赤茶けた煉瓦造りの建物が連なる街をアルプスから降りてきた霧が静かに包んでいた。
暖かい色見で統一されている町並みが今はくすんで見える。
霧がなければ低い建物の向こうにモンテ・ビアンコ、モンテ・チェルヴィーノといった山々が白く美しい峰を見せていたことだろう。
しかし、そういった景観が霧に覆われているからといって青年は格別残念には思っていなかった。サヴォイア家の残した古都トリノ。観光客にとっても魅力的な街ではあったが、青年は観光のために来たのではなかった。
その青年は確固たる歩調で通りを歩いていた。スレンダーな身体を軽いセーターが包んで十月の冷気から彼を護っている。顔にぴったりとくっつくような黒い髪は顎の線と調和を取るように几帳面に切られていた。
歩いていた青年はとある門の前で立ち止まり、そこに書いてある文字を確認して、ふとまぶしそうに中に見える建物を見上げた。
が、その表情は一瞬で消え、再び青年は歩き出した。
大学構内もひどい霧だった。当たり前のことだが。
視界のあまり利かない中を青年はゆっくり歩いている。
この青年は学生なのだろうか?
いや……地図らしきものを持ってあたりを見まわしながら歩いているあたり、いくら新学期がわずか一ヶ月前だったとはいえ、毎日来ている学生ならもういいかげん慣れた頃、地図を持って歩いているというのはおかしいだろう。
青年の視界に別な人影が目に入った。霧の中から徐々に現れてくるように見える。こちらは学生のようだ。
「
「
地図を見せながら青年は丁寧に言った。
「この講義棟に行きたいのですが」
「N棟? ええと、今、この地図で言うとここにいるから――」
「でも、あそこにあるあの建物は、地図には……」
青年が指差すほうを学生は振り仰いだ。
ひときわ濃い霧の向こうに陰気な建物が見え隠れしている。高いコンクリート造りの無機質な建物はまったくこの場にそぐわぬ代物で、ところどころに入る太いヒビが、その建物をいっそう無様なものにしていた。
「ああ、あれか。僕もよくは知らないんだけど、最近建ったようだ。きっと夏休みの間に建ったんだろうな。何かの研究所のようだったけど」
「……最近建ったようには見えませんね」
青年の言葉に学生は肩をすくめた。
「ともかく、今、ここだから、この道をみちなりに行って、大きな通りとぶつかったら左に行くと、N棟ですよ。いちおう、看板もあるから、注意していれば分かるよ」
「
一人になって青年はつぶやいた。
「いやな霧だな」
教えられたとおりに道を行くとさして苦もなく建物は見つかった。看板の文字は消えかかっていて見にくかったが。
青年は文字を確認するために顔を近づけて見ていたのだが、間違いないと知ると、
「ここか……」
と顔を上げ、建物をまじまじと眺めた。
うっすらと霧がまとわりついている建物は、大学の外の町並みと同じく、風雨にさらされた赤茶色の煉瓦造りである。
あたりは薄暗い。
なのに、また青年はまぶしそうに建物を見上げた。
と、そのとき、足元に軽い衝撃を感じて、青年は我に返り、地面を見下ろした。
そこには背の低い老婆が尻餅をついており、ノートだの筆記具だのが散乱していた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ。本を見ながら歩いていたんでのォ」
老婆がヨッコラセと立ちあがる間に青年は散乱するノートを拾い上げた。渡そうと思って振り向いた時に老婆の左手が包帯でグルグル巻きになっているのに気づき、気づかわしげに声をかける。
「その〈左手〉は?」
「あ……これ?ウッカリ機械に挟めてしまいましてのォ。指が無くなってしまいましたのじゃ」
「それは、お気の毒に」
怪我をしたのがずいぶん前なのか、老婆の言葉に影は無く、人懐っこそうな笑みさえ浮かべている。イタリア人ではなさそうだったが、言葉は流暢だった。
「失礼ですが、ここで何を?」
「ヒャヒャ、皆さん不思議に思われるんですが、これでも学生なんですじゃ」
「ああ、熱心なんですね」
「いえいえ……暇を持て余している年寄りのすることです、たいしたことじゃありませんよォ」
