怒りの日(六)- 永訣

水音がする。

流水のそれでなく、ゆるやかにたゆたう水のそれ。

長い夢を見ていた。どんな夢だったかは定かではない。

目覚めようとしている。

目覚めるべきか目覚めるべきでないのか……

――葛藤があった。

意識にかかる靄を振り払ってゲドは目を開けた。

茶色い地面に揺れる水際が見えた。

横向きに寝ている。

鈍痛がする後頭部に手をやると、思いのほか激しい痛みがはしって、一瞬、息が止まった。だが、おかげではっきりと覚醒した。改めてそっと触ってみると、こぶができていた。誰かが処置をしたらしい。ちゃんと布が巻かれている。

ゲドは、頭を触っていた右手を目の前に持ってきた。その右手にもしっかりと布が巻かれている。

怪我をしただろうか?

そっと指を動かしてみたが、痛みはなかった。

「ゲド様」

聞き覚えのある声が上から降ってきた。部隊の伝令の若鷲(わこうど)だ。

「ここは?」

「ベセルへの途中の湖です」

青年は心配そうに顔を曇らせた。

「さきほどもお訊きになりましたよ」

「そうだったか」

夢現(ゆめうつつ)に確かに誰かと話をしていたようにも思う。

「ここまでは誰が?」

「横にいたのは私ですが、ほとんど御自分で歩いておられましたよ」

ますます心配そうに青年は言った。

「覚えがない」

ざ、ざ、と足音が近づいてきた。

ゲドはそちらに顔を向けようとして、また痛みに顔を顰めた。

「大丈夫か、ゲド」

「セグノ様」

「いや、無理はするな。ひどい顔色(がんしょく)だ」

ともすれば形なく流れてしまう思考をまとめながらセグノに問うた。

「村は」

「……壊滅だ」

「ここには」

「我が隊だけだ」

「残りは」

「首尾よく逃れたことを願おう。うまく逃れていたとしても、しばらくは合流できぬだろう。――何も覚えておらぬのだな」

ちらと若者の方に視線を流してみて、ゲドはこの問いかけがおそらく初めてではないのだろうと察した。

「散っていたハルモニアの軍が村の傍で立て直しを図っていて村には留まれなかった」

「……」

「村にいたのだろう?教えてくれ。守り手はどうした。トアが率いていた〈籠〉はどうなった。家を守っていた者たちは――」

言われて、突如、ゲドは突き放されたような衝撃に見舞われた。

知らぬのだ、この人は。【同胞が我等に何を為したかを】。

屍の山を見たときの記憶が()し掛かるように蘇ってきて、ゲドは思わず、一つしかなくなってしまった目を閉じた。

自制を自分に強いて、ゲドは激情が過ぎ去るのを(じっ)と待った。動きの少ないゲドをセグノが訝しげに見ている。

再び目を開くと、ゲドは周りを窺いながら再び問うた。

「レーフは」

少し、間があった。

「それも覚えておらぬのか」

その口調でゲドはおおよそを知った。知ってしまったが、一度してしまった質問は取り消すことができるはずもなく、甘んじて答えを聞かねばならなかった。

「死んだよ。おそらく、落ち延びる者を逃すために、な。それが殿(しんがり)の役目だから、な。相手をどれだけ斬ったか分からん。だが、結局――死んでいたよ。エゥナーナ・イ・フォェルトからこちらに抜ける間道で我らはレーフを見つけたのだ」

なんだ、と思った。

俺の愛したエゥナーナ・イ・フォェルトは片鱗すら残らなかったではないか。

ゲドは右手を見た。そして、目を閉じた。

薄い灰色の空に鋭い鳥の鳴き声が響く。

否、鳥ではない。

鳥の鳴き声に似せた警戒の合図だ。

皆が動きを止め、話をやめた。

斜面の上にある山道を集団が歩いて行く。

濁った水にハルモニア兵の兵装が映っている。

ハルモニア兵はベセルの方へと歩いて行く。両手を後ろ手に縛られているのは捕虜だろうか。

――我等が同胞(エゥナーナ・イ・フォェルト)だ……

誰かが囁いた。

長斧(ハルバード)の石突で小突かれながら捕虜たちは歩いていた。

何人も、何人も。

それは、長い行列だった。

――ハルモニアめ。

――ハルモニアめ。

囁く怨嗟の声は隊の中を瞬く間に伝播した。

温度の低いゲドの感情がそれを疎外感と共に聞いている。

ハルモニア兵をやり過ごしてから一日、ようやくセグノが斥候を出した。

「どうやら昨日の一団が、引き上げる最後の集団だったようです」

そこで、皆に山道に戻るよう命が下った。

傷のおかげで切り立った崖を上るのはかなりの重労働だった。無理もない、戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)でなければ、壮健な者でも使わない落ち窪んだ湖なのだ。

