往古(おうこ)の良夜にささぐ歌


中天にまろき月
いきかよふ牛車、絶えてなし

宿直(とのい)終わり帰りまかりて青年は
庭に視線を彷徨わせ
装束(そうぞく)とく手をふと止める

昼と夜との間をたゆたうていた風景が
すっかり月夜(つくよ)の側に沈んでいる

望月の皓々と照らす庭
木々が光をうけて白銀の色に染まっている
その光景が青年を庭に誘う

月影は庭に出た青年も青白く染める
虫の音はあくまで心地よく
風景の背後を流れていく

卒然、庭の隅の暗がりが月に咆哮をあげる

「いきるな……」
青年の紅き唇より静かにこぼれる言の葉が
絡めて闇を押さえ込む

やがて
闇よりしなやかに出でしけものは
世のものと思えぬ優美さで
音もなく青年の足下によりしたがう

青年は なれた衣のような
柔らかい獣の皮をゆるやかに撫で
その感触を楽しむ

けものはおとなしく
青年は力を秘めた風雅な生き物に
満足のため息をほうと洩らす

護りし者の封印の前にて
けものと遇ったは三日前

いきりたつ獣の気配へととっさに気を投げた
荒ぶる気配は途端に消える
代わりに獣は身構える封じし者に
声なき声を投げかけた

――八尺瓊よ……

微かにして鋭き声は
波紋の如く心に拡がった

刹那、青年は視た
封印の向こうの蠱惑を
力を身に潜める雅びな獣を

――力ある者よ……

青年は己の身の震えに気づいていた
慄きでなく沸き立つ心の震え

――我を解け……

己が衝動を胸に秘め青年は
その場は殿に帰った

爾来、彼の者の分身、闇に住まう獣が
庭に居つくようになった

はらりと落ちた肩の上の紅葉を
そっと手に取る
紅の葉をしばし眺めたのち
指先でもって静かに手のひらより押し出す
もみじは はらはらと地面へと落ちる

紅葉を追う視界が暗む
怪しき次第に見上げた青年の目の前で
みよ、月が闇に喰らわれる

寄り添う獣が閑かに鳴いた
すでに青年は風景を視ていなかった

視ゆるは草薙が憤り八咫が嘆くその姿

――だが……
と青年は想った
(あした)は解かずに()られまい

青年は微笑んだ
幸せに
凄艶なまでに幸せに

平成10年8月21日

Author's Note