Sänger Singt den Sang

それは、戦いの合間ののどかな日だった。

立ち寄った補給地で、パイロットたちは暇を持て余している。天気がいいこともあって、外出している者も多い。

兜甲児はと言えば、人を捜していた。

(ふね)から出ようとしたところでよく知った顔にばったり出会った。

「どうしたの?そんなにきょときょとしちゃって」

「ああ、親分探してるんだ。さやかさん、知らないかい?」

「親分ってゼンガーさんのこと?」

「そ」

「さっき見かけたけど……。でも、どうして?何かあったの?」

ニヤ、と甲児は笑った。

「面白いもんが見られそうなんだ」

「面白い物?」

「そう。リョウと京四郎が試合するって言うんだ」

「試合って、なんの?」

「剣道だよ、剣道。さやかさん、知らなかったっけ?」

「ああ、そういえば、リョウ君、実家が剣道の道場なんだっけ」

「それでさ、どうせだから他の奴も連れて来いってことになって」

「ふーん」

「手分けして剣道やってそうな奴に声かけてるんだ。で、俺は親分捜すのにあたったってわけ」

さやかはふと思い当たった。

「甲児君、それだけ?」

「『それだけ』って?」

「どうせ、賭けでもしてるんでしょ」

ピン、とおでこをはじかれて、甲児はちょっと情けない顔になった。

「そんなにすぐ分かるかなあ?」

「分かる、分かる」

さやかは笑みを浮かべてフフ、と小さく声を立てた。

「いいわ。ゼンガーさんがいたところ、教えてあげる。代わりに甲児君、私とも賭けない?」

「賭けって?」

「ゼンガーさんが来るかどうか」

「そりゃ、来るさ。それしか能がないんだから」

「……それ、そのまま言うわよ」

「あ、いっけね。そりゃ勘弁。頼むよ、さやかさん」

両手を合わせて拝み倒す甲児を見て、さやかは笑った。

「分かった、分かりました。――じゃ、甲児君は来る方に賭けるのね」

「え?じゃ、さやかさんは来ない方に賭けるってのかよ?ほんとにそれで――」

「いいわ。勝った方は、そうね、お昼おごるっての、どう?」

「おーし、のった」

「じゃ、行きましょうか」

大空魔竜の寄港したドッグの近くに、わりと大きめの公園がある。ポカポカと暖かい陽気で、人手も多い。

「こんなところに?」

「ベンチに座ってたわよ。……まあ、こんな真面目な顔して腕組みしてたけど」

「……らしいんだからしくねえんだか、わかんねえなあ」

ゼンガーをまねてみせたさやかを見ながら、甲児は首をひねった。

そうこうしているうちに、ゆるやかにカーブを描いていた道は、公園の中心にある広場へと向かう。甲児はそこで木立の向こうに捜し人の銀髪を見つけた。

うららかな陽光の中、ゼンガーはベンチに腰掛けていた。ここからは背中しか見えなかったので表情は(うかが)えなかったが、さやかが言った通りを想像してみて、甲児は危うく笑い出しそうになった。

