抜けていく。

彼は、追われていた。

「……Shit!」

袋小路に入り込んだことに気付き、やむなく壁を背に立ち尽くす。額にはじっとりと汗がにじみ、彼は荒い呼吸をもらした。

ゆっくりとした靴音が耳についた。眼前に一つの影が現れる。

満月を背にしたそれが笑ったのを、彼の目は見ていた。

「もう終いか?」

「来るな……来るな!」

その言葉も手の中で光るナイフもものともせず、それはゆらりと動いた。月光を浴び、幻想的にすら思えたその動きは、しかし次の瞬間激痛と共に彼を現実に引き戻した。

にぶい音。一瞬で接近を許し、鳩尾に深い一撃を加えられる。避ける事も防ぐ事もできなかった。

「がっ……」

失神を許さないギリギリのダメージに、反射的な嘔吐の発作が起こる。意識せず開いた口に手が突っ込まれた。無造作に。

「弱いな」

その声に宿ったのは、軽い失望に似た無感動さだった。

この男の見せた、エネルギーの束を自在に操る技。それを、口の中でやられたら。

……ころされる。

今まで、多くの罪ない人の命を戯れに奪ってきたはずの彼は、圧倒的な力の前に絶望的な恐怖を感じていた。丸腰のはずの獲物が怪物であった事を思い知る。

「私が怖いか」

ひんやりとした、感情の揺れない声がささやいた。

頷くこともできず、射竦められてただ体を震わせる。冷たい汗と涙、涎と洟が顔を汚す。伊達者で鳴らした姿はそこには見えない。

冷めた青い瞳が、歓喜に似た色を帯びる。退屈しのぎのいい玩具を見いだした子供のように。

「お前のような獣を身近に飼うのも面白いかもしれんな。いいだろう、殺さずにおいてやる。その命、私に捧げろ。一番身近で私の命を狙わせてやろう」


「私のみに所属し、私のみに服従せよ。誓うというなら私に誓え、神が在るだなどとお前も思ってはおるまい?」

月明かりの中で、真正面から真っ青な瞳が見つめてくる。視線をそらさず、そらさせることも許さない、傍若無人なまでの強さで見つめられる。

「私のみに所属するお前を、合衆国(ステイツ)の法も神も守らない。だが、私に従うのなら私が全力でお前を守ってやろう」

それは最初の取引だった。

圧倒的な恐怖にさらされながら、だがその申し出は抗いがたい魅力にあふれていた。

恐怖によって受け入れさせられるのではなかった。自分の意志で、彼は頷くことを選んでいた。

「……Yes. Yes, my master」

膝を折り、冷たいコンクリートの上に跪く。絶対者に対しての、精一杯の忠誠と愛情の証としてその靴先にそっとくちづける。

「名は?」

「……ジェイコブ・エグバートと申します」

「ふん。切り裂きジャックか」

Jack the Ripperという、有名すぎる殺人鬼と同じ愛称を持つ男を見下ろして、彼は薄く笑った。

「私の名はギース・ハワード。法も神も私の前に跪かせてやる」


「俺の夢?……聞いてどうする。言ったところで信じやしないだろう」

そう言ってやると、相手はつまらなそうに唇を曲げた。その相手が行ってしまうと、彼は周囲に人がいないことを確認した。かるく目を伏せて、「それ」を思い浮かべる。

「ギース様の……あの方の心臓引きずり出して食うのが夢だ。あったかい臓物にキスして、頬ずりしたい」


「イギリス?はあ、行ってらっしゃいませ。随分急ですが、飛行機の手配は済んでらっしゃるんですか?……は?まだ!?……念のためお尋ねしますが、宿のほうは?……わかりました。手配しておきますから、とにかく荷物を取りに一度戻ってきてください。どうせ旅仕度もしていらっしゃらないんで……今、空港!?わかりました、大至急全部持って行きますからそこを絶対動かないでくださいね!?」


