悪夢
ねっとりとした夜だった。
湿気を含んだ
イルイは走っていた。
いつから走っているかは分からない。気づいたときには走っていて、走るには息も絶え絶えで、はあ、はあ、と喘ぎながら、手足を溺れかけた人のように懸命に動かしている。それはもはや走るというような速度ではなくて、それでもイルイは手足を動かしている。
ひとりだった。
イルイが厳密な意味でひとりであったことは、そんなにはない。いつも誰かしらそばにいたのだ。ガンエデンが消えて以来、肉体的にひとりなら、それは本当の意味でひとりということだったが、家族と呼べる人があったから、小さなイルイがひとりぼっちになることはまずなかった。こうやって、ひとりで懸命に走っていることなど。
自分の白い腕が視界の端を横切っては消える。
――なぜ、走っているのだろう。
ようやくそんな疑問が浮かんで、イルイは足を弛めた。そうしてしまうと、もう、走る力など残っていなかった。
立ち止まる。
はあ、はあ、はあ……
しばらく息をつき続け、どうにか普通に息ができるようになったので、イルイは周りを見回した。
周りはただただ暗かった。建物の灯りはなかった。地面は剥き出しの土で、遠く背後に見える黒々とした影は森のように思われた。
イルイはその
これは、夢だ。
こんなところに来た覚えがない。こんなところに来る理由がない。イルイが住んでいるところは、自然は豊かだったが建物が並ぶ住宅地で、こんな人の手の入っていない場所ではない。
風景は暗くて現実感が無く、不安感だけを煽る。
あいおおん、あいおおん、あいあおおん――
何かの遠吠えが聞こえる。それは遠い小さな声だったが、大きな獣だと反射的に思った。
イルイは森の方を見た。
何もそこにはいない。
何もいない、いないから。大丈夫。
そう言い聞かせてイルイは歩きだした。森から離れたかった。森から離れてどこか――どこか人のいる場所に。
歩きだした方向が合っているのかも分からずに、その黒々とした森に背を向けて、歩く。
空気は相変わらず湿って重く、それ自体が何かの生き物のようだった。
何もいない、何もいない。
はあぁ……
「!」
耳元に息が吹きかけられた。
いない、何もいない!
イルイは少し足早になった。
ああ、あれは足音ではないだろうか?そういえば、さっきから聞こえていなかったか?
ひた、ひた、ひた、ひた……
振り返れば何かがいるかどうかはすぐに分かる。でも、イルイに振り返る勇気はなかった。
疲れきっていた足に力を込める。それはだんだん速くなる。
いない。いないから。
大きく鳴り出した自分の鼓動が、耳の後ろでだくだくと音を立てている。振り返らなければそれはいつまでも居ないことになる、という思いと、振り返って確かめたいという思いがないまぜになる。
トクトクと鳴り続ける胸から恐怖が転げて落ちる気がして、とうとうイルイは振り向いた。
何もいない。
黒々とした死んだ森。森は遠くなっていなかった。
何もいなかったというのに、イルイは急にどうしようもなく恐ろしくなって駆け出した。
ト、ト、ト、ト。
はあ、はあ、はあ、はあ。
何もいないのに、ずっと付いてくる音はどういうわけだ。
何もいないのに、ずっと息が吹きかかるのはどういうわけだ。
イルイはとうとう泣き出した。走るイルイの瞳から、涙がポロポロ落ちていく。
これは……夢だ。
だって、暖かい家の中で、ふかふかなベッドに眠ったはずなのだ。触り心地の良いシーツとブランケットに包まって、幸せに寝入ったはずなのだ。
最初から疲れきっていたイルイに、長い距離は走れなかった。
もうだめだ。
足をもつれさせて、転ぶ。
もう……
と、急に腕を引かれた。イルイと追いかけてきた物の間に割って入った大きな影。
「大丈夫か、イルイ」
ゼンガー。
名を呼ぼうとして声にならなかった。安堵の余り声も出なかった。
そうだ、いつだって。
硬い表情で見下ろしているゼンガーになんとか大丈夫だと伝えたくて、イルイは笑みを作って見せた。まだ完全には恐怖から抜け出せなくて、それは控えめな物だったけれど、相手が少しほっとしたような表情を見せたので、伝わったのが分かった。
差し出された手をぎゅっと握ると、沸々と安堵が沸いてくる。
イルイが立ち上がると、ゼンガーが尋ねた。
「歩けるか?」
「うん……」
「行こう」
どこへ、とは訊かなかった。
とにかく、ゼンガーが居るのだ。ゼンガーさえいれば、どこに行ったって――
手を引かれて歩き出す。
途端に、何か乾いた音がした。
どさり、と何か重い物が崩れた。
違う、「何か」じゃない。倒れて、いた、ゼンガーが。
イルイには何が起きたか分からなかった。繋いでいた腕が地面に落ちたのを見ても、何が起きているのか全く分からなかった。
「あ……あ……」
ぺたん、とその場にしゃがみ込んだ。
頭から黒々と浸みだしてくるのは、あれは、血ではないだろうか?
有り得ない光景だった。少なくともイルイにとっては。そんなことは今までに一度もなかったのだ。いつだって、どんなときにだって、イルイの知っているゼンガーは、前をまっすぐ見据えて立っていたのに。
湿った空気は黒々と。黒々と二人に近づいてくる。動かないゼンガーと、動けないイルイへと。
黒く重い霧のようなものが、ゆっくり男を覆っていく。イルイはそれを何もできずに見ている。
カリ、カリカリ、カリリ……
骨を囓る音だ、と思った。
イルイには呼べる助けがなかった。助けという考えが浮かばなかった。
ふわふわとした黒い埃か塵だった物が急速に集まり固まりだしている。嫌々と首を横に振るイルイの前で、それは何かの塊になって、
ゆっくり
ゆっくり
立ち上がった。
子供だった。赤ん坊かもしれない。顔がなかった。
黒い輪郭のぼんやりとした腕をイルイの方に伸ばし、ゆるり。ゆるり。と。近づいてくる。
イルイは後じさった。それだけしかできなかった。
腕がイルイを掴んだ。じんわりと生暖かった。捕まれた足首から、痛みもなく腐って溶けてその黒い物に同化していくようだった。
抵抗することすら思いつかず、イルイは目を閉じた。
これは……夢だ……
目から溢れた雫が頬を伝って顎から落ちた。
2009年9月16日 初稿