『紺青の拳』,墜落直後.最後のキッドとコナンの会話を書きたかっただけなんだけど,京極さんが園子をお姫様だっこする場面を書きたくなったら長くなりました.
黒々とした夜の海にマリーナベイ・サンズのかつての屋上が長々と浮かんでいる。墜落の余波で上がった海水の雨が炎をあらかた消し去ってはいたが、美しいシンガポールの夜景には場違いな煙が幾筋も立ち上って、事件の規模を物語っている。
岸の方からは
リシとの最後の会話を終えて、コナンが蘭や小五郎の方へと戻っていくと、蘭がこちらを見て駆け寄ってきた。
「良かった、アーサー君。振り落とされちゃったのかと思った。怪我は無い?」
「大丈夫。海の中で手が離れちゃって」
アーサーを装う甲高い声を作ってみせると、ハッとなった蘭はすぐに申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんね、私が掴んであげてたら良かった」
違う。これは自分の誤魔化しであって、蘭が後悔などする必要は無い。曇った顔をさせていたくなくて、コナンはことさらに声を張り上げて
「ねえ、あの船、もうすぐ着くよ。助けに来てくれたんじゃない?」
「あ、ホントだ。お父さん、ほら、大丈夫?」
「ちょっと腰に来てな......」
腰を曲げていた小五郎は、トン、トン、と腰を叩いてからぐっと背を伸ばした。
やがて、船が接舷すると移乗のための渡り板が延ばされた。警官が何人も雪崩れ込んできて、倒れて呻いている海賊を次々に拘束していく。ほっとしていると、指揮を執っていた警官が小五郎に声をかけてきた。
「Are you alright?」
「ああ?」
「大丈夫かって聞いてるよ」
コナンが通訳する。
「ああ、大丈夫です。OK、OK」
小五郎が慌ててうなずくと、警官は英語は通じないと悟ったのだろう、身振りで巡視艇の方を示した。
「Please get on the ship」
「なんだって?」
小五郎がコナンを見下ろしてくる。
「あっちの船に乗ってだって」
「おお、サンキュー」
小五郎がさっそく渡り板へと歩き出す。そばで聞いていた蘭は売店のカウンターの方を振り返り、呼びかけた。
「京極さん!」
気がついた京極はうなずくと、ひょい、と園子を抱え上げた。途端に園子がヒェ、とかなんとか裏返った声を上げたが、京極は意に介していない。その眼鏡は吹き飛んでしまったのか無くなっている。トレードマークの絆創膏も無く、左眉には普段は晒されていない小さな傷が見えている。危なげない歩調で近づいて来る京極はまったくの真顔で、何かというとすぐ顔を赤らめる普段の様子はうかがえず、この男の距離感がどの辺にあるのかは誰にも分からない。対称的に、園子は京極の腕の中でキュッと縮こまり、普段の賑やかな様子がなりを潜めて、しおらしい。
「あの......車椅子ってありますか......」
警官にかける声も蚊が鳴くようだった。暗くて良くは見えないが、たぶん顔は真っ赤だろう。
――こういうとこ、こいつもお嬢様だよな。
蘭の方をちらりと見ると、親友の様子を面白そうにニコニコ見ていて、コナンは思わず苦笑いしてしまった。
近づいて来る岸に大きく手を振る人物を見つけ、あの野郎、とコナンは内心毒づいた。新一姿のキッドである。キッドが船から降りた小五郎たちに駆け寄って来ると、開口一番、蘭が言った。
「新一! どこ行ってたのよ!」
「そりゃ、こっちの台詞だ。イベントプラザにいたんじゃないのかよ! SPECTRA観てるって言ってただろ! 探したんだぞ!」
「ごめん、お父さんが屋上にいて――」
まくし立てられて一度はひるんだ蘭だったが、すぐに思い直して言い返す。
「って、そもそも、新一がショーに来ないからいけないんじゃない!」
キッドは逆らわずに両手をあげて降参のポーズを取った。
「悪ぃ。今回の事件の捜査と証拠を押さえてたんだ」
「事件の捜査?」
「レオン・ローと海賊が繋がっていたんだ。あと、リシ・ラマナサンもな。キッド捕まえるのに気を取られてるふりしながらこっちの調査するの、大変だったんだぜ」
「レオンさん? リシさんも......?」
蘭も小五郎も降りかかってくる火の粉を払っただけで、事件の全貌は分かっていないのだ。キッドがスマホを出して、レオンと海賊とが一緒に写っている写真を見せた。驚いたようにスマホを覗き込む蘭も、少々自慢げなキッドも、コナンとしては内心面白くはなかったが、そういうことにでもしておいてくれないと、「工藤新一」は「肝心な時にどこかでふらついていた役立たず」に成り果てる。黙っているしかないが、不機嫌な顔は隠せない。
