青年期の悩みにおける傾向と対策・
八神庵の場合(傾向篇)
〜優しき留年野郎のララバイ〜

テーマは「泣く庵」。

それを書きたいがために書いた話です。

私の書く八神はこっそり大学に通っています。

籍はないんだろうけど。「もぐり」君です。たぶん史学科。専攻は日本古代史。

京に会って自分の学んできた(仕入れていた)知識に疑問を持つに至った彼は
「学校では教わらない」
「八神の家が伝えない」
正確な知識を求め、自分で調べることに決めました。

ちょっとだけ出てくる「かや」。

庵の、たぶん会ったこともない母親。

八神家前当主(庵のじーさん)直系の一人娘。

ちなみに前当主という人は打倒草薙に燃える鬼のようなじじい。

自分にはオロチの血が強く出なかったから
そのぶんとばかりたった一人の直系男子にして
歴代の中でもオロチの力を最大に使う「逸材」を鍛え上げ、
「八神家」の歴史と正義を吹き込んで
草薙家の跡取り(当時すでに当主??)に差し向ける。

のち、八神家の正義に疑問を持った庵を粛正しようとして返り討ち。

「おまえは儂の言うことだけ聞いておればよい!」

その台詞に逆切れした庵に殺されかけ(=当主の座から追い落とされ)
この話へとなだれ込む…という裏設定or前フリがあったりする。

八神の血と家がただ一つの拠り所だった庵にとって
当主から粛正をくいかけるというのはものすごいショックだった。

いつもは口答えの一つもしたことのなかった彼が
当主に対して反撃したどころか半殺しにまでしてしまったんだから。

自分で考えることを許されなかった、
思考することを許されなかった、
それもショックだった。

だから似合わない安酒で似合わなく自棄酒なんかして
他人の前で涙まで見せてしまった(全然そんな記憶ないでしょうけどね)。

だってかけらでも意識があったら
少なくとも絶対に京の前でなんて泣かないだろうから。

寒い夜だった。

理由はよくは分からねど、飲んだくれて潰れている八神庵を発見したのはバイト帰りの草薙京だった。

「……うそぉ」

思わずつぶやくのも無理はない。狂気の青い炎を操って、草薙の血に挑んできたあの庵が、安酒特有の嫌な匂いをまとわせながら寝入っているのである。

「八神……やがみー?」

散乱する空のワンカップを蹴りよけておそるおそる呼びかけるが、庵は軽く身じろぎするだけで目を覚ます気配はない。

「……ちとヤバいよなあ、これなあ……下手したら死ぬよなあ」

尋常でないワンカップの数に京は思い、長くなっている庵を引きずり上げた。肩を貸し、自分よりわずかに長身の庵を半分引きずって再び歩きだす。

幸い京の暮らしている部屋まで近い。庵の諦めの悪さは少々うんざりだが、それさえ除けば別に彼が嫌いな訳ではなかった。

玄関の鍵を開け、靴を脱がせると、フローリングなのを幸いそのままひきずる。とりあえず庵の長身を横にさせると、風呂場から洗面器を持ってくるやら二リットルペットボトル入りのウーロン茶とグラスを持ってくるやらを手慣れた様子できびきびとやってしまい、それからあらためて庵の下に毛布を入れてやる。

「八神ー、あのなー、気持ち悪かったら遠慮なく吐いていいかんなー? あ、そん時はなるべくココな」

親切に言ってやりながら、京は今度はお湯を沸かしていた。お湯の中にタオルを入れたものを作り、それを持って戻ってくると、案の定白い顔を青くして庵がうめいている。

「無理すんな、吐いちまえ。ラクになるから」

背中などさすってやりながら言ってやる。深酒のつらさは京も身をもって知っているから、優しく介抱してやることができた。

しばらく吐かせてやるが、庵の腹の中からはまともな食べ物が出てこず、出てくるのは酒ばかりという状態だった。こりゃ辛いわ、と京は眉をひそめてつぶやき、吐いちまえと繰り返してやった。