皆が上りきると、セグノは先頭にゆっくり進むよう命じた。

道々、動ける者が鳥や小動物を狩り、あまり動けぬ者は食べられそうな植物を集めた。

ゲドは隊の中で一番傷が重く、歩くのが精一杯で、食料を集めるどころの騒ぎではなかった。

毎日、わずかな食料を差し出される頃になると、ゲドはなんともいえぬ心持になる。思い出すのはいつもあの屍の山だった。

ゲドの世話を焼いている伝令の青年はそんなゲドをいつも心配そうに見ていた。時折、セグノがやってきては様子を見ていく。ゲドの上に落ちる暗い影をセグノは感じてはいたようだったが、何も訊いてはこなかった。

ようやく、難所を越え、木々が森らしくなってくると、この落人の一団にも安堵の様な物が漂ってきた。

ハルモニア兵は影もない。

道が大きく折れ曲がり、三筋の糸のような白い滝が向こう側の斜面に見える、その辺りでセグノは隊を止めた。

この場所は、いつも、鷲たち(エゥナーナ)の休息の地だった。

勲を想いながら往く出陣の折も、家族を思いながら急ぐ帰郷の折も。

言葉を交わし、ほんの少しざわめく一団を見ながら、ふいにセグノが立ち上がると、隊の者みなが黙り込み、攻め手の長を注視した。

美しい景観とその向こうにあるひと山越えた辺りに眼差しを向けながら、セグノが言った。

「我、屹度(きっと)ハルモニアに報いん。クリスタルバレーに()り、(あだ)を斬り、同胞を放たん」

すらり、剣を抜き放つ。

()は、我が呪い、我が誓い」

ガ、と立ち木の根元にセグノの剣が傷をつけた。

男たちは次々に剣を抜き払い、セグノのつけた傷の上に己の誓いの傷をつけて行った。

残るはゲドだった。

男たちが皆ゲドを見る。

ゲドは、苦労して立ち上がった。

揺れる重心をなんとか保ちながら剣を抜く。

「これが――」

言いながら頭上に剣を掲げた一瞬が限りなく長かった。

「――我が呪い、我が誓い」

振り下ろした剣は皆がつけた印の中央から外れて、辛うじてひっかかった。

「今より、我らはハルモニアの災い、災禍の火種」

告げたセグノが頷くと、〈鷲〉は揃って頷きを返した。

ゲドは吐き気をもよおして立ち木に寄りかかり、力なく項垂(うなだ)れた。

ベセルが近づく頃になると、鷲たち(エゥナーナ)は三々五々散っていった。ベセルの周りに点在する名すらない小さな村へと潜伏するためだ。ベセル自体に入ったのは、まだ傷の癒えぬゲドと、それに付き添ったセグノ、それとナシェレだけだった。

充分日が暮れてから、隠れるようにエクトの宿に足を向けると、すでに連絡してあったのだろう、エクトが黙って扉を開けてくれた。

前にも泊まった屋根裏の隠し部屋をあてがわれると、疲労の色の濃かったゲドは吸い込まれるように眠りに落ちた。

エゥナーナ・イ・フォェルトを出て以来初めての、夢のない深い眠りだった。

翌朝、目が覚めると、セグノが枕元に朝食を持ってきてくれた。

鷲たち(エゥナーナ)三人でぼそぼそと黙りこくって朝食を摂った。

ふと手を止め、セグノの護衛然としているナシェレを見ていて、ゲドは奇妙な既視感にとらわれた。

――あの位置に自分がいた。

付随する友の記憶に思いが及ぶ前に、ゲドは思考をたぐるのをやめ、止めていた手を動かした。

食べ終わってからしばらく、沈黙が続いた。だが、我慢し切れなかったのだろう、ナシェレが口を開いた。

「その右手の紋章――」

とうとう来た、と思った。

「この布を巻いたのはセグノ様ですね?」

そうだ、と首肯するセグノの前でゲドは己の右手に巻かれた布を解いた。思った通り、右手には傷ひとつなく、その甲に見慣れぬ紋章が宿っていた。紋章師に依らずに宿った紋章は、今はうっすらと見えるのみで、まるで沈黙を保っているようだった。