「それより、事情聴取は終わったのか?」
「ううん。だいたいの説明はしたんだけどみんなずぶ濡れだし、名前と連絡先知らせて、もっと詳しい事情聴取は明日だって」
蘭! と後ろから園子の声がしたので振り返ると、園子を抱きかかえた京極が揺らさないように静かに桟橋を渡ってくるところだった。園子の方は開き直ってしまったのか、京極の腕の中で大きく手を振っている。
「うちに言って、代わりのホテル手配してもらったから」
「ありがとう、園子」
キッドは近づいてきた京極と園子を順に見ると、園子の頭を指さした。
「包帯取れてるじゃねえか。大丈夫か?」
とたんに、心配そうに京極が園子の顔を覗き込んだので、真剣な瞳を至近距離で見る羽目になって、園子はあたふたとダイジョーブ! と声を上げてから、誤魔化そうと言い返した。
「あんた、私より自分の奥さんの心配しなさいよ」
「へ?」
途端に、頓狂な声を上げたキッドが反射的に蘭を見、さらに物問いたげにコナンを見下ろしてきたので、コナンは焦りながら、こっち見んな! と口だけを動かした。
「ちょっと、園子、からかわな――」
顔を赤らめた蘭が言いかけたのを、別の声が遮った。
「蘭さんと工藤君は結婚されているんですか?」
見れば、キョトンとした京極が、蘭と新一に化けたキッドを代わる代わる見ている。途端に、蘭もキッドも、抱えられたままの園子も一斉に首を振った。誰の視界にも入っていなかったが、コナンも誰よりもブンブンと首を振る。そこへ後ろから不機嫌そうな顔をして小五郎が割って入った。
「ンなわけあるか。まだ高校生だろうが」
言われて、京極は自分の勘違いに照れたように微笑した。
「ですよね。お二人ともまだ十七才ですし」
わたわたしていたキッドは、京極が納得したようなのを見てなんとか平静を取り戻し親指で自分の背後を指さした。
「あー、えーと。そうそう! 京極さん、あっちに車椅子持ってきましたから」
キッドの狙い通り、京極はこの話題から離れ、指さされた方を見てうなずいた。
「ありがとうございます」
そのまま車椅子へと近づき、大事そうに園子を下ろしている。その様子を見ながら、小五郎が呆れた調子で言った。
「なんでぇ、あいつ、十八になったら結婚しそうな言い草じゃねえか」
「お父さん、そんなこと言ったら、京極さん、もう十八才なんだよ」
「なら、卒業待ちか?」
「い、いくら京極さんでも、それはない、と思うけど......」
蘭の声が自信なげに消えていく。
「いや、分からんぞ。俺だって学生結婚だったし」
「でも、大学でしょ?」
親子の会話を聞きながらコナンは、はは、と乾いた笑いを浮かべた。京極真という人間は、古風で奥手でおおよそは常識人だ。八割ぐらいは「そのような大事なことは性急に進めるべきではないと思います」と言うだろうと思っている。ただ、「おおよそ」というのが問題で、京極の思考はどこでフリーダムに跳ぶか予測不能なところがある。確率はゼロとは言いがたい。
後ろでそんな会話が進められているとはつゆ知らず、園子と京極は道路の方を見ている。と、すっと園子がとある車を指さした。京極が、車椅子に座っている園子の声を聞こうと腰を折って耳を近づけ、一度うなずいてからこちらを振り返った。
「園子さんの呼んだ車が来たそうです」
「お、用意いいな。ありがてえ」
言うなり小五郎が歩き出す。既に京極が園子を車に乗せて、車椅子を畳もうとしている。蘭もそちらに体を向けたので歩き出すかと思いきや、ふと何かを思いついたように新一姿のキッドを振り返った。
「......用意いいじゃない」
「ん?」
何の気なしにキッドが蘭を見ると、蘭はずいっと近づいた。
「車椅子。みんな逃げ遅れて屋上にいるって分かってたの?」
やや焦ってキッドは身体の前で手を振りながら後ずさった。
「念のためだよ、念のため。園子は怪我で部屋にいたから、避難の時に車椅子がどうなってるか分からないと思って調達してきたんだ。さすがに屋上ごと墜落してくるなんて思いもしなかったって」
はは、と誤魔化すように笑ったキッドの横で、コナンは苦笑いした。ただ、この男が、行動の整合性よりも怪我人を気遣う方を優先したことは買って良いと思っている。
「それより、先にホテル行っててくれ。念のため病院で診てもらってからな。俺は無傷だし、警察に調査したことを説明してから後で行く」
