忘

夕暮れの波止場は賑やかだ。

今日最後の船で着いた客たちは急ぎ足で宿へ向かい、積み荷を降ろす人足たちが何人も何人も行き交っている。

赤い夕日が水平線の彼方にその姿を落としていくと、空はずんずん色を失っていく。

そろそろ、仕事もしまいだ。日雇いの男たちが支払いを待つ列を作り出している。

その列の最後尾に一際(ひときわ)目立つ風貌の青年がいた。

均整のとれた身体はしっかりした作りで、贅肉など一片もない。半袖のシャツからにょっきり生えた両腕(もろうで)は健康的に焼け、二の腕には黒い布――おそらくは手ぬぐい――を巻いている。左の耳に金色に光る三連ピアスが下がっている。

怪我でもしたのだろうか、青年は頭に包帯を巻いていた。その包帯から柔らかな浅緑の髪の毛が先をのぞかせていた。

列はゆっくりゆっくりと短くなっていき、とうとう青年の番が来た。

「ほらよ、今日の取り分だ」

「ありがとう」

「はは、変わってるよな」

「何がだ」

「日当もらって『ありがとう』なんて言う奴ぁ、日雇い稼業じゃ珍しいってこった」

「そうなのか?」

「そうさあ。最初の日から、お、って思ったね。まあ、悪いこっちゃねえが」

そうか、と言ってから、青年が船の停泊するあたりを指さした。

「どれか、乗せてくれそうな船はないか」

「ああん?懲りない奴だな、そんな怪我しといて。ペイラが泣くぜ」

「あの気の強い女が泣くかよ」

「泣くさ。つうか、泣いたんだよ」

「知らねえよ」

「ああ、そうか。そうだったな」

ま、大船が来るまで待つこった、明日か明後日には来るはずだからと言いながら、支払いを終えた口入れ屋は帰り支度を始めた。

ふん、と鼻を鳴らすと、緑の髪の青年は歩きだした。

港近くの雑多な界隈をぬけると、道は急に寂しくなる。

ざざん、ざざあんと波がうねりを繰り返す。

まだ少し波が高い。

険しい顔をして青年は歩いている。一歩踏み出すごとにシャラ、と耳のピアスが鳴った。

ほどなく、青年は古ぼけた家にたどり着いた。家というのもおこがましい、むしろ小屋といった方が相応しいだろう。

その扉を開けると、中は案外小ぎれいにしてあり、娘が一人立ち働いていた。その娘が振り向いて笑みを浮かべた。髪こそ短くしているが、ふっくらとした頬に愛嬌がある。

「おかえり、兄さん」

答えもせず、青年は机の上に小袋を投げ出した。ジャラ、と短く音が鳴る。娘は手を伸ばして、中を覗いた。

「不足か?」

「ううん、十分」

頷くと、青年は突っ立ったまま言った。

「明日か明後日に大船が来るそうだ」

娘は不安げな顔になった。

「乗るつもり?」

「たぶんな」

「駄目だよ。怪我だって、まだ――」

「治った」

「治ってない!何も思い出さないじゃないか、私のこと、思い出さないじゃないか!」

青年の瞳がす、と細くなった。

「ごめん」

赤くなって怒鳴った娘は急に声を落とした。

「焦る必要ないんだよね。何が手掛かりになるか分からないんだから」

「……」

「どこへ?」

青年がくるりと背を向け、今入ってきたばかりの扉の取っ手に手をかけるのを見て、娘は声を高くした。口調は震え、まるで怯えているようだった。

「酒場だ」

娘は黙って青年の背中を見送った。じっとりと見つめる目の色は暗かった。

酒場の扉を開けたとたん、青年は怪訝な顔をした。日暮れ時の酒場だというのに、しん、としていたからだ。

客がいないわけではない。客ならこの時間にふさわしくいっぱいだ。その誰もが口もきかず、動きもせずに固まっているのだ。

異様な光景と言える。が、青年に説明する者は誰もいなかった。

仕方なしに首を振ると、青年は気を取り直してカウンターに歩み寄った。

「ジョッキ一つ。昨日と同じ物を」