「それは何だ?」

「分からん」

ナシェレが返答に不満げにしているので、ゲドは言葉を重ねた。

「俺はガルアからこれを譲られた。ガルアは守り手の長から」

「守り手の長を見たのか?」

「ああ……」

黙って会話を聞いていたセグノが口を挟んだ。

「守り手の長はやはり空位では無かったのだな」

「何かご存知なのですか?」

「いや……。分かるのは、その紋章が途方も無い代物だということだけだ」

他に誰もおらぬというのに、ナシェレは声を潜めた。

「ゲド、ハルモニアに一矢報いるという我らの望みは困難な物、言うは易く行なうは難しだ」

「……」

「その紋章は大きな力になる」

「俺には――」

「聞いてくれ。その紋章は確かに膨大な魔力を孕んでいるが、重要なのはそこではない。それは恐らくは守り手が脈々と伝えてきた物、いわば我らの旗印だ。頼む、ゲド――」

ゲドは視線を落とした。

「俺にはその意思はない」

「何故だ。臆したか!」

潜めていた声が俄かに嵩じた。

ゲドは隻眼を閉じ、口を開かない。

頑なな態度に苛立って、ナシェレがゲドの右手をがっと掴んだ。

途端に、いままで沈黙していた紋章からバチバチと小さな光が()ぜ飛んだ。

ちり、と手を焼かれ、ナシェレは思わず手を離し、焼かれた指先を忌々しげに見つめながらゲドを(なじ)った。

「何故お前なのだ。何故お前に宿ったのだ」

ゲドは己の右手を凝視している。

「紋章の意思が俺の自由になるならば、その右手、切り捨てても奪うものを!」

荒げた声を整えて、静かにナシェレは言った。

「もう一度言う。起つ気はないのだな、ゲド」

「ない」

「……怪我人に手をかけようとは思わぬ。だが、その傷が癒えて後、俺の前に現れるな。これより後、鷲の怒りに怯えて生きよ」

怒り滾る言葉にただただ黙って頷くと、説明も加えぬ従順さが逆に苛立たせたのだろう、ナシェレが再び口を開きかけ、それをセグノが手を上げて軽く押しとどめた。

「外してくれ」

「ですが!」

「ナシェレ」

(たしな)めるような口調に負けた剣士が出て行くと、セグノは静かに問うた。

「何があった、ゲド」

声はあまりに穏やかで、もう少しでゲドは打ち明けそうになった。セグノにもゲドの口元がやや動いたのが分かったはずだ。だが、ゲドは開きそうになった唇をぐっと閉じた。

「私にも打ち明けられぬか」

ゲドは我知らず奥の歯を噛み締めていた。

「何故だ、ゲド」

姑息だからだ、話せば理解は得られよう。それをゲドは好まなかった。

残酷だからだ、話せば鷲の刃は鈍るだろう。それをゲドは望まなかった。

セグノが隠し部屋から降り立ってみると、ナシェレはまだ怒りの気配を撒き散らしていた。もてあましていたのだろう、エクトはセグノが降りてくるのを見ると、安堵の表情を浮かべた。

「あの、何があったのですか」

「たいしたことはない。気にしてくれるな」

「ゲドさんは――」

セグノは天井を見上げてしみじみと

「あやつは頑固な痴れ者よ」

悪し様に言いながらも、セグノの口調には深い情がこもっていた。なんとはなしにエクトもつられて天井を見上げ、あの、真摯な戦士のことを思った。

「エクト殿」

「はい」

「くれぐれもゲドを頼む」

「できるだけのことはさせていただきます」

「ありがたい、我らにはそれに報いることができぬのだが」

「いえ、お気になさらずに。戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)には助けていただいたこともあるのですから」