座り込んでぐったりしていた庵は、しばらくして少し落ち着くと今度は震え出した。京はぬるくなったウーロン茶片手に熱いおしぼりを渡してやった。

「汚れたとこ拭いて、そしたらこれで口すすいでな、まだあるから飲め。……大丈夫かよ、おい」

受け取ったグラスを震える両手で包み込み、子供のようにそれを口元へ持っていく庵の様子が危うげで、京は手をのばしてそっとグラスを支えてやった。

「飲んだらまた吐け。とにかく酒出しちゃわねーと辛いぞ」

京の言葉に素直に頷いたあたり、庵の意識はまだ半分も戻っていないようである。

ウーロン茶をつぎたしてやろうとグラスにのばした京の手が、庵の冷たいそれと触れる。

「うわ、冷て……八神?」

間近で見たことなどなかった庵の繊細な指が、温もりを求めるように京の手を掴もうとする。庵の手からグラスをはずし、そのまま掴ませてやると、彼は京の手を頬に寄せた。かかる浅い吐息が冷たくて、京は心配になった。

「顔真っ青だな……そろそろ暖房きくはずだからな、もうちょっと我慢してな」

語りかけ、京はぎくりとした。庵の伏せた長いまつげの下から一筋二筋と伝うものに気づき、彼は慌てた。

「や、八神?どーした?何だよ、どーしたんだよ」

庵に聞こえないのを承知のうえでおろおろと尋ねる。庵は低く押し出すように、かすかな声で絶叫した。

「俺は……道具なんかじゃない……!」

京の手を胸にいだき、庵は泣いていた。幼子のように首をふり、繰り返し訴えながら京の手を強く抱き締めて泣くその姿は、あまりにも悲しかった。

庵の様子は明らかに普通ではなかった。初めて知った、見ている京のほうまで辛くなるような涙は、庵の属性ではないはずだった。

「八神、……」

庵を気遣って呼びかけた京だったが、青を通り越して紙のようになった庵の顔色に気づくと、座っている毛布ごと庵の向きを半回転させた。

「まず全部出しちまえ、な?グチでも何でも……聞いてやるから」

苦しそうな音と共に嘔吐を続ける庵の背中をそっとさすってやりながら、京は我ながら驚くほどの優しい声で言ってやることができていた。

外から加えられる苦痛など、己の内から起こる痛み苦しみに比べれば何ということはない。彼らのようになまじ外的苦痛に慣れている者にはなおさらであった。

「気持ち……悪……」

細い声が庵の口からもれる。京は庵の背中を軽くたたいてやった。

「気持ち悪いか?……ん、吐け。出せばラクんなるから、な?全部吐き出して寝ちまえ。俺が……俺が見ててやっからよ」

その言葉に安堵したのか、それまで庵の中で維持されていた気力がついに途切れた。どうやら吐くものも無くなったらしく、激しい嘔吐の発作がおさまってしばし後、庵の四肢は一気に力を失った。

己の吐いたものに頭から突っ込みそうになった庵を引き止めてやるだけのはずが、次の瞬間、京は自分の胸元に庵を抱き寄せ支えていることに気づいた。

ようやくうっすらと赤みのさした顔と穏やかな呼吸にほっとして、京は長く吐息した。奇跡的に服は汚れていない。京は冷たくなってしまったタオルを絞り、庵の口元を拭いてやった。

「……けっこ、フツーの顔すんだ。寝顔なんかかわいいもんじゃん」

ひどく消耗したはずの庵が深い眠りの中にいるのを疑わず、京はそっと庵の肩を抱き締めた。

「お前もこういう顔するんだ。酒飲んで泣いたりするんだ」

うずくまった背中が壊れそうに見えたのはなぜだろう。涙と共に叫んだ顔に、しめつけられるように心が痛んだのはなぜだろう。

見事なまでに鍛え上げられた躯と八神の技。それらを手に入れるため、彼はさぞや苦しい修行を乗り越えてきたのだろう。来る日も来る日も、まともに姿を見たことも口をきいたこともないような宿敵・草薙家の当主……京自身を倒すために。

自分を倒すそのためだけに有効な心と体を持つまでに至った、鋭い瞳の意外な姿を目の当たりにし、京はしばし無言のまま庵の体温を確かめていた。

その人は、かやといった。長い黒い髪を風になぶらせて、可憐な姿のその人は静かに笑った。そしてかやの細い体は光にとけて消え、世界中に広がって彼を包み込んだ。

目が覚めて、庵は違和感に体を起こした。頭の芯ににぶい痛みがある。片付いてはいるが妙に無造作な雰囲気のフローリングの部屋は彼のものではない。

寝ていたベッドから降りて見渡すと、彼は傍らの机の上にラップのかかった握り飯とペットボトルに入ったウーロン茶を発見した。握り飯の乗った皿が押さえているメモを手に取ると、そこにはただ一言、起きたら食え、とだけ書かれていた。