気を取り直して大声で呼ぼうと手を上げた時、さやかがその手を押さえた。

「だめよ、甲児君。ちゃんと近づいてから頼まなきゃ」

「え?」

どうも妙だと思いはしたが、甲児は素直に従って、ベンチの一歩後ろぐらいに来てから改めて口を開いた。

「親分」

すると、ゼンガーは顔を少しだけこちらに向けた。

「どうした」

「剣道の試合しようってことになってさ。親分も――」

ゼンガーは静かに首を振った。

「いや。今回は見合わせよう。わざわざ悪かったな」

「ええ?!」

甲児はおもわず隣のさやかを見た。さやかはクスクス笑って、私の勝ちね、と小声で言った。

「そんなあ……」

「?」

怪訝な顔をするゼンガーに一歩近づいてみて、それに気づく。

甲児は小声で抗議した。

「ずるいよ、さやかさん。こんなこと、教えてくれなかったじゃないか」

「勝ちは勝ち」

さやかも小声で返した。

背もたれの陰になって見えなかったのだ。ピンと背筋を伸ばして座っている男に寄りかかるようにして、小さな少女があどけなく眠っているのが……

なにやら小声でもめながら二人が行ってしまうと、今度やって来たのは整備士だった。

「ゼンガー少佐、言われてたグルンガストの調整、やってみたんすけど――」

腕組みをしてあたかも瞑想しているように見えたゼンガーが目を開けた。

「試乗か?」

「とりあえずはシミュレーターの方で。実際に動かすのは、ドックを出てもっと広いところでないと」

「では――」

「よく、寝てますね」

立ち上がろうとしたゼンガーを遮って、整備士が言った。

「そうだな」

自分の太腿に寄りかかるようにして眠っているイルイに目を落としてゼンガーは答えた。とたんに、こらえかねたように整備士が笑い出した。

「少佐、そんな生真面目に固まってなくてもいいじゃないですか」

ゼンガーは眉根を寄せた。

「ま、シミュレーターの方は後でいいですよ。他の機体の整備もありますしね」

「しかし――」

「一機ばかりかまけてるわけにもいきませんから。細かいところまでパイロット好みにした完璧なの一機より、上々なのを増やす。時間が足りないときには鉄則でしょう?」

そうとでも言わないとこの人は仕事を優先させてしまうだろうと、整備士はとっさに言い訳のような台詞を口にした。

「そうか」

一度、立ち上がるために前に倒した背中をまた元に戻してゼンガーが姿勢良く座り直すのを見て、整備士は新たな笑いの衝動に駆られた。イルイを起こさないように、慌てて手で口を押さえてこらえたものの、涙が浮かんで来た。

「少佐、子守歌でも歌ってあげたらどうです」

「子守歌など知らん」

困惑しているゼンガーに、笑いを含ませながら整備士は言った。

「なんでもいいんですよ」

それじゃ、と言って急ぎ足で歩いて、ある程度はなれたところでとうとう大声を立てて笑った。

それを見ながらゼンガーはひどく難しい顔になった。

「歌……」

この日、最後にベンチのゼンガーとイルイを見たのはミドリだった。

大文字博士に言われてゼンガーを探しに来たミドリは、ベンチに腰掛けるゼンガーとその側に眠るイルイを見つけ、そこで世にも珍しい物を見たのだ。

ゼンガーが歌っていた。

歌声はあまりにも低く(かす)かで、最初はなんだか分からなかった。それは、ほとんど呟きに等しかった。それが、歌声だと分かったのは、二人に随分近づいてからだった。

ゼンガーはイルイに目を落とし、呟くように歌っている。何かを話しかけているようにも見えた。

微笑ましくなって、ミドリはそっと声をかけた。

「子守歌ですか?」

歌が止んだ。

「いや」

答えた時には、ゼンガーはいつも通りの生真面目な表情だった。

浮かべていた表情も低いテノールも消え失せてしまったのを、ミドリはもったいない、と思った。

「気持ちよさそう」

イルイを見ながら言うと、少しの間があった。

「子供はどこででも寝てしまうな。それとも、よほど人懐(ひとなつ)こいのか、警戒心が薄いのか」

「イルイちゃんが?」

座ったままのゼンガーがミドリを見上げた。

「俺のような殺伐とした人間に(もた)れて眠ってしまうなど」

驚いて、ミドリはしばし目を見張った。

この人は気づいていないのだろうか、この遠慮がちな少女が何もかもあずけて無防備に憩うのはこの人の側だけであることを。

この人は気づいていないのだろうか、今、自分が浮かべていた表情がどんなに柔らかい物であったかを。

「少佐、」

「待ち続けた女の歌だそうだ」

「え?」

「アースクレイドルで眠りにつく前にネート博士から聞いた。――待ち続けた女の歌だそうだ」

では、この男にとってこの歌はどんな意味を持つのだろう。

黙ってどこかを見たままの男に掛ける言葉をミドリは持たなかった。

ひとつ身じろぎしたイルイが目をこすりながら身を起こした。

そうして、不思議そうにゼンガーを見上げた。

Kanske vil der gå både Vinter og Vår,

(冬が去り 春も行く)

både Vinter og Vår,

(冬と春とが)

og næste Sommer med, og det hele År,

(次の夏もまた そして年が過ぎていく)

og det hele År

(そして年が過ぎていく)

