過ごすお酒の松の内

とろとろと続く眠りから、意識がぼんやり浮上する。ゆっくり目を開くと、障子の向こうは薄く明るい。もう朝なのだろう。冬の朝は冷え切っていて、布団の中に居てさえ寒い。いつもなら隣にある温かいものがなく、それがわずかに寂しくて、ちよは再び目をつぶった。体はぐったりとして、もう少し眠っていたい気もする。

そこで、ふと、疑問に思う。

――どこに行ったんだろ......?

元始祭の朝だ、一緒に招魂社に行こうと言っていたのだから、そんなに早く出て行くわけがない。それとも、実は、もうだいぶ日が高いのだろうか。

そこまで考えて、ぱちりと目を開ける。とたんに、ちよはぎょっとした。布団のそば、そこに男が身動みじろぎもせずに座っていたからだ。

「基ちゃん......?」

重い体を無理やり起こしてみて裸だと気がつき、ちよは慌てて布団を肩に掛け直して男に向かい合うように座った。部屋は弾けば音が出そうにきんと冷えているのに、月島はといえば薄い寝間着姿で、畳の上に胡坐あぐらを掻いてがっくりと項垂うなだれている。

「どうしたの?」

布団から手を伸ばし、月島の右手を取ってみると、いつからそうしていたのかと思うほど冷え切っていて、ちよは驚いて両手で手をさすった。

「こんなに冷たくなって――」

「よりによって――」

「え?」

遮る声が暗く低く、ちよは動きを止めた。

「よりによって、お前に手を上げたのか、俺は」

「何言ってるの......?」

話が分からず訊き返すのに、それが耳に入っていないようで、続く声が悔恨の響きをもって震えている。

「親父があんな奴だったから、酒に飲まれるような真似は決してするまいと思っていたのに、よりによってお前に手を上げたのか、俺は――」

ぶるぶるとおこりのように震える月島を、ちよはぱちりぱちりとまたたきをして見詰める。

「基ちゃん、何の話か分からない」

首をかしげてそう言うと、月島が初めてちよを見た。怒りでか恐れでか震えていた身から力が抜け、肩が下がる。それから、手を伸ばし、怖がってでもいるようにそっとちよの手を取った。

「痛いか?」

「え?」

目線を下げて布団から伸びる自分の腕を見る。青い痣がそこかしこにできていて、ちよはそれを見た途端、顔を赤らめ、さっと腕を引っ込めた。離れた途端、月島の手がぱたりと落ちる。

「押したら痛いかもしれないけど、何もしなければ別に......」

「本当か?」

「うん......」

「そうか。思いきりやったわけじゃなかったんだな」

「思い切りかどうか分からないけど......」

「起きたらお前のあちこちに痣があったんだ。怖かっただろう?」

そこまで聞いてはっとなり、ちよは憔悴しきっている男を見た。

ああ、これは。部屋は薄暗いし、昨日の記憶が飛んで、勘違いしているのだ。

ちよは掛け布団を肩から被ったまま立ち上がり、月島の腕を引っ張った。

「ちよ?」

飲み込めていないらしい月島を立ち上がらせて、ちよは外の光が射し込む障子の近くまで行った。陽の光が十分照らす場所に立つと、ちよは、がっと掛け布団を開いた。

「ほら、こことかこことか、小さいのいっぱい。殴ったんだったらこんなに小さい跡がこんな風に付かないでしょう?」

早口で言うと、月島が目を見開いた。

「これは、基ちゃんが、吸った、跡!」

駄目押しとばかりにひとつひとつ言葉を切って、ちよは胸元を見せつけた。

「俺が、吸った......?」

「そう!」

月島の目に困惑したような色が現れた。疑問を発した形のまま口を開いている男と、胸元を晒した女が対峙するように見つめ合う。ややあって、月島は口を閉じた。それから、まだ混乱した顔のまま、畳の上に脱ぎ捨てられた寝間着を引き寄せてちよに着せると、そっと手を引いて布団に戻る。身振りでちよに座るよう促し、自分も相対して座り、月島は考え込むように眉間に皺を作ったまま、ぐるりと見回した。そして、綿入れを見つけてちよに着せ、それでも足りないと思ったのか掛け布団もかぶせ直し、そこでやっと言葉を発した。

「お前は殴られてない?」

「基ちゃんは私を殴ってない」

ちよは掛け布団にくるまり、中から自分が着せられた綿入れを出して、寒そうな格好の月島に渡した。月島はおとなしく肩から綿入れを掛けると、やっと落ち着いたらしく、正座してちよに尋ねた。

