哀歌―言葉を持たぬ者による言葉を喪くした者の為の―
日が沈む。
日の入り直後の僅かな時刻、空はあるかなきかの明かりを残し、昼とも夜とも言い難い曖昧な頃合いとなる。
晴天とは言えなかった。だが、完全に雲が覆っているわけでもなかった。切れ切れの薄い雲は暖かみのある淡い紫に染まっていた。それもまた、徐々に色を失っていくのだろう。
エルザムは窓に立ちはだかるようにして外を見ていた。
部屋の明かりは点けていない。普通よりは広いこの空間が冷えたままでいることをエルザムは望んだ。
彼は
ノックとともに扉が静かに
エルザムは振り向かなかった。
この部屋の重厚な扉を開けたのが長年仕える執事であることも、彼がいつもの通り足音も立てずに一歩だけ中に入って
「エルザム様。お客様がいらっしゃいました」
「言ったはずだ、私は誰にも会わない。丁重に――」
「ゼンガー・ゾンボルト様です」
執事が主の言葉を遮ったことなど今まで一度としてなかった。客人の名を告げるその声に彼は珍しく自分の主張を乗せたのだった。
「……会おう」
逡巡しばし告げると、執事が辞した。
明かりを点けなければならないだろうか、とエルザムは頭の片隅で考えた。
もし、客がゼンガーでなかったら、たとえゼンガーであっても、彼が本来こんなところを訪れるような身でなければ、エルザムはやはり会おうとはしなかっただろう。だが、客はゼンガーであり、彼は己の状況を顧みず、今この時にやってきたのだった。
ゼンガーが入ってくる前にエルザムは部屋の明かりを点けた。
品良くまとまった部屋だ。真ん中にテーブル、その回りに肌触りの良いソファ。壁際に高価なグラスの入った質のいい棚。
「エルザム」
入ってくるなり名を呼んだ友は、それっきり何も言わずに律義に立っている。
「座ってくれ」
ゼンガーは言われるままにソファに座った。背を伸ばしたままなのがいかにもこの男らしい。
エルザムは大窓のある一辺を一度往復した。それから、急にゼンガーに向き直った。
「カトライアを殺した」
「聞いた」
そうだろうとエルザムは思った。そうでなければアースクレイドルに去ったこの男が今ここに来るわけがない。
「あれは……」
「……」
「綺麗だった……最期まで……」
「そうか」
ゼンガーは何を言いに来たわけでもないのだろう。もともと口数の多い方ではなかったし、気の利いたことを言える男でもなかった。
もっとも、慰めの言葉などもらっても煩わしいだけだったろう。
――私は悲しんでいるのだろうか。
さきほどから考えていた疑問が脳裏に浮かんだ。
「これを」
銀髪の男は手に持っていた瓶をテーブルの上に乗せた。
「お前がワインとはな」
エルザムはゼンガーの向かいに座って、瓶を手に取った。
「これは……」
軽い驚きを覚え、やや目を見開く。
「よく手に入ったものだな。いや、それよりも、よく知っていたものだな」
「俺には分からん。店の主人に選んでもらった」
知らぬ者が会えば、威圧感を撒き散らしているとしか思えぬこの友人と〈店の主人〉との間にどんな遣り取りがあったのだろう。想像するだけで微かな笑いを覚えた。その不謹慎さに
――私は哀しいのだろうか。
「値が張っただろう」
「金などどうせ俺には不要になる」
そうだった。この男はこの時代と訣別する者だった。
「
「5日後だ」
「今生の――」
別れだな、と言おうとしたところで突如狂おしいほどの感情の固まりが胸に
エルザムはラベルを見る振りをして自制し、立ち上がった。備え付けの棚からワイングラスを二脚選び、ソムリエナイフを手にとってテーブルに戻る。それぞれの前にグラスを置くと、ゼンガーは自分の前に置かれたグラスを見てから物問いたげな顔を上げた。
慣れた手つきで栓を抜くと、エルザムはゼンガーの視線など構いもせず、二つのグラスにワインを注いだ。
「極上の品だぞ、ゼンガー」
ゼンガーはエルザムを凝っと見据えた。長い凝視の末に、ゼンガーはやおらグラスを持って、ぐっと
そういう飲み方をするものではないと言いかけて、結局、何も言わなかった。この友人にワインの香りを愉しむなどということが果たしてできるのかどうかそもそも疑問だった。
グラスをテーブルに置いたゼンガーの眼光が前より鋭くなっている。
「……」
何か言いたげに口を動かしかけたものの、ゼンガーには結局何も言うことができなかった。
ずるずると上体を傾かせた友人にそっと呟く。
「すまん、ゼンガー……」
グラスを口元に持っていく。軽く揺らして立ちのぼる香りを楽しむと、一口口に含んだ。
噂に違わぬ豊かな香、深い味。
と、卒然としてふつふつと涙が
声もなく、嗚咽もなく、エルザムは涙を流し続けた。
平成一八年六月二四日 初稿
補足説明
いったいゼンガーさんは何をしに来たのでしょう.起きた時がひどいな.
- 第3次のおまけステージ『駆け抜ける竜巻』で「妻が死んでからブランシュタイン家から出奔した」と言っている.
- が,2次の31話でゼンガーがレーツェルの名を聞いた時に「だが,お前は……」と言っているところを見るに,ゼンガーはその事実を知らない.
- が,2次の37話でレーツェルが「少なくとも私はそうした」と言ったことにないしてなんら疑問を覚えていないようであるので,事情は知っている.
ということから,αでは事件はゼンガーがスリープに入る直前に起きたとして書いております.
これを書いている最中,斉藤茂吉氏の
のど赤き
玄鳥 ふたつ屋梁 にゐて足乳根の母は死にたまふなり
が頭の中から離れなかった.が,本当は,
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし
乳足 らひし母よ
の方を,より正確にはこれを解説した中学校の国語の先生の解説を思い出していた.それによると,この短歌は「おかあちゃん,おかあちゃん,おかあちゃーんという絶叫なんや」ということであり,それに比べれば「のど赤き〜」の方は「冷静さを取り戻していて表現がきれい」なのだそうだ.なるほどなあと思ったものだ.
つまり,何が言いたかったかというと,感情を表すなり情景を表すなりする時にただ単語を使って表現すると陳腐なんだけど,突き詰めて突き通ってしまったら,きっと言葉は単純に戻るんだろうなあという話.