何もかも拾い集めて最後に杖を渡してやると、老婆は「
「ほんとうに御親切なことで……お名前をお聞かせ願えますかの?」
「ブチャラティです。あなたは?」
「わたし? わたしゃエンヤっちゅうしがないババアですじゃ。あ、そろそろ午後の講義が始まりますよ」
老婆は講義棟から出てきたところだったようで、ブチャラティが来た方向へと歩み去っていった。足音はヒタヒタと静かで、地面に杖をつく音がコツンコツンとそれに合わせて不思議な調和で鳴っていた。
離れていくにつれて霧が老婆の姿をだんだんと覆い隠していった。
ブローノ・ブチャラティ
VS
エンヤ婆
Round 1
“人々 が 死 に 瀕して いる……”
話は3日前に遡る……
アバッキオの前にはコーヒーカップだけが置いてあった。その向かいにはミスタがカプチーノのカップを左手に、
フーゴは今日は新聞を拾ってきたらしい。「フランスで武装集団が政府のトラックを襲撃」だの「株価下落」だの「北イタリア地方濃霧に注意」だのという見出しを見るに、ゴシップ紙ではなく、ごくごく真面目なものらしい。
新聞を読んでいるフーゴをつまらなそうに眺めているのはナランチャで、ピツァ生地にハムとサラダを挟んでぱくつきながら気の無い視線をフーゴに向けているのだが、そこにはうらやましそうな表情も混じっていた。
いつも通りの朝。いつも通りで無いのはブチャラティの携帯電話から流れてくる人物からの声だけだ。
「フェリーニ。話を聞く前に一つ言っておくが、俺がその話を聞くということは――」
「わ、分かっている、ブチャラティ。『借り』を…ものすごく大きな『借り』を組織に作ることになる。で、でも、俺には『こんなこと』をどうにかできる知り合いはお前しかいないんだ」
「『こんなこと』? 何か重要なことのようだが――俺を……かいかぶらないほうがいい」
苦いものを飲み込みながらブチャラティは続ける。
「俺はできることしかやらないし、やれない」
「そ、それでも……聞いてくれ、ブチャラティ。俺は……恐ろしい……。俺だけの問題じゃないんだ……。俺の周りの人々のことだけでもない。お前も、お前の知っている人たちも、俺たちの知らない人たちもみんな巻き込まれているんだ」
「?待ってくれ、話が見えない」
「俺がお前にしてやったことなんて何一つ無い。だから、頼みごとなんて虫が良すぎるのは分かっている。けど、お願いだ、ブチャラティ。俺は――これをお前個人の問題として処理してくれなんて言わない。だから、組織に借りを作る覚悟だってしている」
「……」
「人が来た。すまん、ブチャラティ。どっちにしろ詳しい話は電話では無理だ。もし――もし、助けてくれるというなら――俺のいる大学に来てくれ。……知っていたよな場所は」
「ああ」
「N棟という講義棟がある。そこの一階のロビーで待っている。あさっての昼過ぎ、そうだな、一時に。来てくれなくても恨まない。クソ、近づいてくる……すまん、ブチャラティ。もう切らなくては」
唐突に電話は切れた。
「どこかに行くんですか?」
ふと気づくと、フーゴが側に来ていた。
「ああ。遠出になる」
他のメンバーもこちらに注目している。
「頼み事をされた」
「知りあいですか?」
「古い……友人だ」
もう何年会ってないだろう。
「それで、どちらに行かれるんです?」
「聞かないでくれ。できるなら……組織に借りを作らせたくない。俺個人のこととして処理したい」
「分かりました、あなたのいない間、ポルポの方はどうにかごまかしておきましょう」
キレさえしなければフーゴにはそれができるだろう。旅支度を始める前にブチャラティは訊いた。
「フーゴ、俺は甘いか?」
「まぁ、組織の人間としちゃ甘いんでしょうね。ですが、あなたがそういう人でなくては僕らはここにいなかった」
メンバー全員を見まわす。皆、不敵な笑みを返している。
「分かっているでしょうに」
そう言うフーゴにブチャラティは言った。
「ときどき確認したくなるんだ」
それだけ言うとブチャラティは今度こそ出ていった。
いったい、どういった事件なのか?大学という場所を指定したのはなぜだ?関係があるのだろうか?
