名探偵コナン.京園SS.『紺青の拳』の最終戦後,ED前ぐらい.
廊下に敷き詰められた毛足の短い絨毯が車椅子の車輪の音を吸っている。既に時刻は真夜中を過ぎ、廊下に他の客は居なかった。事情聴取と手当てが終わるころにはすっかり疲れてしまっていたので、救助艇に引き上げられた時点で代替ホテルの手配を家の者に頼んだ自分を褒めてあげたい。
会話こそ無かったが、後ろに回って車椅子を押している京極との間には穏やかなものが流れていて、今朝あった隔たりが無くなっているのが純粋に嬉しい。
「あ、ここ。この部屋」
園子が指さしながら後ろを振り返ると、京極は頷いて車椅子を止めた。その顔には二枚湿布が貼られている。マリーナベイ・サンズ屋上でシンガポール最強と言われる男と戦った傷跡である。園子は京極が殴られるのをそれまで見たことが無かった。空手のことは分からないが、さっきだって園子を抱えてさえいなかったら、きっと相手は瞬殺だったに違いない。そう思うと、申し訳なかった。
その京極の表情は、戦っていた時と違って柔らかい。
「キーを」
手を差し出され、自分が京極を見詰めていたとはたと気づく。気恥ずかしくなって少々挙動不審になりながら部屋のカードキーを渡すと、京極は園子の代わりにドアを開け、ホルダーにキーを差し入れた。光量の絞られた灯りがともる。再び車椅子の後ろに回り部屋の広くなった部分まで進むと、京極は車椅子を止めブレーキをかけた。
「こちらでいいですか?」
「うん、大丈夫」
園子はよいしょと立ち上がると、背の高い京極を見上げた。
「真さんも疲れてるのに、送らせちゃってごめんね」
いえ、と京極は頭を振った。
「では、ここで。自分は隣の部屋のようですから、何かあったら呼んでください」
扉を閉める前にもう一度振り返ると、京極はわずかに微笑を浮かべた。
「ゆっくり休んでください」
昨夜と同じ台詞だ。昨夜とは違ってその優しさを素直に受け取って、園子は頷いた。
「真さんも」
「はい」
扉を閉める時、少し名残惜しげに見えたのは気のせいだったろうか。
一人になると余計に疲労が降りてくる。目まぐるしい夜だった。正直、園子は京極にしがみついて悲鳴を上げていただけだったが、その「しがみつく」のが尋常の労力ではなかった。実のところ、背負い結びされた時の細い紐が太ももの裏に食い込んで赤く擦れてしまっているのだが、これだけは絶対に京極に気づかれるわけにはいかない。気取られて「どこか怪我をしたんですか」などと訊かれようものなら羞恥のあまり死んでしまいそうだし、だいたい真相を知ったら京極は切腹すると言い出しかねない。
「ほーんと、時々、突拍子ないのよね」
と言って、その突拍子のなさが発揮されるのが自分に関することだけだとも分かっていて、そこが大好きだったりするのだから始末に負えない。
ほんのり笑みを口元に浮かべながら園子はベッドの方へと移動した。着替えて横になろうという気はあったが、事件の昂ぶりもあって、すぐには眠れそうもない。いったんベッドに腰掛けて息をつき、ふと横を見ると、部屋の奥にドアがあることに気がついた。
コネクティングルームだ、ここ。
気を利かせたのか、京極の居る隣の部屋と内扉で繋がるようになっている。ちょっとワクワクして園子はドアの方に向かった。修学旅行で男子の部屋に押しかけるような、そんな悪戯心がむくむくと沸く。
鍵が掛かっているかもと思いながら取っ手に手を置いてみると、鍵は掛かっていなかった。遠慮がちに小さくノックしてから園子はドアを開けた。
「真さん、ここ、繋がってるみた――」
園子は途中で言葉を止めた。開けた隣の部屋は暗く、既に小さく寝息が聞こえる。
ついさっき部屋に入ったばかりなのに......?
窓のカーテンすら閉めておらず、射し込む月明かりを頼りに目を凝らすと、京極は着替えもせず服のままベッドに横たわっている。
園子は不思議に思いながら、足音を立てないようにベッドのそばに近づいた。不思議に思ったというのは、一つには気配に敏い京極が人が近づいても目覚めなかったことであり、もう一つには服のままベッドに横になっていることだった。
およそ、きちんとした人間なのだ、彼は。
普段から礼儀正しいし、姿勢も良い。いちばんそれを感じるのは食事の時で、口いっぱい頬張ることもなく、擬音をつけるならガツガツではなくもぐもぐだ。昨日の屋台村でも、奇麗な所作を眺めている内に、皿は奇麗になっていた。そんな人間が、埃やら海水やら汗やらで酷く汚れてしまった服を着替えずに転がっている。辛うじて眼鏡だけは枕元に畳んであったが、右を下にした横向きの状態で手は投げ出され、背中をほんの少し丸めて、起きる気配が無い。まるでスイッチが切れてしまったようだった。
寝姿を窺いながら首を捻ったところで気がついた。マリーナベイ・サンズの園子の部屋は三七階。屋上が五七階。悲鳴を上げるばかりで状況も把握できていなかったが、実に二〇階を京極は園子を抱えたまま駆け上ったのだ。その上でのあの乱闘である。だいたい、園子に拒絶された朝からずっと、京極は廊下で気を張りつめながら立っていた。園子に気取らせることこそなかったが、もうきっと限界だったのだ。
そこまで考えが至ると、胸がぎゅうっとして、園子はそっと自分の胸に手を当てた。
すう、すう、という寝息を聞きながら、園子は京極の顔を覗き込んだ。身体は弛緩して、寝顔は穏やかで、いっそ幼く見えた。それを見ていて、はっきりと事件は終わったのだと実感した。賭けてもいい。危機が続いていたなら、京極はどんなに疲れていても起きて警戒を続けていただろう。
薄闇の中、しばらく、園子は京極を眺めていた。そして、緊張しながら小さく呼びかける。
「真さん......」
寝息が途切れることはない。
それから、園子は周りを見回した。周りに人など居ないのは承知の上でなお、何度も何度も確認すると、園子は意を決して、京極の方へと身を屈めた。
「ありがとう、真さん」
微かな声でそれだけいうと、左眉の傷の辺りに唇を寄せる。触れたのはほんの一瞬だ。正直、園子にはそこまでが限界で、触れた途端に誰も観ていないのにぱっと離れた。残った感触にドキドキしながら、自分の唇に触れてみる。みるみる頬に血が上るのが自分で分かる。
「おやすみなさい」
それだけ辛うじて口にすると、園子は痛む足にできる限りの速度で自分の部屋へと逃げ帰った。
ベッドに勢いよく倒れ込む。鼓動は速くなったままだ。
やはり今日は眠れそうにない。
20階駆け上がったことに気がついたら,急に思いつきました.
軽そうなふりして,園子はすんごく奥手だと思う.
京極さんも照れ屋だからなかなか進展しないんだろうけど,口へのキスは京極さんからじゃないかなあと思ってる.決断しちゃったら退かないだろうから.でもって,キスしてる間ずっと目を開けてると思う.園子が観たいから.(園子は閉じてる)
何かと照れて赤くなるのに,お姫様だっこする時はまったく躊躇しないのはなんなの(アニメでしかやってないけど).アニメオリジナル回,鈴木財閥に馴染みすぎてて,早く結婚しろと思いました.(作文)
2019.10.4追記:円盤では階段のシーンが49階に直されてました.(笑)
Tweet 日時: 2019年6月10日 | 二次SS |