喉の渇きを覚え、ウーロン茶を用意されていたグラスに移して遠慮がちにいただく。人心地つき、庵は深く吐息した。

「……どこだここは」

昨夜から今朝にかけての記憶がない。故にここがどこかわからない。庵は首を傾げた。

「しまった、学校……」

腕時計に目を落とすと、既に十一時をかなり回っている。いかに“もぐり”とはいえ欠席することに心が痛んだが、ここは素直にあきらめることにして庵は床にあぐらをかいた。

誰かは知らないが、酔って寝入りでもした自分を連れ帰って泊めてくれた物好きがいたのだろう。後日改めて礼をするにしても、せめて詫びと礼を済ませてから帰りたいところである。

いささかいびつながら特大の握り飯をゆっくりと二つ平らげ(梅干しとたらこ)、律義に洗い物などしていると、鍵を開ける音がした。ひょい、と玄関をのぞいた庵の表情が一瞬で凍りつく。

「おう!起きたか?」

「……何で貴様がッ!?」

嬉しそうな京の声と表情に愕然としながら険しく問うと、京も口をとがらせた。

「あっ、俺が通りかかんなかったらどうなってたか知らないぜ? 夕べは寒かったからな、命の恩人だぞ俺」

まあ茶でも飲んでけよ、などと喜色満面で言う京の言葉を庵は短くつっぱねた。

「よりによって草薙の施しなど受けられるかっ!」

「ま、いーからいーから……あ、ちゃんと飯食ったな、よしよし」

うまかっただろと問われては、庵も黙らざるを得ない。

「みやげ買ってきたかんな、食おーな」

村中屋の肉まんあんまんピザまんもあるぞどれがいい、鯛焼きもあるぞと言いながら、庵に村中屋のラブリィな袋を押し付ける。本人は鯛焼きを頭からほお張ってご機嫌らしい。

「ほら、まんじゅう冷えちゃうだろ?今茶ぁ入れるから座って待ってろ」

完全に京のペースである。実に嬉しそうに茶を入れるその姿を横目に、しぶしぶ部屋に戻る。

「……おい、それでは濃くないか」

ばさばさばさという音に不吉なものを感じ、京の手元をのぞいてみると、案の定急須にいっぱいの茶葉が注ぎ込まれたところであった。

「……やっぱ濃い?かな」

どこからでてくるのかいまいち不可解な、「てへっ」という擬音というか表現しか結びつかない笑顔に、庵はもう何も言う気になれなかった。

「飲めんことはないと思うが……渋いぞ」

「よし、鯛焼き食え。いっぱい買っちゃったんだよ、店のおばちゃんが良い人でさ」

ずい、と鯛焼きの袋を差し出される。素直に受け取ってしまったそれは、たかが鯛焼きの袋の割にはずっしりと重く、また温かかった。

「一体いくつ買ったんだ、こっちの中華まんといい……」

「えー?鯛焼きが千円ぶんにオマケついて十二匹だろ、まんじゅうが二個ずつだから六つ」

「……良くそんなに入るな」

「お前も食うかと思ってさ、一人で食うのも何だしな。美味いんだぜ、このおばちゃんとこの鯛焼き」

『宇宙』『銀河』と大書された、ほこほこと湯気を上げている湯飲みを手に戻ってきた京は、行儀良く正座して手を合わせた。嬉しそうにいただきますと宣言し、村中屋の肉まんを取り出してかじりつく。六百六十年越しの宿敵であるはずの八神の正統後継者を前にして、京はこの上なく幸せそうであった。

「んー、んまい!ぬくくて美味いもん食ってる時って幸せだよなー」

仕方なく『銀河』湯飲みで渋茶をすすっている難しい顔の庵を見上げ、京はきょとんとした。

「……どした?あ、アレだろ、お毒味!やられるんだよな、おかげでホカホカのメシが冷えちゃってさ、何か寂しいの」

大丈夫だよこんなの角のセブンイレブンで買ってきたのだしさ、心配すんなよと一生懸命言う京の方が、庵にはよほど理解不能だった。京の性格からして毒を盛るとは思えず、毒殺を恐れて手を出していない訳でもないが、そもそも何故こんなに「八神」に向かってしゃべるのか。全く不可解である。

「あー……じゃあさ、これならいいだろっ?ほい、半分。好きなほう選べよ。残ったほう俺が先に食うからさ」

半分にしたあんまんを両手にすすめる京の背後に、庵はたしたししているしっぽを見た、ような気がした。軽いめまいを覚えつつ、庵は手を伸ばして京の左手にあったあんまんを受け取った。