最後の挨拶のつもりで部屋に入ると、歌声が部屋を包んでいた。

どうぞ、と自分を招き入れた女性は、再生される音楽にじっと聴き入っている。

ゼンガーは少し待った。

音を低くしてこちらに向いたのを話しかけていい印だと判断してゼンガーは口を開いた。

揺籃(クレイドル)は順調だそうですね」

「ええ。さきほど、最終層の人々もスリープに入ったという報告を受けました」

「そうですか」

「あなたたちのお陰です。イーグレットやあなたや――」

「自分はただの軍人です。この計画の進捗自体には特に助けになるようなことはしていません」

「いいえ。その性質上、アースクレイドルにおいて防衛機構は最重要部と言っても過言ではありません。そして、機械だけのシステムでは対応しきれない時に、人の手はどうしても必要になる。(つるぎ)の異名を取ったあなたがプロジェクト・アークの軍事責任者の任に就いてくれたことで、安心した人は多いはずです」

「そうでしょうか」

「そうです」

ソフィアは柔らかく頷きながら断言した。

曲がループしてまた最初から流れ出した。

スピーカーの方を見ながら、ふいにゼンガーは訊いた。

「この歌は、何の歌ですか」

意外な質問だったのだろう、ソフィアは少し戸惑った顔をした。

「よく、聴いていらしたので。透明で美しいが……寂しげだ」

ゼンガーが付け足すと、ソフィアは自分も天井から吊ってあるスピーカーを見上げた。

「御存じないですか?有名なのですが」

「戦い以外のことには疎いので」

そう言うと、なぜかソフィアは表情を曇らせた。

「……待ち続けた女の歌です」

「待ち続けた――」

「そう。劇につけられた曲なのですけれど。自分を捨てて身勝手に放浪する男を待ち続けた女の歌」

「それで、男は帰ってくるのですか?」

「ええ。年老いて。……帰ってきて、この歌を歌う女の腕の中で息を引き取る。――帰って来たと言えるのかしら?」

「それまで待ち続けたのですね」

「そう。……女々しいと言われそうね」

「……強い、と思います」

「強い?」

「はい。男の在り方に関係なく、待つことを選択したのですから。結局、彼女は年老いるまで一人で生きたのでしょう?」

「ええ。――そうね。そんな見方をしたことはなかった」

men engang vil du komme, det ved jeg visst,

(でもあなたは帰ってくる 私には分かる)

det ved jeg visst;

(あなたはきっと帰ってくる)

og jeg skal nok vente, for det lovte jeg sist,

(そして私は待ち続ける 遠い昔に約束したとおり)

det lovte jeg sist.

(遠い昔に約束したとおり)

A--

(ああ)

「この女性(ひと)が待ったのは男だけれど、私たちが待つのは未来。ふふ、考えてみると雲をつかむ話ね。放浪の男よりも形のないものを待つのだから。計画を打ち切られても仕方がない」