幸い、蘭は深くは追求せず、それもそうね、とコナンに手を差し出した。
「じゃあ、アーサー君も一緒に病院行こ」
言われて、慌ててコナンはキッドの後ろに後ずさった。
「僕、このお兄さんと一緒に行くよ」
「でも......」
戸惑った蘭は口籠もり、キッドがコナンを見下ろした。目が合って数瞬、キッドはコナンにだけ見えるようにひょいと片眉を上げてから、改めて蘭に向き直った。
「こいつは、俺が病院に連れて行ってから家に送るよ。どうせ、あの車じゃ全員一度には乗れないだろ」
蘭はキッドとコナンとを順番に見てやや不思議そうな顔をしていたが、そうね、とうなずいた。
「じゃあ、ちょっと待ってて。園子にホテルがどこか聞いてくるから」
「おう」
蘭が離れたので、思わず二人で、ふう、と息をつく。そこに背後から声をかけられた。
「工藤君」
振り返ると、色黒のがっしりとした男が立っていた。
「アイダン警部補」
アイダンはスタジアムで宝石の警護に就いていた。その絡みで少しだけ言葉を交わしている。キッドとコナンは素早く目配せを交わし合った。調べたことを話すにはうってつけの人物だ。
「ちょうど良かった。お話ししたいことがあるんです。今回の事件の件で」
「レオン・ローと海賊の件だな」
「レオン・ローと海賊と、リシ・ラマナサンの件で」
「......リシも、か」
呟くように言うと、アイダンは視線を落とした。
「......ええ」
紺青の
「レオンが海賊を動かすための餌として紺青の
「何? 五年も前の話だぞ。それに事故だと聞いて――」
アイダンはふと言葉を切った。
「......いや、あれもレオンが絡んでいたな。だとすると、弁護に立ったシェリリン・タンは......?」
「真相を知りながら介入したと考えるのが妥当でしょう。そして、レオンとの関係が悪化した後になると、それが殺害の一因にもなった。繋がっていた事件はそれだけじゃない。おそらく、園子のひき逃げも」
「ひき逃げ? 例の財閥のご令嬢の? だが、紺青の
「園子は京極選手の恋人だ。京極選手を大会から棄権させるためのレオンの差し金だったんですよ。紺青の
「何もそんなことをしなくても。ジャマルッディン選手はシンガポール最強と謳われる選手だぞ」
アイダンが首を振るのを見て、キッドは肩をすくめて海に浮かぶかつてのスカイデッキを指さした。
「あそこで起きた戦いについて事情聴取してもらえば分かりますよ。海賊でもジャマルッディン本人でも」
そこで困ったようにアイダンは後頭部に手をやった。
「怪我が酷くてすぐに話せる状態にはないんだ」
キッドは思わず苦笑を浮かべてしまった。
――あの野郎、やっぱ一発逆転の奥の手だったな。
いずれにせよ、とアイダンは話を次いだ。
「マリーナベイ・サンズ屋上にいた者全員から話を聞かなければならない。明日から聴取を始めたい。それを連れの人々にも伝えてほしいと言いに来たんだ。被害者である君たちには足止めになってしまって申し訳ないが」
「捜査には必要なことです。ご協力します」
そこでキッドはやや声を改めてアイダンに言った。
「ただ、本人が気づいてないなら、京極選手と園子には今言ったことを言わないでほしいんです」
「今言ったこととは?」
「ひき逃げ事件が京極選手を棄権させるためだったってことです」
「それ、本当なの?」
突然、後ろから蘭の声がして、キッドもコナンもビクッとして振り向いた。いつの間にか蘭が戻ってきて、軽く握った右手を胸元に当て気遣わしげに見つめている。キッドは横を向いて自分の後頭部をわしわしと乱暴に掻いてから、コナンの方を指さした。
「こいつから聞いたけど。病院の待合室で京極さん言ってたんだって? 『自分のせいです』って」
「うん。すごく落ち込んでて......。京極さんのせいじゃないって言いたかったんだけど、あんなに落ち込んでるの見るの初めてだったし、とても声なんてかけられなかった」
蘭はそこで目を伏せる。
「考えてみるとね、京極さんがその場にいて園子が怪我したのって初めてなの。今までいろんな事件に遭ったけど、京極さんが守り切れなかったの初めてなんだよ」
「そう、京極さんにとって園子は特別だ。それが、狙われたのが自分を大会から棄権させるためだったなんて知ってみろ。『守り切れなかった』のと『自分のせいで狙われた』のとじゃ自責の意味合いが全く変わる。――それはあんまりだと思いませんか?」