残された半分を二口で消し去り、うくうくうっくんで飲み込んでしまうと、京は何でもないことを身振りで示した。後に引けなくなり、庵は遠慮がちに一口かじった。

「美味いかっ?」

「……ああ」

「そっか!良かった、『こんな下賎な食物は口に合わん』なんて言われたらどうしようかと思ったぜ」

畳み掛けるように尋ねてきた京の台詞にばか正直に答えてしまった後で、しまったその手があったかと思いつつ、庵はホカホカのあんまんの予想以上の味わいにいささか感動を覚えていた。

「肉まん美味いぞ、食え」

ぽす、と肉まんを渡される。しばしそれと見つめ合っていた庵だったが、まあ食べ物に罪はないことだし、温かいうちに食べられた方がまんじゅうにとっても本望というものであろうと納得し、彼は肉まんを口に入れたのだった。

山のようなおやつを半分ほど片付けたところで、京はさりげなく呼びかけた。

「ところでさ?」

「何だ」

視線は転じず、そっけなくはあったが反応を返す。そのことで京は気を良くしたようだった。

「あのさ、お前さ、……数学とかって得意な人?」

あやうく湯飲みを取り落としかけ、庵はまじまじと京の顔を見た。その京に、たしたししているしっぽどころかわくわくしている耳までを幻視してしまい、庵は頭痛がした。

「……見せてみろ」

いそいそと教科書を鞄から出す京に、庵は一瞬はめられたかと感じた。そして、天才的なまでの格闘センスを有する京が、こと日常レベルの物事に関しては計算づくの行動などという器用な所業が決してできない人間であることを確信するに至り、彼は彼らしくなくしみじみ嘆息などしてしまったのだった。

「これこれ、この辺なんかもう見るだけで吐き気して駄目なんだけど」

「……こんなものはただの二次不等式だろうが、図が書ければそれで終わりだ」

「ええっ、そうなのか?あーじゃあこの時やっぱり寝てたんだな、俺」

作図は得意なんだよな、と言いながらノートに細身の黒いシャープペンシルを走らせる。かに見えたが、彼はふと手を止めた。続くであろう言葉が九割以上の確率で庵の脳裏に閃いた。

「……どういう図?」

そして発せられた言葉がほぼ予想通りであったことに、庵は奇妙な疲労と脱力感を感じた。

「いいか、この式をまずxとyについて解くだろう……やってみろ」

なぜ俺がこんなことをせねばならんのだ。そう内心で叫びつつも、彼は数学という学問をこよなく愛していたのだった。

「……やー、悪いな八神、遅くまで」

心なしかげんなりしている庵に、負けず劣らずげっそりして京は礼を述べた。あれから結局 数IIの範囲を網羅し、更に英文法まで見させたのである。頼む京も京なら付き合う庵も庵だった。

「でも助かったぜ、サンキューな」

へらっと笑う顔にいつものような精彩はない。無理もなかった。おそらく普段勉強の二文字とは縁遠いのであろう京が、気づけば六時間教科書とにらめっこしていたのである。

それに追試を控えていると聞かされては、ひいては京の卒業にかかわってしまうため置いて帰るわけにもいかなくなってしまった次第だった。

「……けど、なんかホッとしたわ」

何度か入れ直されたにもかかわらず、すっかり冷たくなってしまった茶を口に入れていた庵が不審げに片眉を上げる。疲れた表情は、えらくご機嫌が悪そうだった。

何が言いたい、とその目が語っている。京は消極的に笑みをつくった。

「だってさ、だって……何かお前ってすっげえフツーなんだもん」

その台詞に、庵は明らかにむっとした。今度は固い声が問う。

「……どういう意味だ」

京はまっすぐ庵を見、真面目な顔で尋ねた。

「お前、彼女っているか?」

予想外の問い返しに気勢をそがれた体で、庵は一瞬沈黙した。

脳裏に一目で恋した異国の女の微笑が浮かぶ。誇り高い視線が庵を見つけて和むその瞬間を、彼はいたく愛していた。

「……そんなことを聞いてどうする」

無意識に視線をそらす庵の態度と様子に、京は頷いた。

「女の子ってさ、いいよな?あったかくてやわらかくて……本当、むちゃくちゃやさしくて」

異形の力を操る彼の存在をも許してくれる、癒しの象徴なるは彼女のやさしい手。

京の言葉に素直に賛同でき、庵は無言で肯定をあらわした。

「なんかさ、俺らみたくこう……“普通じゃない能力”っての? 持っててもいいんだって……『私と全然違わないよ』って言われた事あんのよ、いやー……嬉しかったねあん時は。惚れたね」