何か伝えようとでもしているのか、主人がやたらと目配せしてくる。

「どうしたんだ、いったい」

とうとう青年が問うた時、至近距離にどん、と拳が叩きつけられた。

「きっちり無視かよ、にいちゃん」

拳、腕、肩、顔と視線を移し、見たことのない男の顔を見つける。

「呼んだか」

「ああ?」

「俺を呼んだのかって言ってるんだ」

「呼ぶか、てめえなんざ」

「なら、気づかなくて当然だろ」

そう言うと青年は主人にもう一度注文を繰り返した。しかし、主人は青くなって、凄んでいる男と緑髪の青年とを交互に見るばかりだ。

「空気読めよ、にいちゃん」

この男をどうにかしないと酒にありつけそうにないと悟って、青年は面倒くさそうに男の方を向いた。

焼け過ぎるほど日焼けした体格のいい男だった。

腰に下げたサーベルは、柄に巻かれた布が黒ずんでいて、何度も何度も使ったであろう事が見て取れる。

下卑た表情の向こうには、同じような年格好の男が五、六人いて、ニヤニヤ笑っているところを見ると、どうやら連れのようだ。

常連や旅人たちで一杯の酒場がシンとなって、青年とごろつきの様子をかたずを呑んで見守っている。

「海賊か?」

「やっと分かったか、にいちゃん。ここの酒と食料は俺たちがすべてもらって行く。他の奴の分はねえ。もちろん、お前の分もねえ。分かったらとっととそこどきな」

「ふうん」

青年は興味を失ってカウンターに向き直った。

「おやじ、酒」

「話きいてんのか、コラァ!」

怒鳴るなり、男はサーベルを抜き、と同時に青年に向かって振り下ろした。

観る者が、あ、と息を飲んだ。

ふ、と青年が背を見せたままわずかに動いた。

振り下ろしたサーベルはカウンターに食い込んで、細かく揺れた。

「おめえの酒はねぇってのが――」

サーベルを叩きつけ、なおも畳み掛けた男が急に黙り込んだ。振り返った青年の目が剣呑な光を帯びていた。眼光だけで射竦められたように、海賊は固まってしまったのだ。

(じっ)と見据えた視線は外さず、青年はカウンターに刃を噛んだサーベルを抜いた。

立ち上がったかと思った、そのとたん。

やおら、剣が空気を横に薙いだ。

カウンターの真ん前で凄んでいた男が、腰砕けに倒れた。

後ろの男たちが気色ばんで次々にサーベルを抜いた。

「なんなんだ、てめぇ!」

「すまねぇ」

「あん?」

「外でやればよかった」

青年が謝ったのは酒場の主人にだったらしい。そうと気づいて、見る見る海賊たちの顔に血が上ぼった。

「やろ……」

だが。

その罵声も半ばで潰えた。

何が起きたのか分かった者がこの場にいたかどうか――

気づけば、青年が海賊共の背に回り、腰構えの位置にサーベルを構えていた。

遅れて、ばたばたと海賊たちが倒れた。

静まり返った後に、わっと拍手と歓声が起こった。

「すげえな、兄ちゃん」

酒場の客が次々に青年の肩をたたいた。そのうち数人が、海賊共を外へ放り出して、おとといきやがれ、と罵声を浴びせている。

「これでいいだろう、おやじ。酒だ」

「あ、ああ……」

やっと酒場の主人の顔にも血の色が戻ってきた。奢るよそいつは、と言いながら青年の前に(ジョッキ)を置くと、それまでむしろ仏頂面だった青年が嬉しそうに破顔した。つりこまれて笑いながら、主人は青年が海賊から奪ったサーベルを指した。

「すごいな。そんな物が使えるとは思わなかったよ」

言われて、青年は(ジョッキ)から口を放し、自分の手のひらに目を落とした。

「違う」

「違うったって、さっきの見りゃ……」

サーベルを見た後で、青年は目を伏せた。動きに合わせてシャラ、とピアスが涼やかに鳴った。両手で包み込むように持った杯を見つめていた青年は、やおらそれをぐっとあおった。