最後の台詞を言いながら、キッドはアイダンの方を振り向いた。対してアイダンは実直な様子でうなずいた。
「予断をいれないためもある、君の話は耳には入れない。それに、それはまだ君の推測に過ぎないのだろう?」
心配するな、と言いたげにポンとキッドの肩を叩くと、アイダンは片手を挨拶代わりに上げて歩き出した。こんな騒ぎだ、まだまだやることはあるのだろう。
アイダンが去って行くのを少し見送ってから、キッドが蘭の方を見ると、蘭は新一に化けているキッドに小さく微笑みかけた。何か言いたげな様子を見て取って、キッドが不思議そうな顔をする。
「? なんだよ」
「ううん、京極さんのことそんな風に気遣ってくれるなんて、意外だったから」
「おいおい、俺のことどんな人間だと思ってんだよ」
蘭はそれには答えず、あ、これ、と小さな紙をキッドに差し出した。
「これは?」
「新しいホテルの名前と住所。園子に書いてもらったの。――じゃ、私、皆と先に行ってるね。アーサー君も気をつけて帰るんだよ」
急に話しかけられ、慌ててコナンは甲高い声を作る。
「うん」
「じゃあ、アーサー君のことよろしくね」
「おう」
待っている車の方へと早足で歩く蘭を、キッドは右手をやや挙げて見送った。が、下からの視線に気がつくと、愛想の良い笑みを消してコナンを見下ろした。
「なんだよ」
「蘭と一緒だよ。意外だと思ってな」
「ああん?」
「お前、京極さんのこと苦手だろ」
探るように見上げるコナンに、は、と息をつきながらキッドは肩をすくめて見せた。
「あんまり近づきたくねえってのは否定しないが、別に敵だとも思ってねえよ」
ま、あっちは敵意むき出しだがなと戯けてみせた後、キッドは急に黙り込んで対岸の方を見た。そこにはマリーナベイ・サンズが無惨な姿を晒している。ややあってから、キッドは口を開いた。
「俺は売られた喧嘩を自分で買った。罠を承知の上でな」
そこで、真っ直ぐにコナンを見下ろす。
「けど、あの空手野郎は違うだろ。シェリリン・タンに大会エントリーを誘われた最初っから、悪党どもの思惑に巻き込まれただけだ。挙げ句に、一番大事な物を傷つけられた」
その瞳はあまりにも真剣だった。いつもの飄々とした様子が窺えぬほど。
――こいつにも、『大事な物』があるんじゃないか。京極さんにとっての園子のような。俺にとっての蘭のような、そんな。
コナンの心にふと沸いた疑問を知らず、キッドは真剣な表情のまま車が走り去っていった方を見詰める。
「園子お嬢様から見てもそうだ。楽しみにしてただろうにあんな大怪我だ。これ以上の追い討ちはいくらなんでも酷だろう?」
が、急にそれまでの真剣な表情を消して、キッドは小気味よさそうに笑った。
「ま、利用されたのをまとめて拳で粉砕しちまったけどな、あの野郎」
コナンは、ふん、と肩をすくめる。
「巻き込んじゃいけねー人を巻き込むからだ」
およそ人間と思えないほどの強さを誇る京極を巻き込んだのも、京極が唯一心を砕く園子を巻き込んだのも、知った人間からすると愚の骨頂としか思えない。
キヒ、と口の端でキッドが笑う。
「違ぇねぇ」
笑い顔のままキッドはコナンに言った。
「んじゃ、行くか、アーサー君」
「俺も――」
「あん?」
「俺も巻き込まれたんだがな、怪盗名乗る誰かさんに」
むすっとした表情でコナンが言うと、キッドは澄まし顔で言った。
「事件があれば解かずにいられないのが探偵だろ。自ら望んで探偵名乗ってるんだ、お前は諦めろ。ま、期待通りの働きしてくれたんだ、日本までは責任持って送り届けてやるって」
キッドが機嫌良く歩き出す。はあ、とため息をつくと、コナンはもう一度だけマリーナベイ・サンズを見上げ、それからキッドを追って急ぎ足で歩き出した。
よくよく考えてみたら,京極さん,今回巻き込まれただけなんだなあと思って.奇行もしてないし.って,「離れないでください」が最大の奇行やったわ!京極さん出てくるたびに奇行に走ると言ってたら,友人が「衝撃の奇行子」という呼称を編み出したので,うどん鼻から吹きそうになりました.
キッドはね,京極さんがアスリートであって,本来犯罪事件と無縁な人だということは分かってると思うんだよね.園子さえキャーキャー言ってなきゃ,それこそ永遠に関わることの無かった人だし.
園子が蘭を喚ぶ時の「らぁん」という発音が好きなんだけど,書くと「蘭」にしかならないから,園子の「蘭」は「らぁん」だと思ってください.
Tweet 日時: 2019年9月27日 | 二次SS |