「いったい何があったんだ?」

同じく姿勢を正してちよは答える

「昨日のことはどこまで覚えてる?」

「新年の挨拶で鯉登大尉の家に行ったことは覚えている。聯隊の連中が十人ほど集まって、飲み出して――」

月島は言葉を止めて腕組みをした。ちよは手を伸ばして、そっといたわるように触れた。

「あのね、鯉登大尉が送ってきてくれたの。基ちゃん、全然立ててなくて呂律も回ってないものだから。鯉登様は『いつもならあんな量で潰れたりしないのに』って心配してらした」

「あー......」

途端に、月島は何かを思い出したのか、ばつが悪そうな顔をした。

「大尉に送らせたのか。後で詫びに行かないとかんなんな......」

「体調、悪かったの? それとも疲れてたのかしら」

「いや......たぶん、合わなかったのだと思う」

「合わなかった?」

頷きながら月島は腕組みをした。

「最初は普通の酒を飲んでいた。良い気分になった頃に、鯉登大尉が陸大の学友が送ってきたという土耳古トルコの酒を出してきたんだ。花から作ったという」

「お花のお酒?」

「ああ。ラベルに花の絵が描いてあった。異国の花なのだろう、見たことはなかった。それを皆でちょっとずつ盃に入れて飲んだ」

「何か変わっていたの?」

思い出そうとしているのか、月島は腕組みをして天井の方に顔を向けた。

「口に含んだ途端、皆が妙な顔になってな。何か言いたげに顔を見合わせていたが、すぐに鯉登大尉が『これは不味まずい』と大声を上げて、途端に、皆が不味い不味いと言いだして――振る舞われたから部下の身では不味いと言い出しにくかったんだな。本人が口にしたから遠慮が無くなって、一頻ひとしきり笑ってから口直しだと焼酎を飲み出して――」

ちよは不思議そうに小首をかしげた。

「じゃあ、そのお酒を飲んだのはちょっとだけ?」

「あー、いや。俺には不味いと言うほどじゃなかったから、飲まないのも勿体もったいないと思って、皆が焼酎を飲んでいるのを尻目に俺だけで一本開けた」

思えば、それが良くなかったのだろう。

「しばらくして、そろそろいとまをと皆で腰を上げた途端、急に回った感じがあって――そこからよく覚えていない」

そこまで言って、月島は不安げにちよの方に視線を寄越した。

「それで、俺は......? 大尉が連れてきてくれたんだな?」

「うん――」

しん、と冷える晩だった。行燈あんどんの灯りがぼんやりと室内を照らし、畳の上にその影が時折ゆらゆらと揺れた。ちよは綿入れの前をぴったりと合わせ直して、縫い物から顔を上げた。

正月二日の夜である。月島は出かけている。鯉登大尉が兵卒を家に招き、ちょっとした酒宴をするというのだ。月島はそんなに感情を表に出す方ではないのだが、出かける際はわずかに上機嫌だったのを思い出し、ちよは一人笑みを浮かべた。

楽しんでいると良いけれど。

表の戸が叩かれたのはその時だった。

ドンドンとせわしなく戸板が叩かれ、一瞬怯えたが、続く声が聞き知った物だったので、ちよは小さく息をついた。

「ちよ殿! 夜分遅く申し訳ない。開けてはもらえまいか!」

「鯉登様」

やや切羽詰まったような調子を聞いて、安堵するのはまだ早かったと不安を覚える。

なぜ月島の声ではないのか。

く心を落ち着けようとしながら、心張り棒を外す動作ももどかしい。玄関の引き戸を開けた途端、ちよは息を飲んだ。

「基ちゃん......!」

月島は、鯉登に肩を貸されると言うより、引きずられるようだった。足に力が入っておらず、取られていない方の腕は、ぶらんぶらんと揺れている。

「月島、ほら、着いたぞ、大丈夫か」

だいじょうぶです、と呂律の回らない声がして、最悪の事態でないのは分かる。

「全く歩けていないではないか。お前の大丈夫は当てにならん。――ちよ殿、申し訳ない。飲ませ過ぎたかもしれん。いつもならあんな量で潰れたりはしないから、油断したのだ」

とこべてくれないか、と言われ、ちよは急いで畳の上に布団を出した。布団の上に鯉登が月島を寝かせようとしたが、なぜか月島が抵抗するので、結局、胡坐あぐらをかかせたところで落ち着いた。