「お留守の間、勝手に片付けてしまいましたが」

「……見事なものだな」

決して乱雑ではなかったその部屋は、さらなる完璧さで整頓され、行き届いた掃除が施されていた。主が部屋を空けていた数日で、その部屋は高度な居住性と快適な合理性を合わせ持った事務所へと変貌を遂げていた。

「ちょうどいい。お前に仕事をやろう。ハウスキーパーのまねごとにも飽きただろう」

「嬉しいですねえ」

鷹揚に彼が頷くと、主人は金の髪を揺らしてドアのほうを振り返り、促した。ドアを開けて入ってきたのは、彼の趣味と合致するあまり、あえて生活範囲に含めないようにしていた生き物だった。

「ミスター……俺の仕事、って」

「お前に任せる。世話してやれ」

「ちょっ……待ってくださいよ、ミスター!」

事もなげに言われた言葉に慌てて駆け寄り、声を低めて耳打ちする。

「あんまりですよ、俺の趣味ご存じでしょう?あんなバラしやすそうなウサギちゃん、俺に世話しろっておっしゃるんですか?」

返答はやはり無造作だった。

「命令だ。腕一本、指の一本でも落としたら許さん」

「……Yes, sir……」

生殺しだ、と内心につぶやいたのを知ってか知らずか、彼は笑った。

「いい返事だ」


それは野犬の目をした男だった。若いが、その表情にあどけなさはない。ぎらぎらした抜け目の無さと、油断すれば食い殺されそうな殺気を遠慮なしに放っている、そういうタイプは嫌いでなかった。

「紹介する。ビリー・カーン、私の用心棒として雇うことにした」

「よろしくな」

いかにも不承不承といった感じで短い挨拶を述べるそれを、彼は興味深く眺めていた。

「初めまして。ホッパー・J・S・ホワイトラビットです、ホッパーでいいですよ」

「……ビリーだ、よろしく」

朗らかに同僚が握手を求めると、それは少々気勢をそがれた様子で片手を差し出した。ふうん、と言いたくなったがあえて黙っておく。

「……リッパー・J・エグバート。よろしく頼む」

握手を終わらせた頃合いを見て、手を差し出す。同じく手を差し出そうとしたビリーは、ほんの一瞬、飛びかかる直前の山猫のような匂いを纏った。彼が全身を総毛立たせたことを察する。

