ブローノ・ブチャラティ
VS
エンヤ婆
Round 2
“我は正義、世界を律する者なり……”
彼女がいつどこで生まれたのかは誰も知らなかった。本人さえも分からなくなっていた。彼女の思考にはどこかしら霧がかかっていて曖昧なところがあった。
じゃが、大事な事は。
自分が覚えているべき事を覚え、成すべき事を知っている、ということだと彼女は分かっていた。
覚えているべき事。
彼女は自分に天賦の才があるのを知っていた。忘却のかなたにあるはずの子供の頃から自分には特別な能力があることを彼女は感じていた。
彼女の愛すべき息子にもその才は受け継がれていた。
しかし、子供の父親にはそれがなかった。
愚昧なるその男にはいかにそれが崇高な事か分かっていなかった。それどころか、その能力を妬み忌み嫌い、あろうことか護るべき息子を敵――その時は官憲だったか――に売り渡そうとした。
彼女は心の奥底から願った。
ただ、正義を。
正義が行われる事を。
彼女の怒りのままに敵は動き、正義の前に倒れ伏した。
その時に彼女は始めて自分が
理に適っておる。
エンヤ婆はその姿に納得した。そして理解した。
愚かなる者に己が無力を知らしめること。
それは彼女に与えられた権利であり義務であった。
コツーン、コツーン
杖の音が廊下をゆっくり近づいてくる。
ブチャラティの目の前ではアントニオーニとかいう男が自分の右手に翻弄されていた。はたから見ると、狂ったように自分の手を壁に打ちつけているように見える。すでに手の甲からは血がダラダラととめどなく出ている。壁に手が打ちつけられるたびにアントニオーニの口から呻き声が漏れた。隣に突っ立っているヴィスコンティとか言う教授はあきらめているのか黙ってその光景を眺めるばかりだ。
コツーン、コツーン
杖の音がますます近づいてくる。
――何か……まずい!
「スティッキーフィンガーズ!」
スパン、とまるで鋭利な刃物で切ったかのようにアントニオーニの右腕がゴロンと落ちた。
ブチャラティはヴィスコンティとアントニオーニを中に引き入れ、すばやく扉を閉じた。
アントニオーニは奥の壁に寄りかかって気味悪そうに転がり落ちている自分の右手を見つめた。
隣の部屋でワァという歓声がした。
「なんて……こった……ありゃ、どっちかに1点入ったぞ……」
アントニオーニはすっかり青ざめ、かすれた声でそう漏らした。ヴィスコンティ教授のほうはしょぼしょぼした目をせいいっぱいパチパチさせている。
「いったい何があった?婆さんとは?」
「訳の分からん話だとは思うけど……俺がビデオを見ていたらノックの音がして、出てみたらちんちゃこい婆さんがいて、いきなりハサミを俺の右手につきたてたんだ」
ブチャラティは転がり落ちているアントニオーニの右手を足でつついて服をめくってみた。教授の足の甲と同じような丸い穴が開いている。
「ビデオのほうに気を取られてて、痛いと思ったらハサミで刺されてたというところだと推測してるんだがね?」
「まぁ…そうですけどね」不満そうにアントニオーニはうなずいた。「そういう教授のほうはどうなんです?」
「扉を開けたらすこぶる重い置物を足の上に落とされた。血が出てきたなと思ったときには相手はいなかった」
「で、両足に穴が開いてるんですか。お気の毒。……いや、右手が無くなっちまった僕のほうが気の毒かな」
はぁ、とため息をついたアントニオーニにブチャラティは重ねてたずねた。
「今の説明では、なんで腕に穴が開いて、あんたが――あんたの右手が俺を襲ったのかは分からない」