照れくさそうに、また誇らしげに京は笑った。

「ユキってんだけどさ……いやそれは置いといて、えーとな?うん、そう、……好きな女とかいてさ、数Uが解けてさ、肉まんも食えば酒も飲むんだよな……。当たり前なんだよな、俺と違わないんだよな」

何かを自分に言い聞かせるように口に出す京の、複雑ながら確かな笑みに、庵は頬に血が上るのを自覚した。

怒り?屈辱?どれとも違う。自分に起こった感覚に、庵は激しく動揺していた。

「……邪魔をした。帰るッ」

「あ、おい、八神!」

立ち上がり、まっすぐ出ていこうとする庵を呼び止める。立ち止まりこそしたが振り返ることはない庵の背中に向かい、京はややためらって言葉にした。

「……鯛焼き、持ってかねえ?」

「いらんッ」

ぴしゃんと言い返し、今度こそ立ち止まらず大股に歩いていく庵を玄関まではとにかく送る。

「ほんと、助かったわ。ありがとな?」

「今度こそしっかり卒業しろ、俺の6時間を無駄にしたら許さんぞ」

「……善処する」

その言葉を信じるべきか否か短く悩み、庵は意志表示をわずかに嘆息するにとどめた。

「外、寒いぜ。……気ィつけてな」

「誰にものを言っている」

小気味よいほどのテンポで紡がれてくる言葉に、京は苦笑した。それを感じとってか、庵が鼻で笑う。すると京は嬉しそうに声をはずませた。

「あっ。やっと笑ったな、お前」

京のその台詞が庵の耳を通り、脳に到達したまさにその刹那。庵の周囲から青白い炎のようなものが立ち上るのを感じ、京は失言を悟った。

鬼焼きか琴月くらいは覚悟していたが、予想に反して彼は何もせず、無言でドアを開けて出ていった。

「……怒らせた、かな」

後ろ姿を見送って、京ははりはりと頭をかき、あくびをした。夢も見ずに眠れそうな気がしていた。

「俺はけっこう仲良くやれそうな気ィすっけどな……」

ぽつりとつぶやいた京の声は、庵には届かなかったろう。聞こえたところで、彼はきっと血相を変えて怒ったに違いなかった。

「別に構わねーと思うけどなあ、ンな六百何年前とかのカビ生えた因縁なんか……俺の知ったこっちゃねえよ」

面倒くさげに吐き捨てて、京は窓に目をやった。真っ白な細い月が浮かんでいた。

蒼い夜空と白い月がよく似合うあの男は、はたしてどう考えているのだろうか。

「仲良くやりてえよな……どうせなら」

誰に聞かせるでもなくつぶやいて、京は。

のびをして、今一度大きなあくびをしたのだった。

Author's Note

caretakerさんの「庵の部屋」に投稿させていただいた、知る人ぞ知る傾向と対策シリーズ一作目。副題は「優しき留年野郎のララバイ」……一目で誰が出てくるかわかりますね。

「京と庵が一緒に肉まん食べる話」という評がありますが……あまりにそのまんまなので何も言えません(笑)。

京は庵と仲良くなれたらイイな、と思ってます。そして大前提……それは「うちの庵は基本的に優しくて真面目でほんとに『いい子』だということ」です。

庵は京にペース乱されまくってるうちに「こいつはそれほど悪い奴ではないんじゃないか」と思い始めて、「八神の正しさ」に疑問を持ってしまいます。自分の正しさを信じきれなくなった庵は京に喧嘩を売れなくなり、自分達が間違っていないことを証明するために奔走し、そして粛正されかけます。そのことで自分が「間違った歴史」を学んできた事を悟り、彼は自分の家と一族を信じられなくなってしまいます。

一途に八神の正義を信じて草薙を倒すべく育ってきたはずの庵が、20年間精神の拠り所としてきた「イエ」と「イチゾク」。それらを一瞬で砕かれ失ったことで、彼にとって神にも等しかったはずの時の「八神の頭首」を追い落として家を飛び出し、涙も出ずにさまよっているうちに京の家の近くまで来てしまったのは……単なる偶然か、それとも“呼ばれた”のか。それで貴方のご趣味がわかります(笑)。……僕ですか、僕は呼ばれたんだと信じてますよ。京が、庵の悲鳴を聞いたんだと信じてます。

1997.10.6up。

(※Sousui注:caretakerさんの「庵の部屋」は閉鎖しました)