どれだったか忘れたが,メグレ物の解説に『罪と罰』の言及があり,以来,いつか読もうと思っていた.
それで最近思い立って,うちの本棚から米川正夫氏訳の文庫を引っ張り出したのだが,読み出してみてしまったと思った.発行日調べたら初版が昭和26年で,うちにあったのは昭和35年の24刷.訳が読みづらいのである.おまけに,主人公のラスコーリニコフの逡巡のみでしばらく続く.何をしようとしているのかはすぐに気がつくのだが,行動と会話と心理のみで,彼がなぜそれを思い立ったのか,彼はどんな状況にあるのかが掴めないままに話が続くので,最初の方を読むのに数ヶ月掛かった.
が,事が起こった後は状況と人物とが増え,最初から続いていた不安と緊迫とを引っ張ったままぐんぐん読める.ラスコーリニコフの友人のラズーミヒンが気持ちのいい人でなあ.あと,ラスコーリニコフの妹のドーニャがまた芯の強い美人でよい.圧巻はやはり最後の第五篇と第六篇.
虚無思想的な話は最近よく見かけるけれど,既に100年以上もも昔に書かれているのだから,何も新しいことはないんだなと思いながら読んでいた.(まさに当時ロシアはニヒリズムの真っ直中だったわけだから,それは当然なのかも知れない)
思うんだが,ラスコーリニコフは自分が犯罪に至った理由は分かっても,我が身を官憲に売り渡した理由は物語の最後まで(いや,最後に至っても)分からなかったのではないだろうか.第四篇の三のはっとする廊下の場面.ここは分かれ目であったように思う.ラスコーリニコフは明かさずに居られなかった.ずっと明かさずに居られなかったのは確かなのだが,好漢たるラズーミヒンにさえ分からせずにいられなかった.彼はずっと揺れ動いているあれは僕が赦しを乞うたんだよ
と言った次の瞬間には相手を憎悪している.
世間的に言う悪事を悪事と認識している時点で彼は他の人々と変わらない.彼は犯罪による金を賤しいとちゃんと認識している.あの金はさうぢやない、安心しておくれ!
と言っているからには分かっているのだ.
ラスコーリニコフはラズーミヒンにずいぶんと世話になっていながら,鬱陶しく思っているし,離れたそうにしている.でも,彼が後を任せるに足る人物であるとは思っているのだ.ラスコーリニコフが打ち立てた論理からすればラズーミヒンは虱の方になるだろうに.そこからして既に価値観にブレがないだろうか?それとも虱は虱で生きて行けと思っていたか?ただ,そこまで見下してはいない.善人であり,建設的である,自分と正反対な陽性の性格が時に嫌悪を呼んだだけなのだろう.
ラスコーリニコフは,そうだな,肝試しと言えば肝試しだったのだ.ずいぶん取り返しがつかない肝試しだ.震えないでいられるということを証明したかっただけという,自分のためだけに
だった.
「誰も彼もが賢くなるのを待つてゐたら、それこそ餘り長すぎるだろうつてね」
このラスコーリニコフの論理をざくっと切り捨てるのがポルフィーリイである.
「わたしは全體に、いや文學の愛好者として、あの若々しい熱烈な最初の試作を非常に愛してゐるのです。あれは煙です、霧です、霧の中に絃が響いてゐるのです。あなたの論文は馬鹿々々しい空想的なものです」
ただ,ポールフイリイは小馬鹿にし,冷笑し,あるいは頭から説教するために,そう断じているのではないのだ.その根底に愛情がある.こちらに戻ってこいと手を差し伸べている.本当の意味で生きろと彼は言っている.これまでに、充分生活をしましたか?
なのである(この辺りがメグレ物で引き合いに出されていた点だとは思う).でも,ポルフィーリイはラスコーリニコフのだいたいを把握はしたと思うけれど,何もかもを完全に見透かしたわけではないと思う.
もひとつポルフィーリイで好きな言葉を引用する.