「俺だって分からない。ともかく、腕に傷がついたとたん、あの婆さんがニタリと笑って、そしたら、くるりと穴が開いたんだ」
「そう、綺麗にね。リンゴの芯抜きでくりぬいたみたいに」
ヴィスコンティ教授は自分の足の甲の傷に人差し指を入れたり出したりしながらそう付け足した。
「ともかく、そのとたん、穴を持って引っ張られてるみたいに自分の意思と関係無く動いたんだ。まるで操り人形になったみたいだ」
これはスタンド能力か?しかし、俺はスタンドを見ていない。穴さえ開けばあとは遠隔操作ができるって事か?それに……そうだ、彼らの傷はスタンドがつけたのではない。スタンドがつけた傷でなくても血が出るような傷はまずいということか?これは本体を叩かないときっと面倒なことになる。
「『婆さん』とさっきから言っているが、どんな婆さんだ?」
「そうだな。身長はこれぐらいで」
「120cmかそれ以下だった」
「背は曲がって杖を突いていた」
「髪の毛は布で上げていて」
「イタリア人じゃなかった」
「言葉は流暢だったが」
「顔は皺だらけでしみだらけ」
「一見、人はよさそうだったね」
「まったく、なんだってあんな婆さんが」
「それは、彼女が学生だからだよ」
「え?教授、知ってるんですか?」
「うん。講義に出ているのを見たことがある」
「名前は?もしかして『エンヤ』という名前じゃないのか?」
ブチャラティが口にしたのはさっきから予想していたことだった。
なぜか自分の周りをつきまとう婆さん。『自分』を見張っていたわけではあるまい。フェリーニの周辺を探っていれば関係する者――おそらく敵――に出会うのは必然の事だ。
「ふぅむ、もしかしたらそういう名前だったかもしれない。フェリーニ君は名簿は持っていないのかな……」
ヴィスコンティ教授の言を受けてフェリーニの机の上を調べようとしたアントニオーニが突然、横っ面を張り倒されて体勢を崩した。
「ばかな……!」
アントニオーニの右手が飛来してアントニオーニの首を絞めている!右手の指は見事なぐらい首に食い込んでいる。
ブチャラティは目の前の悪夢のような光景が信じられなかった。が、そう思った次の瞬間には体が動いていた。
「スティッキーフィンガーズ!」
正確に、腕を輪切りにして穴の部分をジッパーで切り落とす。さらに、教授の足の先も返す刀で切り落とす。次の瞬間には横の壁に大きなジッパーをつけ、教授とアントニオーニの2人を引きずり込んだ。
床に落ちていた腕一本、足の先二つがゆるゆると中に浮かび、こちらに向かって飛んでくる。
ブチャラティは即座にジッパーを解除した。迫り来る肉塊を遮って壁が閉じる。
ビチャリ。
なんとも形容しようの無い音を立てて三つの肉片が壁に激突し、ズリズリと血のスジをつけながら床に落ちた。
――あの男……
エンヤと呼ばれる老婆は考える。
――スタンド使いか。使えるやも知れぬ。
エンヤには敬愛する者がいた。
護るべき者が息子なら、敬愛すべき者が
かつてその人物と「生きる」ということについて問答したことがある。
――「生きる」とは己の欲する事を手に入れる事。
それはいつも変わりなくエンヤ婆の信念でもあった。
といって、彼女は物質的な欲とは無縁であった。「物」ならば望めば何でも手に入れる事ができる。「物」を望むことは俗物のすることである。彼女の望みはもっと高い次元のものだ。
今は――
未来を知る事は究極の知識欲である、とエンヤ婆は思っている。それは容易には分からない。ほんの少し先、予測できる未来、たしかにそれはある。しかし、彼女の知りたいのはもっと大きな流れだ。そのために。
我が力、すべてあなたの前に捧げましょうぞ。