「いいから、眠れ。なんだ、身を起こしている方が良いのか? ん? 吐くのか、吐くなら私が居るうちに吐け。お前の目方めかたではちよ殿ひとりでは持ち上げられんぞ。――本当か? 大丈夫だな? 本当に、大丈夫だな?」

鯉登が早口で声をかけ続けている。慌てた様子で世話を焼いているのを見ているうちに、ちよの方は却って落ち着いてきた。

いつもなら基ちゃんの方が世話を焼く方なのに。

鯉登には悪いが、面白いような気もしてくるくらいには余裕が出てきた。月島は胡座こざのまま、むにゃむにゃ不明瞭は言葉を発しているようだが、どうやら、申し訳ないとかそういうことが言いたいらしい。

「鯉登様、たぶん、大丈夫だと思います」

「そうか?」

鯉登は心配そうな顔のままちよを振り返り、もう一度月島の顔を覗き込んだ。月島はすっかり静かになっていて、ともすれば座った格好のまま顔を下に向けて眠っているようにも見える。

「横にしていくか?」

「いえ、そのまま。飲めそうなら水を飲ませようと思います」

「うむ、そうだな。それがいい」

ふう、と一度息をくと、鯉登は立ち上がった。

「月島、私は帰るぞ。ちよ殿を困らせるなよ」

月島は下を向いたままだったが、はい、と辛うじて聞こえるような声を発した。それで鯉登も一応は安心したようで、苦笑にがわらいを浮かべて見せた。

鯉登を見送り、心張り棒を立てかけると、水瓶から湯飲みに水を汲んでちよは布団まで持って行った。

「大丈夫? お水、飲める?」

声を掛けると、月島は顔を上げた。途端に、ちよは息を詰めた。普段は大きな表情を見せない男が、ちよを見るなりはっきりと明るい笑みを投げかけたのだ。男がその顔のまま手を差し伸べるので、まるで魅入られたようにちよは月島の前に座った。月島は嬉しげに目を細め、しばしちよを見つめている。やがて、男はちよの右手を取って、自分の左手の上に載せてやけにしげしげと眺め、その手の甲を大事そうに撫で始めた。

「基ちゃん?」

癖なのか、二人で居る時に月島がそんな風にちよの手を撫でていることは時々あった。いつも黙ってゆっくり手を動かしていて、何を考えているのかは分からないのだが優しげな手つきがちよは好きだった。

お酒が回っているせいか、いつもより手が温かい。

「おめの手は可愛らしいいとしげらなあ」

いかにもしみじみと言いながら、月島は何度も何度も手を撫で上げる。

「そんな、可愛らしいいとしげなんて、赤ん坊じゃないんだから......」

月島は背丈こそ小さいが、手足はそこまで小さくない。鍛えられた手は硬くがっしりとしていて、ちよの手がその中にあれば華奢に見えるのは不思議ではないが、嬉しげにそんなことを言われると、顔に血がのぼってくる。いつも撫でながらそんなことを思っていたのかと思えば、堪らない気持ちになって、ちよは手を引っ込めようとした。

その手が軽く握られる。はっとなって顔を上げると、熱っぽい視線がかち合った。月島は目を合わせたままちよの手を持ち上げ、手の甲に口づけた。そのまま目をつむったかと思うと、触れる唇の位置が少しずつ上へと上っていく。愛しげに触れられて、それが肩へ首へ、そして唇に触れる前にその目が開かれ、良いか、と言いたげにちよを見る。ちよはその背に手を回し、やや首を傾けてそっと目を閉じた。戯れるように何度か合わされていた口づけが深くなるのにそう時間はかからなかった。

気がついた時、ちよは男の厚い胸板に額をくっつけて、息を整えようとしているところだった。着ていた服はいつの間にか脱がされていたが、掛けられた布団は冷気が入らないように肩口がぴったりと閉じられていて、背中に回った手が(いたわ)るように背骨を撫でていた。ちよの息がようやく落ち着いたのに気がついたのだろう、気配を感じて上を向くと、月島が心配そうにこちらを覗いているところだった。

ああ。

この人のこういうところが堪らない。

月島は表情こそそんなに大きく変えないが、いつだってちよに寄越す目線は溢れるように優しくて、そうなるとちよは何もかも明け渡して預けてしまいたくて仕方がなくなるのだ。