「わたしが何者かつて?わたしはもうお了ひになつた人間です、そりやまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちつとは心得た人間かもしれませんが、しかしもうお了ひになつた人間です」
スヰ゛ドリガイロフは,物語の正に中盤でにこやかな怪人然としてラスコーリニコフの前に現れる.おそらく,彼はいくつも犯罪を犯している.では彼は極悪人であるのかというと,愉快に犯罪を犯す人間でもない.幽霊について語った行から考えるに,彼は自分を病気だと思っているのだろうと思う.この場合,彼の説から行くと,病気というのは死に近づいた状態である.ゆったりと暮らしているように見えて,実際,ゆったりと生活しているのだろうが,彼は鬱々としているし,漠然と不安を抱えており,完全には幸福でないのを自覚している.自分が得たい物が分かっているのだろう,彼は.だから,得られないとはっきりと自覚した時に全部に始末を付けて回ったのだろうと思う.
この物語の中で私が一番嫌いなのはルージンである.だから,「お前はこれでも恥ずかしくないのかい,ドーニャ」「恥ずかしいわ,兄さん」の会話の辺りはすごく好きで,これで出番は終わりだと思っていたら,まだやらかしてくれて,しかも前に輪を掛けて卑劣な真似をすることに呆れてしまうと同時に,(自分の基準に置いて)下賤と見なした者に対して何をしてもいいと思っているその思考回路が分からない.ラスコーリニコフが苦悩を傲慢で糊塗せずにいられないのに比して,ルージンはこれだけの悪業を仕掛けておいて,何も罰せられないし,自分が悪いとも最後まで考えていない.それが,不思議な気分がした.
カチェリーナ.この人は好きではない.不幸であり同情すべき余地はあるのだろうが,それにしても,自分の手から逃れ去ってしまった陽光に縋りすぎているからだ.立派でいろというのは無理にしても,何も周りを見下そうとしなくてもいいではないか.それさえ止めれば,まだ助けてくれる人もあっただろうにと思わずにいられない.気の毒なのは怯えきってしまった子どもたちである.もっとも,これは葬儀の場面の印象を引っ張りすぎているのかもしれない.なぜなら,それでもカチェリーナの子どもたちは純真に育っているのだし,血の繋がりのない娘も懸命に擁護しようとしていたのだから.
「わたし達はすつかりお前の生血を吸つてしまつたねえ、ソーニャ......」
聖女たるソーニャ.聖女だ,彼女は.
「だってわたし、神様の御心を知るわけに行きませんもの......どうしてあなたはそんなに、訊いてはならないことをお訊きになるんですの?そんなつまらない質問をして、一たい何になさいますの?そんなことがわたしの決斷一つでどうにでもなるなんて、それはなぜですの?誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、一たい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでせう?」
「何だつてあなたは、何だつてあなたは御自分に對して、そんなことをなすつたんです!」
ソーニャの台詞は結構名言が多くて心に響く.大人しいと思えて,純粋故に激しい以下の台詞が一番好きだ.
「お立ちなさい!すぐ、今すぐ行つて、四つ辻にお立ちなさい。そして身を屈めて、まづあなたが穢した大地に接吻なさい」
この台詞は日本人じゃ出てこない.
ラスコーリニコフはある意味幸福な人だなあと思う.だって,愛されているじゃないか.家族からも友人からも非常に愛されているじゃないか.わたしが嬉しかったのは,その点である.理論は否定されても,人物自身は否定されなかった,見放されなかった,その点が救いである.
読むまではもっと重苦しくて救いのない話かと思っていたのだが,敬虔な,人間に対する愛情の溢れた物語だなあと考えを改めた.
罪と罰〈上〉 (岩波文庫)
罪と罰〈中〉 (岩波文庫)
罪と罰〈下〉 (岩波文庫)
↑わたしの読んだ旧仮名の米川氏訳は現在だと読みにくいと思うので,江川氏訳を紹介しておく.