ブチャラティたちが逃げ込んだのはアントニオーニの部屋だ。
現在の状況と無関係にビデオがサッカーの試合を映し出していて、ときおり熱狂的な歓声があがる。
アントニオーニは部屋に引きずり込まれるなり、首に刺さっていた自分の指を狂ったように振りほどいた。振りほどかれた手のひらがぞんざいに放り出される。
「もったいない……」
どことなく的外れな感想をもらしたヴィスコンティをアントニオーニが恨めしそうに見上げた。
「こういうのを喩えるうまい言葉が見つからないね。『飼い犬に手をかまれる』っていうのも変だし」
「喩えなくていいですよ。『自分の右手に首を絞められる』でじゅうぶん悪夢だ」
アントニオーニは床にぺったり座り込み、ぐったりと肩で息をしながら、自分の右手を睨み付けていた。まるで今にもまた動き出すのでは無いかと恐れるように。
気持ちはわかる、とブチャラティは思った。彼でさえ、それが動き出しそうな気がしてならなかった。
ともかく、『穴』が問題なのは分かった。『穴』を作らせるわけにはいかない。しかし、ほんのちょっと『傷』をつけられるだけで『穴』になるとは――
「やっかいだな……」
ブチャラティが視線を移すと、ヴィスコンティ教授は早々にソファに座ってせいぜい居心地よくしようとクッションをいろんな具合に背中にはさんでいた。
「あの」とブチャラティは窓の外を指差して「建物が何かあんたは知っているか?」
「RIの施設だと私は思っていたのだがね」
「RI?馬鹿な。あんなボロいヒビの入った建物がRI施設だなんて冗談でしょう?」
アントニオーニが横からとんでもないといった調子で口を出した。
「まて。RIってなんだ」
「radioisotope。もしくはradioactive isotope。放射性同位元素の事だよ」
「放射性……」
「そんなわけないですって、もしそうだとしたら、ひび割れ建物からさんざん放射線が漏れて我々はそれを浴びていたことになる」
「さんざんなんてことはないと思うがね。建ったばかりだし」
「そういう問題じゃないでしょう!」
と言いながらアントニオーニはリモコンを手にソファに収まった。どうやらまともにしゃべれるようになったらしい。
「くそ!やっぱり1点入れられてる!」
……立ち直ったのは確かだが、まともな会話は望めないかもしれない。
「でも、工学部の連中も入って行ったし、専門の工事会社の車も入って行ったし、理学部からも原子核の連中やら重い電子系の連中やらが入って行ったのを私は見たよ」
「重い電子系?」
「ああ、つまり重い電子系というのはね電子の有効質量が低温で通常の数百倍になる物質群の総称で、いわゆる強相関電子系の具体例でもあるんだが――」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない」
「君、これは大事な事だよ」
だから専門家と言う奴は!
いいかげん辟易していたとき横からアントニオーニが口を出した。ビデオはすかさず一時停止になっている。
「教授、僕が話したほうがスムーズに行くと思いますがね……つまりだ、重い電子系を研究する連中は放射線を出すような物質――時にはウランやプルトニウムでさえ――扱うことがあるっていうことだ」
もっとも、ウランやプルトニウムはめったに使わないはずだがね、とアントニオーニは付け足した。が、その言葉はブチャラティには耳に入っていなかった。
「ウランにプルトニウム……」
その時、ブチャラティは誰かが遠くで自分を呼んでいるのに気づいた。
違う。携帯だ。そうだ、フーゴ!