「しかし、あなたはそうは思っていらっしゃらない」

「ええ」

しっかりと頷く女性を見ながら、ゼンガーは少し目を細めた。

計画凍結が決定しても、独自に人を集め、資金を調達したのはこの女性(ひと)だ。

逃亡者扱いを受ける中、誹謗と中傷とを全て笑顔で論破してみせ、プロジェクトに関わる人々を鼓舞したのはこの女性(ひと)だ。

この人は時に誰よりも強い、と思った。

「正直に言うと、ゼンガー少佐が私の招聘にさしたる異も唱えずにここに来たのは意外だったの」

見る角度によって紫にも見える深い色をした瞳に悪戯っぽい色が宿った。

「お陰で用意していた理論武装が無駄になってしまったわ」

「申し訳ありません」

ふふ、とソフィアは軽く笑い声を立てた。

「でもどうして?少佐なら、今現在地球を囲む敵を断つ道の方を選ぶのではないかと思っていたのだけれど。実際、なんらかの形で誘いはあったのではなくて?」

ゼンガーは首肯した。

「ならば、なぜ」

「...Weil das ist die Daseinsberechtigung.」

存在意義(ダザインスベレヒティグンク)?」

自分の思惟(しい)はどう表現されたらうまく伝わるのか。ゼンガーは考え考え言葉を選んだ。

「軍人は何も生みません。剣は何も作りません。それでいて、誰よりも何よりも驕る物です。強者が生き延び、弱者が淘汰される、それは獣の営みです。人であるならば――人である限りは――弱肉強食を唱えるのは愚の愚であり、進化ではなく退化です」

言葉を切ると、促すようにソフィアが頷いた。

「剣を携える者は、己の存在意義という物を考える義務がある。それをせずに剣を振るう者は人々を脅かす存在でしかない」

「少佐はご自分の存在意義は何だと思うのですか?」

「守ることです。そのためならば、どんな強敵であろうと斬ります。何も作れませんが、それだけはできます。それができなければ自分に意味はありません」

それを聞いて、ソフィアは少し目を伏せ、呟いた。

「〈悪を断つ剣〉、ですか」

(がえん)ぜながら、ゼンガーは続けた。

「守るべき対象として漠とした物から具体的な物を得たのです。守る剣として求められた自分に断る理由はない」

「そうだったのですか」

「はい」

そして、その中心に貴女がいる。

自分の持つ強さは彼女の強さとは別種の物だ。

なればこそ、自分は牙持たぬ貴女(あなた)の牙、(つるぎ)掲げぬ貴女(あなた)(つるぎ)

浮かんだ(おも)いをゼンガーは言葉にしなかった。

「そろそろ、配置につきます」

「『配置』に『つく』、ですか」

ソフィアはまた少し曇った表情をした。ゼンガーにはそれがなぜだか分からなかった。

退室しようとしたときに、声がかけられた。

「ありがとう……ゼンガー」

その時、ソフィアは「少佐」とは呼ばなかった。

「また、未来でお会いしましょう――」ゼンガーは少しためらってから結んだ。「――ソフィア」

淡い色の髪を結い上げた女性は柔らかな微笑(えみ)を浮かべた。

Gud styrke dig, hvor du i Verden går,

(あなたがどこにいようとも 神が導くでしょう)

du i Verden går,

(どこにいようとも)

立ち去るゼンガーが最後に聴いたのは背後から届く呟くような微かな歌声だった。

グルンガストのコクピットが開き、パイロットスーツの男が身軽く降りてきた。

「どうでした、少佐」

「どうも、振り抜くときの動きがまずいな」

整備員が覗き込んでいるモニターをゼンガーも覗き込んだ。

「どこですか」

「全体的に、だ」

「うわ、言ってくれますね。結構、調整したんだけどなあ」

「調整前よりはいい。ああ、そこだ。止めてくれ」

映像を一コマ一コマ戻して、探していたところで止め、ゼンガーは一点を指さした。

「ここでこういう具合に軌道を変えたかったんだが、実際にはこう――」

違った曲線をモニター上に指で描いてみせる。

「じゃ、この関節と、ここと、ここもかな。うーん……」

「腰部かもしれんな」

「あ、そうか。ベクトルがこう来るから。ブレるんですか?」

「ああ」

「じゃ、足から全部だな、きっと。あ〜あ、やり直しだ。……動きを速くすることとか精密にすること自体はさほど難しくないんですよ。ただ、斬艦刀って、相手を捕らえた後のパワーが問題じゃないですか。制御機構の方にばかり回すと、『一刀両断!』ってわけいかなくなるんすよ」