「……お前さんとはうまくやれそうだ」

うっすらと笑みを纏い、言ってやる。彼はしばし表情の選択に困っていたようだったが、やがて皮肉っぽく笑うことに成功した。

「あんたは敵にしたくねえな。勝てないかもしれねえ」

「謙遜を」

穏やかさで何重にも覆って言ってやると、ビリーは薄ら寒そうに首をすくめた。


「ギース様!」

「輸血だ、緊急輸血!血液を用意しろ!」

「血液のストックが足りません、誰かB型の方!」

「俺!俺B型だ、俺の血抜け!」

悲鳴のような看護婦の声に、満身創痍のビリーが立ち上がる。さっそく腕まくりをして叫ぶビリーの肩に手をかけ引き留める。

「ビリー、お前も怪我をしてるんだぞ!?」

「黙ってろリッパー!さっさと抜け、間にあわねえだろが!?」

「ビリー!」

ばん、とビリーの頬が鳴った。そのまま壁際に座り込んでしまったビリーの様子に、彼はきり、と奥歯を噛んだ。

「お前が俺の平手をあっさり食らうんだぞ、どういうことかわかるな!?そんな状態で800mlも抜かれてみろ、死んでも知らんぞ」

「どうしろってんだよ、ギース様が!ギース様が死んじまう!」

「死なれてたまるか!」

ビリーが息を飲む。彼がこんな顔をして大声を出す姿をビリーが見るのは、初めてのはずだった。

「冗談じゃない。……俺もB型だ」

スーツの上着を脱ぎ捨て、ビリーに投げてよこす。歩きながらワイシャツの袖をまくり上げる。振り返って告げ、近くにいた看護婦にも依頼する。

「お前は休んでろ。……あいつに鎮静剤と増血剤を投与しといてやってくれ」

「リッパー!」

なおビリーは叫ぶ。彼はなだめるように言ってやった。

「ボディサイズなら俺のほうが一回り上だ。純粋な血液の総量もお前より多い、だからいっぺんに抜ける血の量も俺のほうが多い。何より俺は無傷だ」

今のお前は役に立たない、と言外に言われたことをさすがに悟ってビリーが口を閉ざす。痩せ犬のようにうなだれたビリーに、もう一度繰り返して言ってやる。

「休んで、流れたぶんの血を作っていろ。俺で間に合わなかったらお前も抜いてもらうんだな。血の気の多さはお前のほうが上だ」

皮肉めかして言ってやる。あえて挑発するような言い方を選んだのは、これでビリーが食いつかないならいつでも切れるような心の準備をするためだった。

果たして、ビリーは食らいついた。

「貴様こそ無茶して死ぬんじゃねえぞ、デスクワーカーが!」

激しい悪態に、彼は自分が唇に笑みを浮かべていることに気付いた。

「……上出来だ。ビリー」

サングラス越しに軽いウインクを残し、彼はそれきり振り向かなかった。


「あの方が目を覚まされた時、側近が減っているのは望ましくない。それでなくとも幾人か傘下を離脱してるからな」

「休んだらホッパーと交替で病室の警護につけ。今ばかりはあの方も完全に無防備だ」


「俺は、これからのあの方の礎になりたい」


トワイライトの中で、主の伏せた瞼が上がる。一瞬のはずのアクションはひどくゆっくりと行われたように見えた。

青い瞳が不審そうに回りを見回す。急いた呼びかけに応じた声には、何一つ変わった所は見られなかった。

「ギース様、お目を!」

「痩せたな、お前。男前が上がったぞ」

「……おそれ、いります……」

いつものように、軽い皮肉を応酬する。彼は薄く笑みをはいたままぐらりと上体を傾がせた。

「何日起きていた。馬鹿者」

呼吸さえ忘れたように、彼は眠っていた。


「過労と栄養失調だ。死にはせん」

「あれが私より先に死ぬことなどありえないのだよ。あれは私のものだ、許しなく死ねる身分ではない。そのことを一番よく知っているのはあれ自身だ」

この上なく傲慢な台詞を、何でもないことのように言い放つ。傲慢な台詞であるなどと露ほども思っていないかのように。


「ギース様は誰か一人のものじゃない。強いて言えばあの方はあの方ご自身のものであって、それ以外の誰かや何かのものでは絶対にない。だが俺は違う」

「俺はギース様のものだ」

迷いなく。

はっきりと。

彼は言い切った。

憧れや陶酔といった、あらゆる甘いものはそこには無かった。太陽が西から上ることなどないのと同じくらい、間違いようのない事実を語るような冷静さで。

高貴な者に仕える騎士にも似た、しかし使命感や騎士道精神などといった類いの精神的高揚とは全く無縁な氷の静けさのみがその声には宿っていた。


「ギース様を壊すのは俺だ。俺はそれを許されている。『最も身近で命を狙わせてやる』、と」

「だから俺はギース様をお守りする。俺以外の何かがあの方に傷をつけることは許されていない。俺以外の何かだからといって傷をつけられるような方でもない」

「テリー・ボガード?そんなものにかかわっている暇はない。やってくるというならそれは俺にとっても敵だが、俺では奴に敵しえない。なら、俺が気にしてもしかたない」

「もう一度言う。ギース様は誰かのものではない。テリー・ボガードのものなどでは当然ない。論外だな」


「ギース様に何かあったら俺の人生もそこで終わりだ。老いさらばえ、死するときを待つさ。後追い?せんよ。そんなことをあの方はお許しにならないだろうし、お命じにもならないだろう」