あれだけ暴れて携帯が切れてなかったのは奇跡と言える。
出たとたん、フーゴが強い調子で言った。
「エンリコ・フェルミだ、ブチャラティ」
「何だって?」
「イタリアの生んだ偉大な物理学者ですよ。1938年のノーベル物理学賞を受賞し、授賞式に出たその足でファシズムの手から逃げてアメリカに亡命したんです。重要なのは彼は亡命先のアメリカで――」
「マンハッタン計画だな、フーゴ」
――マンハッタン計画。
20世紀初頭、原子爆弾を生み出した計画。人類が開いたいくつかのパンドラの箱のうちのひとつ。有名なその計画の名前をブチャラティは知っていた。
気づいていましたか、とフーゴは言い、さらに続けた。
「彼は人類で始めて核融合反応を起こす事に成功した人物であり、マンハッタン計画にも関わっていました。当時、敵国出身でありながら計画の重要なところに最後までかかわっていた人物はそういない。……ブチャラティ、あなたは何に巻き込まれているんですか?」
「まだ……はっきりとは分からない。敵と遭遇しているのは確かだ」
「敵と遭遇している?!」
フーゴの口調がさらに緊張を帯びた。
「ブチャラティ、聞いてください。数日前、フランスで政府のトラックが武装集団に襲われるという事件があった。なぜかその続報はニュースになっていない」
「?それが何のかかわりがあるんだ?」
「分かりませんか、ブチャラティ。フランスは数少ない核保有国であり、世界第二の原子力国なんですよ。!!」
この部屋にいるようじゃの。
杖を片手にエンヤ婆は思案している。霧は常に彼女の周りをまとわりついている。
ただの小鼠なら叩き潰すまでと思ったがスタンド使いとなると――選ばれし者の資格がある。
彼女の計画に賛同する者。あの御方に忠誠を誓う者。
なにせ、スタンド使いは数が少ない。彼女の手にある弓と矢を持ってしてもスタンド使いの素質がある者は少ないのだ。
道を示してやる必要があるのォ。
今までの道から一歩外れる事によって世界が変わるのだとあの若造に教えてやろう。
そのためには場所を用意せねばならん。ワシの高説を披露するにふさわしい場所を。他の者が邪魔せぬ場所を。
しばし思案して――彼女はニタァリと満面の笑みを浮かべた。
それがいい。もし、偽善的正義の持ち主ならばきっと来る。
そこで真の正義というものを教えてやろう……
ブチャラティが携帯を切ったのを見計らってヴィスコンティが話しかけた。
「何かまずいことが起きているようだね」
「ああ」
短くブチャラティは答え、考える。
「原爆が作られていると疑っているのかね?」
「おそらく。もしくは、その
「もし、相手が原料を持っているとなると、それだけでやっかいだね」
「原爆はそんなに簡単に作れるものなのか?」
「いや、兵器として機能させるにはいろいろと実験が必要だろうが、狙いが単にテロ行動だった場合、ことはもっと簡単だ」
「どういうことだ?」
「なに、ちょいと爆薬でもしかけてプルトニウムをちょっぴり大気中に巻き上げればいい。死の灰は気流に乗って全世界とは言わなくてもヨーロッパは覆うだろう。間違い無くイタリアは免れないだろうな」
人々が 死 に 瀕して いる…
ブチャラティははっきりとフェリーニの声を聞いたように思った。
さあ、来よ。ここに。正義の子ら。
彼女の
エンヤと呼ばれる老婆はほくそえむ。
彼女はいついかなる時も唯一絶対なる正義であった。
行動の時だ。もはやこの2人から得られるものは無い。
敵がいるのはあの建物だろうか?いや、もしくは廊下にいて自分が出てくるのをじっと待っているのかもしれない。
ふと窓の外を見遣ってブチャラティは眉をひそめた。
霧の向こうの古びた建物。これは変わらない。しかし、さっきと違って人影が姿を現そうとしているのが見える。ひどくゆっくりとした調子で歩み寄る。
誰だ?学生か?――いや、待て!