整備士は剣を振り回すのを真似て空の手を振った。

「斬艦刀があんなにバカでかくなければ、制御も楽なんですけどね。あれ、振れるだけでも驚異ですよ」

「軽くするわけにはいかん。あれは、刀というよりは両手剣(ツヴァイハンダー)なのだから」

「どういう意味です?」

「鋭さで切断しているというよりは、重さで粉砕している」

「ああ、そんな感じですね。まあ、もうちょっといじくってみますよ」

「頼む」

「でも、少し待ってもらえます?実は今、リフトが壊れてて。物資補給したはいいけど、出発も急いでたもんだから、ほら」

指し示された先にはコンテナが積み上がっている。コンテナから出しかけたのか入り切らなかったのか、細々とした物も散乱している。

「ひどいな」

「そうなんですよ。通路塞いでるも同然で。ここ通らないと居住区と行き来できないから、空けるには空けたんですけど、崩れそうで」

「参式で、というわけにはいかんな」

「ちょっと、中にいれるにはでかすぎですからね、グルンガストは。いま、ブレンの連中に協力を要請してます。あと、リフトの修理。手の空いてる連中は手作業で運んでます」

「俺も手伝お――」

言葉の途中で、相手が突然走りだしたので、整備士は目を丸くした。

「少佐?」

整備士が見たのは、走るゼンガーの背中、その先の金髪の少女、見上げて驚く瞳、崩れる貨物――

「ゼンガー少佐!」

叫んだ整備士の目の前を、音を立ててコンテナが崩れ落ちた。

夢を、見ている。

そう、夢であることははっきりと認識していた。

どことも知れない場所だ。

夢特有の、自分が認識する物以外が曖昧でぼやけた世界。

歩いている。

景色は模糊としていて、どこともしれなかった。場所が分かるような具体的な物も見当たらなかった。

歩き続けていてふと歌声が聞こえているのに気づいた。気づくより前からずっと流れていたようだ。

歌声は透明で美しく――寂しい。

立ち止まって歌が聞こえてくるらしい上の方を見上げ、耳を傾ける。

Gud glæde dig, hvis du for hans Fodskammel står,

(その足下に(ぬか)ずくとき 神は加護を与えてくれる)

for hans Fodskammel står!

(その足下に(ぬか)ずくとき)

ゼンガーにその異国の歌詞の意味は分からない。ネート博士に訊いておけばよかった、と思った。

ふいに、人の気配が生じた。

ゼンガーはゆっくり視線を気配の方に降ろした。

ソフィアだった。

不思議なことに、ゼンガーは驚かなかった。ただ、ならばここは天上だろうと思った。彼はソフィアが行くならば天上だろうと信じて疑っていなかった。

疑問に思ったのは、自分がここにいることだ。自分が天上に行けるか以前に、彼女と自分の天上は別な物なのではないか、と常々思っていたのだ。

自分が天上に行くとしたら、それは戦死者の天上(ヴァルハラ)であり、そこにネート博士はいないに違いない。

彼女の天上はもっと穏やかな物で、もし自分がいるとしたら、その天上の(かたわ)らで独り剣を持って立っていることだろう。

だから、ここは天上ではないのだ、と思い直した。

ソフィアは何も言わずに佇んでいる。その表情は柔らかい。

ゼンガーは話しかけようとして何も言葉が浮かばず、近づこうとして一歩も足が出ないことに気づいた。

しばらく静かに見つめ合う状態が続いた後で、す、とソフィアの腕が上がった。

その方向に一直線に続く道が現れた。

問うように視線を向けると、ソフィアはひとつ頷いた。

――そうか。

あれは、自分の()く道だ。

ゼンガーはひとつ頷き返して、その道に沿って歩きだした。

Her skal jeg vente til du kommer igjen,

(再びここに(まみ)える日まで 私は待ち続けるでしょう)

du kommer igjen;

(再び(まみ)えるまで)

og venter du hist oppe, vi træffes der, min Ven,

(もしあなたが天上に在るというのなら そこで逢いましょう 最愛の人)

vi træffes der, min Ven.

