『紺青の拳』,京極さんが園子の部屋のドアの前に立ってるところ.
廊下の端、外からの光の色が変わってきて、今が夕方であることを示している。マリーナベイ・サンズの廊下は静かで、音がこもっている。壁がしっかりしていて、気密性が良いからだろう。
扉の前で京極は真っ直ぐ前を向いて立っている。体重をどちらにも傾けないよう左右の足を均等に地に着け、さながら試合前のようにどちらで何が起きても即座に対処できるように、凝と立っている。
ふと空気の動く感覚があり、京極は右を向いた。離れた場所の客室の扉が開き、男女二人が楽しそうに話しながら出てくるのが見える。二人は京極と目が合うと途端に口をつぐみ、視線から逃れるように目をそらした。
奇妙な沈黙を保ったまま、二人がエレベーターホールへと曲がった。再び会話が始まり、小声が届いてくる。
ねえ、見た?あの人、お昼もいたよ。
だよな。フロントに言っておこうか。変な人がずっと立ってるって。
会話は、エレベーターの到着を告げるチャイム音で途切れた。再び廊下には静寂が訪れ、人の気配が無くなったのを確認すると、京極は元の姿勢に戻った。
病院から移動した園子が客室に入ってからずっとこれを繰り返している。昼に見かけたのはほとんどが客室を整える従業員だったが、チェックインの時間が過ぎると客が増えてきた。人影が見えるたびに注意を払い、それらを記憶する。今出て行った二人連れの向かいは老夫婦。その隣の隣は親子三人連れ、それから――
現在のところ、園子に危険を及ぼすと思しき人物は見ていない。部屋の中の気配にも動きはない。
京極は黙ったまま右手をぐっと握った。昨夜着けられた薄紫のミサンガは手首に絡みついたままだ。
チン、とエレベーターの到着するチャイムが鳴った。すぐに京極はそちらに注意を向けた。ホテルの制服を着た男がトレーを持ってやってくる。京極よりやや背が低い。鍛えた様子は無い。一見したところでは殺気らしきものは感じない。
トレーを持った男は京極を見ると怪訝な表情を見せたが、すぐにそれを消した。
「何か?」
問い質すと男は左肩をやや動かして扉を示した。
「こちらのお部屋の方からのご依頼でお食事をお持ちしました」
なるほど、蓋つきのトレーからは食事の匂いがする。時刻も、園子が頼んだと考えておかしくはない。京極は、そこで待て、と身振りで示してから、扉をノックした。
片足を引きずる足音が少しずつ近づいてきて、扉が開いた。京極を認めて、園子は一瞬息を止めたが、すぐに無表情になった。
「......何で、いるの?」
感情のこもらない口調に胸を刺され、言葉に詰まった。だが、無理矢理精神を立て直すと、トレーを持った男が見えるようにやや体をずらした。
「ルームサービスだと言っているのですが、本当に園子さんが頼んだものですか」
そちらを一瞥すると、園子は短く答えた。
「ええ」
確認が取れたので、扉の前から退き身振りで中を示すと、客室係は京極の方を気にしながらも、園子の部屋に入っていく。扉が閉まらないように手で押さえて、京極は待った。不審な様子はなく、客室係は園子が指示する通りにトレーをテーブルの上に置いた。退室した客室係が廊下を歩き出すのを確認し、扉を閉めようと向き直った時、園子の姿が見えた。園子はテーブルのそばに立ったまま、食事を見下ろしている。横顔には何の表情も浮かんでいない。
「......っ」
無表情と堅い視線に胸突かれるものがあって、息を飲む。無意識にやや口を開けたのは、たぶん、何か声をかけたかったのだ。だが、気の利いた言葉など何一つ浮かばない。弱り悄れて口を閉じ直し、京極はただ一礼して扉から手を離した。音が立たないように外側の取手に手を添えて閉まるに任せていた時、不意に声をかけられた。