喉に丸く繰り抜いたような穴があるのに築いたのは僥倖だったと言わねばなるまい。目があったとたん、その学生らしき人影が不自然な笑みを浮かべた。
「手伝え。窓を割られたらおしまいだ!」
なんだって?と言いながら立ちあがったアントニオーニにも状況がわかったらしい。
学生にはまるっきり生きている節が無く、奇妙な方向に曲がったままの足で寄ってくるのだ。
ブチャラティとアントニオーニは横の壁の本棚をずらして窓をふさいだ。倒れないように机でさらにふさぐ。
「扉の窓もまずいんじゃないかね?」
ヴィスコンティが言った。
「そう思うなら――」
塞げ、と言おうとしてブチャラティは思い出した。ヴィスコンティの両足をジッパーで分けたのはブチャラティ自身だった。
この部屋にいるのはまずい。
だが、足手まといの二人を連れ歩くのはさらにやっかいだ。
となると、自分がここから離れるべきだろう。敵の狙いはフェリーニに会いに来て嗅ぎまわっている自分だろうから。
ふと見ると、ヴィスコンティ教授が手を伸ばして小冊子をブチャラティに差し出している。
「?」
「大学構内の見取り図がついている。きっと役に立つだろう」
教授はブチャラティの前でパラパラとページを繰った。
「今、ここだ」
「……地下があるのか、この建物は」
「下は実験室だよ。行くつもりなら天井が高いから注意したほうがいい。配管が張り巡らされてる部屋もある、変なところを壊すとまずいことになる」
「何があるんだ?」
「さぁ……圧縮空気とヘリウム管と窒素管と……あとは空調用にガスかなぁ……別の研究室の部屋だからよく知らないが。そうだ、液体窒素やらヘリウムやらの
「いや……」ブチャラティはアントニオーニとヴィスコンティの二人をまっすぐ見つめて言った。
「
スティッキーフィンガーズがつけたジッパーを開けて下を覗く。なるほど、普通のフロアの1.5倍ぐらいの高さがある。ブチャラティはなるたけ腕を伸ばしてから手を離した。着地と共に足にジーンと衝撃がくる。
壁は一面真っ白でいろんな四角い測定機器が高い移動式の棚に並べられている。自動測定でもしているのだろうか、カタン、カタンと一定の間隔で音が鳴り、そのたびに表示される数字が変わる。
それを眺めていたブチャラティは装置の影からたくさんの顔が覗いているのに気づいた。
目が笑った。
とっさにブチャラティは後ろにとんだ。
測定器が倒れてくる。
相手しようともせず、ブチャラティは部屋の外に出た。
やけにしっかりした金属製の扉から飛び出す。扉には床から天井まで届く金属製のつっかい棒のような頑丈な留め具がついている。それをぐっと降ろし、何人いるか分からない敵を閉じ込める。
バタン、バタンと音はするが、留め具が開くような気配は無い。
中からは開けられないようだ。
俺が来るのが分かっていたのか?
たしかに、前にいた部屋が分かっていれば上下左右を押さえれば待ち伏せもありうる。
しかしだ。
ブチャラティは最悪を考えていた。
この建物全体がすでに敵にのっとられていたら?
早く本体を探さなければ。
下にいったようじゃ。
エンヤ婆は慌てない。ゆっくり杖を突いて階段を降りる。
あとは
横開きのスチール製の扉を開ける。
ガラガラガラ……
誰もいない廊下に音が響く。
音にまぎれ、背後から迫る妙な気配。ブチャラティはとっさに身構える。
背の高い男。
濁った視線を自分に向ける。
もう……死んでいる。
直感的に分かった。
襲い来る男の腕に迷いは無く、十分に俊敏だった。
死人のほうが楽に操れるようだな。
いやに冷静な自分がいた。
脇の扉をパッと開け、相手の腕がぶつかったと思ったとたん、力いっぱい閉めた。念を入れてジッパーで扉を閉じる。
死人を相手にしてもしかたがない。奴らは殺せない。相手にしてバラバラにしようものなら収拾がつかなくなる。さっきのアントニオーニの腕のように。
寒い。
ブチャラティは両腕をぴったり身体につけて身震いした。いつのまにか霧が廊下に出ている。
どこか開いているのか?地下だというのに?
そのときだ。
うああああああああああぁぁぁぁあああぁぁぁぁ
まさしく絶叫。痛みを伴った。若い男の。
フェリーニ!