「そう言ってもらえると助かる」

まだ、不満げなナシェレを顎で促して、セグノは宿を出て行った。

連絡(つなぎ)があるのはずっと先のことだ。

散り散りになってしまった鷲たちのそれぞれに幸運が舞い降りてくれるといいとエクトは切に願っていた。

その日、ベセルには初雪が降っていた。

ちらちらと落ちた雪は淡く、すぐにも溶けてしまうだろう。それが、だんだんと溶けなくなって、やがて冬が来るのだ。

この地の冬は足が早い。

傷の癒えたゲドが出立の準備をしていると、エクトが入ってきて、驚いた調子で、

「何も今日でなくとも。冬が過ぎてからでいいではないですか。春になれば連絡(つなぎ)もありますよ」

ゲドは黙って首を振った。

つるべ落としの夕暮れ時にゲドはビシとエクトに見送られて宿を出た。

出て少し行ったところで後ろから呼ばわる声がした。振り返ると、ビシが何かを掲げながら走ってくるところで、その後ろにはエクトの姿もあった。

「忘れ物だよ、ゲドさん」

ビシが差し出したのは徽章鉤だった。

ゲドは手を出しもせずに首を振った。

「それはお前にやろう、ビシ」

「え、でも……」

ビシは差し出した手の所在に困って、落ち着かぬそぶりを見せた。

「徽章鉤は(エゥナーネン)にとって大事なものなんだろう?」

「俺はもう鷲ではない」

言われた意味を取りかねて、ビシは目を白黒させ、追いついてきたエクトにすがるような目線を送った。エクトはビシから徽章鉤を受け取ると、それをまっすぐゲドに差し出した。

「ねえ、ゲドさん。私は何があったか知りません。あなたがなぜ鷲であることを捨てたがるのか分かりません。それとも、鷲であることを捨てなければならない、ということですか――。どちらかは知りません。ですがね、どうか、この老い耄れの戯言を聞いてください。どうであれ、あなたを育んだのはあの土地(エゥナーナ・イ・フォェルト)だったはずだ。今、あなたは翼()折られたかもしれない。でも、あの土地をあの人々を懐かしく思える日がきっと来る。だから、もし、あの土地にあなたが愛したものがひとつでもあるなら、それは大事に持っていたほうがいい。あなたは間違いなく雄雄しく誇り高い戦場の鷲(エゥナーナ・イ・フォェルト)のまま生きて行くのだから」

「買いかぶりです」

言下に否定する(エゥナーネン)に宿の主人は優しくだがきっぱりと言った。

「いいえ。こういったことは御自分では分からぬものですよ」

しばし、エクトの目を見返していたゲドがついと視線をそらしてポツリつぶやいた。

「私には分かりません」

言いながらも、ゲドは返された徽章鉤を丁寧に布に包むと、荷物の中にしまった。

冬の初めの気まぐれな晴天の下、ゲドはエゥナーナ・イ・フォェルトに辿り着いた。

紺碧の空の下、戦場には屍が未だ放置されていた。

ベセルからここまでの長い道程に他の人影はなかった。

今のゲドは長套(マント)もつけず、(エゥナーネン)を示す物といえばその幅広の剣だけだった。それでも、もしハルモニア兵に遇えば出自は知れたはずだ。しかし、誰にも出くわすことはなく、そのことにゲドは失望を覚えている。

折り重なる骸を踏み分けて、ゲドは村の入り口を示す二本柱へと歩を進めた。

エゥナーナ・イ・フォェルトは破壊されつくしていて、人の気配もなくただ静まっている。

入り口で立ち止まって、ゆるゆると村を眺めてから、ゲドは中へと入った。

そして、探したのだ。

道端を探し、建物の中を探し、あらゆる部屋や物陰を見て周り、庭も歩き回った。

探しに探したのだ。

見つかるはずのない者たちを。

自分の家だった広くもない建物の中を嘗め尽くすように探したものの、残っていたのは椅子だけだった。ゲドは虚脱してそこに座った。

もし、この場で、妻と子供が駆け寄ってきたなら、()ってもいいと本気で思っていたのだ。

子供じみた交換条件だった。

叶う筈もなかった。

ゲドはいつのまにか村をかすめるもうしわけ程度の小川の傍に来ていた。

川はささやかに漣を作りながら流れ、日の光を反射させて穏やかにきらめいていた。ここを終の棲家とするまだら模様の小鳥が水に遊んでいて、小さな翼を打ち振るわせるたびに細やかな飛沫が飛んでは消えた。

それは、美しい光景といってよかった。

その光景を前に沸き起こった感情の塊に、ゲドは膝を屈した。そして、熱くなった目頭を右手で覆うと、声を殺して(むせ)び泣いた。

チーヨ、チーヨと啼きながら不意に小鳥は飛び去っていった。

平成十五年五月十五日 初稿

平成十五年九月十三日 二稿