疑問が渦巻く。
何にせよ。
助けなければ……
助けを求める友人の手を振り払うことは彼には断じてできなかった。
友人のために、ではない。自分のためにだ。
見捨てるようなことをすれば彼がブローノ・ブチャラティで無くなってしまうからだ。
ロビーは小さなカフェぐらいの広さで、長椅子がいくつか並べられていた。学生が数人そこにいて、何やら談笑している。が、ブチャラティを呼び出した友人はいなかった。
ブチャラティは立ったまま待った。
一番近くの講義室は扉が全開になっていて、ほっぺたの落ちきった年老いた教授らしき人物が講義をしていた。モゴモゴと口の中で言葉を転がすようなしゃべり方の人物で、時々、思い出したようにチョークを持って黒板のほうを向き、カツカツと長い数式を書いている。
ブチャラティは玄関を気にしながら待った。
だが。いくら待っても彼はこなかった。
不安が頭をもたげる。何か形の無い灰色の不安が。
ちょうど今出ている霧のように。
友人はこの大学に一部屋持っているはずだった。ブチャラティはそれを探す事にした。
彼は医学部か理学部かどっちかに所属していたはずだ。事務を探してマルチェロ・フェリーニ――その友人の名だ――をだして聞いてみると、事務員はめんどくさそうにポンと名簿を放った。
自分で探すしかないようだ。
ブチャラティはぶ厚い名簿のページを黙って繰った。
索引がついていなかったのでかなり時間を取られてしまったが、なんとか友人の名を見つけ出す事に成功した。
いちおう、電話をかけてみる。
予想通り、誰も出ることはなく、コール音が虚しく続く。
ブチャラティは携帯を耳から離し、パチン、と切った。それをもとの場所に収めると、彼は歩き出した。
行くしかない。
友人がそこで見つからなかったとしても手がかりぐらいはあるかもしれない。
廊下は狭く、天井は低かった。両側に部屋がついている。必然的に窓はない。昼間だからか電灯はついておらず、そのせいで目が慣れるのを待たなければ歩けないほど暗かった。
中に人がいる部屋はあまりないようだった。皆、講義に出ているのかもしれないし、別な用事でいないのかもしれない。部外者のブチャラティには分からないことだ。
各部屋にはとりたてて目立つ表示は無く、フェリーニの部屋を見つけるのは難しそうだった。だが、部屋番号と案内図から推測するに、一階のこのあたりにあるはずだ。
誰かが来たら訊けるのだが。
ちょうどいいことに、足音が聞こえてきた。調子の良い軽い足取りだ。階段のほうから聞こえてくる。
見ていると、痩せ気味の男が姿を現した。手にはビデオテープを持っており、
サッカーの試合なんてあったか?
そう思いながらも声をかける。
「
男は歌うのをやめてブチャラティのほうを見た。が、歩調は変わらない。
「なんだい?ヴィスコンティ教授の講義についての質問?」
言いながら、とある部屋の扉をあける。学生だと思われたらしい。
「いま俺は忙しいからヴィスコンティ教授に直接聞いてくれない?」
こちらも見ずに電気をつけると、あんなものが建ったから昼でも暗い、とブツブツ文句を言っている。
外を見ると、霧の向こうにうっすらとコンクリートの建物が見える。
例の最近建ったばかりだという代物。気になってブチャラティは訊いてみた。
「あれは何の建物なんですか?」
「よくは知らないな。理学部のもんだろうけど」
相変わらずこちらの方も見ず、いそいそとビデオテープをデッキにセットしようとしている。その背には黒いマジックでぞんざいに「ユヴェントス対ミラン」と書いてあった。
デッキがテープを飲み込んで、男は嬉しそうに手をこすり合わせた。
映像が映る。
それに見覚えがあったのでブチャラティは思わず口を開く。
「たしか、その試合は――」
「待て、それ以上言うな!聞きたくない!苦労して今まで試合結果を耳に入れないようにしてきたんだ、その努力を台無しにする気か、君は!」
「……いえ。わたしはただマルチェロ・フェリーニの部屋がどこか聞きたかっただけです」