ブチャラティは走り出した。
途中、天井からゾンビが狙っているのに気づいた。
もう、慣れた。とブチャラティは思った。
ゾンビに襲われるのも、相手がここの学生か何かであることにも。
感覚が麻痺していたせいだろうか。上のゾンビが囮である事にブチャラティは気づかなかった。
走る速度を落とさずに対処しようと思った時に、横の扉が思いっきり開いた。ブチャラティのスレンダーな身体が怪力によって吹き飛ばされる。向かいの壁に叩きつけられる前になんとかジッパーをつける。
壁は開き、閉じた。
勢いを殺すことができず、部屋の中で机に背中からぶちあたって、肺から息が押し出される。
頭がくらくらする。
ここじゃ駄目だ。
クラクラする頭で考える。
ここじゃ駄目だ。
スティッキーフィンガーズの腕がもうひとかきしなった。
満面に笑みを浮かべ、背後にゾンビの一群を率いて意気揚揚とエンヤは扉を開けた。
笑みが消えた。
いない。
ここにいるはずだというのに。ここで捕らえたと思うたに。
いや、待て。あの男の能力を見たじゃろう?
とっさにできたことと言えばもう一つ隣に行く事ぐらいじゃ。
エンヤ婆は廊下に出て、隣の部屋が何かを確認した。
「ヒヒヒーッ!!工作室か!ヒヒヒー!!」
傷をつけるための道具なら選り取りみどりだ。エンヤは狂った笑いを止めてさっと腕を上げた。ゾンビ軍団が意のままに動く。
「一番、逃げるべきで無い場所を選んだものよ……」
フェリーニとの思い出といえば「
声に出して言っていることもあれば出していないこともあった。
が、ブチャラティが彼に会うときはいつもフェリーニは助けを求めていた。
フェリーニはもともとネアポリスの人間で、中学も高校もそこで通っていた。
彼は麻薬の運び屋をやらされていた。学校内に広めるのが仕事だった。
彼は悪人ではなかった。しかし、気の弱すぎるフェリーニにそれを拒む事はできなかった。少しでも逆らうそぶりを見せようものなら暴力がふるわれるだけだ。
そもそも、ブチャラティがフェリーニに出会ったとき、彼は道端でボロ雑巾のようになっており、朦朧としながらただただ「助けて」を繰り返していたのだ。
ブチャラティは彼に街から出るように強く勧め、麻薬を扱う連中には「やりすぎて」死んでしまったことにした。もちろん、組織が本気で調べれば嘘はバレただろうが、所詮、フェリーニは末端の1つに過ぎなかったし、そんなものに総力をあげる価値は組織にとってはまったくなかった。
今回もまた「
悪事を拒めないフェリーニ。
泣く事しかできないフェリーニ。
助けを求める事しかできないフェリーニ。
強くなる事をブチャラティは他人に対して無理強いしなかった。それができる人間はごく限られているのだから。
ピチャリ、ピチャリ
鉄の味が口の中を広がっていた。
ピチャリ、ピチャリ
何かが頬を打っている。
ほんの少しの間だが、意識が遠のいていたようだ。
立ちあがらなければ。目を開けなければ。
目を開ける。
部屋は薄暗かった。電気もついていなかった。
地下ではあったが、天井近くに明かり取り用の窓がある。そこからの弱々しい光がかろうじて中の様子を照らし出す。
目が慣れてくると回り中に大型の機械があるのに気づいた。
ヴィスコンティ教授に渡された見取り図によればここは工作室のはずだ。チェーンソーだの電動ドリルだのがある。まずいところに来てしまった。
ピチャリ、ピチャリ
さっきから頬を打っているこれはなんだ。
少しずつたれ落ちてくる液体が半開きになっていた口の中にも入ってきた。
視線を上に上げる。何か円柱形の物が台の上から突き出しているのが見える。
なんだ、あれは。
ブチャラティは立ちあがった。台の上が見える。
人だった。
「フェリーニ……」
ブチャラティは呟いた。
円柱だと思ったのは手首が切り落とされた腕だった。滴り落ちているのは血だった。
彼は友人の血をすすっていたのだ。
慣れた、と思っていた。だが、眼前に見知った顔をつきつけられたとき、それは幻想だったと思い知った。
「フェリーニ」
もう一度、強くその名を呼ぶ。
外から狂ったような笑い声が聞こえた。笑い声を聞くにつれ、怒りが込み上げてきた。下唇を噛んでブチャラティは自分に誓う。
必ず……倒す。