「違う」

もう一度青年は呟いた。

翌日。

「今日は天気が良さそうだ」

窓の外をうかがってにっこり笑いながら振り返る娘に、緑髪の青年はうなずいた。

「そうだな」

「今日はラモンさんとこに行く日だね」

「ああ。波止場に行く前に寄る」

食事を終え、青年は立ち上がった。

朝の潮風は暖かかった。青年は、海を見ながらゆったりと足を運んだ。シャラ、シャラとピアスが鳴る。

町医者のラモンの家に着く頃には、日はすっかり昇っていた。

ラモンは町中にこじんまりとした診療所を構えている。代々医者の家で、近所の者が怪我だ病気だというときにまず診てもらうのがラモンである。

年の頃は四〇ほど。面倒見がよく、どちらかと言えばのんびりとした性質(たち)だ。

ラモンは青年が入ってくると、にっと笑った。口髭をひねったのは、どうやら癖らしい。

「昨日は大立ち回りをやらかしたって?」

「大立ち回り?」

「酒場で」

「ああ、あれか。耳が早いな」

「診てるときに若いのが何人か興奮して教えてくれた」

「なるほどな。――ああいうのが来るような町じゃねえと思ってたんだがな」

「大方、こないだの嵐に巻き込まれて水も食料も流したんだろう。ほら、お前さんも巻き込まれた」

青年は顔を歪めた。

「ペイラも船に乗ってたわけか」

「そうだ。自分をかばって兄貴が目の前で海に落ちたんだ、さすがのじゃじゃ馬も血相変えてたな。自分は無傷なもんだからよけい罪悪感があったんだろう、泣いて泣いて大変だった」

「昨日、聞いたよ、泣いたってのは」

「そうか」

言いながら、診せろ、とラモンは鷹揚に言った。

「こんなもん、寝てりゃ治るってのに」

「医者の言うこたきくもんだ。少なくとも、治りが早くなる」

「ヤブじゃなけりゃな」

「口の減らない奴だな」

医者が手早く包帯を取った。しぶしぶ青年はじっとしている。

「もう、包帯は取っていいな。治りが早いな、本当に」

「だから、医者はいらねえって」

「憎らしい奴だ」

医者は洗面器に張った水で手を洗った。

「まあ、怪我の方はもういいだろう。いちおう、塗り薬をやろう」

ラモンは、よ、と立ち上がり、薬棚に向かって背伸びした。

「で、何か手掛かりになるようなことは?」

「まったく」

「そうか。ま、気長にな」

「気長になんてやってられるか」

憮然として青年が睨みつけると、医者は軟膏を渡しながら困ったような顔をした。

「無茶するなよ、ペイラが泣くぞ」

「もう言われた」

診療所を出ると、青年はまっすぐには波止場へ行かず、砂浜のある辺りへ足を向けた。今日の波は穏やかで、ざあぁ、ざあぁ、とゆったりとしたリズムで砂をさらっている。

砂浜には樽の残骸、ちぎれた網などの雑多な物があちこちに散らばっていた。そのほとんどが一週間前の嵐で沈んだ船の物なのだった。

隅から隅まで目を配りながら、青年は砂浜の端から端を歩き通した。

見覚えのある物は何一つとしてない。

青年はとうとう立ち止まり、深く深く嘆息した。

「あのとき、なくさなければ……」

厳しい表情で見つめる先はどこまでも遠い水平線だった。

しばらくじっとしていたが、ゆるゆると青年は歩き出した。何がなくとも、稼ぎは必要なのだから。

波止場についてみると、人足たちが忙しく立ち働いている。

「遅かったじゃないか」

「まだあるか、仕事」

「ある、と言うより人手がいくらでもほしい」

「そうか」

「とりあえず、あの船底の赤い船のところへ行ってくれ。今ついたばかりだから。ジンが指示のために張り付いてる」

「それに従えばいいんだな」

「そうだ」

嵐で遅れていた船が着いたお陰で荷揚げ荷下ろしはいつもより多かった。

いつものように行列を作りながら、青年はいつもよりも多い船をじっと見ていた。緑の髪をやや強い浜風が薙いでいる。

そんな青年の様子を温かい目で眺めてから、口入れ屋は青年に声を掛けた。

「今日の取り分だ」

「多いな」

「それだけ大変だったろう?」

「いや、たいしたことなかった」

「まったく、丈夫な奴だ。ところでな、昨日の話」

「どの?」

「船に乗りたいって話だ。あそこのでかい船な、訊いたら、乗せてくれるってさ」

「そうか」

青年は難しい顔をした。

「なんだ、乗りたかったんじゃないのか」

「乗りたい」

「じゃ、もっと嬉しそうな顔しろよ」

「片づけなきゃならねぇことがあるからな」

「ペイラか」

「ペイラだ」

「く、く、く。修羅場だな」

嫌そうな顔をする青年を見て、口入れ屋は楽しげに笑った。


忘【わす・れる】
  • 覚えていたはずのことが思い出せなくなる。記憶がなくなる。
  • うっかりして、物を置いたままにする。

二.〈祝〉