「隣だ、隣。ドアに名前が書いてあるだろう?ここは俺の部屋だ……お、始まった!」
もはやブチャラティのほうなど見ていない。ビデオに没頭している男を放っておいてブチャラティは扉を閉じた。
出てすぐに扉を調べて見る。
確かによくよく見ると、アントニオーニと書いた紙片がすりガラスのすぐ下に張ってあって、これが部屋の主の名前を示しているのだと思われる。
質の悪い紙に書いた鉛筆の文字などこんな薄暗いところで容易に読めるはずが無かった。現に今もブチャラティは腰をかがめて顔をそこに近づけているわけで、一つ一つの扉をいちいちこうやって調べるとなると、はたから見ればずいぶん不審に見えるだろう。
だが、隣だと分かったのは収穫だった。
まずこっちかな、と左の扉を見て見ると、そこにはヴィスコンティと書いてあった。
さっきの男――部屋の表示から考えるに、アントニオーニか――が名前を出していた教授の事だろう。
じゃ、反対隣か、と身を起こしたところに声をかけられた。
「私に何か用かね?」
ブチャラティは声の主を振りかえって見て、おや?と思った。落ちきった頬と皺だらけの顔、ショボショボした目に見覚えがあったからだ。
すぐに気がつく。
そうか、ロビーで待っていた時に講義をやっていたのが見えた、あの教授だ。この教授がヴィスコンティなわけか。
ヴィスコンティ教授は四角い箱を右手で水平に持っていて、静かにヴチャラティを見ていた。
「いえ、マルチェロ・フェリーニの部屋を探していたんです」
「フェリーニ君の部屋は隣の隣だよ。今日は見かけていないが」
「行き先に心当たりは?」
「ふむ」一呼吸置いて教授は言った。「隣の棟かもしれないな。最近、出入りしていたから」
「隣?あの古ぼけたコンクリートの建物?」
「言葉は正確に使わなければならん。アレは新しい建物だ」
「〈新しい〉古ぼけた建物の事ですね?」
「そうだ」教授がうなずいた。
ブチャラティは考え込んだ。だが、まだ考えてもしかたがない、と当初の目的通りフェリーニの部屋を調べる事にした。
歩きかけたブチャラティを教授が呼び止める。
「きみ」
「何か?」
「チョコレート食べるかね?」
教授が手に持っていた箱を開いて差し出す。
ブチャラティは迷った。
この教授がフェリーニの抱えていた問題にかかわっていたという事はありえるだろうか?
「……いえ、結構です」
「そうか」
教授は気分を害した様子も無く、箱にふたをして、自分の部屋に入って行った。
フェリーニの部屋の前に立つ。
名前も確認した。
ドアノブを回してみたが、思ったとおり鍵がかかっていた。
廊下を見まわす。誰もいない。
隣からはビデオの音がしている。人が出てきそうな気配も無い。
「スティッキィ・フィンガーズ!」
スタンドで扉を殴る。大きなジッパーが扉の表面に伸びる。
ブチャラティはやすやすとフェリーニの部屋に侵入した。
これまた予想通りフェリーニはいなかった。
部屋はパソコンとプリンターが1台ずつあって、真中には大きな机、壁は本棚でぐるっと囲まれていて、奥の壁のところだけは大きめの窓がついているので何も置いていなかった。
机の上は紙の束だの本だのが所狭しと積み上げられていて、真中だけ無理やり空間をあけてある。書き物などはその狭い空間でしていたらしい。今はレターパッドがポンと置いてあって、その上に万年筆が転がっていた。
レターパッドを覗いて見たが、何も書いていない。
ふと思いついてブチャラティは鉛筆立てから鉛筆を一本取り、レターパッドの上を軽くこすってみた。かろうじて白く文字が見えそうだ。
「ブ…ローノ……ブ…チャ……ラ…ティ」
俺宛てだ。
ブチャラティは急いで紙の左下をこすった。間違い無い。フェリーニの署名が見える。
いや、待て。なんだこれは。
「死」、「瀕して」? いや、「人々が死に瀕している」 だ。
何を……何を伝えようとしたんだ、フェリーニ。
ブチャラティは一心に紙を鉛筆でこすった。