(そこでお会いしましょう 最愛の人)

天上の音楽が背中から追ってくる。

それは、ゼンガーの知るソフィアの声と混然一体となって、溶けていく。

A--

(ああ)

はばかりなく大声を上げて医師は笑った。

「加減という物を知らん人だな」

「じゃ、別に物資の下敷きになったわけじゃないのね?」

「いや、ドクター、笑いますけどね。勢い殺してたら、それこそイルイちゃんもゼンガー少佐もぺっちゃんこですよ」

見てたんですから、と整備士は、医師と、(しら)せを受けて様子を見にきたミドリに説明した。

側のベッドには銀髪の男が頭に包帯を巻かれて眠っている。

「いや、頭以外に打撲も何もないから、おかしいとは思ったんだが」

「はあ、そりゃ、言ってしまえば自分で壁に激突したんですけど」

「それで、ドクター、少佐は――」

「軽い脳震盪。まあ、こういう怪我は中で思わぬところから出血していたりするから一日は様子を見るが、今のところその徴候はない。心配することはないよ、イルイ」

医師は、眠る男を不安そうに見ている少女に声をかけた。

「イルイちゃん、あなたのせいじゃないんだから、そんな顔しないで、ね?」

「そうだよ、イルイちゃん。それに、ゼンガー少佐、丈夫だし」

口々に言ってやると、少女は小さくコクリと頷いたのだが、その表情は不安げなまま変わらない。

「さあ、行きましょう?」

うながして小さな背中に手を添えると、イルイはミドリを見上げて細い声で言った。

「ここに、いていい?」

どう答えようかとミドリがためらっているうちに、横から医師が言った。

「イルイ、私たちは仕事に戻る。お前さんは少佐の様子を見ていてくれ。何かあったら私を呼ぶんだ。診察室の方にいるから」

コクリ、と少女が頷く。

ミドリが医師を見ると、医師は片目をつぶってみせた。

名を呼ばれた気がして、ふう、と意識が浮上した。

目を開けるとベッドに横たわっていて、そばの椅子には少女が座っている。

小さな声で名を呼んでいるのは少女だった。

泣きながら名を呼んでいるのはその少女だった。

「……ガー……ゼンガー……」

イルイはまぶたをきゅっとつぶっている。そのまなじりから涙がじわり(にじ)んでは(こぼ)れ落ちていく。

なぜ、泣くのだろう。

両手を交互に使い目をこすっては涙を(ぬぐ)う、自分の名を呼びながら泣きじゃくる少女が不思議な生き物のように思われた。

少し迷ってから、ゼンガーは手を伸ばし、そっとその頬に指を添え、親指で涙を受けた。

「ゼンガー?」

驚いたように目を見開くので、やはり嚇かしてしまったかと思ったが、次の瞬間、少女は(わら)ったのだった。そうして――

「ゼンガー……!」

嬉しそうに身をよせて、それでも涙を零す少女をなでながら、ゼンガーは思った。

やはり、泣くのだな。

怪我人の様子を見にきたミドリは、病室を覗いてみて、

「あら……」

と言葉をこぼした。

立ち去った時には男が眠り少女が椅子に掛けていたはずなのに、今は少女が眠り男が椅子に掛けている。

ゼンガーは入ってきたミドリを見ると、

「眠ってしまった」

とだけ言った。

その眠った少女をずっと見守っていたらしい。

この無骨な武人がときどき見せるそういった一面が微笑ましくて、ミドリは笑みを隠しきれない。

「お怪我の具合は?」

「問題ない」

包帯の下はまだ痛むはずだ。しかし、それを口にすることは彼に限って絶対にないだろう。いや、本当に問題だとは思っていないのだろう。

「イルイちゃん、部屋に連れていきましょうか?」

「いや、いい。しばらくしたら起きるだろう」

そう言う気がしていたのだ。ミドリは一つ頷いて、

「少佐もちゃんと休んでくださいね。怪我人は怪我人なんですから」

「分かった」

再びふたりきりになる。

少女は軽い寝息をたてている。

起こさないように気をつけながら、そっと頭をなでると、その金糸のような髪が指の間をサラサラと流れた。

「Meine Daseinsberechtigung...」

今一度の誓いの呟きを聞き届ける者は居るのだろうか。

――居なくともよい。己に刻めればそれでよい。

そう、思った。

平成十七年九月二九日 初稿

平成十八年二月七日 第二稿

補足説明