「ねえ」
驚いて目を上げると、園子が真っ直ぐにこちらを見ていた。京極は取手を握って扉の動きを止めた。
「ずっとそこにいたの?」
「はい」
答えたは良いものの、突然、京極は不安に囚われた。ここからさえも立ち去れと言われるのではないのかと、蝕まれるように思った。
ここから立ち去る気はない。そこは譲れない。だが、園子にそう言われれば、言葉はやはり京極の胸を抉るだろう。
瞳をじっと向けたまま、しばらく園子は何も言わなかった。膨らむ不安を抱えたまま京極は待った。
ふい、と園子は横を向き、そう、とだけ言った。それ以上はいくら待っても動きはなかった。京極は目を伏せ、それから気を取り直して、声をかけた。
「失礼します」
今度こそ扉は閉じ、再び京極は扉の前に真っ直ぐ立った。
静寂が戻った廊下にあって、ギリ、と指が軋るほど拳を握る。あんな園子は視たことがなかった。笑うにしても怒るにしても、いつも生き生きと鮮明なのに、それが拭われたように見えなかった。自分が拭ってしまった。
掌に爪痕が付くほど強く強く拳を握っていた時、またもエレベーターのチャイム音が到着を告げた。屹とそちらを視ると、さっきの客室係がいた。またもルームサービスのようだ。今度はワゴンに食事が乗っていて、先ほどより量が多い。ただ、客室係がそのワゴンをこちらに押してくるのを見て、京極はやや警戒した。この人物が本物のホテルの従業員なのはさっき確認できた。だが、こちらにはもう園子の部屋しか無い。さっき運ばれてきた食事も合わせると、園子一人で食べられる量ではない。
「それは?」
明らかに声に不審が籠っていたのに、客室係の方はにこやかに笑いかけてきた。
「中の方から、護衛の方にもお食事をお持ちするようにと」
「え?」
虚を突かれて、京極はキョトンと目を丸くした。
「自分に、ですか?」
「ええ。ワゴンは置いて行った方が食べやすいでしょう。後で取りに伺います」
相手は愛想の良い笑みを浮かべている。京極は金属製のピカピカした蓋を持ち上げて、ざっと量を見計らう。
「では、三〇分後に」
「分かりました」
従業員が去っていく。エレベーターに乗り込む物音を確認してから、京極はくるりと扉の方を向き、コンコン、とノックした。
「園子さん」
何、と中から声がする。扉は開かなかったが、声の近さと気配から、すぐそばに居ると分かった。
「ありがとうございます」
いただきます、と手を合わせ、京極は食事に手をつけた。
*
―― 何で、そんな嬉しそうな声出すの。
園子はドアの前で耳をそばだて、食器とカトラリーが小さく音を立てているのを聞いている。
―― 私、酷いじゃない。
園子は手を伸ばして、指先だけをドアに付けた。ドアはただ冷たくて、園子は俯いた。
声が漏れないように注意して、口だけを動かした。
真さん。真さん。真さん。
涙が一粒落ちた。それはすぐに床の絨毯に吸い込まれて消えてしまった。
ごはんあげたくて書いてみたら,廊下でルームサービス食べる不審者が爆誕してた.
ちなみに,不審人物化を防ぐために園子がフロントに「事件に遭った自分の護衛だ」と連絡してあげた裏設定.
ホテルの廊下で立ってるって絶対目立ってたと思うんだけど,原作のVSキッドを考えると,京極さん人の目には無頓着そうだな.原作のVSキッドは,全編に渡って京極さんの行動がとんでもないんだけど,宝石と一緒に展示されて衆目に晒されてるところ,全然気にしてないもんだから,「え?それ,いいんだ」とポカンとした.
京極さんも園子もごはん綺麗に食べそうだなあという印象がある.魚も箸で上手に食べてくれる.焼き魚ごちそうしてあげたい.
Tweet 日時: 2019年6月28日 | 二次SS |