単語が読み取れるところとどうしても読みとめないところがあって、文意がつかめない。
ブチャラティは舌打ちして、しばし考えたが、やおら携帯電話を取り出した。
コール音が3回鳴ったところで相手が出た。
「フーゴか?」
「あなたでしたか、ブチャラティ。友人とはもう会ったんですか?」
「いや……会えなかったが手紙があった。マンハッタンという地名がある。そこに行ったのかもしれない」
「あなたを呼び出しておいて?」
声が聞き取りにくい。ブチャラティは窓のほうに寄った。
「……分かっている。奴になにか起きたのは間違いない」
「その手紙に事情は書いてないのですか?」
「いや、手紙自体を見つけたわけではないんだ。手紙を書いた時に下に敷いていた紙を見つけた。文字がうっすら残っていただけなんで、単語がいくつか読めるだけなんだが……。俺宛てのようだ。そっちについてないか?」
「その友人の名前はなんて言うんです?」
「フェリーニ。マルチェロ・フェリーニ」
「フェリーニ……いや、ここには無いようだ」
だと思っていた。だから、ブチャラティはそれほど落胆しなかった。それよりも、ブチャラティはフーゴをあてにしていたのだ。
「フーゴ、訊きたいことがある」
「なんですか?」
「『イタリアの生んだ』『偉大な』『物理学者』と言ったら誰を思い出す?」
ブチャラティは白い紙を頭上にかざし、目を眇めながら読み取れる単語を並べ立てた。
「それだけじゃ分かりませんよ。古くはガリレオ・ガリレイからイタリアの生んだ大物理学者はたくさんいるんです」
「そうか。そうだろうな」
「それがどうかしたんですか?」
「手紙にそういう単語があるんだ」
「手紙に……」
「いや、悪かった。もしかしたら何か分かるかと思ったんだが、あまりにも情報が少なすぎるな。もうしばらく調べてみて何も無かったら帰る。あまりネアポリスを離れているわけにもいかないからな」
「待って、ブチャラティ。『マンハッタン』って手紙にはあったんですね?『マンハッタンに行く』と書いてあったんですか?」
「?いや、正確には単語だけしか読めなかった。『マンハッタン』だけだ」
「――そのまま二、三分待っていてください」
フーゴは何か気づいたのだろうか? 受話器から足音が聞こえてくる。
手持ち無沙汰になって何気なく視線をガラス窓の外に移してみてギョッとした。
ビタリ、とガラス窓に張りついている老婆の顔に気づいたからだ。
この老婆、さっきの……
ブチャラティが視線を向けると老婆はニパッと笑った。
ブチャラティは笑みを浮かべる事ができなかった。
その時、扉が強い調子でドン、ドン、と叩かれた。呻き声も同時に聞こえる。
無視するか?
ドン、ドン。
「何ですか!」
ブチャラティは扉を開けた。
と同時に、彼に向かって相手が腕を振り下ろしてくる。
とっさにブチャラティは避けた。その腕はハサミを掴んでいた。
「何をする!」
キッとするどく眼光を向ける。
「俺が知りたい!」
相手はうめくように言った。さっきの――たしかアントニオーニ。ブチャラティはハサミを持ったその腕がやけに不自然に動かされているのに気づいた。
「いったい……!?」
人影はそれだけでないのに気づく。教授だ。
「あんたは何の用だ!」
「いや。用はないんだがね。足が勝手にね」
自分の両足を彼は指差した。
ブチャラティは息を呑んだ。
足の甲に綺麗に穴が開いている。
「教授!あなたもあの婆さんに? ウワッ」
アントニオーニの腕が勢い良く壁にぶち当たった。
「ふむ。そうだね。お年を召した女性が来ていたね。実に不思議な現象だ」
「痛みは無いのか?」
「痛い。君、薬は持っていないかね?」
アントニオーニはひたすら自分の腕に抵抗している。ヴィスコンティ教授はいまのところ仕掛けてこないが。
ブチャラティはゴクリと唾を飲んだ。
いつのまにか室内にうっすらと霧が立ち込めてきた。
コツーン、コツーン
廊下に響く 杖の音が ゆっくり ゆっくり 近づいてくる……