月島と日清戦争

新発田の第2師団へ入隊するとすぐに日清戦争が始まりました

ゴールデンカムイ第149話「いご草」より

新発田にあるのは歩兵第16聯隊です.元 新発田城であり,現在その兵舎は白壁兵舎史料館として残されています.

年表

年月第16聯隊の動きその他のできごと
明治27年(1894)
7月25日
日清戦争勃発(豊島沖海戦)
8月1日正式に宣戦布告
9月15日大本営開設(広島)
9月17日黄海海戦
松島誘爆により大破

松島は大破しましたが,沈んではいません.また,戦闘自体は日本軍が勝利しています.

平二さんにしたら,余計にやりきれなかったでしょう・・・・・・.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
9月25日第2師団動員下令
予備役召集
9月28日応召完了
町裏練兵場にて訓練
10月3日町裏練兵場(現在の新発田南高校裏)にて
野戦隊の武装検査

「召集」は予備役等を集めることです(通常の徴兵された現役兵はもともと兵営にいるので召集とは別です).あちこちに散らばって生活している予備役がわずか3日間で新発田に集まったということです.

『第二師團征清録』によると,この後10月6に後備役も召集されたようです.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
10月24日青森第四旅団分列式
10月26日第2軍に編入.新発田兵営出発
郡山まで戦闘訓練をしながら行軍
10月28日青森第四旅団出兵(旅団長:伏見少将宮)
10月29日
-11月3日
(郡山で合流)仙台鎮台各軍隊(第三旅団)出兵
11月6日広島着

(まだ調べている最中ですが)入営時期は12月か1月だったらしく,月島は新発田には1年もいないことになります.

中国大陸へは広島の宇品港から出るのですが,この頃はまだ鉄道網が発達しておらず,新発田から移動するには,直江津に行くか郡山に行くかの2択でした.第2師団の本部は仙台なので,仙台から南下する部隊と合流するために郡山に移動することになったようです.ちなみに,新発田から郡山までは約150kmあります.

仙台のは6日間連日部隊が出発しており,南下するその部隊に郡山で合流し,広島に着くのが11月6日になります.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
明治28年(1895)
1月6日
第2師団長,第3・第4旅団長,大本営に召される.
1月9日広島出発
1月10日宇品港出発

しばらく広島で滞陣します.師団司令部は大手町通りで,各部隊は各所に散らばって待っていたようです.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
1月14日大連に集結
1月194日大連出港
1月20日山東半島の栄城湾東端に上陸.
この夜暴風雪で前哨部隊の過半集が凍傷になり,重症者1名兵卒1名凍死.
1月24日栄城出発,威海衛へ向けて前進.
1月28日師団の前衛となり,威海衛へ前進.
亭子斎付近に宿営し敵の偵察
聯隊のうち第3大隊を温泉条付近に出し前哨とする.
1月29日午前9時敵兵が前哨戦を襲撃.
暴風雪により敵情が分からず第3大隊苦戦.
第2大隊が増援,軍参謀の偵察守備をしていた第1大隊も敵を攻撃.
午後0時15分敵兵退去開始.
1月30日第3旅団の前衛になり,温泉場を出発.
楊家屯付近の敵を撃退追撃し海岸に達したものの,
敵艦からの砲撃により楊家屯付近に退去.
この戦闘で戦死者40名,負傷者52名.
1月31日楊家屯を出発し,敵を追撃.
2月1日羊亭集付近で敵の後衛と衝突→撃退.
ここで宿営滞陣し第1中隊を威海衛の偵察として派遣.
2月2日第2大隊を増発.
正午威海衛に到達,諸砲台を占領.
2月17日威海衛陥落.
2月27日さらに侵攻・守備していたが,軍の後衛になって威海衛に退却.
2月28日威海衛を出港し,旅順港に上陸.
将家屯付近にて宿営。

威海衛の戦いは,陸海軍共同作戦で,決戦にむけて制海権を完全に掌握するためのものでした.勝利したものの,日本軍は厳寒地での戦闘経験に乏しく装備も不足して凍傷に苦しんだようです.これが八甲田山の雪中行軍の事件に繋がるのでしょう.また,前線では食料と燃料が不足し,さらに威海衛では水不足でもあったようです.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
3月20日日清両国の間で講和交渉
4月17日講和成立
4月23日三国干渉.遼東半島を放棄.

ここに,日清戦争は終結するのですが――

日清戦争が終わる頃・・・なぜか彼女の手紙がプッツリと途絶えたんです

ゴールデンカムイ第149話「いご草」より

年月第16聯隊の動きその他のできごと
5月18日第2軍の戦闘序列を解かれ,占領地総督部の隷下に入る
~9月下旬第2大隊・金州,第3大隊・岫巌,本部と第1大隊は九連城付近に分屯
清兵の偵察,草賊の掃討,兵站線の守備.
コレラ・赤痢等の伝染病にも苦しむ.

帰れない.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
10月1日大連港を出港
10月10日台湾南部西海岸,馬公湾枋寮岸に上陸.
北進し,台南を攻撃.
10月21日台南に入り後守備.

帰れない.

年月第16聯隊の動きその他のできごと
明治29年(1896)
4月11日
平安から乗船.
4月19日宇品港着
5月1日郡山を経て第3大隊凱旋
5月4日その他の部隊凱旋
5月8日平時編制に復す.
聯隊の戦死者47名,負傷者75名,病疫者226名.

手紙が来なくなってから1年以上も月島は帰れないわけです.5月8日ですぐに佐渡に帰れたかも不明.

徴兵令(明治22年1月22日法律第1号)によると,現役は陸軍は3箇年(第三條)で,現役年期の計算は総て其入営する年の12月1日より起算(第二十九條)しました.佐渡に戻った月島は別に脱走しているわけではなさそうですので,特別に休暇がもらえるのでない限り,明治26年12月1日から明治29年11月30日で現役を終えて12月に帰ったことになるのでしょうか.

ただ12月だとすると,さすがに海を浚うにあの格好は寒すぎるし,佐渡でのあれこれで収監されて陸軍監獄で鶴見に会うのが12月だとすると,鶴見の工作を終えて監獄を出る頃には既に明治30年,その年には鶴見とウラジオストクに行っているので1年も経たないうちに辞書に頼っているとは言え,そこそこロシア語を喋れるようになっているという,最早天才かとしか言いようがない.(1年で喋れるようになってても凄いけど)

資料

徴兵令(明治22年1月22日法律第1号):国立国会図書館

リンク先で法律本文もダウンロードできます.徴兵年齢とか起算日とかが分かります.明治6年発布の後,ちょこちょこ改正されていたのを法律として全面改正したのがこの明治22年1月22日法律第1号.この後明治22年11月13日改正と明治26年3月3日改正,日清戦争が明治27年なので,月島の徴兵はそこまでの改正時の規則に則った物と思われます.

白壁兵舎広報資料館「2 歩兵第16聯隊の奮戦記録」PDF

新発田の歩兵第十六聯隊の日清戦争記です.元資料は『歩兵16聯隊史』なのですが,読む方法が無いので孫引き.

『第二師團征清録』(国立国会図書館デジタルコレクション)

上述の『歩兵16聯隊史』を探してたら,見つけてしまって読みふけっていた物.第二師団マンセー本なのでちょっと差し引いて読まなきゃいけないとは思うけど,当時の出兵時の送り出しの雰囲気などが分かる.「おらが町の軍隊」って意識はあったのかもしれない.第二師団の本部は仙台なので,あんまり第十六聯隊のことは書いていないけど,出征した将校以上の名前リストがあったりする.(鶴見少尉はいません)