ちよは男の首に腕を伸ばし、少し伸びをして自分からその唇に口づけた。背中を撫でていた手に力が入り、固く抱き寄せられると同時に口内に舌が入ってくる。それから――

「それから、たぶん、また何回かしたと思うんだけど、途中からよく分からなくなって何回やったか分からない......」

口に出して説明するのは赤裸々すぎるように思われ、ちよの声は最後には消え入るようだった。

月島は口を開け――閉じた。

また口を開け――やはり閉じた。

三度目に口を開けた後は、いたたまれないといった調子で口元を右手で覆うと、目をらした。

「無理強いしたわけじゃないんだな?」

「うん......」

「そうか」

ふう、と月島が安堵したように息をいた。ちよが布団から手を伸ばして、月島の胸を指す。

「私も基ちゃんにあと付けちゃったし......」

「......そうか」

しばらく二人は揃って赤面したまま俯いていたが、ちよが、あの、と声を出すと月島が顔を上げた。ちよは赤くなったまま、聞こえるか聞こえないかの小声で言った。

「わたし......」

思えば二人が一緒になってから、こんなにも見境無く抱き合ったことは無かった。一緒になるまでにいろいろ有り過ぎて、お互い遠慮があったと思うのだ。だが、律するものが除かれてなお月島に残ったのが、自分に対する純粋な好意と労りだったことが、それはそれは――

「......幸福で......」

か細い声でそう言ったちよは、羞恥のあまり顔も上げられない有様だった。月島は黙ったまま何度も瞬きをしてちよを見詰め、それから口元を覆い、口からさらに手を移動させて自分の後頭部を何度かごしごしと(こす)ると、急にぴんと背筋を伸ばした。

「ちよ」

はっきりと呼ばれて顔を上げ、月島の様子を見て、ちよも布団にくるまったまま居住まいを正した。月島の手が伸びてきてちよの手を取り、大事に大事に撫でだした。月島は何も言わなかったが、また、昨晩と同じように思っているかと思うと、心がどうにもくすぐったくて仕方がない。

「無理させたのは間違いないから、招魂社には後でゆっくり行こう」

月島は手を止め、ひたりと真剣にちよを見る。

「それで、今夜は」

抱かせてくれ、と熱い目をして真正面から言われ、かぁっと顔に血が上るのを感じながら、ちよはか細く、うん、と言った。

この人たち幾つなんだろうと思いながら書いてました(たぶん30後半).

月島はもともとは素朴でド直球な人だと思っている.基本的には標準語しゃべってるんだけど,ちよちゃんといる時だけちょっぴり佐渡弁が出てくる設定.あと,食べられれば何でも美味い人だと思う.

トルコの花のお酒は,学生時代に研究室の先生が国際学会に行った帰りにお土産で買ってきたのを思い出しながら書いていました.研究室では不評だったけど,好きな人ごめんね.

資料

明治時代の旭川と酒蔵

普通のお酒は当初名前を書こうと思っていて,旭川に当時あるお酒から選んで書こうと思ったんだけど,こういう時は特に銘柄で言わないかなあと思って,結局,やめた.ので,特に関係なくなっちゃったんだけど,一応載せておきます.

話とは全然関係ないんですが,上記リンク先の「旭川の酒造の歴史」項に表があって,明治26年 枡田兵吉・枡田亀次郎が1条8丁目に枡田酒造店を創業。明治36年廃業と書いてあるんですが,実は富山に移ってきて健在です(生い立ちのところ参照).満寿泉,美味しいから機会が会ったら飲んでね.キットカットの日本酒味にもなってるよ.自分は知ってたからまだ続いていると分かるんだけど,知らなければ「廃業して終わったんだな」で止まるよね.資料集めると見える姿が違ってくるの,面白い.

鍵とドアの歴史(YKK AP)

当初,いごちゃんは「先に寝ていい」と言われたところを,帰りを待ちたくて待っているという描写だったんだけど,「あれ? 鍵っていつからあるんだ??」と思い,昭和初期生まれが「子どもの頃はネジ回す鍵だった,その前は心張り棒だった」と言いだしたので,鍵の歴史調べたら,やっぱり,庶民の家に外から掛けられる鍵が無い~!!

「寝てていいぞ」→月島,帰ってこないじゃん.泊まらせてもらうとか言う? いや,鯉登が泊まれって言ったら泊まるかもしれないけど,自分から泊まらせてくれとは言わないだろう.じゃあ,適当にどこか宿見繕う? 出征とか仕事で仕方なくならともかく夜遅くにいごちゃん一人にする人じゃないよ!!という自分の中の月島像と齟齬を来したので,「夕方から飲み出してそこそこの時間に帰ってくるつもりだった」というところに落ち着きました.