「あの方がご自分を孤独とおっしゃるなら、俺はあの方が思い出してくださるまでおそばに居続けるだけだ。あの方にも、影があるということを」

「俺にはあの方の孤独を癒してさしあげることはできない。女じゃないからな」

「影にお気付きになった時、その影を余計なものと思われないよう、細心の注意は必要だがな」

「自分から影がここにおりますだなどと言えるか。影は口をきかない、そうだろう?」


「あの方には俺を切り捨てる権利がある。だが、俺にあの方を見限る権利はない。必要ない、だからいらなかった」

「言っただろう。俺はあの方のものだ」


「……あの方がお気付きにならないほど自然に、おそばにあることができたら。空気のように、常にそばにあるべき存在感を持たない何かになれたら……それは非常な喜びだ」


「国も神も捨てたよ。とうの昔に。あの方のおそばにあるために、それらが邪魔だったからだ」

「俺の全てのベクトルはあの方だけに向いていればいい。他の何かに振り向けることをあの方が望まれなかった、それだけのことだ」


「背徳者?合衆国民失格?狂信者?……言いたくば言え。何度でも言ってやろう、俺はギース様のものだ。魂の最後のひとかけら、血の最後の一滴に至るまで、あの方以外にくれてやれるものなどもう何も持ち合わせていない」


「リッパー?」

呼ばれてはっと気付いた。呼ばれるまで気付かなかった。失態、であった。

「はっ……?」

恥じ入るように深く頭を垂れると、ギースは面白そうに笑みをはいた。

「お前でも居眠りをするか?」

「も、申し訳ございません!」

うろたえるリッパーの様子をひとしきり笑うと、ギースは防弾加工を何重にも施された大窓に向き直った。サウスタウンに巨大な夕日が沈んでいく。

「影が長くなったものだな。リッパー」

振り向かず、彼は言った。

「影を厭い、逃れて逃れてついに逃れきれず死んだ愚かな男がいたそうだ。お前がその男だったら、どうする」

肩越しの視線をよこすギースの表情は逆光で定かではない。リッパーは短く思考した。

「……影のほうにも、逃れられぬ理由があるかと」

「ふむ。詩人だな」

「おそれいります」

いささか意外そうにギースは言い、リッパーはかるく頭を下げた。

「愚かなことだ。影は切り離せるものではなかろうに、な。切り離せぬものを切り離そうとするなど、時間と労力の無駄だ」

嘲りでさえない声に哀れみはない。

「どうしても影を切り捨てるなら、主体ごと消し去ることだな。その男、成功はしたかもしれないが……」

愚かなことだ。

音声にはならなかったが、そう繰り返された言葉に同意を示すべく、恭しく頭を垂れる。

ギースの声の調子が変わった。あえて何かに宣言するかのように、ひんやりと固い響きで聞かせる。

「私はそんなことはせん。消せないものを消したがりはしない。……無駄だからな」

冷たい声がきっぱりと断じる。

ギースは今一度肩越しに振り返った。赤い夕日に飲み込まれた横顔に宿る表情は、やはりよくわからなかった。

続けられた言葉は、ごく僅かながら冷たい温もりとでもいうべきものを帯びていた。

「ついてきたいというのなら、どこまでもついてくればいいのだ。……ついてこられるものならな」

リッパーは心拍数が上昇するのを自覚した。

戯れの言葉遊びのように紡がれる言葉に、自分は何度も囚われる。戯れ言以外の何でもなくても、ギースの口から与えられる言葉こそが彼にとっては至上のドラッグだった。

これだから、『あなた』はやめられない。

内心のつぶやきは言葉にならなかった。背筋をかけあがったものを押し隠すように、リッパーは深く深く頭を下げた。かけぬけたものが完全に消えるまで、彼は微動だにしなかった。