資料:webサイト
金カム始まりが1907年2月で,樺太辺りが冬,雪がなくなるので終盤は1908年初夏の頃と推測.
- 函館の大火史(説明)
- 函館市のサイト.明治40年8月25日の記載が1907年.
- 『函館市史』デジタル版 通説編第3巻 > 第2章 > 第7節 > 2 大火と都市形成 > 明治40年大火概況
- 焼失区域の記載のある地図がある.
- 古地図・絵図で見る、函館の歴史
- 「【6】青函連絡船開通、北洋漁業の基地」とか「【7】たび重なる大火と復興」を参考に.ここに乗っている地図は昭和9年大火.
- 最近實測凾館番地明細全圖 大正2年 (1913) | 北海道大学 北方資料データベース
- 高精細画像が出せるので,書いてる最中,これを随分見比べてた.同じ物が国際日本文化研究センター 所蔵地図データベースにも有り.湾の左側にある「桟橋」が連絡船への艀が出ていた桟橋らしい.たぶん.
- 金玉満堂ブログ > 函館山地図抹消
- 函館衛戍病院位置については,ここを参照.五稜郭から函館駅の間辺りになるかな.(線路からは離れる)
- 函館市公式:観光情報サイト
- 地図いくつかあって便利.函館山の要塞見てみたいなあ.函館山に要塞があることを考えると,砲撃後,永倉さんたちは速攻で逃げないとすぐに兵隊が来るはず.
- wikipedia: 青函連絡船
- 『函館市史』デジタル版 通説編2 第2巻 > 第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ > 第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備 > 第5節 函樽鉄道 > 4 函館駅、桟橋
桟橋が
明治三七年七月函館駅開業、同年十一月駅構内海岸に桟橋と荷揚場が設置されたが、艀が横付になる程度のもので連絡船との中継旅客輸送路は、東浜町の桟橋及び函館駅の桟橋の二つになったが
という記載があるんだけど,明治41年の連絡船への桟橋は函館駅だけだったのかどうかは分からず.この話の中では東浜町から出立のつもりで書いてる.2025.6.20追記:函館に行った時に,東浜桟橋跡を見てきました.
東浜桟橋で合ってた!
- wikipedia: 比羅夫丸
- 青函連絡船が何時に出ていたのか知りたくて図書館から『復刻版明治大正時刻表』を借りてきたんだけど,一番近い時代が5巻目の『汽車汽船旅行案内 明治40年3月』でまだ青函連絡船が無かった.上記wikipediaに10時発とあったから,このお話では10時発に乗り込むイメージ.本州に紛れ込んだりいろいろやって大阪発の満州行きに乗る予定.
- はいじまゆきどっとこむ > 北の航路 > 下部遊歩甲板 二等 > 二等桟敷席・青函連絡船と津軽海峡 > 第二章 青函連絡船就航 ~比羅夫丸・田村丸の時代~
- 比羅夫丸の外観とかこれ読んで想像してた.
- wikipedia: 函館馬車鉄道
- 街の描写する時に路面電車と書こうとして,いやいや本当に路面電車だったのか?と思って調べたら,当時はまだ馬車鉄道だったみたい.
- 函館市旧イギリス領事館
- 大火の記事で領事館が焼け出されていたのを知って,鶴見中尉なら海外との繋がりを持ってたり持ってなかったりしたかもなあと夢見てちょっと言及してみた.
- 護国神社坂(招魂社坂)
- 領事の家が招魂社坂だったそうなので,それどこ?と思って調べた.
- 金森赤レンガ倉庫
- 金森赤レンガ倉庫の歴史
- 「曲尺に森」の印の倉庫と書こうとして,あの頃その印が倉庫にくっついてたのか?と調べたら,どんぴしゃ「明治後期~明治40年大火からの復興」のところがちょうど月島が鶴見中尉を探していた頃の写真で,興奮した.(屋号のマーク付いてました)
- wikipedia:金森赤レンガ倉庫
- 大火からすぐに復興を始めたというのはwikipediaの記載で.
- wikipedia: 第七師団
- 歴代師団長の任期の参考に.
- 上原勇作
- 作中で言及した1908年12月に第七師団長になる人物.金カムらしく下の名前が違う実在とは別の人という想定で書いてはいる.勇作さんの名前はこの人から拝借したのかもしれない.読むと分かるけど,けっこうな権力を握った人.
- 日本洋菓子史(一般社団法人 日本洋菓子協会連合会)
- 鶴見中尉に何食べさせようかなと思って.あと,当時の表記を知りたかった.
- 食べれば虜になるイギリスのビスケット
- ダンキングという食べ方はここを見て知ったんだけど,私が食べたい.
- wikipedia: 蛍の光
- この話,「月島と鶴見中尉のお別れ」としか考えずに書き出して,ファイル名付けるために題名付けるかと安直に別れ→蛍の光→『あけてぞ今朝は』→「あけて」の漢字は「明」かな「開」かな?→って調べたら,なんだこれ,この3題目4題目めっちゃ明治の軍人さんじゃん鶴見と月島が目指したかったものじゃんと思って歌ってもらいました.海軍の方が歌ってたみたいだけど,文部省が出してるんだから,人口に膾炙していたと思う.そして「○題目」は富山弁ですね,知ってます.
資料:書籍
- 『新旭川市史』第3巻 通史3 -旭川町の1級町村制施行(明治35年)から市制施行 (大正11年)前までの歴史
- 徴兵忌避はここの記述から.
- 『新旭川市史』第8巻 史料3 -旭川兵村中隊記録(屯田歩兵第三大隊第三中隊日記等)及び第七師団関係記録(師団歴史等)
- 函館大火の類焼,第27聯隊の仁川派兵,師団長赴任の日付など参照.実は歩兵第27聯隊は暴徒鎮圧のため1908年5月11日から1909年9月7日まで仁川に派兵されて日本にいない(師旅団司令部歩兵第廿七聯隊留守隊になっている).留守隊ってどういう組織なのかなあ.